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Category: 心配事

黒猫が目の前を横切った

黒猫が目の前を横切った

朝の通勤時に、自宅を出てすぐのところで黒猫が進行方向の車の前を横切った。
ちょうど、悪い話を報告しなければならない予定があった日だったので、何か不吉なことでもあるのかと憂鬱な気分で出勤した(黒猫に出会ったこともあったので運転には注意して出勤)。

あまりネガティブな気持ちでいるのもどうかと思い、なぜ前を横切る黒猫が不吉なのか調べてみようと考えた。曲解できそうな理由であれば、不吉であることを忘れる口実にしようと思った。逆に出る、つまり、逃げようのない確定的な理由があったら気分撃沈になるかも、とはなぜか考えなかった。

ネットで調べたところ、日本では幸運の前兆という受け取り方だというのを見つけた。いままで何十年も生きてきて、私が知っていたのは黒猫が前を横切るのは不吉なサイン、ということだけだったことを知った。つまり、自分では調べたことがなくて、テレビかラジオか書籍なのか判らないけれど、不吉だという海外での受け取り方を誰かに吹き込まれて、それのみを知ったまま今に至ったということだ。

とりあえず、悪い報告を前に少し気が晴れた。それと同時に、自分で確認するのも必要だなあと再認識した。どうでもよいことであれば自分で調べる必要がないかもしれないし、誰がそれを言っているのかによってもあらためて調べてみるというアクションは不要だとは思う。だから、多分、何の疑いもなく不吉だと思ったのだと思う。推測するところ、海外の生活様式やしきたりなどに興味があって、いろいろ調べていた大学生時代にこの認識が刷り込まれたのだろうと思う。それ以来、調べたことがなかったということだろう。

今後は黒猫が横切っても、自分の向きをかえて後ろ歩きをしながら前を横切っていない、という強弁をする必要もなくなったので、コケてケガするリスクが低減したことになる。めでたし、めでたし。

批判が格好良かった時代

批判が格好良かった時代

動画でも文字でも、報道は批判ばかり。そんなこというなら、お前がやって全て解決してみろ、と思ってしまう。以前に私が勤めていた会社では、OKY = Omaega Kite Yattemiro (お前が来てやってみろ)という言葉が十年くらいまえに流行っていた。

会社において私がちょっと弱い点は、他人ができないことに対して意見を言うには自分がそれをできるという前提があること、と気持ちがあることだ。だからコメンテータ的な発言はしたくないし、また、批判的な意見を持つことも頻度的には低い。報道で批判ばかり目にすると、なぜ、あの人は批判ができるのだろうか?と疑問に思う。

私なりの推測としては、年代が上の方で批判が多めの人は、批判することがカッコよいとされていた時代に多感な若者時代を過ごしていた人なのではないか。学生運動をしていた人が登場する動画をたまに目にすることがあるが、学生時代の批判は思想に基づいていたものではなかったので、就職とともにそれまで主張していたことはどうでもよくなったというようなコメントをみたことがある。商売でも製造でもサービスでも、勤め始めると自分の仕事に注意が注がれてきて、それぞれの価値観をアップデートしながら生きてきたのだと思うけれど、そうではなくて、メディアに就職してしまった人の場合、世の中から取り残されて今でも批判精神を維持している人がいるのではないかと想像する。メディアは批判するのが仕事、という概念を持っているのではないだろうか。

多分、いまそれなりの役職にいる人々がそのような世代の最後の人々ではないかと思う。世代交代とともに報道ぶりも変わることを期待している。だが、報道を見ていると、とてもフォーマット化されているのが報道のように私は感じているので、人(世代)が変わってもスタンスはあまり変わらないような気もする。受け手側が主体的に考えればよいという意見には私も同意する。だが、そうであれば、よけいに流す方が変革する機会が来ることはないのではないか。需給のミスマッチは本来、それが廃れて新しいものが生まれる機会になるのだろうけども、こと報道についていえば、延々と続きそうだ。

水のはね方

水のはね方

肉類を切った包丁やまな板の洗い方が原因になって、家庭内で食中毒になる例を紹介する記事がネットに定期的に上げられる。変なことになりたくないので、使用した調理器具の扱いは私も適度に気を付けているつもり。

私が最近に感じることの対象物は、スーパーでパック入り販売されている肉類のトレー。トレーから肉を取り出したあと、ゴミ箱に入れる前に水洗いするのだけど、シンク内にトレーを置いて蛇口の水を上から流してトレーに一旦水を溜める。その時、水流をどう調整しても100%の確率で水が跳ね返ってくる。シンク内への跳ね返りであればシンクを掃除すればよい話しだけど、着ているものにも跳ね返る。夜や休日はよいのだけれど、出かける前で微妙な跳ね返り量だと着替えるべきかどうか悩む。

悩みはよいとして、シンク底と同じ高さからの落下水なのに、シンクからの跳ね返りは数センチな一方で、トレーはシンクの深さを超えて高く水を跳ね返す。シンクは平面、肉トレーは凸凹している違いはあるが、はたしてこれだけが跳ね返す高さを変えるまで影響を及ぼしているのか不思議。水流の最初の段階では角度をつけて洗い流せばよいのだけれど、毎回、今日こそはと思って実験するけど毎回跳ねる。不思議だ。

最近の風潮に同調するつもりはないが…

最近の風潮に同調するつもりはないが…

テレビに影響されることもあるから、ということで番組作りに聖人君子的なものを望む人が一定数いることは、ネットニュースなどを見ていると認識している。それに対する私のスタンスは、ある程度の理解を示すものの、それが正しいとは思っていない。受け手側にも責任はある。

とはいえ、そんな世間の風潮に同意するときもある。タレントが海外ロケにゆく動画を見た。その中で、東南アジアの屋台をバックにしていた場面があって、見知らぬ現地の人から何か飲み物を差し入れされる場面があって、それをタレントが飲んでいた。そういう仕込みであれば問題ないけれど、他人からもらった飲み物を飲んでしまうシーンに危険な感覚をもった。つい最近も、中学生が知らない人にジュースを渡され飲んだら体調が悪くなった、という東京の事例がニュースになっていたばかり。愛想のよい東南アジアの人からもらったものを飲んだ場面が動画にあったからって、実生活で同じことを実行してよいわけではないし、そんな発想にならないように親や大人が教えてあげるべきだとは思うものの、こういったシーンはテレビで見せないほうが良いと感じた。

のどの渇き

のどの渇き

この 2-3 か月の間、のどの渇きをいつになく感じていた。

学生時代に運動部に入っていたころは、昭和よろしく練習中に水分摂るなに加えて砂糖の入ったジュース禁止ということもあって、水分をあまりとらない生活をしていたイメージがある(ジュースを買う余計なお金もなかったし)。大学を卒業して働き始めてからも、アルコールを除けば水分をあまりとってきた覚えがない。それと、昼間に水分をとる時はもっぱら暖かいもの(ほぼコーヒーのみ)ばかりで今に至る感じ。

ところが、ところが、ここしばらくはのどが渇いて仕方なかった。昼間は、暖かいコーヒーをここ数年と同じくらいの量を飲み、食べ物からとる水分についても特に食べるものが変わった感じもないのだけれど、夜になるととてものどが渇いていた。口をあけて眠っていてのどが渇くのではなくて、帰宅してから眠るまでの間の夜間のことなので、物理的な理由からの渇きではないと思う。毎年の成人病検診では尿酸値に異常はなかったので糖尿病ではないと思うけれど、次回のドックでどのような結果がでるか注視が必要だと思っている。この点、食べすぎ・運動不足なことは否定できないものの、今年急に食べすぎてるわけではないので(それはそれで問題)急に喉が渇くとも思えない。

そうこうしているうちに、先週から渇きがピタッと止まった感じ。元に戻った感じがあるのはいいけれど、何かが突然に変わるのはそれはそれで心配。何か小さなことが大きな変化になりうる年齢になってきたということで、とりあえず整理しておこうとは思う。

個人的な日記というか記録というか …

就職氷河期世代への支援

就職氷河期世代への支援

氷河期世代への支援をテーマに出演者が話し合う番組を動画でみた。どんな結論だったか忘れてしまったけれど、議論のなかで新卒で失敗してもやりなおせる社会に変えてゆくことが大事という意見を言っていた人がいた。

氷河期時代に新卒で非正規からはじめた人には今でも厳しい社会であると想像するけれど、新卒で正規雇用された人については、転職に対する労使双方の見方が変わってきたことで、以前よりはセカンド・チャンスの機会は創出されていると思う。

以前よりましだからいいじゃないか、というつもりは毛頭ないが、新卒への教育に掛けた決して小さくないコストで自社仕様に育て上げた社員がいるので、なぜセカンド・キャリアで採用するかといえば、多分、専門知識を持っている人があらたに自社に戦力として入ってきてくれることを期待してのことだと思う。

日本の新卒採用で私がよいと思っていることは、大学で学んだことと違う分野で採用・配属が行われること。デメリットもあるけれど、よい点のほうが上回っていると私は思う。大学の専攻と関係ないからこそ、配属後に OJT で徹底的に鍛える必要があるし、一人前になるまでに結構なコストがかかっていると思う。この状況を変え、セカンド・キャリアの流動性をあげようとすると、セカンド・キャリアで入ってくる時は勿論のこと、社員教育にコストをかけないとすれば、新卒の時点でも専門性を身につけた人を採用しようとするだろうし、専攻分野によって就職先が限定されてきて、新卒の門戸や選択肢が狭まる結果になるような気がして、そっちの方が副作用が大きいように思う。これが極々一部の大企業にのみ当てはまることで無視してよい話ならばよいが、私には専攻と関係ない会社に勤める機会があることは結構、重要なことだと思っている。また、何か単一分野の仕事はしてきたが、その分野でのスペシャルな技能がない人の場合、何年経験をつんだとしても職種が高度化することもないだろうから、昇給する機会も少なそう。スキルが上昇しなければ、身に着けたスキルでキャリア・アップ転職の機会もなく、もし転職をするならば、同じ仕事でちょっとだけ待遇がよさそうな会社を見つけた時にしか起こらなそう。

氷河期とかセカンド・チャンスとか関係なく、全ての国民が最低限の生活を送れことができる制度や仕組みのある国にしてくれるのが一番ということになるのだろうか。年代や性別、住む地域などで不公平のない社会、かといって結果を出せた人とそうでない人とが同じ処遇を受けるのではなく、頑張った人はその報酬を得ることを誰にも邪魔されない社会。それと、今ある色々な問題の多くに共通すると思うのだけど、教育が非常に重要だと思っている。

ゲノム編集について専門家発言・・・歯止めはどこ

ゲノム編集について専門家発言・・・歯止めはどこ

ゲノム編集をテーマに人があつまって話している動画を見た。専門家一人と何にでも発言する、その番組のお決まりのコメンテータが出演していた。立場が変われば意見が変わるだろうし、理解度が違えば人によって見方も違ってきて当然の話。しかし、専門家の発言で引っかかるものがあった。普段、私が動画を見る時は、違う意見をいう人であっても一人突っ込みしながら楽しく見解を聞くことができるのだけど、このときだけは違った。

医療分野などではよくある話であるが、倫理との関係についての話題になったときに、悪用される可能性もあるので十分に議論してから技術的な検証に進むべきみないな意見が出てきたときに、その専門家は、「とりあえず作らせろ。それから考えたらいい」と言った。

正直、気持ち悪い意見だと思った。あまりそんな感想を持つことがない私だが、気持ち悪いと思った。同時に、研究してはいけない人ではないかと感じた。「作ったんだから、とりあえず使わせろ」と次に言いそう。実際に要求するようなことはしないにしても、「とりあえず作らせろ」という発言をする人を信用することは私にはできない。私が多数派かどうか判らないけれど、そういう発言をする人がいる以上、私個人としては危険な研究だと思った。

センサーが水を流してくれるトイレ

センサーが水を流してくれるトイレ

トイレは人生で非常に重要な施設だと心底思う。心地よく使えるか、使えないか、漏らしてもよいから使いたくないとまで思う施設か。

困っていることの一つに、自動水洗がある。これが便利だと思ったことが人生で思ったことがない。誰が触れたか判らないボタンを押して流すのには抵抗あるが、ちぎったトイレット・ペーパーを使ってボタンを押すこともできるので回避策がある。

しかし、まだ座っている時や、姿勢を少し変えただけで反応して流されるのは好きでない。そういう場所に限って水流が強く、背中やお尻にしぶきが飛んでくるようで怖い。

たまに都会に買い出しに行く時に、決まって利用するトイレがある。そこは、清掃のレベルが安定しているので、特にきれいというわけではないが、使いたくないほどひどいときもないので、家からの長距離ドライブから目的地に到着したら、必ず使用している場所。ここも例外なく、自動水洗なのだけど、この前に気づいたのは、センサー部分にシールで目隠ししてボタンを押さない限り水が流れないように細工してあった。そうか、これかと思ったが、そのために、いつ使うか判らないシールを持ち歩くわけにもいくまい。しかし、目隠ししてあるということは、私と同様に自動が迷惑だと思っている人の人数がそこそこいて、意見としてそのトイレの管理者が取り入れたということは、エポック・メイキングなことだ。

今はそうでもないが、以前に仕事をしていた国では車で移動することが多く、トイレも死活問題だったことがある。例えば、扉をあけた瞬間に便意が吹っ飛んだトイレに出くわしたことも一度あるが、トイレについて心配することを長期間続けていると、長距離でトイレを使いたくないと思う決意が強すぎるためか、目的地や知っているトイレにつくまでの間は、なぜか便意を感じなくなる条件反射のような体質になったりする。水分を控えていたわけではないのにだ。

人体は神秘だ。

大使館からのメールが不審メール認定される

大使館からのメールが不審メール認定される

居住届を含めて、在外公館関係に私的情報を登録する際は、メールアドレスは会社のものを登録するようにしている。私信用にメール・アドレスを持っているが、確認する頻度はそれほど多くない。一方、大使館からのメールは、日本人学校の教科書配布といった直接関係のないメールに交じって、見落とししないほうがよいものもあるし、安全にかかわる周知情報で緊急性のあるものも10年に一度くらいはないとも限らないので、目に触れる機会がより多い会社アドレスを登録している。

そんな大使館からのメールが、最近の会社のセキュリティ・レベルのアップデートが理由なのか、ジャンク認定されるようになった。単純にジャンク・メール・ボックスに配信仕分けされるだけならばいいのだが、話は単純ではない。現在、会社のメール・アプリで起きているのは、メールをクアランタインに回したので、受信トレイへの配信を希望するならばここをクリックするように、というポップ・アップが現れる。その先も、受信トレイへ配信される場合と、なぜこのメールが必要なのかをIT部署へ届け出されて、その理由が受け入れられればクアランタインから解放する、という二通りのステップに導かれる。

良からぬことをするメールを水際で食い止めてくれる機能はありがたいのだけれど、受け容れてよいメールとそうでないもの、成りすましの可能性のあるものの判定を高度に下せるような知能を IT が身に着ける時代にはどれくらい時間が必要なのだろうか。防止する側と突破しようとする側のイタチごっこでそんな時は来ないんだろうなと思いつつ。

私の感覚では野球は習いごとではない

私の感覚では野球は習いごとではない

今年1~4月のスポーツ教室の倒産件数は、過去 20 年間で最高になったとのこと。半期でも四半期でもない4か月単位ということで、過去最高になりうる期間で選択してニュースにしたような感じもするけれど、それが正しい疑問だとすれば、単月の倒産件数として4月が高かったのだろうと推測する。そうすると、4~6月四半期は過去 20 年間の四半期として最も多いという報道が7月くらいには出るかもしれない。

それはそうとして、昭和の時代に田舎で育った私にはスポーツ教室という概念が難しい。水泳など設備が必要なスポーツであれば、プールがある場所に通って誰かに教えてもらうということは理解できるけれど、サッカー教室とか聞くと、それは教室なのか?と疑問に感じる。言葉の定義の問題ではあるのは想像つくけれど、サッカーと教室の親和性がないのが私の感覚だ(私と違う感覚の人がいて当然だと思っている)。

もっと私の感覚と異なるのは、「野球を習っている」とテレビのインタビューなどの動画で語っている子どもの発言だ。野球は(だけではないが)習うものではなくて、野球で遊びながら工夫してみたり何かを変えてみたり、ほかの人のやり方をまねしてみたりして上手くなったり何かのコツを掴むものであって、習うものではないと感じる。それは、「習う=受け身」という私固有の言葉の定義からくる違和感であると思うけれど、でも、でも…

昭和の田舎の子どもは休耕中の畑なんかでスポーツできたけれど、時の流れとともに空き地がなくなり、あっても球技禁止とかなり、学校の校庭ですら下校後は使えなくなり、「教室」と呼ばれる提供される場所でやるしかなくなってしまったわけなのだけど、この環境の改善に貢献するために私個人に何かできることはあるだろうか?

証券口座の取っとられ問題

証券口座の取っとられ問題

タイムリーな例として証券口座を挙げらることができる乗っ取り問題に関して、本当にいろいろと心配になってくる。これまで、いろいろなことを犠牲にして得た、何十年か分の労働の対価が盗まれるリスクにさらされている状況を非常に憂慮している。

サービス提供側からのセキュリティ対策は更新されている。ありがたい。不便になることもあるが、資産を奪われるよりはよい。でも、うまく作動しないものもあったりするので、それは改善して欲しい。

ひとつ、やって欲しいことがある。
ログイン履歴情報を自分で確認できるようにして欲しい。私が登録しているウェブサイトで利用するサービスのうちのいくつかでは、「前回ログイン日時」がデフォルトで表示されるページがある。これを、全てのサービスで共通の項目にしてもらえると、不審がログインの有無が確認できてよいように思う。このとき、前回ログインのみでなく、過去1か月とかの履歴を確認できるページを設定して欲しい。

ただ一度の不正ログインで乗っ取りや盗みが実行されてしまう場合は、不審なログインを後日に確認できたところで証拠にはなっても防止にはならないが、それでも履歴の確認ができないよりはましだと思う。不審なアクセスやログインがあれば、パスワード変更や追加的なセキュリティ策の導入への動機付けになる。資産が関係するウェブ・サービスの運営会社に問題提起をしてみようかなと思う。

朝起きると、右手人差し指が痺れている

朝起きると、右手人差し指が痺れている

3日くらい前の起床時に、右手の人指し指が痺れていた。目を覚ます少し前から右手が体の下に入ってしまって、ちょうど痺れていた時に目覚めたのだろうとその時は思った。たまたま寝相が悪かったと。

ところが、昨日も今日も起床時に指がしびれていた。

とりあえず、事象をネット検索するとそのワードでヒットするので、例のあることだとは理解した。
自分がどのパターンなのか、しばらく状況の推移を見守ることとする。

なりすましメール

なりすましメール

勤務先の社長の名をかたったなりすましメールが届いた。届いた先は会社ドメインのメールではなく、個人使用のgmailのアドレスだった。

本来は良くないと知りつつも、作業に使うアプリの関係で、私用パソコンを使って仕事に関する作業をする場合がある。その時に、作成したファイルなどを会社パソコンへ戻すために、私用アドレスから会社アドレスにメールを送るケースがある。

勤務先の社長の名前をかたる迷惑メールが私用メールアドレスで受信した背景は、この会社PC と私用PC との間でデータ授受するために使ったメール位しか想像つかない。ほかにあり得る方法としては、私用アドレスを使って登録している LinkedIn で得られる勤務先企業名から紐付けられたのかもしれないが、そんなにマニュアルチックな工程をかけて迷惑メールが作成されるものだろうか。もっと、手間暇かけずに一目みたら偽物とわかるような、百万人に一人くらいの確率で引っかかればよいという感じの質の悪いものが迷惑メールだと思っていた。自動生成とか同じ文面の大量コピペとかで迷惑メールが作成されているわけではなくて、結構、手間暇かけて作られているのかなと想像してみた。

4月14日の記念日
・SOS の日:1912 年にタイタニック号が世界で初めて SOS 信号を発したとの誤情報による
・ピロリ菌検査の日:ピロリ菌が発見された日(1983年)
・椅子の日:「4 1 4」を「よいいす」と読んだ語呂で。大阪の会社が制定。

Googleアカウント・エラー:「この電話番号は確認に使用できません」

Googleアカウント・エラー:「この電話番号は確認に使用できません」

東南アジアの国で、旅行に使えるように携帯電話のプリペイドを購入した。旅行中に必要となるアプリやウェブサイトでの登録のうち、あまり信用がおけそうにない場合はプリペイドの番号にしようと思い、ついでにGoogleアカウントもプリペイド番号で作ることにした。

一通りのアプリ設定を終えた翌日、「アカウントへのログインで問題が発生した」ため、再ログインしようとした。端末から本人確認を求められたためその手続きを進めていった。パスワードを入力すると、「このアカウントで通常と異なるアクティビティが検出されました。テキストメッセージで確認コードを受け取るための電話番号を入力してください」と指示されたため電話番号を入力すると、「この電話番号は確認に使用できません」ときた。

このエラーをネットで検索すると、「不正使用から保護するため、1 つの電話番号で作成できるアカウント数に上限を設けている」というGoogleの理由説明に到達したのだが、新規に取得したプリペイドで取得したGoogleアカウントなので、この説明に全く心当たりがない。Googleではない一般サイトに、このエラーに対して言語を日本語から英語にして再ログインするとエラーが解消するケースがある、というのを見つけたて試したのだけど、だめだった。

なんとなく、購入したプリペイドの番号が他人に使われているような気がするので、この番号を使うのはやめようかなと思っている。

お葬式とお墓の話

お葬式とお墓の話

少し前に葬式に係るネット記事があった。どんな内容だったかは覚えていないので、一般的な話だったのだろうと思うけれど、その記事をきっかけに、葬儀と墓に関する自分の考えはどうだろうと考えてみた。自分の葬儀を死後に自分で設計できないため、もしも自分の希望を一部でも反映してもらえるならば事前に伝えておくしかないと思い、何が自分の希望が整理しておこうと感じた。

まずは、大きく費用を掛けて見栄えをよくしてもらう必要はない。人を呼ぼうとすれば、それだけ変動費が総額として増えるし、普通は葬儀は突然のことなので、多くの人に日程調整してもらうほどのことは申し訳ないので希望しない。また、固定費的なコストについても特に見栄えをよくしてもらうのは無駄遣いのような気がして、これも希望しない。

都合をつけてまで葬儀にきてもらいたいとは思わないのは既述の通りだが、私がこの世から去ったことはできるだけ多くの人々にお知らせしたい。どうやったらそれができるか考えているところだけど、生前のお礼と死亡の通知を兼ねた短いメッセージを準備しておいて、送ってほしい人たちのメールアドレスをリスト化しておくのはどうかと思っている。家族には、葬儀の手配よりも面倒になるだろうけれど、葬儀に費用を掛けない分は迷惑料してお金を遣ってもらうことで勘弁してほしい。最新のメールアドレスを知らない人の多くは海外にいたときにお世話になっていた人なので、その会社の総務・人事関係の部署に案内を出したら、そこからある程度の範囲の人には連絡を展開してもらえるじゃないかと期待する。

ちょっと面倒なのは、お墓の話。誰が一緒に入ってくれるか、自分が建てる必要があるかなどの視点もあるが、私の心配はメンテをどうするかということ。そういう意味では、都心の納骨堂がいいと思っている。メンテの心配が少ないし、都心の納骨堂であれば、何かのついでに寄ってみようという気持ちになってくれるかもしれない。本当は、いくつかの思い出の地に散骨してもらいのだが、知り合いに黙って死んでいって、葬儀にも呼ばず、眠っている場所を固定化させた墓もないと、あまりに身勝手なような気がしなくもないので、もしも、会いにきてくれる人がいるとすれば、納骨堂のような場所があるとよいと思っている。一部は散骨(そのための旅費は葬儀代を節約してもらって全く構わない)、残りを納骨堂を希望。

年齢がそれなりになってきたので、有効な形で意思を伝える意味で遺言の準備を考え始めている。相続できるような金銭や資産はそれほどないので、その意味では遺言に意味はあまりないのだけれど、葬儀にお金をかけるのはやめて、ということは私の希望として残しておきたい。そうでないと、こんな地味な葬儀では私がかわいそう、とか言ってくる人がいないとも限らないので、そこは私の意志だったことを証明するためにも正規の書類が少しは役に立つのではないかと思っている。

やってしまった

やってしまった

落としちゃいけないと思っているそばから、やっちゃいけないイメージの通りに手にしたものをこぼれ落としたりぶつけてしまうケースが増えてきたことを、少し前に記録しておいた(慎重にやってるのに手からこぼれる – Journeyman : Blog)。この事象は最近始まったことではなくて、これが起こり始めてからも普通に生活を送っているので、脳に異常があるとか重大な何かがあるとかではなく、老化や注意不足が原因だと自分では思っている。よって、何かをするとにきは、いままで以上に手元をきちんと見ながら作業することで解決するかを見守るつもりでいる。

そんな中、今日はいままでとは違うタイプの失敗で、かつ、そのタイプの失敗としては非常に久しぶりのことをしてしまったので、後日のために記録しておく。

鼻うがいをしようと思い、水に溶かして使用する生理食塩水の元(粒体)を手に取った。この粒体は、一回分の使用量の個別包装に入っていて、その包装を引きちぎった。そのあと、引きちぎられたほうの包装ゴミを捨てようとしながらも、なぜか、逆の手に持っていた粒体がまだ入った状態のもう一片のほうの包装をゴミ箱に向かって傾けてしまった。ゴミ箱にドサッと捨てたというよりも、コーヒーに砂糖を入れるときのように、袋状になった包装を傾けていたので、本来は溶解するために水が入ったボトルに対してすべき動作をゴミ箱に向けてやってしまったような形だ。

朝食を食べたあとの出来事だったので、起床してから30分以上たってからのことだから、寝ぼけていたのは原因ではないだろう。ボケの始まりか。なんだろう。入浴中に手に取った洗顔料を髪につけて洗髪しそうになったことはあるが、それは1年以上も前のことで、この手の事件は久しぶりだ。また、鼻リンスについていえば、もう何年もの間やってきたが、こんなことは初めてだ。次に何しようと意識をさほど使わずにできるタイプの行動の時にこんなことをしでかしてしまってびっくりだ。

明日は、起きて30分後の血圧を測って、夜や昼の血圧と比較してみようかな。