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Month: 2025年3月

あの先生がいなかったら別の人生かも

あの先生がいなかったら別の人生かも

そう思う先生が三人いる。

中学2年の時の英語の先生。
高校2年時の数学の先生。
それと、大学時代の商業英語の先生。

この三人にそのタイミングで教わることがなければ、きっと違う進路に進んでいたであろうし、そうとなれば、私が過ごしてきたこれまでの日々とは全く異なる経緯で今日を迎えていたことだろうと思う。

中学1年の時に英語がちんぷんかんぷんだった私を洋楽で救ってくれた2年の時の先生、中学数学から高校数学に変わって全くついていけなくなった私に、ノートの効果的な取り方や数式等を書くことで理解が進むことに気付かせてくれた数学の先生、商社マンから大学講師に転職した先生から聞いた貿易実務になんだか興味を覚えた大学時代。

卒業シーズンなこの時期、きっと叶わないと思うが、会ってお礼が言いたい。

英語環境PCの文字化け対処

英語環境PCの文字化け対処

最近、私が遭遇した問題で解決に至った方法をかきます。
もし役に立てば幸いです。

■ 起きた事象
海外で新規購入したWindows PCで発生
一つのアプリ(私の場合はOutlook)のうち一部文字化け、一部正しく表示

■ 対処法
①コントロールパネル → ② 「Region」を選択

③Regionを開くとFormatsタブが開くので「Administrative」タブを選択


④ 「Change System Locale」を選択


⑤ Current System Localeを「Japanese (Japan)」へ変更する

これで解決する例があれば幸いです。



■ 私が遭遇した問題の具体的説明
・海外製PCを購入
・OutlookのPSTファイルを移植
・Outlookアプリ上、移植した個人用フォルダの名前の一部は正しく表示されたが、一部は文字化けしてしまった
・全ての個人用フォルダが文字化けしていたら、そういうものかとあきらめていたが、そうでなかったため、どこかに問題があって、どこかに解決策があると思

新聞社と多様性

新聞社と多様性

海外赴任の累計が10年を超えていたので、日本の新聞を読まないこともそれなりの期間に及んだ。初赴任時は、ファックスで新聞が送られて来る高価なサービスを着任先の会社が購読していたが、その後は、海外印刷の新聞がクーリアで手に入る時代になったものの、赴任地の地理的事情(クーリアでも入手までに数日を要する)や日本人が私一人の事務所などといった理由から、購読する選択肢がないことが殆どだった。一方、今になっては電子版があり、個人レベルの申し込みでも金銭的負担へのハードルはさほど高くない。

さて、毎日、継続して何かにかかわる中では少しずつの変化にはなかなか気付かないが、しばらく時間をおいて暫らくぶりだと違いに気づきやすいことがある。この一例として、わが子の成長と違って久々に会う親戚の子の成長は、目に見えてはっきり気付くことがある。

私にとっては新聞もそういったところがあって、新聞を毎日読んでいた時には気付かなかったことが、しばらく新聞から遠ざかると変化に気付く、というか、新聞が変化していないことに気付くことがある。新聞社も営利企業である以上、特定のイデオロギーに基づいた意見を掲載することは当たり前のこととして理解できるし、自社の意見を正と主張するのも理解はできる。とはいえ、久々に新聞に目を等してみると、社説でよくみかける「〇〇せよ」という見出しをいまだに見かけるのには違和感を覚える。特に、自分たちの努力や主権が及ばないことに対しても「〇〇せよ」と主張する社説を先日見たときは、思わず吹き出しそうになった(トランプ政権に対して命令している記事はもう見慣れたが、私が吹き出しそうになったのは中国政府に対して、「〇〇すればうまくいく」と自信たっぷりもの申していた。少し話はずれるが、10年以上前に世間のサラリーマンの間でささやかれていた「OKY」=お前が来てやってみろ、Omaega Kite Yattemiroと思った)。

また、自社の意見を主張するのと、他社の意見を否定してよいかどかは別物だ。吹き出しそうになった出来事をこの例からいうと、普段は他者の意見を尊重せずに頭ごなしに批判している新聞社が、多様性からの離脱風潮に対して批判的な意見を展開していることだ。

それも含めて新聞社。読者が知恵が真偽を見分けるのは無理だけど、疑いの目をもち、いくつものソースを調べ、多角的に自分で分析・考えることはできるはずだ。

国際女性デー

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。女性の役割拡大や地位向上を目指すこと、その進捗を確認するために年に一度、記念日を設けることに私は賛成の立場。

男性への逆差別云々という一部世間の声について、個人レベルで利己的に述べると一部には同意できる事柄もあるけど、人類の中の male という性の中の一人の見地から言えば、逆差別のような事象は私の生死に影響を与えるほどの重要問題ではないし、また、これを是正しなければと本気で主張するつもりも私にはないし、女性の日があって男性(割引き)の日がないことに私も文句もない。

とはいえ、ここ数年のありとあらゆる多様性への主張は、ちょっと違うんじゃないかとずっと感じてきた。それは、そういった主張をする人々の表現の仕方に影響されている部分のあると感じている。それはというと、少数こそ正義というメッセージに聞こえる場合があるからだ。いろいろな媒体で出尽くしている表現になるが、少数派こそ多様性を受け入れない人たち、利権団体にすら思えてしまうことがなくもない。

私がジャーニーマンのように働いてきた経歴の中で、どちらかといえば私が仲間に入っている立場になることのほうが多かった。けんか腰で自分の立場だけを主張していても、当然、受け入れてもらえない。受け入れられなければ、たとえ私が良い案を提案しても採用されることはなかっただろうし、事柄がうまく回ってゆくこともなかったかもしれない。受け入れてもらうために自分を偽る必要はないが、まずは受け入れてもらって、やっと何かが動くのだと思う。そういった意味では、本当に世の中を変えてゆこうとするならば、アプローチを変える必要があるし、大声を出さないと変われないと人々に思われる世の中も変えてゆかないといけないと思う。

多様性の進捗を測るために目標を数字で規定することは、それが目的化してしまう問題や目標値の決め方に課題があるのも誰もが気付いていることではあるが、かといって、客観的評価を可能にするには目標と現状を比べる以外の方法を思いつかないのも正直なところ。ただ、多様性のもともとの意義は、多様な人材や視点、アイデアが生まれやすくなることで問題解決の幅が広がって良い成果につながる、ということだったはずなので、こっちの視点からの何らかの評価方法を考える必要がある。もしも私が経営者になったと仮定して、どんな方法があるか考え続けることを止めないようにしたい。

マツダ6生産終了(海外)

マツダ6生産終了(海外)

既に終了していた国内生産に続き、海外でも部品がなくなり次第に生産を終了するとニュース記事が報じている。

マツダ6に対しては、外観が欧州車に近い最初の日本の四輪車というイメージがある。日本からの輸出と海外での現地生産の両方ともに、北米が日本の自動車産業にとっての大きな市場であり続けていたことからか、その大きな市場で販売しやすいように、日本メーカーの四輪車の外観は、欧州車よりもアメリカ車のほうに寄せていた印象で、今なおも多くのモデルに対して同様の感想を持っている。SUVに関する欧米差は、小さなトラックといった感じの北米SUVに対して、欧州車は大きな乗用車といったような、さほど大きくない差のように私には見えるが、これがセダンやステーションワゴンとなると、ものの見え方の基準が欧米では違うんだろうなというくらいの大きな差異があるように私には見える。
そんな北米テイストの外観が多い日本車の中で、私が欧州にいたころにデビューしたマツダ6は、欧州でみた日本車の中で最もカッコ良く、欧州の風景と周りを走る欧州車の中にとても溶け込んでいると感じていた。事実、日本車の中では欧州で販売台数的にも成功した部類のモデルだったような記憶もある(定かではない)。

日本では、セダンとステーションワゴンの売れ行きがかつてほどではないという記事を見ることが多くなった。少数の希望者のために売れない車を開発する余裕も義理立ても自動車メーカーにはないだろうし(最近、16eに代わったiPhone SEにも同様のことが言えると思う)、フル・ラインナップを持つより自社の特徴を生かした車に経営資源を投入するのが営利企業としての姿勢であろう。私がいつか日本に帰る時、車の選択肢がどうなっているのだろうか。まだ自分で乗ったことはないのだが、一度はクーペを保有してみたいと思ってきた。歩行者保護とか安全性や燃費など、車の外観にも影響を与えうる設計・性能上の要求事項が増えてきている中で、それらを考慮するがためにカッコよい外観の車が絶滅してしまう前に最後の車を買って長く乗りたいと思っている。

短期業績を出し続ける

短期業績を出し続ける

外国人経営者と聞いてイメージするのは、株価を上げることを最大の関心事にしていそうだ、ということだ。海外の企業では外国人経営者が当たり前なので、あまりに乱暴な分け方の表現になってしっているけれど。

将来性が株価に反映されているという見方はあるものの、株価を上げる=短期的な施策に注力する、というイメージの方が強そうに私は感じている。株価を気にするあまり、近視眼的なアプローチをとりがちになり、自分のいる間の業績さえ良ければあとのことは知らない、業績連動の報酬という個人でのベネフィットも得られる、というスタンスになってしまうのではないかと。

ただ、最近はこの考えが間違っているのではないかと思うようになった。

まずは、経営者は自分の任期の間に結果を出すべきであって、長期ビジョン云々いっても、その結果が出る頃にはご本人は経営の一線にはいないであろうから、検証できず結果責任を問われることもなく無責任この上ない。そうであれば、聞こえのよい夢物語を言っても許されるし、メディアも夢物語を取り上げてワッショイ記事を書きやすいだろう。

また、短期・短期で全力で結果を出すことを繰り返すことで、それが長期に結果を出し続けることにつながるのではないかと思い始めた。それには、多くの日本企業が行っているような業績予想を開示するのをやめることもセットとする必要がある。なぜ、年度が始まる前から業績予想を出す必要があり、また、その予想に憑りつかれたように益出しのために優良資産を売却したりしないといけなくなるのか。業績予想こそ、市場に予断を与える情報ではないか。

会社がおかれた状況や業界、時代や景気動向などが変われば最適解も異なるだろうから、簡単に結論づけられる話ではないが、短期で利益を出して社内で勝ち癖をつけることや、市場や取引先からの見え方を変えてゆくことにつながる施策は経営者がこだわるべきところだとは思う。

テレビのニュース番組が好き

テレビのニュース番組が好き

テレビやYouTubeなどの映像でのニュース番組が好きだ。新聞やネットニュースも読むが、出演者が話し言葉で意見を付け加えたり、新聞のような記者一人の切り口とは違って、進行役や専門家、ゲストやコメンテータなど複数の出演者間のインタラクティブなやり取りを観るのが楽しいので、ニュースといえばどちらかと言えば映像系が好きだ。

客観的な報道内容ではない出演者の意見・解説的なところでいえば、おそらく、テレビの人が言っていることの半分以上に同意できていないか納得できていない。それでも観るのが好きなのは、私の性格が、自分とは相容れない見解を聞くことが好きだからなのかもしれない。そんな考え方もあるのかと発見したり、これはこの人の本当の意見なんだろうかと心配してみたり、自分が詳しい分野の話題であれば、間違ったことを視聴者の前でよくそんなに流暢に喋れるもんだと感心したり、普段の生活であまり感想を持つことがない私が、こと映像系ニュース番組が相手となると、毎分毎秒、感想を持ててしまうくらいに好き(ちなみに、今までよりも多くのことに対して感想を持つことを、私は2025年の目標にしている)。

好きではあるが納得していない部分もある。そのうちの一つとしては、コメントや解説が目の前にあるニュースに対してのみ行われ、別の機会に別の切り口で同じ案件を報じる時には、それ以前のコメントと矛盾する発言をしても、何の疑問も感じずに報じているように見えることだ。もちろん、テレビの人たちに聞き取り調査したことはないので、矛盾を感じつつも台本に合わせて不本意ながら発言しているかもしれない。とはいえ、ウクライナ・ロシア戦争の件の場合、両国兵士の戦死者に関する痛ましい状況を説明し、攻撃を止めさせない限りこの状況は止まらないようなことを言ったそばから、本戦争に対するトランプ大統領の対応はけしからん、のようなことをコメントする。国際関係の裏で何がおきているか一般人の私には知る由もないが、戦争を止めたいと本気で望んでいるのは、ほかの誰よりトランプ大統領のように私には思える(日本での選挙権を持つ日本国民である私は、トランプ大統領を支持・不支持する権利はないので、報道を通じて見えている部分だけからの個人の感じ方)。戦争を止めさせたいということは、ごく一部の例外を除いては殆どの人たちの共通の望みなのではないかと思う。しかし、テレビの人たちはトランプ大統領のすべてを否定することを述べるか、または同意できそうなところには触れないようにしながら大統領批判を展開しているように見える。

これは一例であるが、全体に対して思考をめぐらすことなく、目の前のことに対してのみ反応している人を見ると、私の場合は見ているこちら側がつらくなる。テレビのニュース番組は、「ニュース・ショー」だと思ってみればいいのだけれど。

あいまいな記憶

あいまいな記憶

作家の曽野綾子さんが2025年2月28日に逝去されたことが報じられた。曽野さんの作品でいえば、太郎物語を読んだことを覚えている。大学受験勉強のころ、学びたい学部が地元の大学にはなかったため、大学生活は一人暮らしになるだろうというのが想像できたのと、名古屋にある大学を志望して時期があったことからも、太郎物語を手に取って読んだのかもしれない。名古屋・栄の夜は早い、というのをなんとなく覚えている。

しかし、よくよく考えてみると、高校時代の部活現役の間は部活中心の生活を目一杯していたし、引退後は受験勉強に振り切った生活をしていたので、本を読んだのは高校時代だったっけ?と思い始めた。高校生の時は、本を全く読まなかった頃か、本を読むなら単語帳とか参考書だった期間のどちらかだったと記憶する。大学入学後は授業の予習が大変だったが、それでも時間はあったので、もしかしたら入学後の記憶か?そうすると、結局、名古屋の大学は受験すらしなかったので、名古屋で一人暮らしをすることを想像して読んでいたのと辻褄が合わなくなってしまう。

記憶が定かでないし、記憶を呼び戻したところで今日の生活に何か影響が出るわけでもないので、この辺で記憶回復作業を止めるけれど、結論としては、記憶は非常にあいまいで、かなりの確率で書き換えられている恐れもあるからこそ、勝手な思い出の中で生きてゆけるんだろうなということだった。

高校無償化

高校無償化

自民党、公明党、日本維新の会の3党が教育支援金の見直しについて合意する文書に署名したことをメディが報じている。

ニュース番組を見れば専門家と呼ばれる人が色々と解説してくれているし、新聞では記者が内容を報じ、ネットニュースのコメント欄には一般の人々が各自の意見を披露しているので、いろいろな人が様々な考えを持っていることを理解する上で参考になった。

私が高校受験生だったのは何十年も前で、また、高校卒業とともに地元を離れたので今の動向はしらないが、私はいわゆる地方で育ち、地元の私立高校は市に一校づつといった感じだった。都会のように、教育方針や校風を理由に私立を選ぶというよりも、第一志望の公立高校に落ちたとか、特定の部活に入ることが目的で私学に進むケースが多かったように思う。公立に落ちて期せずして私立に通う場合には、支援金は有難いはずだと思う。一方で、私立を第一志望に選ぶ受験生が多くない地方の場合においては、成績優秀者には特待生制度を用意して学生を集めようとする私立も多いと思うので、支援金が効いてくる高校生の割合は、地方では都会よりも低いように想像する。支援金は、私学の中でも多くの選択肢が存在する都会において、より価値が出てきそう。

私は、地方で育ったあとに、そこからは距離も生活文化も結構離れた地方都市で大学時代を過ごし、就職で東京に出てきた。お上りさん的に双六の目を進んできたが、私個人はそれがよかったと思っている(ほかの人生を経験していないので、自分の経験がよかったとしか思えない、ということもある)。だけど、この教育支援金のニュースを聞いて考えたのは、都会と地方の教育機会格差を広めたり、それが廻り回って都会への人口集中が収まらない原因になったり、そこから少子化になったりするのかもしれないなとと思ったりした。

自分には高校生の子どもはおらず、また、将来に高校生になる年齢の子どももいないため受益者になる予定はない(今日時点)。さらに言えば、ここ数年は日本で納税していないため、教育支援金の原資を提供する側にもなれていない。だけど、教育は国づくりの基本だと思っているので、どうしても気になる。

3月3日はひな祭り
頻繁に手を動かしながら話す

頻繁に手を動かしながら話す

YouTubeを観ていたら、そこで話をしてくれる人が、始終、手を動かしながらしゃべっていた。大きさを説明したり、形を表すために手を使っているわけではなく、発言と手の動きが連動していない形で手を使っていた。

大学生の頃(何十年も前)、外国人と日本人の違いについて書いた本を多く読んでいた時がある。その時の記憶では、話すときに手を頻繁に動かす人は、海外では(その時はアメリカでの例だった記憶)知性的に見てもらえないという解説があった。YouTubeでこのことを思い出して、ネット検索してみたところ、手ぶり身振りを交えたほうがよいという説明が検索ページの上位の方に多かった(エネルギッシュとか、よいイメージを与えるという意見)。

昔の情報が嘘だったのか、時代が変わったのかわからないけれど、日本語で検索する限りは上位は手を動かした方がよいということだった。
でも、私は、人前で立ってプレゼンテーションをしたりするような時などのいくつからのケースを除いては、今後も手を無為に動かさないよう自分は話したいと思っている(他人が手を動かそうが構わない)。

ついたち、朔日、一日

ついたち、朔日、一日

今日は、ついたち、3月1日。

毎月ついたちは、丁寧に過ごしたい。ついたちを丁寧に過ごせると、その月はよい月にできるような気がするというか、むしろ、その月をよくしたいので、一日は特に丁寧に過ごす。毎月、元旦を迎えているのと同じ。

もともと験を担ぐところはあった。多分、学生スポーツをそれなりに真剣にやっていたことが影響していると思う。スポーツと「験」は、「高校・大学受験と験」と同様に相性がよいと思う。それと、切りがよいという意味でも、ついたちを丁寧に過ごしたいと思っている。別に、気分転換しないとやってられないようなひどい日々をいつも過ごしているわけではないけれど、切りがよいとか何かのきっかけを大事にしている。同時に、切りがよいタイミングが近づいるときは、その日がくるまでは暴飲暴食・自堕落な生活をしたりする。

だいぶ話はそれたが、もうちょっと残っているついたちを無難に過ごしたい。