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Author: Journeyman

東南アジア在住。 引越しはもうじき通算30回、社内異動が多くて、そこに転勤が重なったりして、これまでに一つの会社にいながら6か国で仕事経験あるジャーニーマン。 異動では前任者のいない新規業務のケースが結構あって、新人の時に先輩から言われた「前例参照するように。これがファイル。以上、引継ぎ終了」も通用せず自己流・手探りにならざるをえなかったこと多々。 次の人のためには自己流業務はよくなかったものの、自己流からの気付きは、身に着くまでに時間を要すものの、一旦、身につけることができれば、自分のものにできるという感覚。 そのほかにも自己流でやっていること多いけれど、ゴルフの自己流は、自己流の中でも最悪のものです。ポジティブに言えば、創意工夫と言い張っています。
一律全国区で選挙・投票したらどうなるか

一律全国区で選挙・投票したらどうなるか

国のために仕事をしてくれる代表者を選ぶ選挙だから、選びたい人に投票したい。自分の選挙区に選びたい人がいない場合には、選びたい人が所属する党から出馬している人に投票することで、本来は投票したい候補者と同じ政策目標を持っている党の候補者に勝ってもらいたいから、そうするしかないのが現状。

もしも選挙区をとっぱらって全国区にしたらどうなるだろう。良い点は、自分が投票したい人に一票をつかえること。懸念点は、日本のためになるか疑問に感じる人まで当選してしまうことがあるかもしれないこと。全国区の多数の候補者を自由に書くような投票システムだと開票と当選者確定に時間がかかるだろうし、判読不明による無効票も増えそう。

それでも全候補者を全国区でやったらどうなるだろうか。当選者を決めるシステムは、上位から国会議員の定数までにはせずに、票数の足切りラインを設定する。その票数に届かない人は最低限の信任を得られなかったと判定して落選となり、議員数が定数に満たない場合もありにする。落としたい人を落とせるシステムは、一人一票である以上は不可能だけれど、なって欲しい人には全国から投票できるようにしたら、結果的に落としたい人(有権者によって落としたい人が違うのでなんとも言えないが)を落とせるシステムにならないだろうか。

非現実的だから一人妄想しても仕方ないか。

田舎育ち

田舎育ち

大学に入るまで田舎で育った。びっくりするほどの田舎というほどの土地ではなく、よくある中途半端ないなか町。

・電車は一時間に一本
・だから、電車の時間に遅れないことに必死(とはいえ、基本の移動手段はどんなに遠くても自転車)
・バスは小学生の頃に廃止
・畑が多くて冬は出窓に砂がたまる(田舎だからではなくて私の育った家の建付け?)
・夏はほぼ毎日、夕方に雷雨
・学校帰りは畑をつっきって最短距離で家に向かったりできる
・トウモロコシ畑をつっきる時はいろいろなものが服にくっつく
・登下校の道には小学生が寄れる店がない(まあ、小遣いもないから寄れないが)
・マクドナルドが町にない(ほかのファストフード店もない。今でも)
・電車が単線
・警察署や交番がなく、派出所が町に一つだった
・建物が少ないので風の強い日にはダイレクトに風を浴びるので自転車が進まない
・時間帯にもよるが、だいたい電車は一両編成
・小学校まで片道歩いて40分(いくら小学生でも2kmを40分って、遊びながら通学してたのかな?)

小学生なんて(中学生のときも)自分の町しか知らないから、ほかにどんな世界があるかもしれず、別に不平・不満もなかった。今考えると田舎生活していたなとなるが、当時は別に何とも思っていなかった。

自民党 総裁選

自民党 総裁選

私は自民党員ではないので投票する権利はないけれど、日本の有権者としては総裁選の行方が非常に気になる。今回選ばれる総裁が誰になるかによって、次の衆院選で自民が与党で居続けるのか野党となるのかが左右される可能性は少なからずあると思う。さらにいえば、政党の再編や今後の政治体制が変わる可能性すらあるかもしれないと思う(素人です)。

次の自民党総裁と、その総裁に率いられる自民党をみて、次の選挙こそはいつも以上に有権者も各自が考えぬいて議決権を行使することが求められているだろう。変わるのは少し怖いけれど、国としてきちんとした方向へ向かってゆくことになるのであれば、変わってもよいと思う。若い人たちに比べると、変わることで受けるかもしれない困難も恩恵も、年齢的にはあまり長くは経験できないと思うけれど。

いつも以上にモノが手につかない

いつも以上にモノが手につかない

前にも書いたけれど、ここ数年のあいだ、持ったものを落としたり、何かを持とうとしたら別の何かをひっかけて落としてしまうとか、不注意とか握力不足(?)とかで手にモノがつかないことの頻度が10年前に比べて非常に高い。それとともに、仕掛けたように非常にきれいに手からこぼれるというか、最悪のケースになるというか、笑ってしまいそうなことが増えた。

自分でカットした野菜をジップロックに入れているのだけれど、それを落としてしまった。落としたけれど中身がこぼれなくてラッキーとか少しだけこぼれたとかならよいけれど、ジップロック容量の半分ほどが詰まったカット野菜が全て床に散らばった。ジップ側が下向きに落ちればそうなるのだけれど、床までの1mくらいの高さから落下する1秒以下の間の時間に全てがこぼれだすような落ち方をした。

これには笑った。握力が落ちているのか注意力が落ちているのか。今回は頭痛のタイミングでもあったので、脳の不具合だったらいやだなあと少し心配。注意することで解決すればほかの理由ということになるので、しばらく注意深くやってみようと思う。

スプレッドシートを自働化しすぎた不具合

スプレッドシートを自働化しすぎた不具合

周りの人のことが判らないので比較できないが、私の中では、私はスプレッドシートの鬼だと思っている。自働化されたものを作るために時間を割くことを厭わない。

ただ、自働化しすぎるのもどうしたものかと思う出来事が度々あった。ひとつは、エラーを除外して計算させるようにした結果、元データにエラーがあることはファイルが伝えてくれるのだけれど、どこにエラーがあるのか一瞬では発見できないことがあった。また、万が一の計算違いを把握できるように検算を多く組み込んだために、どこで何をさせているのか分かりづらくなってしまっていたりもする(私の整理が悪いだけだが)。それと、信頼しすぎてしまって、チェックする気持ちがなおざり(この場合はおざなり?どっち?)になってしまっていることに気付いている。万が一はある。

スプレッドシートの鬼は、おじさんの特徴の一つだという認識。なぜか判らないし、一般化して物事を言ってはならないけれど。自働化したファイルで思った感想を、ただただ独り言ちてしまいました。

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報を伝えるネット・ニュース記事が出ていた。
私は現在、日本居住ではないけれど、私が暮らす国も日本も「made in China」の共通点多数という共通点があるので、電圧やプラグ形状が異なるけれど、一応、形式の照合をしておこうと思った。

記事から簡単に対象製品を確認することができるかと思いきや、記事ページには型番の確認の仕方があっても型番の記載がなかったり、画像を何枚もめくらないと型番が出てこないページもあり、おもいのほか時間を要した。記事ページから情報にたどり着くことができたものはあるが、私が閲覧したページに限っていえば、ぱっとすぐに行き着けるものはなかった印象。

ニュースには文字数の限度とかあるのかもしれない。そこのところは知らないのだけれど、ニュースを伝えるだけで終わりにしないで、そのメーカーのページに行かなくても確認できるようにしてくれると便利だと思った。ただ、近頃はリンクをクリックするのにアレルギーがあるので、それはやはり自分でメーカーのページに行って確認してくださいというのがメディアのスタンスで、また、ウェブサイトの危険性に関する自分の感覚が正しいかをはかりながら自ら確認するのが身を守る最適解なのだろうか。

ありとあらやるものを信じられなくなってくるので、フィッシングはやめてほしいものだと思った。

日経平均株価、初の 45,000円台へ

日経平均株価、初の 45,000円台へ

2025年9月18日に、日経平均株価が初めて 45 千円の大台を超えたとのこと。

私の iDeCo の状況がどうなっているか確認したところ、先月末と比較して時価評価がそれなりに増えている。私は、国内株式の比重を高くしている。海外株式への投資は、利益が為替で飛んでしまいかねないと思っているから。資産を円建てに変えるタイミングを不問にすれば、為替変動幅以上に外貨建ての金額が増えるのはほぼ間違いないとは思うけれど、ティーンエイジャーのときに平成が始まった私の年齢だと、iDeCo を終えるタイミングで市況が想定の逆にいっている場合、市況の回復を待たずに損益を確定させなければならなくなるかもしれない。若ければ回復するまで待てるけれど、私の場合は時間も不確定要素の一つだ。

だから、今、一旦、定期預金などにしておこうとか、ちょっと考えている。手数料の安い商品を優先的に選択しているとはいえ、コストはゼロではない。今後の10 年以内に再び 45 千円までいくかどうかと聞かれたら、現時点で知りえる情報(といっても、一般人の私が知りえる情報など意味はあまりないけれど)から言えば、その可能性はあまり高くなさそう。いったん時価評価の変動が少ない商品に変更し、株価が下がったところで買い直そうかな。

とりあえず、私が選択している商品がカバーしているものを再確認しようと思う。日経平均に直接インクする商品ではないので、私が保有するものが今がピークとも限らないので。

水たまりに突っ込んでゆく車

水たまりに突っ込んでゆく車

今いる国では、私の前を走る車が水たまりをよけることなく突っ込んでゆく場面を見ることが多い。ほかの東南アジアの国同様に、車と平行して走ったり車と車の間をすり抜けるバイクが多いため、直線で走らないと危ないという事情はあると思う。そこは理解する。とはいえ、必要以上にまっすぐに走る印象。意地でもまっすぐに走るんだ、というコミットメント的なものを感じる。また、水たまりに入ったり路面の落下物をわざと踏んずけて走ってゆく車が多い印象。好んでそうしているような感じ。

一例としては、速度の遅いバイクが自動車の前を走っている時。対向車がいない時でも、ずっとバイクの後ろを遅いスピードでついていっている。対向車線へ少しだけ膨らめばすぐに追い越せるのに、辛抱強く追走する。この国にいる人は乱暴な運転をする人も多いのに、車線のことになるとまっすぐ走ることにこだわっているように見える人ばかりである。横と後ろを見ながら前をみたり、周りの車・バイクとの距離感・速度感を把握するのが苦手な人が多そうな感覚はある(まあ、急ぐ気持ちがないというのが最大の要因かもしれないが)。

洗車した後にわざわざ水たまりに入りたくはないけれど、雨が季節はほぼ毎日雨降りなので、水たまりに入ろうが何しようが車が汚れるのは一緒というはそうだ。だけど、前を走る車がスプラッシュさせるのは、後ろを走るバイクにとっては迷惑なのではないかと、水しぶきを見るたびに思う。




社長という仕事

社長という仕事

私が見たり聞いたりしてきた範囲の中だけから言えば、日本では出世した結果に社長へ昇進する一方で、海外では社長が別の会社の社長に就任することがあるように社長がひとつの専門職のようなイメージ。もちろん、日本にプロ社長が存在することはメディアを通じて知っているし、海外の社長ジョブ・ホッピングのニュースが日本まで伝わってくるのは極一部の事例で、多くの企業では日本同様に社内昇格が通常なのかもしれないことも想像する。しかし、乱暴にいうと私の中ではさっき書いたようなイメージ。

社長を全うするためには、社長としての技能が必要なのもはもちろん、社内のことをよく把握していることが大事だと思う。その意味では、出世していったキャリアの最終仕上げが社長という日本システムが機能するのは判る。
海外の社長で私が知っている例はごくわずかながら、本当にこの人は社長だなと思う。その人にもキャリアが浅い時期があったはずだけど、そのころから社長っぽかったのではないかと勝手に想像している。社外のどこかに個人的に雇ったブレーンがいるのではないかと疑うくらい、いろいろなことに明るいという側面もある。ザ・社長。

日本で社長ホッピングしている人に、あまり良い印象がない人たちが多い。印象といっても、雑誌やテレビで見る印象でしかないし、日本では珍しいプロ社長にやっかみの感情もあるのだと思う。だから、当たっていないかもしれない。でも、日本のプロ社長は、しがらみのないことができるという特異点しか見えない感じ。しがらみがないからリストラもできるし、しがらみがないから後先考えずに含み益も吐き出せる。結果、リストラも益出しも両方ともに短期的な収益にしかならない。呼ばれてくる社長にはインセンティブも短期収益基準だろうから、しがらみのなさを思う存分発揮できる環境もそろえてくれている。だから、利益を出して社長が別の会社へ去っていったあとには、何も残っていないことが結構あるのではないか。
一方、海外では、短期収益目線で社員にプレッシャーを与えながらも、それを繰り返して、結果的に継続的な収益として結果を出させられている印象がある(もちろん、社員としてはつらいんだけど)。日本は「あがり」ポジション的な感じであるのと、海外のハンズオンの意識で社長が違うところもあるかも。たぶん、それももうじき変わってくるのだと思う。

空港保安員が手荷物検査中に盗み

空港保安員が手荷物検査中に盗み

X 線検査機に通す前のトレーから現金を盗んだというニュースがあった。

この報道を見て、私に起きたことを思い出した。具体的にはどの出張の時のことか覚えていないけれど、少なくても15年前かそれよりも以前のこと。アメリカの国内線で移動していた時に、鞄のポケットに入れていた小銭入れを失くした。その小銭入れはとても気に入っていたもので、失ったショックは非常に大きかった。本当に残念だった。

この時は、機内持ち込み荷物のサイズが超過だと搭乗時のタラップのところで職員に言われ、預けるようにと指示された。その時の出張中には何便かに登場したのだけれど、超過と言われたのはその時だけだった。だから事前には何ら準備していなかったため、言われた時には何がどこにあるかまであまり気に留めず、とりあえずパソコンと貴重品を取り出したのだと思うけれど、鞄の横のポケットに入っている小銭入れまでは気が回らなかった(と、思う)。残念なことに、その鞄にはポケットが二つあり、一つは鍵付き、もう一つは鍵なしで、失くした小銭入れは鍵無しのほうに入れていた。機長預けになることが判っていたら、小銭入れを鍵付きの方に入れるか自分で持つかのどちらかにしておいたにと思っても、後の祭りだった。

直近にこのことを思い出したのがもう何時だったか思い出せないくらいの出来事だったが、このニュースを見て思い出してしまった。あの小銭入れ、非常に残念。

企業の海外進出ニュースは株式の買いか?

企業の海外進出ニュースは株式の買いか?

少し前に、日本の外食チェーンが海外で新規出店する計画を発表し、それがきっかけで株価が上昇したことを報じていた。この記事の少し前にも、海外進出ニュースで株価改善したという企業を紹介するニュースがあった。

海外進出する企業の業種によるが、外食産業の海外進出で株価が反応する理屈が判るようで判らない。超大手であれば国内拡充と海外新規出店を同時進行させるリソースを持っているだろうが、そうでなければ国内市場の縮小を海外で補うことを狙っての海外進出なのではないかと疑ってしまう。特に外食であれば、日本のものということで一瞬は流行るかもしれないけれど、現地の人によるサービスで現地の人の需要を満たせても、日本人の顧客をつなぎとめるのは難しいのでは、というのが私基準での考え方(私の考えが一般的ではないことを知っているが)。

だから、海外進出が株式の買い材料になるとは思えないのだけれど、企業が計画を発表したのちに株価が上がっている事実があるので、少なくても短期では買い材料にはなりえたということなのだろう(あるいは、国内の伸び悩みを既に株価が取り込んで下がっている状態からの回復であって、必ずしも値上がりではなのかもしれない)。

判らないことは調べたいのだけれど、知りたいことがたくさんありすぎて時間が足りない。特に、年齢が上がるにつれて、一日が早い。

根拠のないルールを守る人はいない

根拠のないルールを守る人はいない

秩序を維持して社会生活を送るにはためにはルールが必要。そして、それを守らないと、自分や周りの人を危険な状況においてしまったり、争いがおきたりする。だから関係者全員がルールを守る必要があるが、設定したルールの理由があいまいだと、ルールを守らない人が出てくることがある。

ドイツの道路は快適だ。アウトバーンでは、路面は走行しやすいところが多いし、一般道もラフな道はあまりない。だからスピードを出しがちにはなるが、制限のある区画に入る標識にしたがって減速すると、ああ、なるほどね、ということになる。工事をしている、路面が荒れている、前方で車線が減少している、町の入り口など、なぜ減速が求められたかの理由が明白だ。一方、欧州の別の国を走っていると、工事が終わっているのに減速や車線減少の標識が出しっぱなしになっているなどの理由で、これ意味ないじゃんということが少なくない。標識通りの状況ではないじゃないかと思っているのは私だけではないのか、減速指示を守っていない車が周りに多かったりする。そりゃそうだ、と思う部分もある。だから、本当に危険な場所であるにも関わらず、注意喚起の効果が薄れて危ない場合がある。

この例からは、ルールを守らせるには納得性が必要だということがよく分かる。このことは、いろいろなことに適用ができる。自分がルールを作る側になる時には忘れてはいけない。

アメリカで建設中の工場で不法就労

アメリカで建設中の工場で不法就労

ニュースが報じている。

私がみたニュースでは、トランプ大統領の移民政策をメインキャスターが批判をし、サブ的な人も同じように批判していた。もう一人いて、その人も同様。

そのニュースを見る数時間前に読んだネット・ニュース記事では、必要な査証を取らずに建設工場に従事していたのを摘発されたという主旨のことが書いてあったのに、私がみたニュースは査証がないことには言及せずにトランプが悪い、というばかりだった。

翌朝、その報道ぶりがどうしても気になってAI先生に聞いてみた。まず私の感想を述べて、そのあとに、私の感想と似たようなコメントしている書き込みがないですか?と聞いてみた。リンクで返してくれるのを期待していたが、そうではなかった。だけれど、同様に考える人がいますというコメントがかえってきた。AI先生が適当の話を合わせてくれたのかもしれないが、とりあえず私だけが憤っているわけではなさそうで嬉しかった。

企業側には、投資を呼び込んでおいて査証をなかなか出してくれないとか言い分はあるように伝えていた媒体もあったが、そのような言い分も報じるべきだと思う。取材をしているのに、そういった背景事情に届いていないことはなかろう。

報道のことはこれくらいで、そもそも、査証を取得せずに仕事する・仕事をさせるのはどうしたものかと思う。それと、細かな事業を知らずに言えば、現地雇用をせずに本国から人を連れてゆくのも私としてはなぜにと思うところ(特殊技術者などはその限りではない)。海外案件に必要なことはいくつかあるが、投資国の裨益は事業を成功させる要因のうちの重要な一つだと私は思っている。例えば、工場内に寮を建てて本国から連れてきた人をそこに囲い込んで働かせるケースを聞いたことがあるが、そんなことでは現地に根差した事業はできるまい。また、囚人の強制労働的に海外の現場で働かせるケースもあるようなことを聞いたこともある。

建設している企業にしても、報道する側もなんだかな、の事案だった。

怖い話

怖い話

私は、怖い話が嫌い。

なぜ怖がりになったのか、おそらくきっかけになったものがあったと思うけれど、それが何だったか覚えていない。もしかしたら、生まれながらにしての怖がりだったのだろうか。でも、怖がりは先天的なもの?それとも後天的なもの?どっちなのだろう。

自分が怖がりなことを知っているので、怖いテレビ番組は見ない。合宿のように集団で同じ場所に泊まる時の夜の余興など、どうしてもその場に参加しないといけない場合は嫌々ながら参加はするが、原則は、君子危うきに近寄らずでこれまでやってきた。

怖い話をする人にお願いがある。今見えたとか、そこにいる、という現在進行形な話はやめて欲しい。

企業業績ニュースのコメントに違和感

企業業績ニュースのコメントに違和感

ここ数週の間に見た企業業績に関するニュースの中で、トランプ関税による業績下振れというものが一定数あった。そのニュースよりは少なかったけれど、それでもそれなりの頻度で為替影響による業績下振れもあった。日米金利差縮小の予測による為替変動で、主に輸出企業の業績が下振れた、または下振れる見通しというもの。

そこでよく聞いたのが、「円高による業績悪化」のような説明ぶり。これに違和感を持たずにいられなかった。

確かに、ちょっと前よりは円高方向に為替は変動したけれど、それをもって「円高」と表現するのはちょっと違うような気がする。「円高」には相対的な意味の円高と、絶対的な評価を意味する場合の二つの使い方がある。最近のニュースで聞いた「円高」が相対的な意味で使われているのは判るけど、相対的評価として「円高」を表現する場合は、その必要条件としてある程度は絶対的に円高な状況にあることが条件だと私は感じる。多少円高方向に振れたとしても、今のように絶対的な円安状況では円高は適切な使い方ではないというのが私の感覚。

あくまで私の感覚だと判っているし、私の感覚はよく間違っているのも知っている。だけど、この円高表現の使い方は、私は少数派ではないのではないかと少し信じている。

西洋的価値観について考える

西洋的価値観について考える

時代が進むにつれ、解決をみる既存の問題の件数は増え、世の中は確実に良い方向に向かっていると思う。個別にみれば、新たな問題が発生しているのも間違いないし、新たな問題はかつてないほどの規模の大きな問題だったりして、もぐらたたきのようにあっちを叩くとこっちから頭を出すことはあるだろうけれど、全体としては良い方向に行っていると思うし、そうでなければ、微力ながら(?)私も改悪に手を貸していることになってしまうので、そうは信じたくない。

とはいえ、私の長くない人生の間におきていることだけをみても、日本は結構変わったという感想を持っている。理由はいくつもあると思うが、その一つは西洋的価値感の取り入れ方によるところがあると思う。もちろん、私は西洋的価値観を否定するつもりはない。ただ、なんでもかんでも西洋的価値感であったり、哲学をもたずに取り入れるのはちょっと違うと思っている。日本には日本の良さがあるんだと考えていた。

最近、ちょっと考えを改めるかもしれないと思い始めている。日本的良さは、今もこれからも大事にすべきところだという考えは変わらないが、現在のように外国や外国人との交流がより深くなってくると、付け入るスキを与えてはいけないと強く感じ、それには残念ながら西洋的価値観で対抗せざるを得ないと思うようになってきた。それが結果的に日本の良さを守ることになってゆくのだと思うようになった。

先輩方が作ってきた日本的良さを壊されるのは堪えられない。それと同時に、壊されるのを見ながら何もアクションをせず、へらへらしているのも堪えられない。攻撃的になってはならないが、攻めないと守れないというスタンスでいる必要があると思う。それは、自分がいさせてもらっている外国にも当てはまり、その国のシステムを尊重していかなくちゃ、ということをあらためて思う。

終活情報登録制度

終活情報登録制度

自治体への登録制度があることをニュースで初めて知った。

できること・できないことはこれから深く掘り下げて調べないといけないが、高い費用を払って法律事務所の弁護士とかを起用するのは躊躇する一方で、自治体へ低コストで登録が可能であって、自分に何かが起きたに自分の意思を着実に伝え、自分の資産が家族に届くような制度があることは、私にとって非常にありがたい。また、私に限らず、この制度によって多くの人が簡易に早く相続できる世の中になればいいと思う。相続問題は、相続する人がその意思を伝える方法が少ないとか意思を伝える方法が面倒だということだと思う。

自治体に登録することで、相続に関わる徴税が完璧に実行されることになるかもしれないが、そもそも後ろめたいことは私にはないので、余計な時間を掛けずに相続手続きを完遂できることが可能になるならば納税は構わない。

しかし、私がここに住所を構える前までいた自治体は、まだこの制度が始まっていないらしい。まあ、そのうち、始まるだろう。

CMを見ないと記事を読めない

CMを見ないと記事を読めない

YouTube 番組前に CM が流れることについては、そういうものだという理解ができている。それで成り立っているならば仕方ない。

最近、ネット・ニュースを見ていると、YouTube 同様に CM を見ないと読めない記事に度々でくわすようになった。YouTube ならば少し見た後に CM を Skip できる。CM が始まるのは私の意思でないとしても、自分の意思で CM から番組に戻ることができるからなのか、YouTube CM にあまり嫌悪感はない。それは、YouTube でしか見ることができない番組をみるために必要な儀式みないなものとの理解が私の中で進んだからかも。

一方で、ニュースの前の CM の場合は、CM を見るように言われた時点で閉じるボタンをクリックしてしまっている。それは、そのページでなければ見られない記事ではないので、同じ件のほかの媒体のニュースを探せばいいだけのこと。たまに、写真ニュースで同様のものがあり、この場合は他社記事では同じ写真を見ることができないのは想像がつくものの、そこまでしてみたい写真もない。ニュース前の CM は成功とは言えないのではないかなあと思っている。それとも、私が特殊で、大多数の人は CM を見ているのだろうか。これも、周りの人にアンケートをとってみたい質問の一つです。

最初にもらった背番号は好きになれなかったけれど...

最初にもらった背番号は好きになれなかったけれど...

結論から言えば、好きになれなかった最初の背番号は、任意で番号を選ぶ機会があれば今では自分で選ぶ番号になった。

生まれて最初の背番号は、たしか小学3年生の時だった。現在は、小学生のスポーツチームといえば学年別チームで運営している競技・チームが多いと思うけれど、私が小学生のころは全員で1チームだった。だから、現在のチームでは背番号1が各学年にいるけれど、私の頃は学年に関わらずに自チーム内に背番号ダブりはなかった。そうなると、小さい数字の背番号は上級生に優先的にあてがわれる。上級生が卒部(これは現代的表現)すると背番号変更もあったりするのだけど、私が入っていた田舎の古いスポーツチームでは、背番号は縫い付け交換式(またはマジックテープ交換式)のものではなくてユニフォーム一体タイプのものだったため、背番号を変えるとなるとユニフォーム上着を買い替えないといけなかった。そんなことを両親にお願いできる家庭環境でもないし、お年玉は毎年1万円もらえるかどうかの収支だったから、それをユニフォーム代に支出もできず、私は小3から小学生チームから卒業するまで同じ番号を使った。

小3でもらった番号はあまりなじみのない番号で、例えばプロ野球選手だったら誰だろうと思ったら、一軍で試合に出ている人だと一人しかいなかった。そんな番号。だから、それ時から 10 年前くらい前までは親しみも馴染みもなにもない番号で、どちらかといえばダサいなあと思っていた。
しかし、あるきっかけで、この 10 年間は好きな番号となっていて、今後もずっと好きな番号であり続けると今日時点では感じている。自分では自分のことをコンサバでいる時間の方が長い人間だと思っているけれど、たまに、こんな感じで好み(背番号の場合は好みではなく考え方の変化なのだが)が急変したりする。だから、年齢がいくつになっても新しいことを試すことで何かが変わったりすることは素敵なことだと思う。

在庫ぐせ

在庫ぐせ

デンタルフロスを使い切ったことを書いた。2025 年の目標である「使い切る」ことに関して、デンタルフロスというもので達成した。

「使い切る」ことを目標に挙げたのは、継続的になにかを実行することがその目的にあった。今回のデンタルフロスは、まさに歯の健康のために継続するのは大事。デンタルフロスを初めて買ってからもう十何年もたっているとおもうけれど、いつも続かなくて結局、歯科でクリーニングを定期的に施してもらっていた。今回は、ほぼ毎晩フロスで処理した。継続は力になっていてほしい。

「使い切る」ことの別の目的は、最初のものと似ているようだが「使うこと」がある。心配性な私は、家で使用するものなどの在庫を持っておかないと落ち着かない。しかし、在庫を買うと在庫を持つことで満足してしまうことがよくある。また、その満足が勿体ないという気持ちとも相まって(勿体ないというよりケチな根性かもしれない)、持っているのに使わないという無駄遣いにちかいことをしてしまうことが少なくない。

だから、「使い切る」ことを目標にした。生活が便利になるだろうと〇〇を買ったのに、もったいなくて使わなかったら生活が便利にならない。なんのために買ったんだ!これを止めたかった。理由があって買ったのだから、家にあるものはバンバン使い倒す。これだ。デンタルフロスを使い切って自信になった。なんかいい感じだ。