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タグ: アスファルトの匂い

雨の日

雨の日

雨の日は嫌いではない。「好き」と積極的に言えるまでではないのだけれど、嫌いではない。好きな側面はあまり見当たらないのだけれど、雨の日ならではな部分もあって、完全には嫌いになれないというのが適当な表現かもしれない。

私は、昭和の時代に小学生として過ごした。ステレオタイプな発想として、当時の多くの小学生と同じように、放課後は野球をして遊んだ。雨が降ると野球やそのほかの外の遊びができないので、家に一人でいることになる。当時に流行っていたゲームウォッチをはじめとした電子ゲームが我が家にはなかったので、雨の日はテレビを観るくらいしかやることがなかった(私の小学生時代は特に宿題とかなかったか極々少量だったような気がするので、宿題があっても学校の休み時間に終わっていたような記憶がある)。

だから、雨の日は家にいる日、というのが私の意識に今でも刷り込まれたままになっている。

とはいえ、家にいる日という認識と雨の日が嫌いでないこととは、特に関係がない。まあ、外出する選択肢がない分、ネガティブに作用しかねないことでもあるし。

雨の日ならではなことの一つに、匂いがある。ここ数年は、より化学的な説明がなされるようになってきたが、以前はアスファルトの匂いとして説明されていた、あの匂い。パブロフの犬ではないが、あの匂いは家にいる日のサインでもある。また、家にいる時に雨が降り始める時は、雨粒が屋根に当たる音が聞こえるような大雨ではない限り、いったん、静寂がおとずれてそのあとに雨が降り始めたことが分かる感じ。あれも、いとをかし。




追伸:外で競技を行う運動部に在籍していた高校生当時は、雨の日は校舎内を走り回ったり柔道場でサーキットトレーニングをしたりするので体力的にきつかった。通常の練習よりも時間は短く、日が暮れる前に学校を出ることができたのでその点はよかったのだけれど、雨合羽をきて自転車で40分くらいかけて帰るのがつらかった。

かえるの鳴き声、虫の音

かえるの鳴き声、虫の音

外国に住んでいると、日本で聞こえる音とは違うと感じることがある。日本の中であっても、都会に住むか田舎か、地面に接している戸建てなのか集合住宅なのかで違いがあるけれど、国が違うと根本的な違いがあるように感じる。

今住んでいる国は、音があまりないイメージがあった。住む物件は変わっているけれど、今の町での数年の居住歴をふまえてのイメージ。ところが、先週あたりに日本で聞き覚えのある音に気が付くようになった。田んぼ近くでよくきくカエルの鳴き声だ。季節要因はあるかもしれないけれど、今の物件に住んでから暦が一周しているので、前年同期比はできるはず。仕事からのストレスフルな生活が続いているのは確かだけれど、カエルの鳴き声に気付かないほど耳がふさがっているわけではないとは思う(そうであったら、健康状態が心配)。なんだろう。

そんなことを考えていたら、日本の音の記憶がよみがえった。いろいろな音の記憶があるけれど、日本であって(一部のヨーロッパでもある)今居る東南アジアにないものの一つが無音の世界。冬の日にしばらく音がしてないなと思って窓の外を見ると、雪が降っていたというようなことがある。そのとき、感触としては無音というよりも、「しーん」という音がしている感じ(マンガの吹き出しに「しーん」と空気中に書いてある感じ)。あと、冬の空気がはりつめた朝も、「ピーン」(ちょっと違うけれど表現できない)という音がしているイメージ。

匂いもちょっと日本と違う感じ。子どもの頃から馴染みのある雨の日の匂いはここでは感じない。最近になって、雨の匂いはアスファルト説だったり植物の油説だったり解明に近づいている感じがするが、東南アジアで雨の匂いを感じないのがコンクリート道路が多いせいだとすると、アスファルト由来説が有利か(植物が違うからかもしれない)。

音にしても匂いにしても、情緒に訴えかけるものは日本の方が多い感覚がある。日本のものは子どもの時からの長い時間を経た記憶だったり、大人になってからも思い出と匂いがリンクして感傷的だからそう感じるだけかもしれないが、過去の記憶と思い出は消せないものなので仕方ない。日本のほうにアドバンテージがある。

今は違く目的があって出稼ぎみないな状態になっているけれど、いずれは日本に帰るつもりなので、しーんという音や雨の匂いを感じるのを楽しみにしている。