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Category: 心配事

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

高市自民党新総裁の会見待ちの記者の発言がライブ中継に乗ってしまったという記事をみた。
支持率発言についてはもう一つ、「支持率下げるような写真しか出さねえぞ」というのもあったとか。

いままで、なぜこんな写真を使うんだろう、もっといい写真あるはずだろ、と思った記事写真は数多くある。政治家はまだしも、イメージが重要でいつもはきちんとした姿を視聴者に見せている芸能人のぼけた写真や変な角度からの写真、さえない表情をした写真などは悪意のあるものだと想像していた。しかし、今日は、ああ、なんだ、意図持ってやっていたのかということがはっきりしたので、あんな写真を選んで載せたのは納得、という感じになった。メディア社員が代替わりしたら、今と違う会社・業界になっていくのかな。メディアへの就職希望者の倍率って、最近どうなのかなと思ったので調べてみる。

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外国運転免許証の日本への切り替えの要件が 10 月から厳しくなったことを取り上げるネット記事があった。外国人が困惑しているということらしい。

外国人が困惑するのは無理もない。しかし、「厳格化してけしからん、外国人が困惑せぬようにしないといけないではないか」と該当の記事が主張しているような印象を受けた。タイトルのみが目に入ってきた時は特に。
記事は、安全に運転できるように制度変更の効果を期待するという締め方にはなっているものの、外国人が困惑していることを前面に出す必要があるだろうか。これを配信したメディアは、ハードルの低い日本の外免切替を利用してルールをきちんと知らない(あるいは知っていて無視している)運転者が悲惨な事故を起こしても、外免切替の問題点を指摘する資格はない。いろいろな視点を取り上げるのがメディアであるとこの会社が主張するならば、どんな犯罪でも批判的に述べてはいけないと読者に感じさせるような書き方だ。どっちの向きに対してでも、その時に出てきたこと何に対しても批判的に書けばよい時代ではない(今日死刑が執行されたら海外では死刑廃止だといって批判して、翌日には 10人をあやめた犯人に死刑判決が出なかったとしてなぜ死刑ではないのかまた批判するように、同根の事柄について、舌の根も乾かぬうちにどっちにもとにかく批判する姿勢)。

私は、現在の居住地で日本の免許からの切り替えで現地免許を取得しているので、逆方向で外免切替の恩恵を受けている。しかし、当地の人と同じように運転している。また、当地の免許は日本で可能なような旅行者の取得はできない。住所があってビザを取得し、一定期間この国に滞在する人でないと申請できないし、外免切替の制度が停止されたりもする(この場合は、現地の人も外国人も全員が同じ試験を同じ方法で受験して免許を取得というルール)。

外免切替制度に関しては、なぜ、日本のメディが外国人の気持ちを代弁する必要があるのだろうか。

準備不足

準備不足

準備不足を痛感する。

以前は、準備しても無駄になることが多い人だった。無駄になっても足りないより良い、と心底感じていた。その後、年齢と経験を重ねると同時に重くてかさばるのに使うかどうか分からない荷物を持つのが辛くて暑くなってきたし、時代が進化・便利になったことで、さほど準備をしなくても凌げるケースがでてきたりして、準備過多より手抜きのほうが徐々に増えてきた。

準備不足は仕事のみならず、日常生活でも同様だと今日、感じた。ある場所へ手続きをしに店舗に行った際に、本来の用事が済んだあとに別件の手続きが可能かどうか質問した。その際に、〇〇を持ってきているか聞かれた。以前であれば、本来の目的には使用しなくても、もしかしてとか思って準備して持ってきていたであろうものを今日は持っていなかった。これを手抜きの結果と呼ぶのか、想像力が欠如してきたというか、単に考えが浅かっただけなのか判らないが、経緯はどれにせよ、結果的には準備不足ということになると思う。

こうしてだんだんと耄碌してゆくのだとしたら、なんとかここで食い止めたい。

頭が固くなっている

頭が固くなっている

夜遅くにある程度遠くまで出かけることになった。到着時間から逆算するとどうしても夜遅くの出発になってしまう。いつもならばコーヒーを淹れることになるのだけれど、今回は事情があってそれができないのだけれど、仕事終わりから引き続いて朝までの運転なので、コーヒーが欲しい。

私は外でコーヒーを買うことはまずないのだけれど、スタバの豆の中に自分好みのものがあり、また、私は保守的で一度いいなあと思ったものを変えるのは自分の中でチャレンジなので、豆を買いにスタバには週に一度は行く。だから、今日のように自分で淹れないとなると、スタバで買おうかとなったのだけれど、出発がほぼ夜中なので店が開いてるかが次の心配。

スタバアプリで店検索すると、行こうと考えていた店は 24 時間営業との記載があるのだけれど、変更があっても反映されていない過去経験があり、現在、私の町ではスタバの閉店もあったりするので、24 時間営業の情報は古いのではないかとの私の勝手な疑い。

結構な時間、早めに家を出ようかとか、営業時間終了後だったらそれはそれで仕方ないとか、いろいろなケースを想定した。突然、「あ、マクドナルドなら確実に 24時間じゃないか」と思いついた。完全にスタバに頭が凝り固まっていた自分に対してちょっと心配になった。これも老化現象なのか?思考の柔軟性が欠ける局面がすこし前にもあったような気がする。どんなトレーニングをしたらよいのだろうか。計画を立てずに、いきあたりばったりな行動をした方が柔軟性を維持できるのだろうか。

雨季のショッピングモールでの駐車

雨季のショッピングモールでの駐車

私が今の土地で暮らすようになって割と早くに雨季が来た。もう何年か前の話。

生活面の注意事項を会社の同僚から教えてもらったことの中のひとつに、雨季にショッピングモールに行くときは、地下駐車場での駐車を避けたほうがよいというアドバイスがあった。もちろん、停めてはいけないわけではなく、実際に停まっている車の数は乾季のそれと変わらない。しかし、長時間止める場合は考えてから停めるようにと言っていた。ひどい豪雨になると、30分で地下駐車場に水が流れ込んでくることがあるらしい。

そんな豪雨は経験したことないが、一般道からバイパスに入るための勾配のある道を走っていた時に、川のような流れの中に巻き込まれたことがあった。車で走っていたので、その地点でいつから雨が降り始めていたのか判らないので私の想像が間違いかもしれないけれど、その地点に辿り着くまでの雨量はそんなに驚くものではなかったので、あっという間に増水したような状況ではあった。

日本でも台風で同様のことがあったようなので、同僚からのアドバイスを忘れないようにとあらためて思った。

自民党総裁選でのステマ

自民党総裁選でのステマ

やったこともダメだし、そのあとのコメントもダメだろうという感想。

本人ではないので実際にどうなのか判らないけれど、しらを切っているのか問題意識が別のところにあるのか。しらを切るようなことになるなら初めからやらなければよい。「表現が行き過ぎた」という意識が本当だとすれば、今後の改善・改心も期待できなさそう。

私は年齢的にはそこそこ。新卒では大企業と区分される会社に就職し、東京に住所を持ったことはないけれど、勤務地として大都会の東京と絡む生活を送った時間がそれなりにあった。だから、個人としては自民党支持ではないものの、自民党政権によってそこそこの生活を送ることができた国民の一人だったような自覚は多少ある。そんな自覚もあってか、政権与党である自民党にはしっかりやって欲しいし、政権が変わって色々なことが急激に変わることには少し不安感を持っている。全体として良い方向か悪い方向かという心配に加えて、私の属性にとってもメリットがあるのかデメリットが生じるのかにも不安がある。年齢的には、今の世の中に不満はあるものの、あまりに大きく変化していくのは少し不安。この感情が国を変えることにマイナスなことも理解しているので、別の自分は若い人たちのために良い世の中になるためのコストを払う必要があると考えていて、受け容れる準備もある。

今回のステマ事件で感じたのは、日本は変わらないと本当にダメになってしまいそうということ。もしステマ首相が誕生すれば、次の選挙では自民党はもっと議席を減らしそう。また、ステマ首相が誕生しないとしても、もう自民党は党内や議員自分のことしか考えていないということがバレてしまったとおもう。中くらいの大きさの党がいくつか存在する体制になって必ず連立政権となるけれど、連立の構成党はその時々の国のアジェンダで変わるようなことになるんじゃないかなと想像している。

とにかく安心して暮らせる国にして欲しい。経済的にも治安でも安心でき、外交的にも安心できる国にして欲しい。

どうしたスタバ、困るかもスタバ

どうしたスタバ、困るかもスタバ

困るのは私であって、スタバが困る話ではない(実際、スタバも困るのかもしれないけれど、私はスタバではないのでスタバが困るとは書けない)。

私はスタバのヘビーユーザーと言ってもいいと思っている。店内でコーヒーを飲むことはないが、スタバでコーヒー豆を買っている。日本にいたときから好きだった味があり、私の性格が保守的な部分もあることから、現在暮らしている国でも豆は知っている味のものをスタバで買っている。なかなかチャレンジしたがらない性格だ。

私は東南アジアの地方都市で暮らしている。そこそこの規模はあるけれど地方都市。それでも、家から車で30分以内の場所にスタバが最盛期で5店舗あった。ところが、今は2店になってしまった模様。2年前に中東であらたな攻撃・侵攻がなされて以降、インドネシアやマレーシアといったムスリム国家での米系不買運動があるというのはニュースで見て知ってはいた。また、先日に私が記事に書いた一律賃上げのニュースももしかしたら業績と関係があるのかもしれない。何が背景かは外部の私には判らないが、事実としては私の住む町ではショッピングモール内のスタバが閉店し、独立店舗の2店となってしまった。

多分、ゼロにはならないとは思うけれど、もしそうなったらどうするかのコンティンジェンシー・プランを考えておいて損はないはず。ああ、どうしよう。

いつも以上にモノが手につかない

いつも以上にモノが手につかない

前にも書いたけれど、ここ数年のあいだ、持ったものを落としたり、何かを持とうとしたら別の何かをひっかけて落としてしまうとか、不注意とか握力不足(?)とかで手にモノがつかないことの頻度が10年前に比べて非常に高い。それとともに、仕掛けたように非常にきれいに手からこぼれるというか、最悪のケースになるというか、笑ってしまいそうなことが増えた。

自分でカットした野菜をジップロックに入れているのだけれど、それを落としてしまった。落としたけれど中身がこぼれなくてラッキーとか少しだけこぼれたとかならよいけれど、ジップロック容量の半分ほどが詰まったカット野菜が全て床に散らばった。ジップ側が下向きに落ちればそうなるのだけれど、床までの1mくらいの高さから落下する1秒以下の間の時間に全てがこぼれだすような落ち方をした。

これには笑った。握力が落ちているのか注意力が落ちているのか。今回は頭痛のタイミングでもあったので、脳の不具合だったらいやだなあと少し心配。注意することで解決すればほかの理由ということになるので、しばらく注意深くやってみようと思う。

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報を伝えるネット・ニュース記事が出ていた。
私は現在、日本居住ではないけれど、私が暮らす国も日本も「made in China」の共通点多数という共通点があるので、電圧やプラグ形状が異なるけれど、一応、形式の照合をしておこうと思った。

記事から簡単に対象製品を確認することができるかと思いきや、記事ページには型番の確認の仕方があっても型番の記載がなかったり、画像を何枚もめくらないと型番が出てこないページもあり、おもいのほか時間を要した。記事ページから情報にたどり着くことができたものはあるが、私が閲覧したページに限っていえば、ぱっとすぐに行き着けるものはなかった印象。

ニュースには文字数の限度とかあるのかもしれない。そこのところは知らないのだけれど、ニュースを伝えるだけで終わりにしないで、そのメーカーのページに行かなくても確認できるようにしてくれると便利だと思った。ただ、近頃はリンクをクリックするのにアレルギーがあるので、それはやはり自分でメーカーのページに行って確認してくださいというのがメディアのスタンスで、また、ウェブサイトの危険性に関する自分の感覚が正しいかをはかりながら自ら確認するのが身を守る最適解なのだろうか。

ありとあらやるものを信じられなくなってくるので、フィッシングはやめてほしいものだと思った。

西洋的価値観について考える

西洋的価値観について考える

時代が進むにつれ、解決をみる既存の問題の件数は増え、世の中は確実に良い方向に向かっていると思う。個別にみれば、新たな問題が発生しているのも間違いないし、新たな問題はかつてないほどの規模の大きな問題だったりして、もぐらたたきのようにあっちを叩くとこっちから頭を出すことはあるだろうけれど、全体としては良い方向に行っていると思うし、そうでなければ、微力ながら(?)私も改悪に手を貸していることになってしまうので、そうは信じたくない。

とはいえ、私の長くない人生の間におきていることだけをみても、日本は結構変わったという感想を持っている。理由はいくつもあると思うが、その一つは西洋的価値感の取り入れ方によるところがあると思う。もちろん、私は西洋的価値観を否定するつもりはない。ただ、なんでもかんでも西洋的価値感であったり、哲学をもたずに取り入れるのはちょっと違うと思っている。日本には日本の良さがあるんだと考えていた。

最近、ちょっと考えを改めるかもしれないと思い始めている。日本的良さは、今もこれからも大事にすべきところだという考えは変わらないが、現在のように外国や外国人との交流がより深くなってくると、付け入るスキを与えてはいけないと強く感じ、それには残念ながら西洋的価値観で対抗せざるを得ないと思うようになってきた。それが結果的に日本の良さを守ることになってゆくのだと思うようになった。

先輩方が作ってきた日本的良さを壊されるのは堪えられない。それと同時に、壊されるのを見ながら何もアクションをせず、へらへらしているのも堪えられない。攻撃的になってはならないが、攻めないと守れないというスタンスでいる必要があると思う。それは、自分がいさせてもらっている外国にも当てはまり、その国のシステムを尊重していかなくちゃ、ということをあらためて思う。

終活情報登録制度

終活情報登録制度

自治体への登録制度があることをニュースで初めて知った。

できること・できないことはこれから深く掘り下げて調べないといけないが、高い費用を払って法律事務所の弁護士とかを起用するのは躊躇する一方で、自治体へ低コストで登録が可能であって、自分に何かが起きたに自分の意思を着実に伝え、自分の資産が家族に届くような制度があることは、私にとって非常にありがたい。また、私に限らず、この制度によって多くの人が簡易に早く相続できる世の中になればいいと思う。相続問題は、相続する人がその意思を伝える方法が少ないとか意思を伝える方法が面倒だということだと思う。

自治体に登録することで、相続に関わる徴税が完璧に実行されることになるかもしれないが、そもそも後ろめたいことは私にはないので、余計な時間を掛けずに相続手続きを完遂できることが可能になるならば納税は構わない。

しかし、私がここに住所を構える前までいた自治体は、まだこの制度が始まっていないらしい。まあ、そのうち、始まるだろう。

年収を更新してください – カード会社から依頼

年収を更新してください – カード会社から依頼

クレジットカード会社からメールが届いた。カード利用枠の引き上げを検討しているので年収などの項目に回答するように、との内容だ。

メールに情報更新のリンクが貼ってある。フィッシング被害の報道や注意喚起をよく見るのに、どうして率先してクリックさせたがるのか理解が難しい。

ウェブサイトの会員ページにログインして、お知らせのようなページにこの依頼が記載されているのか確認してみたが、すぐに探せるところには通知が特にない。なので、本当にカード会社から依頼ができているのかどうか確認ができないので、リンクをクリックしないようにした。特に利用枠の引き上げがなくても困らないので今回の件はよいけれど、本当に必要な手続きだったと思うと、今のカード会社のやり方が心配だ。

技術の進化を止めることができない

技術の進化を止めることができない

人間が最新技術を追い求めるからとか、技術者が常に先進を求めて開発するとか、そのような理由で技術の進化を止めることができないということは勿論ある。この場合は、「止める権利」は誰にもないという主旨が近いかもしれない。

私は別の意味でも止めることができないと思っている。それは、止めてしまうと大変なことになるかもしれない、という観点からだ。

技術の進化によって、以前は出来なかったことが出来るようになったり、今までも出来てはいた事柄であっても、それを実行する際の負担が減って楽になったり、より多くのことが短時間でできて効率があがったりする。便利な世の中に貢献してる。

ただ、技術の用途によっては、進化した技術を人が使うほどに使い手が気を配る必要が低下し、その結果、それを行う能力が落ちることがある。能力が落ちると、それをサポートするべく更に進化させた技術が求められることになるのだが、それが機能しない場合に問題が発生する場合もあると思う。機能しないことが何も発生しないことになる「電源オン」のような場合は問題は少ないが、ストッパー的にその機能が使われている場合は、好ましくないことが起きてしまうことになる。その時に、使用者の能力が落ちていると、人の手でそれに対応することができない場合があると思う。

私が心配する典型的な例が自動車に関わる技術で、具体的には運転補助や機器回避のもの。現時点ではいずれも補助であって最終的な判断や操作は運転者に責任があることにはなっているが、実際に運転しているドライバーにとっては、これらの機能に限らず運転をするということに対するハードルが下がっていて、その結果、運転技能が下がっているし、運転しながらスマホに目をやったり、集中力に掛ける運転者が増えていると推測する。

車に関する技術がもっと進化して、絶対に事故が起きないレベルまでいけば、ボディは撥水処理した紙で造れるかもしれないし、エアバッグ・システム等の安全装置が不要になればコスト低減も可能だと思う。車が軽くなれば道路ももっと簡単に安く早く作れるだろうし、事故がなければ保険に加入する必要もなく車の保有者にも優しい。しかし、事故の自動回避完全化にはまだまだ時間がかかるというか、正直、そんな時代がくるかどうかも判らない。

また、2025 年 8 月 13 日の日経新聞記事にも私が心配するようなケースが取り上げられたいた。「大腸内視鏡検査、AI利用で医師の技量低下 ポリープ発見20%減」という見出しのもので、ポーランドなどの国際チームが英誌で発表した研究で、「医師がAIに頼ることで、やる気や注意力、責任感が低下する懸念が浮上した」ということが記事に書かれていた。

新しい技術に頼り切るのはちょっと考えものだと思う。使うほうも使い方や技術への向き合い方を認識し続けることが必要だと思う。

お尻にできた豆のせいで座るのが苦痛

お尻にできた豆のせいで座るのが苦痛

一週間くらい前からお尻が痛い。豆ができた時の痛み。

働き始めてからずっと座ってする仕事なので、微妙な違いはあったとしても、原則、座っている時間は日々でみても週平均でみても、ほとんど上下はしないと思う。ゆえに、単純に座っている時間だけが理由ではないと思うのだけど、1年に一度かそれより多少は低い頻度でお尻に豆みたいのができて痛みを感じることは以前からあった。

今回ちょっと違うのは2つあって、ひとつは前回からの間隔で、もう一つは場所の違い。

前回に起きたのは数か月前のことで、再発までの間隔がいつもより短い。痛みを感じる期間は通常は一週間程度のことで、いつの間にか治っているケースなのだが、前回は、車から降りた時に豆が破れて終了した。会社から帰り、住んでいるコンドの駐車場に車を止め、シートから立ち上がった瞬間に液体をお尻で感じた。自宅のトイレで確認すると、比較的に赤い色がはっきりした血が出ていて、ズボンにも少し血がついていた。車のシートには血がついていなかったので、多分、立ち上がる時に破れたのだと思う。シートが汚れなくてよかった。それと、右か左で一定しているわけではないものの(毎回どっち側が痛いのか記録しているわけではないので)、どちらか一方が痛かったのが、今回は中心部が痛い。感覚的には排便する場所の少し上くらい。はじめは尾てい骨が痛いのかと思った。小学生の時にドッヂボールをしていて、ジャンプしてボールをよけた時にお尻から地面に落ちた時の痛みに近かった。だから、睡眠中にベッドから落ちるなどといった物理的な原因による痛みかと最初は思っていたが、二日目だったと思うけれど、いつもの豆の痛みの場所違いだと感じるようになった。

ネットで症状をキーワードにして検索すると、毛巣瘻(あるいは毛巣洞、毛巣嚢)という炎症の症例にヒットした。そこに記載されているものをみると、どうやらこの件に合致していそうな印象をえたのだけれど、直すには手術で切除する必要があるとの記載もある。直近の豆の時と同様に、今回も何日か前に出血していたので、私の症例では浅い場所にあるものだと想像するのだが、そうすると、ネットでヒットした症例の毛巣洞の説明とは違うような気もする。しかしよくわからないのは、お尻の真ん中にできた理由。座っている姿勢では圧がかからない場所だと思われる。

一時帰国の時に、医者に診てもらおうかどうかちょっと考え中。保険証がないので10割負担になるのは痛いけれども仕方ないと割り切れるが、手術になった時には休暇日数が足りないような気がするので)。

AI に相談する

AI に相談する

日経新聞に、「ChatGPT の新モデルに「冷たくてつらい」の声 共感力低下に失望」という見出しの記事があり読んでみた。

ChatGPT に精神的なサポートを求め、依存してしまう人もいるらしい。また、AI と心理学に詳しい米国大学の教授のコメントが記事で紹介されていて、メンタルヘルスの悪化とセラピストの不足で、ChatGPT が安上がりなセラピストになっているらしい。

言われてみれば、最近みた動画のいくつかのものでも AI に悩みを相談していると言っている出演者がいたのを思い出した。たしかに、実存する人物への SNS メッセージとは違い、AI ならば既読が付かずに待たされることなく返事をくれるし(普通のインターネット検索でもそれは言えるが)、多分、自分が聞きたい返事や悩みの吐露への回答の方向性を誘導することも可能なのだろう。そうすることで、24時間7日間慰めを得られそうだ。そのようなことが必要な局面はあると思う。しかし、いつでもそれだとどうなんだろうとも思う。私にはそのような存在の友人はいないのだが、時には厳しいことを言ってくれる友達が必要だということも、たぶん、そうなのだろうと思うから。また、ネットの弊害とかでも指摘されることが多いように、アルゴリズムによって、聞きたいこと・知りたいこと・見たいことばかりが表示されると、考えや思想が偏ってしまって自分の考え方がそのまま世間の主流派と思い込んでしまうこともあるだろう。

心配なのは、誰よりも寄り添ってくれる AI が急にそうでない対応をするように修正された時に、こんなはずではないと感じたり、強く寄り添ってもらっていただけに裏切られた気分になったりして、他人を巻き込む形で何かをやらかしてしまう人が出てこないかということ。仮想世界が現実世界の方に徐々にせせり出てきているけれど、あまりやりすぎるとちょっと怖い世の中になりそう。やっぱり最後は使う方である人間がしっかりしないといけないと思う。ますます人間の悩みは深くなるかも。

おまけ目当てで食品を投棄

おまけ目当てで食品を投棄

マクドナルドのハッピーセットのおまけの話題がしばしばニュースに登場する。あまけ目当てでセットを購入し、メインの食品のほうを食べずに投棄する人がいるとか、おまけが売買ネットに出品されている、本来であれば商品の対象となるべき子どもに行き渡らないほどの買い占めが行われているとか。

以前であれば、地理的に遠くても即座に簡単に売買ができるオンライン上で売買できる環境になかったとか、何かプレミアム的なものにとびつく余裕がなかった時代であったとか(私が育った家庭だけ?)、今は堅苦しい話題のニュースよりも街中の出来事をネット警察的に報じる方が視聴者の関心を引きそうだとか、その事象や報道の背景は種々あると思うけれど、商品の主体である食品が無駄にされることは、何も最近になって始まったことではない。程度の差こそあれ、プロ野球チップスについているカードで欲しい選手のものが出るまで買ってチップスを捨てる人や、好きな模型目当てで本体が捨てられるビッグワンガムなどについて、学校の先生から注意喚起されたりしたことがあったと記憶する。チップスもガムも保存がきくのに捨ててしまうのは、現代よりも質が悪かったのかもしれない。

私は、どうしても欲しかったおまけは特にこれまでの人生で記憶がないので、高いお金を出して売買サイトで個人から買おうとしたことはないし、おそらく、今後も買おうとすることは起きないと予測する。ゆえに、自分個人の都合だけで考えれば、人の弱みに付け込むような転売に対して悪い感情しかないのだけれど、極端な話をすれば、買う人がいるから売る人が出てくるのであって仕方ないという気がしなくもない。しかし、食品廃棄はそんな感じで割り切れる話にはならない。作り置きのファストフード自体に時間制による廃棄ルールがあったりして、便利さや出来立てのおいしさの裏にはもともと無駄は存在するので、転売屋のムダのみを取り上げるのはフェアではない部分もある。しかし、それでも無駄の性質は同じではない。買い占めについては、ちょっと意見が難しい。震災時の生活必需品の買い占めはもってのほかだが、かといって、なんでもかんでも買い占めけしからん、とは言い難いところもあると思う。むしろ、買い占める人を管理するよりも、買い占めに歯止めをかけるルールを売り手が採用した方がうまくいく確率が上がると思う。ただ、代金が何百円といった商品の場合に、誰が幾つかったか逐次トレースができるようにするには売り手側のコストが見合わないと思うので、誰かが何かうまい方法を考えてほしいのだけれど、誰もかれも儲けさえすればよいという発想になってしまっているように感じる現代では、難しいのかもしれない。利己的になりすぎないように教育から見直す必要がありそう。

今回の件では、カード発行枚数がそれなりにあるため、プレミアムにはならないとコメントしたマクドナルドには、今後は何か考えてほしい。こうなることは判っていたはずだから。そうまでして集客しなければならないような企業ではないだろうにと思う。

何してもうまくいかない難しい世の中になったものだと感じる。このようなことが起こるのは、選択肢が増えたり余裕があったり、より良い世の中になってきている証拠なのだと思うけれど、不具合もまた多くなっている(でも、報道を見ていると景気は悪いはずなのでは?)。

私の読解力を心配している

私の読解力を心配している

最近の話ではなく、もう、ここ数年のことになるのだけれど、自分で読解力が落ちたことを思う機会が多い。

最近の例を挙げると、夏の高校野球甲子園大会の記事で、二つの意味にとれそうな文で、どちらの意味なのか分からない表現があった。

出典①:デイリー 「夏の甲子園 小松大谷は2年連続初戦突破ならず」
出典②:スポニチ 「 【甲子園】 小松大谷は2年連続の初戦突破ならず」

最初にネット記事で①が目に入った。2年続けて初戦を突破できなかった(2年とも初戦で敗戦)のか、昨年は突破したが今年は突破できず、2年続けての突破ができなかったのか、タイトルだけではどちらの意味か判らなかった。内容を読めばわかったのだと思うけれど、そうするまえに②のタイトルが目に入ったので、去年はいけたけど今年は負けてしまったことと理解した。

もしも2年連続で初戦を突破できなかったのであれば、「2年連続初戦敗退」というような表記になるか、あるいはわざわざ2年連続ということを強調するタイトルにしないであろうことは、冷静に考えれば想像できそうなものではあるのだけれど、私がその時に思ったのは、私のように読むのは文法上ありえないのか、あるいは、私の誤解は起こりえることで書き手側に丁寧さが欠けていたのか、一体どっちなのかということだった。私のように理解するのがありえないのであれば、私が日本語を正しく使ってこなかったと反省して済ませることができるが、他方のケースであれば、なんでそんな書き方をするのだろうという単純な疑問である。タイトルは文字数も限られていて簡単ではないことは素人でも想像できるが、スポニチは読者に判るようにタイトルをつけているのだから、むしろこれは、本文を読ませるためにわざと変なタイトルをつけているのではないかとの疑いすら生じる(本当は、そんな疑いは持っていない。書こうとすることが判っている書き手が、読者も判っているだろうというバイアスを抱いてつけた不注意タイトルだと推測)。書き手の実力不足なのか、はたまた、別の理由なのか。周りに日本人がいないので、私と同じように意味に悩んだ人がいるかどうかのアンケートを取ることができないのが残念だ。

停戦合意違反

停戦合意違反

カンボジアとタイが軍事衝突し、その後、停戦合意したものの、合意に反して攻撃が続いているという報道があった。

この手の報道でよく判らないのは、前線の部隊・兵士まで停戦の指示がきちんと行き届くのだろうか、そして、届くとしても、翌日から停戦などという短いリード・タイムで指示が徹底されるのだろうかということ。停戦合意違反といっても、実は、指示が届いていないとか(業務連絡を社内の部署へ一斉メールするのと訳が違うはず)、届いていても武力行使支持派が指示に反発してあえて攻撃を継続するような背景はないのだろうか。

統制のとれた国であれば、指示は徹底しているだろう。しかし、21世紀にもなってまだ軍事衝突するような国であれば、そもそも国や軍のガバナンスがうまく機能していないということもあるのではないか。

これは個人的な疑問であって、地球人の私としては、理由がなんであろうが停戦を合意したなら、お互いに合意を遵守し・遵守させ、違反があらたな火種にならぬように対処して欲しい。

東南アジアからも物騒なニュースが

東南アジアからも物騒なニュースが

東南アジアでの物騒なニュースが報道されている。

少し前から、カンボジアとタイとの間の軍事衝突が報じられていた。28日には、マレーシアで開催された首脳会談で停戦が合意されたことが報じられたものの、今後、きちんと鎮静化してゆくのか非常に気になるし、再度の衝突はなんとしても回避して欲しい。

停戦合意した28日には、バンコクの市場で銃撃事件で5名が亡くなったことが報じられた。ネット・ニュースのコメント欄に書き込みをしているタイに詳しい人によれば、タイが銃社会であるようなコメントが結構多いので、私は知らなかったけれど、程度問題はあるかもしれないけれどそれが事実なのだろうと想像する。

東南アジアでの事象は、報道されていないだけで(あるいは、私が目にする報道では報じられていないだけかも)実際は多いのかもしれないが、それにしても、世界中のどこも犯罪や争いがあるような気がしてきた。理由は一つでもないし、単純なことでもないだろうけれど、なんとかならないのか。

熊を駆除したことに苦情

熊を駆除したことに苦情

私は熊が出没する地域には住んでいないが、人間の居住区に出てきた熊を駆除することには反対しない。居住区に出てきたということは、もしかしたら畑に美味しいものがあることを知ってしまったかもしれない。そうすると、再び里に下りてくることもあるかもしれないし、その時に人と出くわしてしまい、人を恐れた熊が攻撃的になってくるかもしれない。山に入って駆除する必要はないと思うし、それは不可能であるけれど、里におりてきた熊を駆除するのは致し方ないことだと思う。熊よりも人間の方が生かしておくべき存在だから、人の命を助けるためには熊を駆除するのは当たり前だ、とかいう理屈で肯定するわけではないが、人間が人間側を贔屓するには仕方ないことだとおもう。少なくとも、私は熊に襲われて死にたくない。