三連休のなかびが参院選の投票日

三連休のなかびが参院選の投票日

海外にいる私は、大使館へ行き在外公館投票をする予定。在外投票の期間は、選挙の公示日の翌日から日本国内における投票日の6日前までと規定されているようで、日本では日曜日が投票日になることから、衆院選の場合は在外投票期間中に週末が一度含まれ、参院選の場合は二度の週末が投票のチャンスになる。大使館の所在地へ出張がうまい具合に入ることはまずないし、週末にチャンスがあることから休暇をとって平日に投票へいくことも考えたことはない。

日本の報道をみていると、三連休なかびに投票ということを度々、言及している。中には、「参議院選挙は公職選挙法で国会が閉会してから24日以後、30日以内に行われること」になっていることを伝え、会期延長がなければこの週末になることは国会会期が決まった時には推定できたことも伝えるメディアもあるが、基本的には投票率を上げさせないために恣意的に決めたような報道ぶり。

まあ、それはよいとして、もしも連休中に出かけることを予定しているならば、不在者投票や期日前投票という制度もあるのだから、なかびであることが投票率があがらない理由にはならない筈だと思う。それと、メディアが頻繁に伝えているように、景気が悪いのであれば、わざわざお金を遣うような宿泊旅行にはいかないだろうから、影響ゼロとは言わないが顕著な投票率の違いにはならないと思う。もし、投票率が低いようなことがあれば、いつやっても低いのではないだろうか(ちなみに、私は自民党の肩を持とうと思って、このような感想に至っているわけではない。メディアのレッテル貼りというか脊髄反応を見ていられないだけ)。

私は粛々と選挙権を行使してきます。ついでに買い出しもしてきます。

黒猫が目の前を横切った

黒猫が目の前を横切った

朝の通勤時に、自宅を出てすぐのところで黒猫が進行方向の車の前を横切った。
ちょうど、悪い話を報告しなければならない予定があった日だったので、何か不吉なことでもあるのかと憂鬱な気分で出勤した(黒猫に出会ったこともあったので運転には注意して出勤)。

あまりネガティブな気持ちでいるのもどうかと思い、なぜ前を横切る黒猫が不吉なのか調べてみようと考えた。曲解できそうな理由であれば、不吉であることを忘れる口実にしようと思った。逆に出る、つまり、逃げようのない確定的な理由があったら気分撃沈になるかも、とはなぜか考えなかった。

ネットで調べたところ、日本では幸運の前兆という受け取り方だというのを見つけた。いままで何十年も生きてきて、私が知っていたのは黒猫が前を横切るのは不吉なサイン、ということだけだったことを知った。つまり、自分では調べたことがなくて、テレビかラジオか書籍なのか判らないけれど、不吉だという海外での受け取り方を誰かに吹き込まれて、それのみを知ったまま今に至ったということだ。

とりあえず、悪い報告を前に少し気が晴れた。それと同時に、自分で確認するのも必要だなあと再認識した。どうでもよいことであれば自分で調べる必要がないかもしれないし、誰がそれを言っているのかによってもあらためて調べてみるというアクションは不要だとは思う。だから、多分、何の疑いもなく不吉だと思ったのだと思う。推測するところ、海外の生活様式やしきたりなどに興味があって、いろいろ調べていた大学生時代にこの認識が刷り込まれたのだろうと思う。それ以来、調べたことがなかったということだろう。

今後は黒猫が横切っても、自分の向きをかえて後ろ歩きをしながら前を横切っていない、という強弁をする必要もなくなったので、コケてケガするリスクが低減したことになる。めでたし、めでたし。

オールブランは何処へ行った?

オールブランは何処へ行った?

ケロッグ・オールブランが店から消えて結構な時間が経つ。

地元のスーパーから消えてから1年くらいが経つだろうか。私が毎週通うスーパーは、ある時は大量に同じ製品が陳列棚にある一方で、在庫がない時期はしばらく棚で目にすることがないことが続く。仕入れの問題なのか納入の問題なのか判らないが、要は安定していない。オールブランもそのうち入荷するだろうと期待しながらの1年である。定期的に買い出しに行く大きな町でも全く見かけない。たまに、いつもと違う系列のスーパーに行くこともあるのだけれど、そこでもない。多分、オールブランが私の住む国から消えてしまったのだろうと疑っている。

しかし理由が判らない。ケロッグ製品はある。オールブランだけがない(ほかの商品は探していないので、本当にオールブランだけないのか実際は不明)。これが余計に謎を深めている。味のないオールブランは本当は好みとは違うのだけど、ほかのシリアルとプレーンヨーグルトにはちみつを掛けて食べる時にトッピングとしてオールブランを振りかけるのが好きだったのに。

批判が格好良かった時代

批判が格好良かった時代

動画でも文字でも、報道は批判ばかり。そんなこというなら、お前がやって全て解決してみろ、と思ってしまう。以前に私が勤めていた会社では、OKY = Omaega Kite Yattemiro (お前が来てやってみろ)という言葉が十年くらいまえに流行っていた。

会社において私がちょっと弱い点は、他人ができないことに対して意見を言うには自分がそれをできるという前提があること、と気持ちがあることだ。だからコメンテータ的な発言はしたくないし、また、批判的な意見を持つことも頻度的には低い。報道で批判ばかり目にすると、なぜ、あの人は批判ができるのだろうか?と疑問に思う。

私なりの推測としては、年代が上の方で批判が多めの人は、批判することがカッコよいとされていた時代に多感な若者時代を過ごしていた人なのではないか。学生運動をしていた人が登場する動画をたまに目にすることがあるが、学生時代の批判は思想に基づいていたものではなかったので、就職とともにそれまで主張していたことはどうでもよくなったというようなコメントをみたことがある。商売でも製造でもサービスでも、勤め始めると自分の仕事に注意が注がれてきて、それぞれの価値観をアップデートしながら生きてきたのだと思うけれど、そうではなくて、メディアに就職してしまった人の場合、世の中から取り残されて今でも批判精神を維持している人がいるのではないかと想像する。メディアは批判するのが仕事、という概念を持っているのではないだろうか。

多分、いまそれなりの役職にいる人々がそのような世代の最後の人々ではないかと思う。世代交代とともに報道ぶりも変わることを期待している。だが、報道を見ていると、とてもフォーマット化されているのが報道のように私は感じているので、人(世代)が変わってもスタンスはあまり変わらないような気もする。受け手側が主体的に考えればよいという意見には私も同意する。だが、そうであれば、よけいに流す方が変革する機会が来ることはないのではないか。需給のミスマッチは本来、それが廃れて新しいものが生まれる機会になるのだろうけども、こと報道についていえば、延々と続きそうだ。

天下一品

天下一品

ここ数週の間、天下一品の大量閉店に関するニュースを何度か見た。学生時代にお世話になったラーメン店といえば、神座、横綱、金龍、王将、そしてこの天下一品だった。店舗数の多い天下一品と王将は学生寮から気軽に行く感じで、横綱・金龍・神座は、だいたい道が空いてる夜中にいくのが相場だった。

一緒に行っていた人たちの中では、金龍派と神座派みたいな感じで好みが分かれていたけれど、結局、みんなとどっちにも行った(ミナミに行って行列具合を見てからどっちに行くか選ぶことが多かった)。ただ、神座に関しては、木の長椅子に座って食べる店に行っていた記憶があるのだけど、ネットで店舗を検索するとどれも四角い壁と天井のある店舗しかないようで、現在の何店なのか判らない。

横綱は、ネットの店舗情報を今見ると、当時に住んでいた場所にもっと近い店舗があるようだが、京都の本店に行っていた。大阪の店は新しいのだろうか。たしか、近くにボーリング場があって夜空に向かってレーザーが光っていて、それが近づくともうじき店という感じだったのを覚えている。もう廃止なのだろうけれど、私の中では、横綱=ご飯お代わり自由、横綱=夜中のドライブ、のイメージ。お代わり自由は、学生にはとても有難かった。

天下一品のニュースをみたら、ラーメンの記憶がいろいろと蘇った。

水のはね方

水のはね方

肉類を切った包丁やまな板の洗い方が原因になって、家庭内で食中毒になる例を紹介する記事がネットに定期的に上げられる。変なことになりたくないので、使用した調理器具の扱いは私も適度に気を付けているつもり。

私が最近に感じることの対象物は、スーパーでパック入り販売されている肉類のトレー。トレーから肉を取り出したあと、ゴミ箱に入れる前に水洗いするのだけど、シンク内にトレーを置いて蛇口の水を上から流してトレーに一旦水を溜める。その時、水流をどう調整しても100%の確率で水が跳ね返ってくる。シンク内への跳ね返りであればシンクを掃除すればよい話しだけど、着ているものにも跳ね返る。夜や休日はよいのだけれど、出かける前で微妙な跳ね返り量だと着替えるべきかどうか悩む。

悩みはよいとして、シンク底と同じ高さからの落下水なのに、シンクからの跳ね返りは数センチな一方で、トレーはシンクの深さを超えて高く水を跳ね返す。シンクは平面、肉トレーは凸凹している違いはあるが、はたしてこれだけが跳ね返す高さを変えるまで影響を及ぼしているのか不思議。水流の最初の段階では角度をつけて洗い流せばよいのだけれど、毎回、今日こそはと思って実験するけど毎回跳ねる。不思議だ。

赤ちゃん・ワンちゃん動画

赤ちゃん・ワンちゃん動画

赤ちゃんを見守るワンちゃんの動画は、好きな動画ジャンルの一つ。たまたま開いたネットニュースのページなどにその手の記事を見つければ、その後、いくつか立て続けに観たりする。

いつも思うのは、数多くのほっこり動画の裏に、突然に犬が噛んだりする事案がないものかと心配だということ。多分ないのだろうと思うけれど(ないと願うけれど)、そうなると、どうしてそうなのだろう。ワンちゃんと共通するある匂いを人間の赤ちゃんも発していて、ワンちゃんは見守る対象として認識するのか、家族が大事にする赤ちゃんであることをワンちゃんも理解するのか。でも、後者だとすると、だからこそ逆に嫉妬心から攻撃的になることがないか心配になる。

もし必ずしもほっこり事案だけでないとしたら、よくない事案を誘発するこの手の動画の影響力を心配するけれど、こういった動画は作ろうとしてそうしているのではなくて、日常生活での一コマを撮影しているだけだろうから、多分、そうでないタイプのワンちゃんの場合は距離感のある生活をしているのだろうと想像する。

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

何日か前に Nintendo Switch 2 の転売対策を伝えるニュースがネットに流れていた。私はゲームをしないし、ゲームに限らず転売という行為で売りも買いもしないので、このニュースは私にとっては社会問題とその対応をする企業、という第三者的な立場として読んだ。

ニュースをみたときはそれだけだったのだけれど、店頭販売の追加発表があったとか、実際に在庫をみたとか続報があり、人気のあるゲームであることを理解した。ゲームをするのが子どもであるとは限らないので、私の子どもの頃と比べることはできないし、また、私の子ども時代はうん十年も前のことだから時代的な比較もできない。とはいえ、ゲームってこんなに話題になるんだ、という感想を持った。小学生のとき、雨の日だけはゲームを学校にもってきてよいという「雨の日ルール」というのがあった。そんなときに友達がもってきたゲーム(2画面折り畳みが出始めた頃のゲームウォッチやパックマンなど)を借りてやるくらいがこれまでの私のゲーム人生(今後、ゲーマー・デビュするかもしれないので、「これまで」としておく)だったので、ゲームに対する感覚の世間とのズレを感じた。

これはゲームに限った話ではなくて、ほかの話題であっても報道やネットニュースで自分のズレを知ることが定期的にある。報道を含めた発信情報は、見てもらうことが目的であって、正しいことを報じることは目的でないことは判るので、そこと私がズレていることにはいちいち気にしていないのだが、モノによっては、「あー違うな、そうなんだ」と思うこともある。そのズレから生じる感情は、自分の中だけで処理できることもおおいのだが、人付き合いのなかでも感じることがある。そういうときに、ひとによってはとてつもない同調圧力を感じることがある。ちょっと主旨は違うけれど、ダイバーシティでよいじゃないか。

報道ぶりに思うこと – イラン・イスラエル

報道ぶりに思うこと – イラン・イスラエル

イランとイスラエルが停戦で合意したというニュース。一般人が知らないだけで、今回の停戦へ至る過程で新たな禍根をつくってしまったりしたのかもしれないが、今回のアメリカによる仲介があってもなくても、両国が永遠に停戦することは残念ながらなさそうに思えるため、仮に一時的な停戦であったりニュースの解説者がいうようにイランの核開発の進捗を数か月のみ遅らせた結果であったとしても、短期的に最悪な状況までに陥ってしまうことが回避できたことを私は喜ばしく感じながらこのニュースをみた。

しかし、報道ぶりを見る限り、コメンテーターも記者もアナウンサーもこぞってトランプ大統領がどうのこうのと批判しており、両国の攻撃の応酬が続くことを皆が望んでいたのかと誤解してしまうほどである。核開発の進捗を少し止めただけといったって、新たに生じたその少しの間に対話もできるだろう(当事者でない私は、本件が対話で解決する話かどうか判らないながらも多分解決しないであろうかもしれないが、対話の機会があるかないかは何かには違いを生じさせうると信じているし、変わらなくてもしばらくの停戦中に逃げることができるかもしれない)。

トランプ大統領批判ありきなのか、戦争になったほうが視聴率や購読率が上がって都合がよいと思っているのか知らないが、ミサイルを撃ち込まれる住民にとっては背景はなんでもよいので、とにかく止めてくれと思っているのではないだろうか。メディアのひとたちの思考回路がわからない。多分、異なる人たちなのであろう。

仕事の場において他者と共通の記憶・経験

仕事の場において他者と共通の記憶・経験

転職を考えた理由のひとつが、他社と共有できる経験がないことだった。異動や他者の転職などで共有できる人が減ってきたわけではなくて、転職を実行に移す前の15年近くはこの感覚をもちながら仕事をしていた。転職を考えるようになってからも、実行する・しないをあっちいったりこっち来たりしていたのだけれど、共有できる経験や共通の記憶、思い入れがある仕事を分かち合えないことが、最終的に転職を決断する背中を押したような気がする。

会社の規模(社員数)も様々なうえ、入社から一貫して同じ分野の仕事をすることが多い会社もあれば、定期的な転勤・異動が当たり前な会社もあるので、他社と共有できないのが当たり前な感覚を持っている人もいるかと思う。しかし、共有する対象は、必ずしも業務や案件のような具体的事項である必要はなく、例えば、仕事の仕方や携わっている業界の考え方などもっとざっくりした価値観のような場合、人数が多かったり人の出入りがあったとしても、割と他社と共有できる何かがあると私は思っている。実際、入社してから何年かは、そのような阿吽というかツーと言えばカーというか、共有できるものをもって仕事をしていた記憶がある。業界や仕事あるあるもその類。

共有感の有無によって仕事の成果が変わってはいけないし、仕事はドライにやる時代でもある。共有感を押しつけと感じる人もいるだろう。適応していかないといけないな。

最近の風潮に同調するつもりはないが…

最近の風潮に同調するつもりはないが…

テレビに影響されることもあるから、ということで番組作りに聖人君子的なものを望む人が一定数いることは、ネットニュースなどを見ていると認識している。それに対する私のスタンスは、ある程度の理解を示すものの、それが正しいとは思っていない。受け手側にも責任はある。

とはいえ、そんな世間の風潮に同意するときもある。タレントが海外ロケにゆく動画を見た。その中で、東南アジアの屋台をバックにしていた場面があって、見知らぬ現地の人から何か飲み物を差し入れされる場面があって、それをタレントが飲んでいた。そういう仕込みであれば問題ないけれど、他人からもらった飲み物を飲んでしまうシーンに危険な感覚をもった。つい最近も、中学生が知らない人にジュースを渡され飲んだら体調が悪くなった、という東京の事例がニュースになっていたばかり。愛想のよい東南アジアの人からもらったものを飲んだ場面が動画にあったからって、実生活で同じことを実行してよいわけではないし、そんな発想にならないように親や大人が教えてあげるべきだとは思うものの、こういったシーンはテレビで見せないほうが良いと感じた。

かえるの鳴き声、虫の音

かえるの鳴き声、虫の音

外国に住んでいると、日本で聞こえる音とは違うと感じることがある。日本の中であっても、都会に住むか田舎か、地面に接している戸建てなのか集合住宅なのかで違いがあるけれど、国が違うと根本的な違いがあるように感じる。

今住んでいる国は、音があまりないイメージがあった。住む物件は変わっているけれど、今の町での数年の居住歴をふまえてのイメージ。ところが、先週あたりに日本で聞き覚えのある音に気が付くようになった。田んぼ近くでよくきくカエルの鳴き声だ。季節要因はあるかもしれないけれど、今の物件に住んでから暦が一周しているので、前年同期比はできるはず。仕事からのストレスフルな生活が続いているのは確かだけれど、カエルの鳴き声に気付かないほど耳がふさがっているわけではないとは思う(そうであったら、健康状態が心配)。なんだろう。

そんなことを考えていたら、日本の音の記憶がよみがえった。いろいろな音の記憶があるけれど、日本であって(一部のヨーロッパでもある)今居る東南アジアにないものの一つが無音の世界。冬の日にしばらく音がしてないなと思って窓の外を見ると、雪が降っていたというようなことがある。そのとき、感触としては無音というよりも、「しーん」という音がしている感じ(マンガの吹き出しに「しーん」と空気中に書いてある感じ)。あと、冬の空気がはりつめた朝も、「ピーン」(ちょっと違うけれど表現できない)という音がしているイメージ。

匂いもちょっと日本と違う感じ。子どもの頃から馴染みのある雨の日の匂いはここでは感じない。最近になって、雨の匂いはアスファルト説だったり植物の油説だったり解明に近づいている感じがするが、東南アジアで雨の匂いを感じないのがコンクリート道路が多いせいだとすると、アスファルト由来説が有利か(植物が違うからかもしれない)。

音にしても匂いにしても、情緒に訴えかけるものは日本の方が多い感覚がある。日本のものは子どもの時からの長い時間を経た記憶だったり、大人になってからも思い出と匂いがリンクして感傷的だからそう感じるだけかもしれないが、過去の記憶と思い出は消せないものなので仕方ない。日本のほうにアドバンテージがある。

今は違く目的があって出稼ぎみないな状態になっているけれど、いずれは日本に帰るつもりなので、しーんという音や雨の匂いを感じるのを楽しみにしている。

「暑さのピークは20日」は表現のサボり

「暑さのピークは20日」は表現のサボり

暑さのピークは 20日、と数日前のネットニュースにあった。

6月半ばを過ぎたところだけれど、既に日本は暑いというのはネットニュースから知っていた。記事の言わんとすることは、「ここしばらくの間の足元の」ピークが 20日ということなのは判るけれど、暑さのピークと聞いたら、これから 7月・8月だというのにもうピークだったら今年は冷夏か、と誤解してしまう(しないけど)。動画と違って決まった文字数でニュースを配信する都合上、誤解が生じない範囲で言葉を省略するのかもしれないけれど、せめて「この一週間のピーク」とか「再来週に天気が崩れるまで」とか付け足すのが丁寧ではないかと思ってしまった。記事を書いた人の頭の中では、一定期間の間のピークという文章になっているのが、実際にネット上に載る時に省略されてしまったのだろうと思う。ただ、掲載する前に確認したら違和感を持ちそうなものではないかと思ってしまった。あるいは、私はつまんないことに突っ込むマイクロマネジメントな人なのだろうか。別に新聞社に文句をいうわけではなく、思ったことをひとりつぶやくくらいいいだろうか。なにせ、今年の目標の一つは、いろいろなことに感想を持つ、ということだから。

(そういえば、記事の途中で「冷夏」と書いたが、冷夏と報道で見聞きすることもない暑い夏が常態化してしまって冷夏は死語になってしまったのかもしれない)

野菜が食べられるようになった

野菜が食べられるようになった

小さい頃は野菜を食べられなかった。自分が育った家の例しか判らないので、それが一般的かどうか判らないが、私が育った家では、おかずは大皿で出されていたので、好きなおかずだけ取って食べるということができたため、野菜嫌いで特に不都合はなかった。唐揚げの周りにブロッコリがあったとしても、唐揚げだけをとることができた。これが、もしもひとりひとりの皿に盛りつけされていて、そこに野菜を盛られていたら、どうなっていたことだろう(給食で困った記憶がないのだが、それがどうしてかの記憶がない。誰かに食べてもらっていたのかも)。

野菜嫌いのパターンとしては、たしか、何度かチャレンジしたけれど克服できなかった、というケースだったと記憶する。

そんな私が中学生の時に、母親以外にお弁当を作ってもらう初の機会があった。修学旅行の初日の昼の弁当を同級生が作ってくれた(自分が持ってきたであろう弁当をどうしたのか覚えていない。事前通知があった記憶もないので、自分の分を持っていたはず)。単純、簡単な話ではあるが、私はその日を境に野菜を食べるようになった。まあ、よくありがちな話ではあるし、この出来事がなかったとしてもいつかは自発的に野菜を食べるようになっていただろうとは思うけれど、中学生で食べられるようになったこの出来事には感謝の気持ちをもっている、ということをふと思い出した。今日のスーパーでの買い物かごには、自分でも信じられないくらいの野菜が入っていた。当時に比べたら成長したなー。

ネット検索結果にもバッヂを

ネット検索結果にもバッヂを

辞書を使わなくなった。厳密にいえば、製本された辞書を使う頻度が下がってからは十年以上経つと思うけれど、ここ数年は、PC にいれている辞書アプリも使わなくなった。どうしているかといえば、多くの人もそうだと想像するけれどネット検索をしている。

辞書アプリの不使用は、勤務先の IT セキュリティも一因。転職前は、セキュリティが厳しくなる前の時代から使っていた辞書アプリがあった。それを使い始めてから PC は何度かの代替わりを経たが、IT の部署がユーザーのデータやファイルをすべて移植してくれていたおかげでずっと使えていた(標準外アプリも新 PC に移してくださいという依頼を行う必要があったが、それが否認されることはなかった)。今の会社への転職は少し前のことなので、すでに世の中の多くの会社は IT セキュリティにセンシティブになってからなので、転職時に貸与された会社 PC はセキュリティ設定がガチガチで、標準外アプリをユーザーで入れるのは不可能だし申請が認められることも難しく、以前につかっていた辞書アプリは私用 PC でしか使える環境にない(私用タブレットを毎日持って出勤しているが、業務中に取り出してまで調べようとは思わない)。

ネットを辞書替わりに利用するメリットは結果を得るのが早いこと。今やっている作業に必要な言葉を調べているわけなので、ネット検索は作業が中断する時間を短縮できる。手は PC キーボードにおいたままだし、視線をディスプレイから外す必要もない。一方で、ネット検索のデメリットは、新しい語彙が頭に残りずらいなどの副作用が生じやすいのが私の場合だが、これは私だけではないだとうろと思うので、また別の機会に考えてみるとして、最近にイライラが増してきたのは、ネット検索にヒットする上位結果が必ずしも正解とはいえないケースが増えてきたように感じることだ(ヒットする結果が増えたことで、正解でないものを拾ってしまうケースが増えたということだろうか、それとも私の感覚が間違っているのだろうか)。

和訳をネットに尋ねた場合、生まれてから日本語を母国語としてきたので、結果に違和感があっても主旨は何となく理解できることから、自分なりの言葉に置き換えることなどができるので問題は多くない。英訳の場合はちょっと違う。検索結果が間違っているような気がする場合が結構あって、結局、その英単語を調べなければならなくなることが多い。特定分野の用語の場合は仕方ないこととあきらめているが、一般名詞や語句の場合でも調べ直す機会が多くて困っている(自分の語彙の少なさが問題なのと、細かいことを気にしすぎなことが理由であることが判っているが、言葉を定義通りに使わないと間違って相手に言葉が伝わる可能性があると信じている面倒くさいのが私なのです)。いっそのこと、「これは各単語の意味を連結しただけの直訳です」とか、「これはネット上でみつけた用語集から引用したものなので架空のものではありません」とかを検索結果に並べて宣言してほしいと思っている。それくらい、人工知能でできるだろう。

調べ直し自体は製本された辞書を利用していた当時もあったし、調べた目的の意味以外の意味や調べた単語の近くにある別の単語に興味が湧いて、辞書を開いた目的とは関係のないことに時間を費やしてしまうことはよくあった(そのおかげで知識を広げることができたこともあった)。だが、ネット検索は、重要性の低い調べごとをするときに手抜きするためのものだと私は思ってきたので、それを使った結果、余計な時間や手間がかかるのは心情的に許せない部分がある。

そうか、許す心を持てはよいのか(この記事のテーマと違う結論だ)。

謝罪文のテンプレート化 – 迷惑と心配

謝罪文のテンプレート化 – 迷惑と心配

「ご迷惑とご心配」が対メディアでの謝罪文のテンプレートになってから、結構な時間が経ったと思う。誰かが謝罪したというネット記事の投稿コメントには、この迷惑と心配について言及する人がかつては結構いたけれど、もうテンプレートになってしまったから、最近は思っていても特に書き込まない人が増えたのかもしれない。

本件に限らず、私はニュース記事へのコメント投稿はしないのだけど(読むのは大好き)、迷惑と心配に今でも不満を持つ人間の一人。誰も心配などしていないのに、と独り言で突っ込む日々だ。なんでこれがテンプレートになったのかは判らないけれど、単純に「迷惑かけてすみません」という謝罪のみの発言だと自分が悪かったと認めることになるので、自分の非を薄めるために意味をなさない「心配」を付け加えているだけのような気がする。

誰かが書いた謝罪文を読まされているだけかもしれないし、本人も不本意(本当は土下座したい気持ちだったりするかも)にそう言っていわざるをえない大人の裏事情もあるのだろうけれど、それは私たちには見えないので、見えるもので発言して欲しい。

のどの渇き

のどの渇き

この 2-3 か月の間、のどの渇きをいつになく感じていた。

学生時代に運動部に入っていたころは、昭和よろしく練習中に水分摂るなに加えて砂糖の入ったジュース禁止ということもあって、水分をあまりとらない生活をしていたイメージがある(ジュースを買う余計なお金もなかったし)。大学を卒業して働き始めてからも、アルコールを除けば水分をあまりとってきた覚えがない。それと、昼間に水分をとる時はもっぱら暖かいもの(ほぼコーヒーのみ)ばかりで今に至る感じ。

ところが、ところが、ここしばらくはのどが渇いて仕方なかった。昼間は、暖かいコーヒーをここ数年と同じくらいの量を飲み、食べ物からとる水分についても特に食べるものが変わった感じもないのだけれど、夜になるととてものどが渇いていた。口をあけて眠っていてのどが渇くのではなくて、帰宅してから眠るまでの間の夜間のことなので、物理的な理由からの渇きではないと思う。毎年の成人病検診では尿酸値に異常はなかったので糖尿病ではないと思うけれど、次回のドックでどのような結果がでるか注視が必要だと思っている。この点、食べすぎ・運動不足なことは否定できないものの、今年急に食べすぎてるわけではないので(それはそれで問題)急に喉が渇くとも思えない。

そうこうしているうちに、先週から渇きがピタッと止まった感じ。元に戻った感じがあるのはいいけれど、何かが突然に変わるのはそれはそれで心配。何か小さなことが大きな変化になりうる年齢になってきたということで、とりあえず整理しておこうとは思う。

個人的な日記というか記録というか …

トランプ大統領とイーロン・マスク

トランプ大統領とイーロン・マスク

批判して罵り合いになったと思ったら謝罪の投稿をしたという報道。

あれだけがっぷりよつな関係性だったのに、急に批判したり、謝罪したり、私の感覚からするとちょっと理解を超える。法案の中身を聞いてなかったとか、もしそうだったらどうして、それまで手を組むことができたのか、全体最適というより部分最適で是々非々だったのかもしれないが、でも、それまでの報道を見ているとそのようには見えなかった。

両社に意図や下心、打算とかいろいろあったろうが、それでも、あんなに豹変できるのはすごい。君子豹変するから、大統領だったり事業を起こしたりできるのだろうか。それに引き換え、一般人の私。

交換式バッテリーEVの実証実験

交換式バッテリーEVの実証実験

2025 年 9 月から東京都で実証実験を開始というニュースがあった。

三菱ふそうトラック・バス㈱、三菱自動車工業㈱、Ample Inc.(アメリカ)、ヤマト運輸㈱の 4社によるもので、東京都および東京都環境公社の 2024年度「新エネルギー推進に係る技術開発支援事業」に採択されたものとのこと。

xEVに対する評価や見方は人それぞれで一定していないが、私の意見は、自動車の電動化は必ず必要ではあるが、少し前まで言われていたようなスケジュールやシェアは非現実的で、ひずみが生じることなく達成可能な計画に見直すべき、というもの。

ということで、私は全体的には今の EV化の風潮には否定的だけど、今回のこの計画は EV 化を一歩前に進めることに貢献しうるものと、この記事をみて思った。少なくとも航続距離については一つの選択肢につながるし、そのほかの問題についてもひとつづつ解決に向けた選択肢を増やしていって、EV が社会課題を解決できる場合には、その任務を与えたらよいと思う。

就職氷河期世代への支援

就職氷河期世代への支援

氷河期世代への支援をテーマに出演者が話し合う番組を動画でみた。どんな結論だったか忘れてしまったけれど、議論のなかで新卒で失敗してもやりなおせる社会に変えてゆくことが大事という意見を言っていた人がいた。

氷河期時代に新卒で非正規からはじめた人には今でも厳しい社会であると想像するけれど、新卒で正規雇用された人については、転職に対する労使双方の見方が変わってきたことで、以前よりはセカンド・チャンスの機会は創出されていると思う。

以前よりましだからいいじゃないか、というつもりは毛頭ないが、新卒への教育に掛けた決して小さくないコストで自社仕様に育て上げた社員がいるので、なぜセカンド・キャリアで採用するかといえば、多分、専門知識を持っている人があらたに自社に戦力として入ってきてくれることを期待してのことだと思う。

日本の新卒採用で私がよいと思っていることは、大学で学んだことと違う分野で採用・配属が行われること。デメリットもあるけれど、よい点のほうが上回っていると私は思う。大学の専攻と関係ないからこそ、配属後に OJT で徹底的に鍛える必要があるし、一人前になるまでに結構なコストがかかっていると思う。この状況を変え、セカンド・キャリアの流動性をあげようとすると、セカンド・キャリアで入ってくる時は勿論のこと、社員教育にコストをかけないとすれば、新卒の時点でも専門性を身につけた人を採用しようとするだろうし、専攻分野によって就職先が限定されてきて、新卒の門戸や選択肢が狭まる結果になるような気がして、そっちの方が副作用が大きいように思う。これが極々一部の大企業にのみ当てはまることで無視してよい話ならばよいが、私には専攻と関係ない会社に勤める機会があることは結構、重要なことだと思っている。また、何か単一分野の仕事はしてきたが、その分野でのスペシャルな技能がない人の場合、何年経験をつんだとしても職種が高度化することもないだろうから、昇給する機会も少なそう。スキルが上昇しなければ、身に着けたスキルでキャリア・アップ転職の機会もなく、もし転職をするならば、同じ仕事でちょっとだけ待遇がよさそうな会社を見つけた時にしか起こらなそう。

氷河期とかセカンド・チャンスとか関係なく、全ての国民が最低限の生活を送れことができる制度や仕組みのある国にしてくれるのが一番ということになるのだろうか。年代や性別、住む地域などで不公平のない社会、かといって結果を出せた人とそうでない人とが同じ処遇を受けるのではなく、頑張った人はその報酬を得ることを誰にも邪魔されない社会。それと、今ある色々な問題の多くに共通すると思うのだけど、教育が非常に重要だと思っている。