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作成者: Journeyman

東南アジア在住。 引越しはもうじき通算30回、社内異動が多くて、そこに転勤が重なったりして、これまでに一つの会社にいながら6か国で仕事経験あるジャーニーマン。 異動では前任者のいない新規業務のケースが結構あって、新人の時に先輩から言われた「前例参照するように。これがファイル。以上、引継ぎ終了」も通用せず自己流・手探りにならざるをえなかったこと多々。 次の人のためには自己流業務はよくなかったものの、自己流からの気付きは、身に着くまでに時間を要すものの、一旦、身につけることができれば、自分のものにできるという感覚。 そのほかにも自己流でやっていること多いけれど、ゴルフの自己流は、自己流の中でも最悪のものです。ポジティブに言えば、創意工夫と言い張っています。
学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校を休んでディズニーランドや家族で行楽に出かけることの是非みたいなことがネット・ニュースになる時代だから、もう学校の皆勤賞の価値を見出さない時代になっていることだろうと思う。しかし、私が小学生だった昭和の時代は、皆勤賞という言葉がそんなに低くない頻度で使われていた。では、私自身はどうだったかと言えば、体力に自信のある小学生だったわりに、学年を通じて皆勤賞で過ごせたのは一度だけだったんじゃないのかなあ。

何かのネット・ニュースを読んでいて、学生時代に皆勤賞という概念を持ってしまうことで、有給休暇を消化できない日本人サラリーマンを生む結果になっているようなことを書いている人がいた。その人以外にも同じようなことをネット上に書いている人が結構いて、たしかにそうかもしれないなあと感じた。

そういう意味で、学校休んでディズニーランドに行くことにポジティブな側面があるなと思った。休みは休みとして取得することに後ろめたさを感じさせない人が増えるのはよいこと。休みにお金を遣えば経済も循環するだろう。休んでリフレッシュもできるし、趣味に時間を使うこともできる。あとは休みを取るタイミングを考慮できればもっとよい話。どうしても突発的な出来事は避けられないので、確実に休める日が事前に分かるはずはないのだけれど、ちょっとそれだけはなんとかなったでしょ、という話を聞くこともある。判っている季節要因と同僚・周囲との調整のこと。あー、でも、こんなことを思ってしまうことすらいけない時代になってきたのだろう。

会社で業務が分業されすぎ問題

会社で業務が分業されすぎ問題

私が新卒入社した会社は、入社前年に設立 100周年を迎えたばかりの会社だった。それ以後は、入社数年で初めて海外に出た先は設立 10年目くらいの事業会社、次に買収したての海外製造会社、しばらく経って別の10年目くらいの会社、最終的には資本関係のない融資先で勤務した。

買収したての会社にて勤務していた当時は PMI(Post Merger Integration、企業買収後の統合プロセス)という言葉を私はまだ知らなかったが、企業のすべてに近いことを知っている少人数を原動力にしてグループ全体を起ち上げ整えていっていた。ちょっと前に流行った言葉でいえば、サイロがある状態では起ち上げ早々はうまくいくことは難しい。私は、勤務した会社それぞれで良い経験をさせてもらったけれど、この起ち上げ早々の会社は会社の成長を感じる機会が多かった。

日本にある本社で勤務している時も含めて、私は新しいことを命じられることが多かった。だから、結果的に、その事業のほぼ全てに近いことを知っている人、ほかの誰よりもそのことを知っている人になることが多かった。会社が小さい段階では、情報がひとりに集中している方が仕事がやりやすい。いや、一人に集中しては企業としては成立していないので思っていることを正しく言い表せてはいなくて、どういってよいか判らないけれど、自分の部署が何かを決める時にはやはり全体が判っていたほうが決めやすかった。

転職して私が今勤めている会社は、最初に私が関わった頃はまだ小さな会社で情報も分散されていなかった。その後、会社が大きくなるにつれてサイロっぽくなってきて、今ではいわゆる大企業病を患っている。組織が大きくなって仕事が細分化されたことや(仕方ない事)、自分のことだけでよいと思う人が多そうなことことなども背景にあると思う。ただ、最近、特に強く感じるのは、全体を判っている人がいなすぎるということ。分散しすぎている。誰かが軌道修正した方がよさそうだけど、しなくても一応企業としては活動できるのだろう。もったいない。

オバマ(元)大統領の英語

オバマ(元)大統領の英語

オバマ氏が大統領に当選後か、もしかしたら就任してすぐの頃かもしれないが、オバマのスピーチを使った英語学習が流行っていたという記憶がある。今思えば、日本はマスコミも教材提供会社も、米・民主党推しだったのかもしれない(今も?)。

でも、当時から私にはオバマ氏の英語の何がよいのか理解が難しかった。今の時代は、持って生まれたものについて批評するのはよくないことは理解しているが(ルッキズムと言われる見た目など、当人の努力でどうしようもないことには触れてはいけない時代)、オバマ氏のスピーチは声がはっきりしていないように私には思えていて、教材としてはどうなんだろうと感じていた。当時と今では比較できないけれど、オバマ元大統領よりもトランプ現大統領の方が聞き取りやすい声やイントネーション、抑揚だと私は思っている。もちろん、人生でどんな英語を聞いてきていたかで、聞き取りやすいかどうかの判定基準は各人で異なるのは理解の上で(私は日本人なので、米・共和党の支持者ではない、念のため)。

私の物差しでみた場合、世論が意図して作られていた時代があるんだなあと思う。

県民の日

県民の日

県民の日は学校が休みになったり、子どものころにあった国鉄は固定金額で県内乗り放題になったりした。

幼稚園年長から高校生まで過ごした県を飛び出して大学へ進学したし、新卒就職は東京・大阪に両本社を構える会社に入社したため、育った土地の県民の日を堪能したのは中学までだった(高校は、授業は休みだったかもしれないけど部活があったはず)。

県民の日が制定された背景が気になってネット上で調べてみると、全ての都道府県に県民(都民・道民、府民)の日があるわけではなく、また、あっても公立学校が休みとは限らないというような情報があった(ほかのサイトでダブルチェックはしていないので、情報の正しさは定かでないが)。また、廃藩置県がトリガーになっている県(面倒なので、都道府県と言わずに県で統一)がいくつかあるのに、県民の日は県によってまちまちな模様。廃藩置県自体は全国一斉なのだと想像するけど(あとで調べる)、今の県名が使われ始めた日が異なったりして、トリガーが同じなのに制定された県民の日が違うのは面白いと思った。

海外でも州・省の日がある国もあって、その日は祝日になっているのだけれど、州・省をまたいで出勤している人は、ほかの家族が休みなのに自分だけ出勤日とかその逆が起きたりする。それを考えると、日本の県民の日は学校くらいしか休みでないのが日本人っぽい(企業も休みになっている県があるかもしれないけど調べられていない)。

JR の乗り放題パスのようなものがあれば試してみたいけれど、私が中学の時に買った切符は、学生証か何かを提示して、その県の居住者だとか通学者だとかを証明してたのだろうか?もし、特に証明が必要とされていないのであれば、いろいろな県の鉄道の乗り放題を試してみたいなあ。

誤クリックを誘導するウェブサイト

誤クリックを誘導するウェブサイト

PC だとあまり感じないのだけれど、携帯のブラウザでウェブサイトを見ているときにクリック(スマホだとタッチ?)しようとすると、ページが上下方向に動いて開けようとしたリンクでないところが開いてしまうことが高頻度でサーチエンジンがある。

ページを読み込むのに時間が掛かっていて、タッチしようとした瞬間に読み込みが終わったように見える(または見せている、あるいはそう装っている)。あるいは、ページを開いてからタッチするまでの平均データとかをとって、ページが開いてから一定時間たったら上下に動かすような地雷設定にしているようにさえ感じる。広告をクリックさせる月間の回数とかを確約してウェブサイトに地雷を設定、それで広告料をとっているサーチエンジンなのでは…

あまりに頻繁に発生するので、そんな陰謀論を想像してしまうほど。
なんとかして欲しい。

便利さの裏で楽しみが一つ減っていた

便利さの裏で楽しみが一つ減っていた

今いる町にずっと住み続けていたわけではないのだけど、最初にここに住み始めてから10年くらいが経つ。住み始めて当初のころは、地元のスーパーで買える日本調味料はあまりなく、食材も少なかった。だから、大きな街へ片道3時間くらいかけて買い出しにいっていた。それでも、また別の国で最初に働き始めた 30年くらい前に比べれば地元で買えるものはある程度あった(その 30年前の生活では、都会にいっても賞味期限切れ食品くらいしか買えなかった)。

当時は、それが楽しくてしかたなかった。同時に、いろいろなものを買うことができるこんな街に住めたらいいなあと残念に思うばかりだった。

その後、新しいショッピングモールに大きなスーパーが入って、日本食材コーナーが充実してきた。棚の幅5メートルを超える品揃えにまでなった。地元で買えないものはまだまだたくさんあるけれど、それでも都会に行く頻度は減り、一回あたりに買い出しをする量も減った。片道3時間とは言え、道中に交通事故にあうリスクも減ったし、疲労も時間も節約できてよいことばかり。

そうなんだけれど、街に出かけるワクワク感が減ってしまった気分でもある。
便利になった分、何かを失った感じ。
生活しやすくなることは良い事。進化の証。それを止めて不便な暮らしを続けてまでもワクワク感を優先させるのは世の流れに反するのだけれど、それでも何か寂しい感じ。

だから別のワクワクすることが見つかるといいなあと思う。

先を走るより追い抜かす方が易しい

先を走るより追い抜かす方が易しい

仕事での話。

先輩が築いてきた売買取引を更に大きくしたり広げたりするのを私はうまくできないようで、新しい仕事が私に割り当てられることが多かった。例えば、既存の売買取引に付加価値をつけようとして、事業投資を検討する時にメンバーに呼ばれたりするようなこと。

私は「気にしぃ」なので、前任者が存在する仕事をやる時は、たえず前任者のやり方や成果を気にしてしまう。しかし、新規の事業投資案件のようにゼロから始められる仕事に対して、私は邪念を捨てて非常に前向きに取り組むことができる。ほかの社員よりは、その分野の知識が多少先行していたこともあるので、自分のやり方で進めることができるのも前向きになれる要因。

ただ、知識や経験が先行していたのも昔の話。今はノウハウ的なものなど実地でなくても事前に学べる環境があるので、効率よく最新の情報に触れる機会があるため、あっという間に抜かされる。私には経験がある、ということが常に私に気持ちの中にあるのだけれど、それは第三者からの目には見えないし、実際のケースがあって初めて引き出しの中から色々と出せるもの。携帯電話が進化してきて今スマホを使っている日本人の私を、以前は携帯がなかった国の人がいきなり最新機種を使って私を一気に抜き去っていくのと同じような感じ。最新のものを労せず手に入れることができる効率の良さが一気抜きを可能にしている。

逆手にとって私が一気抜きできる分野もあるはず。実際のところ、一気抜きまでは考えていないけれど、周囲の人のレベルに並ぶ・追いつくくらいのことはしたいと思う事柄もある。果たして、一夜漬けがどれだけ私の中に浸透するか判らないけれど、現代では判らなければ都度調べるということでもいいのなかあと思ったりもする。調べたものを記録して、それを効率よく引き出すことができるデバイスもある。

と、前向きなことを書いてみたけど、やっぱり経験値は貴重なものだと思うのだけれど。
それが時代遅れなのかな。
結果でも見るし、プロセスでも見たいし。両立したほうがよいものができると思っている。

SWIFT は個人の小口送金を即時着金

SWIFT は個人の小口送金を即時着金

年末年始ごろのニュースで、国際銀行間通信協会(SWIFT)は個人の小口送金の着金を迅速化させる仕組みを作るらしい。数年前から国境をまたぐ送金サービスを低コストで行う企業の話をいろいろと聞く。そういったサービスとの競争がそういう動きを促したのであろう。私は、今までそういったサービスは一度も利用はしたことがないのだけど、決して銀行間の送金に満足していたわけではない。何となく、銀行間の送金が安全そうだと思っていただけだ。

2025 年後半から、私が利用する銀行が手数料無料キャンペーンを開始した。これは、スマホアプリを使用することが条件で、PC を使った手続きは対象外だったが、一度、送金先をアプリで登録さえすれば、アプリでの手続きは全く問題なかった。2025年の10-12月期で何度か送金したのだが、12月に送金した際は、当地の銀行で仕向け送金を申し込んでから 10分位で日本の銀行で着金ができていて、すごいなあと思った。今思えば、冒頭の SWIFT で迅速化、という動きへの準備だったのかもしれない。個人の送金なので着金までの時間が長いか短いかは、正直、私にはあまり重要ではないのだけれど、送金した資金がどこにあるか判らない状態が短時間で終わるという意味では安心感を与えてくれる価値がある。

サービスの向上にはやはり競争は必要なんだなあと再認識した。

ブルースクリーン・フィッシング

ブルースクリーン・フィッシング

偽のブルースクリーンでクリック・フィックス(ClickFix)攻撃を仕掛けてくる、というニュースをみた。

このニュースをみたのは年明け後だったのだけれど、それより少し前の年末に、会社 PC が落ちたことがあった。原状のまま PC をシステム部署へもっていったところ、ブラックスクリーン云々と言っていた。その時まではブラックスクリーンは知らなかったので調べてみると、もうブルースクリーンはなくて、そういう名称もブラックスクリーンに上書きされているということを知った。

だから、ブルースクリーン・フィッシングの記事を読んだとき、本物のほうが一歩進んでいるんだな、私とフィッシングは一歩遅れてたな、と感じた。青い画面を黒い画面に変えるだけだろうからフィッシングの方はすぐに現実世界に追いつくのだろうけれど、うっかり時代遅れになれないなと思った。

人の心情を勝手に想像して記事にする人々

人の心情を勝手に想像して記事にする人々

記者やそのほかの対外的に情報発信する人々は情勢を分析しているつもりかもしれないが、読み手である私たちからすると、人の心情や意図など判りもしないのに、それを勝手に想像して書いているんじゃないのかと疑ってしまうことがある。

最近の例でいえば、解散総選挙になるかという観測の中での報道。「高市首相は〇〇ということで解散総選挙を実施するのだろう。けしからん」といった文脈のこと。高市首相や選挙実施に対する私のスタンスは一旦横におき、ここでは記者や記者の所属会社の態度について言っている。高市首相へ取材した結果なのか?と聞きたい。想像で記事を書いているのに、事実のように書いていないか?それこそ、レッテル貼りや世論の誘導だなあと。

現実離れしたストーリーのドラマを見ていると、見ているこっちが恥ずかしくなるタイプが私。それと同様に、想像した心情や勝手に作ったストーリを事実のように書いている記事も読んでて私が恥ずかしくなることがある。事実なら事実と書けばよいし、想像ならばそうであることが読者に判るように書くべき。また、記者自身の政治的立場を明記したうえで書いてくれれば、ああこの人はこういう信条だからこういう見方・主張をしているんだ、と分かるというもの。

事件とか社会ニュースにも同じことが言えると思う。被害者・加害者のことを勝手に推測して書いてるのに、最後は断定している。嘘を書くと事務所がうるさいのか、芸能ニュースからは、勝手に詮索して書いている感じはあまりうけない。先日のアメリカによるベネズエラ大統領拘束に関する記事もファンタシーを堂々と書いているようで、読んでいててムズムズしたりする。

先輩の代から引き継いできたフォーマット化された伝統的な働きぶり・書きぶりなのだと思う。ここらで一度、リセットできる人に変わってもらいたい。あるいは、あたらしいメディアに登場してもらいたい。

運が良い日はかえって心配、貧乏性な私

運が良い日はかえって心配、貧乏性な私

渋滞がなければ車で 30 分の通勤路に信号機が6機ある。そのうち3機は押しボタン式に近いので、運の良いことが残りの信号で3回続くとノンスップで出社可能。これは往路のケース。復路は信号が3つで、押しボタン式が一つ。

私が住む町のスーパーでは、目的の商品の品切れが起こると数週間にわたってその状況が解消されないことがまま起こる。何かがないことが多いのだけど、その日に買おうと思ったもの全てが揃うことが極まれにある。

これらは運の良い日の例なのだけど、そんな日は少し心配になる。そのあとに、何か良くないことが起こるかも、と。

貧乏性の意味とは違うけれど、貧乏性という側面があると運が良いことが少し心配になることがある。

リビルト・エンジン

リビルト・エンジン

日本の新聞の電子版を読んでいて目に入った記事。
いすゞ自動車が、トラックの使用済みエンジンを再生する取り組みを拡大するという記事があった。

SDV (Software Defined Vehicle) が普及する時代になってくると、モデルチェンジやライフサイクルが長くなることにつながるという。そうなると、1台のトラックが寿命を迎えるまでに、エンジンが壊れたり不調になることが発生する可能性も従前よりも高くなるので、短時間でエンジン丸ごと交換して対応するリビルト品が意味をなすようになる、ということらしい。

記事を読んでいて、確かにそうだろうなあと思った。あとは、モデルチェンジ後もリビルト品が使えるようにエンジン全体の寸法とかを置き換え可能なようにしておく必要があるのかなあとか、環境基準が更新されたときにリビルト・エンジンが新しい基準に対応できるようにするのは難しくないのかなあとか素人ながらに心配はするが、リビルト品の活用自体はユーザーへのメリットがあるし社会への負荷の軽減にも役立つのではないかと思った。

短寿命で壊れるからこそ新製品を次々に出して最新技術を製品化する機会を提供する、という考えはあると思う。だからこそのイノベーションだとか。一方で、使える古いものは捨てずに直しながら使い続けることも私たちの役割・責任としてあると思う。また、古いものを分解とか洗浄するときに、エンジンの構造を理解する教材になったり、どうしてそういう構造になったのかとかをそれを開けた人に教えてくれることになったりもすると思う。どっちにもそれぞれメリットはあると思うけれど、このリビルト品というものに私は非常に賛意を持った。

FMラジオの楽曲リクエストってもうないのかな?

FMラジオの楽曲リクエストってもうないのかな?

YouTubeで音楽を聴いていたら、お薦めリストに Queen の Radio Ga Ga が出てきた。この曲は、私が高校生の時に、地元県のローカル FM 曲に送ったリクエストはがきで初めて読まれて曲も流れた記念のもの。で、ここの記事に書こうとしたところ、はがきリクエストなのにタイトルを「電リク」と間違って書いてしまったのだが、その時に、私の PC では一発では「電リク」を変換できなかった。と、いうことは、電リクはもはや一般名詞ではないのだと実感した。もしかしたら電リクが一般名詞であったころは無かったかもしれないけれど、一発変換くらいはできたのではないだろうか。

今は、YouTube や音楽サブスクもあるから、好きな時に好きな曲を聴くことができる環境はそろっているので、採用されるか判らず、また、採用されてもその時に聞けるかどうかわからない電リクやはがきリクエストをして音楽を聴く必要性があるとは思えない。一方、リクエストの存在価値があるとすれば、友達とか誰かほかに聞いているかもしれない人へのメッセージとしてはとても有用なものだと私は思う。

ちなみに、私が人生二度目にリクエストが採用されたときは、番組パーソナリティと私の電話での会話が FM 放送に流れた。どんな会話をしたかを覚えていないし、放送をエアチェック(なつかしい言葉)したカセットテープがどこかにあるはずだけど、もう40年くらい前の話だから探せないだろう(どうしても探したいとまでは思ってない)。その時は、Let it Be をかけてもらった。

あれは、はがきの内容で採用されたのか、リクエストした曲がたまたま放送局の選曲に合致したから採用されたのか、どっちだったのだろう

ラストスパートの人

ラストスパートの人

私は、期限ぎりぎりでアイデアが降ってくることが多い人、と分類ができるなあと思うことがある。期限があることの話なので、仕事場でのこと。

決して、意図的にぎりぎりまで何もしていないわけではない。結構、早めに取り組み始めて一生懸命考える。それなのに、最後の最後にならないと、これだ、っていうアイデアが降りてこないことが多い。なぜだろう。

今でも思いだせるケースはいくつかあるのだけれど、一番のやつは、ちゃんとモノづくりと返済計画の見直しをやってくれという交渉をするために、海外の融資先に出向いたときのこと。飛行機の中でもなかなか交渉の方針がたたずに結構焦っていた。そうこうしているうちに飛行機は空港に到着し、もう、空港から交渉の場へ直行するための電車に揺られてしまっている。

空港から市内中心部への電車の中で、突然にアイデアが降ってきた。この時、会議開始時刻まであと2時間を切っていたような時間帯だったと思う。ここから、これだっていう交渉ストーリーを揺れる電車の中でノート何ページにも亘って書き続けた。出張は私一人で相手は融資先の社長、私の上司である部長は本社から電話で参加し、その顔色や反応を目でみることができない中で私が交渉の主導権を握ってゆかなければならないプレッシャーが堪らなかった。

それまでにもラストスパートになることが多いというのは薄々感じていたのだけれど、この時の出来事がぎりぎり選手であることを再認識させてくれた。それが悪い方向にいってしまって、最後にはどうにかなるだろうという気持ちのゆるみがどこかにあるのかもしれない(決して、意図的にそうしてない)。私は、元来は余裕をもって仕上げておかないと気が済まない人。だから、最終的にいいものが期限間近でできたとしても、それを狙っているわけではないので、最初から全力投球をしている。なので、力を入れている期間はどうしても長くなっていまい、その結果、結構疲れてしまうので、これをなんとかしたいのだけれど、なんともできない。アイデアが降ってくるまでの時間も無駄になってしまっているようで、時間を返せと言いたくなることもある。ただ、できないまま期限が来るよりは、まだいいかなあと自分に納得させてている。

ああ、直したい。

世界で一番深い穴

世界で一番深い穴

何か調べごとをしていた時だったと思うのだけれど、世界で一番深い穴はどれくらい深いのか気になって仕方なくなった。調べてみた。

ロシア コラ半島超深度掘削抗 12,262m
学術調査ボーリング孔
地表面からの深さではこれが記録
直径は約 23cm
1970年に掘削開始から約20年間でその深さまで到達し、その後、2008年に掘削を断念
2012年に密閉された


ということのもよう。
ネット上の調べ先によって情報が違うかもしれないけれど、このことに関して、私は特に正確性は問わないので。

運転マナーが合わない国だと出不精になる

運転マナーが合わない国だと出不精になる

私は現在、東南アジアの国に暮らして働いている。今いる国の交通事情は、私には合わないと感じている。車の運転の仕方やバイクの交通ルール順守の度合いや、少し前まで走っていた車から車外に出てきて運転者・同乗者のふるまいなど。

お国柄や個人個人の交通安全や運転への考え方の違いなどで仕方ないことだと判っているので、イライラすることはあってもその問題が解消する日が近いうちに来るとは思っていない(本当は、個人の考えはお国柄に大きく影響されると思っている。だって、親の運転をみて子どもは育ってきているから、変化が必要だとする相当強い意志がない限り、どうしても、その国特有のローカルルールとかがこども世代に引き継がれてゆく)。。だから、私は多くの人々が道路上に出てくる前にと企図して出勤は早く家を出るし、仕事以外では必要性が非常に高くない限りは外出しないか、朝いちばんにしか出かけないようにしている。外に出れば渋滞に巻き込まれるし、本来は回避できそうなものなのに回避されない事柄に巻き込まれる。だから、この国では私は非常に出不精になる。その結果、インドアでできることに時間を使う傾向が増えた。何が良いとか悪いとかではなく、理由があって何かがおこる、ということと感じている。

雨の日のバス・電車通勤

雨の日のバス・電車通勤

ネットニュースを見ていたら、日本では冬の寒い雨の予報という見出しが目に入った。

日本にいた時の雨の日の通勤を思い出した。外は寒いのに、電車内に入るともわっとして湿気と熱気で息苦しくなる。私はラッシュ時を避けて早めに電車に乗ることにしていたが、それでも濡れた雨傘がスーツに触れたりする距離感にたくさんの人がいることの方が多かった。

雨の日は嫌いではないということを少し前にここで書いた。雨の日の音と匂いが雨の日を思い出させる。雨の日のむっとした電車内や傘を持つ面倒くささもあって、雨の日の通勤は嫌いだったけれど、ネットニュースで雨予報を聞いたときに、その場面を思い出した。特に嫌な感情が生じることなく、そんな日もあったなあという思いで的な感じで記憶がよみがえった。良い記憶でもないので、決して無いものねだりであるはずではないけれど、悪い感情なく思い出した。

今は車通勤なので、雨の日の運転にいつもよりも余計に気を遣う必要はあるものの、濡れたりムッとしたりすることはないので、日本にいた時のような不快さはない。でも、たまにはあの感覚をもう一度、味わうのも悪くはないかなああと思ったりしてる。ただし、通勤ではない理由で乗車する時に限るかも…。まあ、通勤でも帰り途ならまだ我慢できる可能性は高いが。

マツコさんの TV 番組の BGM

マツコさんの TV 番組の BGM

マツコ・デラックスが出ている TV 番組で流れている BGM は、かなり高い確率で私が好きな曲が多い。好きな中でも、「洋楽で懐かしめで好き」という分類に該当する曲が多い傾向。私はそんなに TV 番組を見ていた部類の人間ではないのでサンプル数は少ないけれども、そう言える。

不思議なのは、テレビ局が違っていてもマツコさんが出ていると選曲の好みがあう。マツコさん自身で選曲しているはずないだろうから、なぜか不思議。似たような歓声のスタッフさんが制作しているのだろうか?

学習塾の倒産が過去最多だった 2025年

学習塾の倒産が過去最多だった 2025年

高校生当時の補習について、特に結論もなく、つらつらと前日に書いた。そうしたら、学習塾の倒産が2025年に過去最多になった、という記事が目に入ってきた。記事を読むと、この件数は負債金額で足切りしたものみたい。小規模倒産とか入れると統計が収拾つかなくなるだろうから、統計に足切りを設定するのは仕方ないでしょう。

記事を書いた人によれば、物価高と授業料の値上げ難に苦しんだとのこと。タイパ重視の大学生の講師が負担の大きな塾講師を敬遠する動きが目立って、人件費や求人費が高騰したという一面もあったらしい。大学生を雇う塾は町の小さな塾だと勝手に想像していのだけれど、どうやらそうでもないということか。

私がよく判らなくて、記事を見ても解決しなかったのは、塾は優秀者がさらに成績を伸ばすために通うものか、追い付くためにゆくためのものか、というところ。私が子どもの頃は地方ということもあって、塾はほぼなかった。その後、塾は補習的に行く場所という認識を多少持つようになった。今は、どうなのだろうか。

東大を目指す人が多い塾の存在は知っている。そういった塾は、さらなる高みを目指す場所であり、また、特定の学校の入試を突破するための傾向をつかむ・テクニックを積むための場所と理解している。でも、塾に通わずに東大に入るひともたくさんいると思うし、塾の目的はなんだろう。(まあ、十人十色なので、定義づけ自体が無意味なのだけれど)。私は塾通いをしたことがないので、月謝を通じた経済貢献には無縁で申し訳ない気持ち。

私は、この件でも大好物の投稿コメントが非常に参考になった。AI 学習が普及すると、経済格差と教育格差の相関が薄くなるかもという意見の人がいたり、真っ向から異なる意見の人もいたり。それは、私の未解決課題であるなぜ塾に行くのか、ということにも大きく関係すると思う。やる人はやる、やらない人はやらない。でも、人それぞれに合う・合わないがあるので、AI なら続く人がいてもおかしくない気はする。私は割と気合勝負だけれど、いろいろ試してみて合うのを見つけられたら、これまでの価値観をつくがえされて、よいことが起きるかもしれないと思ったのが、この記事からの takeaway。

赤点、その後、補習(早朝)

赤点、その後、補習(早朝)

少し前のドラマを観ていたら、回想シーンで高校生だった主人公が放課後に居残り補習を受けるシーンがあった。

ああ、思い出した(そのシーンを見ることもなく、高校の頃を思い出せば補習の記憶も蘇る)。私は、高校1年の時は数学は補習のレギュラー参加者だった。ただ、数学の補習は朝の始業前だったので、部活をしていた私にも影響なく参加できた。名称は補習なのだけれど、やっていることは授業ではなくてテストだった。そのテストで一定の点数を超えると補習卒業という流れで、これが、中間テストと期末テストのたびに対象者リスト入りと勝ち抜けが延々と繰り返される。国語と英語の補習授業は普通の教室で行われていたのだけれど、数学は勝ち抜けテスト形式だったこともあって大教室での解開催で、記憶では生徒の半分以上が補習対象だったイメージ。何せ私が通っていた数学の試験は難しくて、平均点は 10~15点くらいのレベルで0点がクラスに何人もいるのが普通。テスト結果は先生が点数を読み上げながら渡すのがお決まりで、「おまんじゅう」といいながら回答を渡されると0点。おまんじゅうの形が0(ゼロ)に似ているから。数学のテストは、生徒がもだえ苦しんでいるのを先生が見て楽しんでいるような感じだった。それでも、学年トップの人は80点くらいとったりするのだからすごい。

幸い、2年時の数学の先生が教えてくれたノートの取り方がとても私には合っていたようで、途中経過を大事にしながら論理的な考えができるようになり、2年以後は数学が得意科目に変わった。その結果、私が文系だったこともあって、受験の時には数学満点を狙ってほかの受験生と差別化を図る作戦に出ることになる(授業料的に国公立が必須だっため、文系でも数学が必要だった)。

勤めてからも朝は早めに出社しているのだけれど、高校の数学補習のおかげで朝から頭が回るようになったのかもしれないなあと思いながら、本当に無意味な感想を書いてしまった。