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Day: 2025年3月9日

新聞社と多様性

新聞社と多様性

海外赴任の累計が10年を超えていたので、日本の新聞を読まないこともそれなりの期間に及んだ。初赴任時は、ファックスで新聞が送られて来る高価なサービスを着任先の会社が購読していたが、その後は、海外印刷の新聞がクーリアで手に入る時代になったものの、赴任地の地理的事情(クーリアでも入手までに数日を要する)や日本人が私一人の事務所などといった理由から、購読する選択肢がないことが殆どだった。一方、今になっては電子版があり、個人レベルの申し込みでも金銭的負担へのハードルはさほど高くない。

さて、毎日、継続して何かにかかわる中では少しずつの変化にはなかなか気付かないが、しばらく時間をおいて暫らくぶりだと違いに気づきやすいことがある。この一例として、わが子の成長と違って久々に会う親戚の子の成長は、目に見えてはっきり気付くことがある。

私にとっては新聞もそういったところがあって、新聞を毎日読んでいた時には気付かなかったことが、しばらく新聞から遠ざかると変化に気付く、というか、新聞が変化していないことに気付くことがある。新聞社も営利企業である以上、特定のイデオロギーに基づいた意見を掲載することは当たり前のこととして理解できるし、自社の意見を正と主張するのも理解はできる。とはいえ、久々に新聞に目を等してみると、社説でよくみかける「〇〇せよ」という見出しをいまだに見かけるのには違和感を覚える。特に、自分たちの努力や主権が及ばないことに対しても「〇〇せよ」と主張する社説を先日見たときは、思わず吹き出しそうになった(トランプ政権に対して命令している記事はもう見慣れたが、私が吹き出しそうになったのは中国政府に対して、「〇〇すればうまくいく」と自信たっぷりもの申していた。少し話はずれるが、10年以上前に世間のサラリーマンの間でささやかれていた「OKY」=お前が来てやってみろ、Omaega Kite Yattemiroと思った)。

また、自社の意見を主張するのと、他社の意見を否定してよいかどかは別物だ。吹き出しそうになった出来事をこの例からいうと、普段は他者の意見を尊重せずに頭ごなしに批判している新聞社が、多様性からの離脱風潮に対して批判的な意見を展開していることだ。

それも含めて新聞社。読者が知恵が真偽を見分けるのは無理だけど、疑いの目をもち、いくつものソースを調べ、多角的に自分で分析・考えることはできるはずだ。