Browsed by
Day: 2025年7月1日

批判が格好良かった時代

批判が格好良かった時代

動画でも文字でも、報道は批判ばかり。そんなこというなら、お前がやって全て解決してみろ、と思ってしまう。以前に私が勤めていた会社では、OKY = Omaega Kite Yattemiro (お前が来てやってみろ)という言葉が十年くらいまえに流行っていた。

会社において私がちょっと弱い点は、他人ができないことに対して意見を言うには自分がそれをできるという前提があること、と気持ちがあることだ。だからコメンテータ的な発言はしたくないし、また、批判的な意見を持つことも頻度的には低い。報道で批判ばかり目にすると、なぜ、あの人は批判ができるのだろうか?と疑問に思う。

私なりの推測としては、年代が上の方で批判が多めの人は、批判することがカッコよいとされていた時代に多感な若者時代を過ごしていた人なのではないか。学生運動をしていた人が登場する動画をたまに目にすることがあるが、学生時代の批判は思想に基づいていたものではなかったので、就職とともにそれまで主張していたことはどうでもよくなったというようなコメントをみたことがある。商売でも製造でもサービスでも、勤め始めると自分の仕事に注意が注がれてきて、それぞれの価値観をアップデートしながら生きてきたのだと思うけれど、そうではなくて、メディアに就職してしまった人の場合、世の中から取り残されて今でも批判精神を維持している人がいるのではないかと想像する。メディアは批判するのが仕事、という概念を持っているのではないだろうか。

多分、いまそれなりの役職にいる人々がそのような世代の最後の人々ではないかと思う。世代交代とともに報道ぶりも変わることを期待している。だが、報道を見ていると、とてもフォーマット化されているのが報道のように私は感じているので、人(世代)が変わってもスタンスはあまり変わらないような気もする。受け手側が主体的に考えればよいという意見には私も同意する。だが、そうであれば、よけいに流す方が変革する機会が来ることはないのではないか。需給のミスマッチは本来、それが廃れて新しいものが生まれる機会になるのだろうけども、こと報道についていえば、延々と続きそうだ。