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Month: 2025年3月

時代遅れ、世間知らず

時代遅れ、世間知らず

私のこと。時代遅れ、というか、世間知らずの方がより的確な表現かもしれない。

理由あって自動車の生産・販売台数について2月に調べた時に、販売台数のうち半分がハイブリッド車になっていることに驚いた(日本の自動車産業を台数から理解する – Journeyman : Blog)。というか、それを知らない自分にもっと驚いた。日本で車を買ったのはもうだいぶ前のことなので、その時はまだハイブリッドが今ほど普及していなかったのだろうと思う。そして、そのときの記憶のまま止まっていたんだと思う。

それがひと月前。
それで、最近のこと。

YouTubeの番組が日本の大手家電メーカー2社を比較するという企画をやっていた。その2社は、それぞれに栄枯盛衰的な経緯を経て、以前とは異なる体制で現在も大手メーカーとして企業活動しているのだけれど、絶対評価の視点ではないのだけれど、2社の相対評価としては私が思っていたのと全く逆だった。私は何か調べたうえで何がしかの理解をしていたのではなく、以前に見聞きしたことの記憶がアップデートされていないままの理解なので、すぐさま私の世間知らず感に気付くことになるのだが、そのことにも驚いた。

私のここ何年かの仕事は、世間の動きに敏感でいないと業務の質を確保できない類のものではなく、また、ビジネストークの相手が決して多くないためトークのネタという意味で世間の動静をアップデートさせておく必要性も高くないとはいえ、いかに一般的な情勢に関心がなかったのかに気付いた。日記的にこのブログを始めたのも、今年の行動計画の一つである「すべてのことに対して感想を持つ」ことのきっかけづくりだったこともあるのだが、その意味では関心の無さに気付いたことは目標に向けたよい流れでよかった。

お葬式とお墓の話

お葬式とお墓の話

少し前に葬式に係るネット記事があった。どんな内容だったかは覚えていないので、一般的な話だったのだろうと思うけれど、その記事をきっかけに、葬儀と墓に関する自分の考えはどうだろうと考えてみた。自分の葬儀を死後に自分で設計できないため、もしも自分の希望を一部でも反映してもらえるならば事前に伝えておくしかないと思い、何が自分の希望が整理しておこうと感じた。

まずは、大きく費用を掛けて見栄えをよくしてもらう必要はない。人を呼ぼうとすれば、それだけ変動費が総額として増えるし、普通は葬儀は突然のことなので、多くの人に日程調整してもらうほどのことは申し訳ないので希望しない。また、固定費的なコストについても特に見栄えをよくしてもらうのは無駄遣いのような気がして、これも希望しない。

都合をつけてまで葬儀にきてもらいたいとは思わないのは既述の通りだが、私がこの世から去ったことはできるだけ多くの人々にお知らせしたい。どうやったらそれができるか考えているところだけど、生前のお礼と死亡の通知を兼ねた短いメッセージを準備しておいて、送ってほしい人たちのメールアドレスをリスト化しておくのはどうかと思っている。家族には、葬儀の手配よりも面倒になるだろうけれど、葬儀に費用を掛けない分は迷惑料してお金を遣ってもらうことで勘弁してほしい。最新のメールアドレスを知らない人の多くは海外にいたときにお世話になっていた人なので、その会社の総務・人事関係の部署に案内を出したら、そこからある程度の範囲の人には連絡を展開してもらえるじゃないかと期待する。

ちょっと面倒なのは、お墓の話。誰が一緒に入ってくれるか、自分が建てる必要があるかなどの視点もあるが、私の心配はメンテをどうするかということ。そういう意味では、都心の納骨堂がいいと思っている。メンテの心配が少ないし、都心の納骨堂であれば、何かのついでに寄ってみようという気持ちになってくれるかもしれない。本当は、いくつかの思い出の地に散骨してもらいのだが、知り合いに黙って死んでいって、葬儀にも呼ばず、眠っている場所を固定化させた墓もないと、あまりに身勝手なような気がしなくもないので、もしも、会いにきてくれる人がいるとすれば、納骨堂のような場所があるとよいと思っている。一部は散骨(そのための旅費は葬儀代を節約してもらって全く構わない)、残りを納骨堂を希望。

年齢がそれなりになってきたので、有効な形で意思を伝える意味で遺言の準備を考え始めている。相続できるような金銭や資産はそれほどないので、その意味では遺言に意味はあまりないのだけれど、葬儀にお金をかけるのはやめて、ということは私の希望として残しておきたい。そうでないと、こんな地味な葬儀では私がかわいそう、とか言ってくる人がいないとも限らないので、そこは私の意志だったことを証明するためにも正規の書類が少しは役に立つのではないかと思っている。

面接で待たされた

面接で待たされた

面接で待たされた挙句、受付から内線で電話したら担当者が帰宅していた、というネット記事をみた。

面接で待たされた経験は私もある。何十年も前の新卒就職活動の時。
当時の就活システムに則って、数人のOB訪問(といっても、私より上の6年間、私の在籍していた大学からその会社への入社実績がなかったので、大学OBではない若手社員との面接)を経て、人事担当と同課長の面接を終え、人事部長との面接という日のことだった。

一時間以上待った。あまり賢くない大学四年生だったので、受付にどうなっているか途中で確認してもらうこともせずに、ただただ、待っていた。記憶にはないが、多分、私とのお約束はどうなってますかと最終的には受付から聞いてもらったのだと思うけれど、部長に会って面接することができた。

その人事部長には重役面接(当時はそう呼んでいた)へ上げてもらい、最終的にその企業に入社したので、待たずに帰ったりしていたら今頃どんな人生だったのだろうかと思う。

まあ、結局は、実際ではない方の人生がどんなだったかに思いをめぐらせることには何も意味がないのでそれはどうでもいいことなのだが、自分がもっと臨機応変な奴だったらよかったなと思うことは数多くある。でも、よくわからないのは臨機応変にできる時もあって、できる時・できない時の違いがどこから来ているのか、ということ。場面なのか、相手なのか、自分の機嫌とかなのか。それが判ればうまく対応できる機会の可能性もあがるだろうに。判らないことがまだまだたくさんある。

最後まで使い切る

最後まで使い切る

最後まで使い切って終われるとなんだか嬉しい。やりきった感が出てくる。
日常生活で使用するもののこと。

調味料やボディーソープなどは最後まで使い切って当たり前な感覚だが、中身を消費しきるまえに買い替えてしまうものもある。

例えば目薬。日常的に使うので中身は減っていくのだけれど、目薬容器のキャップを占める部分のネジ山になんとなく汚れがついてくると、まだ使い切っていないけど衛生的に買い替えた方がよいように思えてくる(目薬をさす時にあやまってまつ毛に容器の先端が触れてしまった時も、買い替えたくなる)。

日常的な使用でないために使い切れない例では、ヘアトニック。普段はトニックは使わないのだけれど、たまに使いたくなる時があるので、在庫はしている。トニックには香りが強いものが多いので、本当にたまにしか使わない。しかし、トニックはある程度の大きさの容器で販売されているので殆ど中身が減らない。そのうちに、引っ越しすることになり(注:私は引っ越しが多い。もうじき、人生通算30回)、その引っ越し荷物を減らすために捨ててしまう。

今年の目標として掲げている「ていねいな生活」には、毎日、決まったことはきちんとする、ということも含まれていて、レベルの低いところでいえば、歯磨きに加えて毎日のデンタルフロスとマウスウォッシュ剤でのすすぎをやることといったような小学生の夏休み日記にありそうな項目もある。そのため、今までは使い切るまでには長い期間が掛かっていたフロスの消費が今は早い。使い切る前に買い替えるのには後ろめたさがあるのだが、使い切ることができると達成感がでるというか、無駄を生じさせずに地球に貢献できたというか、使い切ってキリがよくて新たな明日がくるようで楽しみなような、いろいろな感情が小さなことから湧いてくる。

製品の寿命 – 本体と付属品で寿命を揃えて欲しい

製品の寿命 – 本体と付属品で寿命を揃えて欲しい

あるあるの一つかもしれない。

例えば、電気製品の場合。本体はまだまだ使えて、充電池も問題ない。でも付属品が使えなくなってしまう。例えば、付属品が樹脂製で経年劣化で割れてしまう場合など。付属品のみ後から購入できる製品もあるが、そうでないものもある。営利団体である企業にとっては、自社製品を買ってもらうことが大事なのはわかるが、その企業のファンを増やしてこそ、長く愛用してもらえる製品と企業になるのにな、と思う。

スクリーン・ロック設定

スクリーン・ロック設定

ショートカットで設定と解除をするには、Fn + C(HP製PCの場合)。

外付けキーボード使用時はスクリーン・ロックの専用キーがあるし、ラップトップPCキーボードの場合でも、ネット検索すればスクリーン・キーボードを出して解除する方法にすぐにたどり着く。
しかし、キーボードの誤打で無自覚にロックしてしまうということはショートカットがあるはずだが、どういったショートカットかは、ネット検索してもなかなかたどり着けなかった。
ゆえに、ショートカットが判明したのでここに備忘。

やってしまった

やってしまった

落としちゃいけないと思っているそばから、やっちゃいけないイメージの通りに手にしたものをこぼれ落としたりぶつけてしまうケースが増えてきたことを、少し前に記録しておいた(慎重にやってるのに手からこぼれる – Journeyman : Blog)。この事象は最近始まったことではなくて、これが起こり始めてからも普通に生活を送っているので、脳に異常があるとか重大な何かがあるとかではなく、老化や注意不足が原因だと自分では思っている。よって、何かをするとにきは、いままで以上に手元をきちんと見ながら作業することで解決するかを見守るつもりでいる。

そんな中、今日はいままでとは違うタイプの失敗で、かつ、そのタイプの失敗としては非常に久しぶりのことをしてしまったので、後日のために記録しておく。

鼻うがいをしようと思い、水に溶かして使用する生理食塩水の元(粒体)を手に取った。この粒体は、一回分の使用量の個別包装に入っていて、その包装を引きちぎった。そのあと、引きちぎられたほうの包装ゴミを捨てようとしながらも、なぜか、逆の手に持っていた粒体がまだ入った状態のもう一片のほうの包装をゴミ箱に向かって傾けてしまった。ゴミ箱にドサッと捨てたというよりも、コーヒーに砂糖を入れるときのように、袋状になった包装を傾けていたので、本来は溶解するために水が入ったボトルに対してすべき動作をゴミ箱に向けてやってしまったような形だ。

朝食を食べたあとの出来事だったので、起床してから30分以上たってからのことだから、寝ぼけていたのは原因ではないだろう。ボケの始まりか。なんだろう。入浴中に手に取った洗顔料を髪につけて洗髪しそうになったことはあるが、それは1年以上も前のことで、この手の事件は久しぶりだ。また、鼻リンスについていえば、もう何年もの間やってきたが、こんなことは初めてだ。次に何しようと意識をさほど使わずにできるタイプの行動の時にこんなことをしでかしてしまってびっくりだ。

明日は、起きて30分後の血圧を測って、夜や昼の血圧と比較してみようかな。





終始ついてくる店員が苦手 東南アジアにて

終始ついてくる店員が苦手 東南アジアにて

買い物しているときに苦手に感じることは、店員さんが終始ついてくること。訪問したことのない国のことは判らないが、これまでの私の経験では、東南アジアの国で店員さんがついてくる率が高い。

万引き防止のための見張りなのだろうか。

キャッシャーに入力者の記録が残るので、ほかの店員に販売実績の横取りされたくないがための尾行だろうか。いや、さっきの店には、尾行していた人以外には、店員さんはいなかったから違うだろう。

では、いつ質問されてもいいようにサービスの一環なのだろうか。いや、それも違うだろう。なぜなら、監視はするが決して私に近づいてくることはしない。私のことが見える位置に移動しながらも遠くから私を見守ってくれている。

飲食店では逆に、私と目を合わさない選手権をしているかのような店員さんが多い。きっとこれは、注文取るのが面倒なのだろうと推測している。同じ時給をもらえるならば、誰でも仕事は少ないほうがよいに決まっている。また、道路上でも同選手権は開催されている。路上のケースでは、誰か周囲の人に気付いた方が相手に進路を譲らないといけないというローカル・ルールがあるようで、相手のことが目に入っていないかのように振る舞う必要があると聞いたことがある。だから絶対に目を合わさないらしい。車と車、バイクと車、歩行者とバイク間で対戦が繰り広げられている模様。

尾行されたり無視されたり。ツンデレか。

ついてこられるのが嫌なのは、一つには、私がそうされることに慣れていないからだと思う。そうであれば、嫌と感じるのは私の都合であって、相手は悪くないことになる。別の理由は、万引き防止の尾行であるとすると、私が警戒されていることに不快感を覚えて嫌だと感じる。しかし、これも私の都合であって、店員さんは私の時だけ尾行しているわけではないはずだ。そう考えると、明日からは尾行する店員さんを寛大な気持ちで受け入れたいと心を入れ替えつつも、なぜ尾行しているのか、いつかは聞いてみたいとも思っている。


誘惑に打ち勝った

誘惑に打ち勝った

久方ぶりに都会へ買い出しに行ってきた。買い出しに行く時の目的はだいたい食料品。

ひと通り食料を調達した後は、弁当や総菜、パンを買って買い出しを終え帰宅。帰ってから2-3日は、その弁当、パン類で過ごす。新しい店もできているとは思うけれど、その街へ行くときは、だいたい同じ店に行ってしまうので、同じような弁当や総菜、パンを買ってしまう。今回の買い出し旅も途中までは同じ流れで好きな総菜を入手した。

いつもの買い出しでは、日本酒やワインも調達して、その日だけはと自分を甘やかして総菜や弁当とともに自宅で一杯ひっかけるのが流れ。ただし、今はアルコール類を少し控えているので、今回は買い物リストに酒はもともと入れておらず、総菜を買うまではその流れの通りに買い物を進めていた。

ところが、だ。

総菜を買っていると、出来上がりの品物が陳列棚にならんだ。それは、食べたいものだった。いつもは買っているものなのだが、最初は陳列棚になかったので、あやうく買い忘れるところだった。それで、それを入手した瞬間、あ、日本酒があるといいと思ってしまった。

今回は酒を買わないという計画で買い物にきて、その後、酒が欲しくなり、そして、その誘惑を押し返した。そのやり取りを自分の心の中で何往復かして、そのたびに誘惑と強い意志の振幅が大きくなっていった。その間、酒売り場とそのほかの商品の売り場の間を何往復もした。

結局、今回は酒を買わなかった。今回の心の動きを誘惑と呼んでよいものかどうかわからないが、その言葉を使うとすると誘惑に打ち勝ったと言える。いくら途中で考えが変わりそうになったといっても、もともと買わない計画だったので、計画通りに実行しただけといえばそうなので、打ち勝ったといって誇るほどのものではないかもしれない。

しかし、一度決めたことからなびかなかったことは事実なので、私の身の回りのことで、何かが少し好転するような期待がある。何かを求めて何かを我慢するような交換条件の結果ではないのだが、自然と期待が湧いてきている。

エクセル:SUMIF 検索範囲と合計範囲は同じ列の数だけ

エクセル:SUMIF 検索範囲と合計範囲は同じ列の数だけ

またも最近の発見。SUMIFの検索範囲と合計範囲の列の数は、同じだけということ。
例えば、検索範囲を1列で設定すると、いくら合計範囲として複数列を設定しても、検索範囲の列数である1列(設定した合計範囲の中で最も左に位置する列)しか合計しないということ。
基本的なことかもしれませんが、私は知らなかった。

①検索範囲を1列、合計範囲を3列設定したケース=一番左しか合計されない

②3列を合計範囲として計算させたいときは、検索範囲も3列設定する必要あり

※上記の説明は、下記の例と一致しませんが、伝えたいことは、下記の例では検索範囲を5列(ただし、検索ワードが入力されている実質の検検索範囲は3列)にしたら、合計範囲も5列に設定して、検索範囲の右隣の列から合計を導いてください、とSUMIF関数を設定する必要がある、ということの模様。

全個体電池を試験的に車両に搭載

全個体電池を試験的に車両に搭載

掲載から1か月くらいがすでに経つが、日経新聞に「BYD、全固体電池を27年にEV搭載 大量生産は30年以降」という記事があった(2025年2月18日)。記事には、「BYD子会社の幹部は15日、2027年ごろから次世代電池「全固体電池」を試験的に車両に搭載すると明らかにした」とあったのだが、試験的に搭載するという記述に目がいった。もしかしたら、発言した幹部の中国語の翻訳が実は「試験的」では正しくなかったとか、あるいは、中国語に相当する「試験的」の定義が上市一歩手前であとは認証のハンコを押すだけとかかもしれない。しかし、仮に翻訳や解釈によるものであったとしても、「試験的」に搭載するという表現が私にはショッキングだった。

ひとつには、手続きが全て終わる前に搭載することへのショック(=心配)。もう一つは、試験的にでも搭載できる早いアクションへのショック(=感嘆)。

にわか調査員としてネット検索すると、中国自動車業界は、GB規格(Guo jia Biao zhun、The Chinese national standards、中国国家標準規格)というものに基づいていて、日本はECE法規(Economic Commision for Europe、欧州経済委員会)という規格に基づいているとある。異なる規格・法規・基準に基づけば、異なることができるのは理解できるし、試験的にでも搭載することでより多くの実地データが入手できて、安全性能に活用できるかもしれない。もしかしたら、大昔の犠牲者のおかげで、今、フグを食べられている事実に似ているのかもしれない。このことに関しても、私にはどちらがよいのか判らない。また、今日も眠れない。

エクセル:sumifs関数、ダイアログボックスにスクロールバーあり

エクセル:sumifs関数、ダイアログボックスにスクロールバーあり

今更なにを言うんだ、という人が殆どかと思いますが、もしも私のようなおっちょこちょいの人がいれば、ご参考になるかもと思って書きます。

sumifsを使って3つ以上の条件設定をしようとしましたが、ダイアログボックスには条件2つまでしか目に入らず。ネットで探すと条件は127個まで設定できるとあるが、2つまでしか目に入らず。
ここで、私が勝手に解釈したのは、
      ・条件は最大127個設定可能
      ・ただし、ダイアログボックスでは2個まで
      ・3個目から127個目までは、関数の括弧内は自分で手入力してゆく

ダイアログボックスの右側にスクロールバーがありました。
127個全部、ボックスで対応可能です。
私がおっちょこちょいというか、注意不足というか、とにかく焦りすぎてました。


社長は判りやすい話し方をする

社長は判りやすい話し方をする

イントネーションやアクセントのような発音の違いや、普通名詞の単語自体に違ったものを使ったりする。また、稀なケースではあるが字幕スーパーの共通語翻訳付きの映像を見ることもある。これらは日本語の中での違いの話。日本列島が南北に長いためか、地域による言葉の違いが国土面積以上にあるように思う。

日本語でそうなのだから、地球規模でいえば違いはさらに大きくなる。さすがに地球規模となると同一言語でなくなってしまうため、例としては日本語の違いが発生した経緯とは違うのだが、多くの国で多くの人が意思疎通に使う英語の喋り方の違いも興味深い。個人差からくるものと、母国語に引っ張られる違いが掛け算になると、しゃべり方のバリエーションは尽きない。

ただ、非常に聞きやすい英語を喋る人たちがいる。その一つの例が社長だ。社長と呼ばれる人たちの話をきくと、スピーチ・トレーニングを受けたかのように、非常に聞き取りやすい話し方をしてくれる印象がある。それは、社長という立場にいる人は、社員や投資家、取引先など不特定多数の人と会話する必要があり、また、会話時には、相手のリスニング水準に多少、難があったとしても、間違いなく正確に内容を相手に伝える必要があるという目的が明確だからだと思う。

私も、できれば聞き取りやすい英語をつかえるようになりたいと、日々、思っている。それには、一度で通じない時には単語や表現、イントネーションを変えてみたり工夫もしている。英語を学び始めの頃に You-attitude という発想を先生から教わり、いまも心掛けている。発音の仕方も同様に、できるだけ判ってもらいやすい話し方をみにつけてゆきたいと思う。

ゴルフは紳士のスポーツ

ゴルフは紳士のスポーツ

堅苦しいことを主張するつもりはない。その場がどのような機会なのか、またはどういったメンバーでの機会なのかで紳士のレベルを緩急させてもよいかと個人的には考えている。決して、仲間うちのゴルフが適当でいいわけではないが、正式なコンペほどガチガチにせずに、後ろからくるパーティや進行状況、周りの状況でよい塩梅に対応してよいと思っている。

ただ、それもプレー・マナーが許す範囲内ならばブレさせることもあり、というのが私のスタンス。しかし、ルールを無視してまでも自分を利するようなプレーはマナーに反するし、それをするのを目にすると、一緒に回っている私は興ざめするし、私にも同様にズルしてよいと言われても、その日のスコア自体を否定することになるので、嬉しくも楽しくもないし、誰のボールか確認するのに、私に断りなく私のボールを拾い上げてその辺りに適当に投げ捨てるのもやめてほしい。私はあまりゴルフをしないので、これまでに私が一緒にプレーした数少ない人たちをサンプルにすれば、日本人には個人的ルールを適用させる人はあまりいないし、いわるゆ西洋の人も同様なのだが、アジアの人にはフレキシブルな人が多かった。もちろん、国民性を単純化して正しく表現はできないけれど、ゴルフを楽しむにはやはりルールやマナーを守れる人と回るということも大事な側面の一つだと思う。

球春、野球中継のカメラワーク

球春、野球中継のカメラワーク

プロ野球キャンプ・インからひと月半がたち、オープン戦のスタメンも公式戦メンバーに近い形になりつつあるようなことをスポーツ・ニュース記事で見かけるようになった。また、センバツの記事もぼちぼち目にするようになった。

海外にいると、日本の野球中継を観る機会はほぼない。加入している衛星方法のチャンネルによるところが大きいと思うが、アメリカ大リーグの中継は衛星でやっていても日本プロ野球はやっておらず、また、You Tubeの個人チャンネルで流れている日本のプロ野球中継は違法だろうから視聴しない。

そんなこんなで、しばらく中継を観ていないので今は違っているかもしれないけれど、日本の野球中継で変えてもらいたいことがある。それはカメラワークに関連することで、いくつかある中で特に不思議に思ってきたのはホームランの時に打球のアップを映すことだ。あれは、視聴者が観たいと望んでいるというよりも、カメラマンが自分の腕を示すことに使われているようにずっと思ってきた。いつからあの画面が使われるようになったか判らないが、小さいころから見たような記憶があるので、もう何十年もあのやり方になっているのであろうから、あれを見て育った若いカメラマンもそのフォーマットを受け入れることになるのかと推測する。

私の希望が特殊なものだったらそうならないのは仕方ないが、私がみたいのはホームランの時の周りの景色だ。両チームを応援するスタンドや選手たちの雰囲気をみたり、打った瞬間からスタンドにボールが入るまでの間の打球の軌跡を、終始、画面の中で追うことができるくらいまで引いた固定カメラの映像だ。また、固定カメラついででいえば、塁上のクロスプレーやグラウンド地面すれすれで捕球したかどうかの場面を映すカメラも固定が望ましいというのが私の意見だ。打球や走者をカメラが追うことで、すれすれの画面のスロー映像がぼやけてしまい、せっかく映像をみても何が何だか判らない。あれは、カメラが捉える範囲を固定することで解決する部分があると思う。

ほかにも私の希望はいくつかあるが、私が望むような映像を見ることができないのは、そういう需要がないからだと思う。それは判っている。とはいえ、スポーツ娯楽 ≒ 野球だった時代と違って、観るにせよプレーするにせよ(子どもたち)、野球の地盤沈下が言われている中ではプレーをもっと丁寧に見せることも野球ファンを増やすのに役立つのではないかと感じているので、いつか私の個人的意見がどこかの誰かに響いてほしいので、テレビ局に投書でもしてみようかな。

ロシアン・ティー

ロシアン・ティー

飲み物の分野でいえば、私は完全にコーヒー党。普段は、水を除けばコーヒー以外の飲み物は、よっぽどのことがない限り選択肢に上がってこない。ところが、先日に突然、たまには紅茶を飲んでみようという気分になった。何かで見たとか読んで影響を受けたわけではなく、本当に何の前触れもなく紅茶が頭に浮かんだ。

コーヒー党ゆえに家に紅茶の在庫はいので、即日実行とはいかずに、まずはスーパーで紅茶を買う必要があった。美味しい紅茶の方が長続きすると思って名前を知っているところの紅茶の葉を買うことも考えたが、最後まで使い切れるかどうかの自信がないため、割と安めのものをまずは試してみることにした。

スーパーの紅茶売り場に立っていると、例の突然のひらめきでロシアン・ティが降って湧いてきた。こちらはゼロから出てきたわけではなくて、30年以上前に当時の知り合いと喫茶店に行ったときに、一緒にいた人が注文したのがロシアン・ティだった(ゼロからではないが30年以上前の記憶からだった)。そう思い始めると、ロシアン・ティにあう茶葉ってなんだろうとスマホで検索したのだが、ジャムは溶かすものではなくて、紅茶をのみながら舐めるものだという説明に目が入った。ロシアンティを初めて知ったあの日から30年以上、ジャムは溶かすものとばかり思っていたので、目から鱗が落ちた瞬間だった。そうすると、この飲み方に関するほかの情報も知りたくなって調べを進めると、ロシアのお茶文化といった一般名詞としてのロシアン・ティを除くと、アメリカ発祥のロシアン・ティはジャムとは無関係だとかいろいろ出てきて、今日も探求心から眠れなそうだ。

自分のことを喋るのは気分が良くなる

自分のことを喋るのは気分が良くなる

観ていたYou Tubeの番組の中で、良い質問をする人がよい聞き手ではなくて、相手に多くの話をさせる人がよい聞き手という定義を持っている人がいた。その人曰く、人は自分のことを喋ると気分がよくなるから相手に多くを語らせるとよい、ということだった。

たしかにそうだな、と思った。よい聞き手の定義のうちの一つとなるのに十分だと私は思った。

私にとっては初耳だったが、このことが広く一般に知られていることか気になったのでネット検索してみると、キーワードのあいまいさでヒットした関係ないことや、ネガティブな感情を口に出すと苦痛が緩和されるようなことは書いてあった(後者のことは、カタルシス効果と呼ぶようだ。テレビ・ドラマ「ブラッシュアップライフ」で登場人物が言っていたが、ドラマを見たときは、正直に言ってカタルシスの意味が分からなったし調べもしなかった)。

自分のことを喋ることで考えに整理がついて、整理がつくとすっきりして、すっきりすると気分がよくなることはあると思う。それが、「自分のことを喋る」ことが「気分がよくなる」と直結させて言ってよいかどうかは実際のところ判らないが、気分がよくなる話であれば誰にも不満はないだろう。

ファミリー・ネーム

ファミリー・ネーム

選択的夫婦別姓が施行されると、「姓」に対する英訳は、日本では「surname」だけになって「family name」は姓の訳語として使われなくなるのだろうか。Family なのに父母で異なる名字を使うことを選択した人には、もう family の name ではなくなる。父方 family の name や母方 family の name では、自分の親家族には違いないが、自分が結婚を決めた配偶者とその配偶者との間の子どもという意味での家族感とは違う。

ところで、夫婦同姓を法律で強制するのは日本だけのようだが、family name という単語は世界各地で公文書に使われているのか surname が正式な英単語なのか(あるいは、それぞれの国の現地語に surname と family nameの両方の単語が存在するのか)など判らないけど調べてみたいことだらけで、今日も時間が足りない。

普段と違うことをやってみたら…

普段と違うことをやってみたら…

昨夜、取引先と食事をした。会食ではなく、先方の会社の社内イベントに同席させていただいた。その会社は、私が勤務する会社の近くに工場があるものの、本社アドミは車で数時間の場所にあり、私を招待してくれた人もそのアドミ事務所勤務。そのお方が工場に来るときは、だいたい食事に誘ってくれて、時には先方社員の食事会に私一人、部外者で参加することもある。昨夜はそのパターンでもう少し大規模の会社イベントに同席させていただいた。

会場は、私が住む町ではあるものの、普段はあまり行かないエリアにあるホテルだった。早く着きすぎたら、丁度、用事もあるんのでスーパーへ行って時間調整しようと思い、いつも以上に余裕をもって会社を出発。
結局、だいぶと早くついたので、いざ買い物へ。
いつもは行かないスーパーなので、何がどこにあるか判らず何度も同じ場所をぐるぐる・うろうろしていると、私に声をかける人が。名前を呼ばれたので会社の人だろうとは思ったのだが、よく聞くと私の勤務先にインターンとして7-8年前に働いていたとのこと。私は名前と顔を覚えるのが苦手であることに加えて、私の勤務する製造業の会社の従業員は数百人レベルとあって、よくあるように昨晩も申し訳なく感じつつも、お互いに近況を少々報告しあって会話を楽しんだとともに、声をかけてくれたことが非常に嬉しかった。同時に、外国人は目立つから、悪いことはしちゃいけないなと再確認した(普段から悪いことはしていない)。

再会と買い物を終えてスーパーを出ると、横にドラッグストアがあった。私がこの町にきて暫くたった頃にふと入ったスーパーで見つけた、とても泡々なボディーソープが気に入ったのだが、そのスーパーは数か月前に閉店してしまい、その後はどこを探してもそのボディーソープを扱っている店に出会うことができなかったが、なんと、たまたま入ったドラッグストアにその商品がおいてあった。ああ、来てよかったとつくづく思った。

弁護士の人は、日々の生活の中で下さなければならない決定や選択に脳みそを浪費しないよう、生活をパターン化させている人が多いと聞いたことがある。私は弁護士でもなければ脳みその浪費を回避しようとしているわけでもないが、パターン化した生活という意味では似ている。時にこれでは味気ないと思いつつも、仕事で疲弊しているのも事実で、こうなってしまう。しかし、昨晩のようなことがあると、たまには普段と違うことをするのもいいことがあるなと思うのだが、それがまたジレンマを生み、いつも通りにすべきか違うことをすべきかで心をすり減らしてしまうのだ。解決しない。