短期業績を出し続ける

短期業績を出し続ける

外国人経営者と聞いてイメージするのは、株価を上げることを最大の関心事にしていそうだ、ということだ。海外の企業では外国人経営者が当たり前なので、あまりに乱暴な分け方の表現になってしっているけれど。

将来性が株価に反映されているという見方はあるものの、株価を上げる=短期的な施策に注力する、というイメージの方が強そうに私は感じている。株価を気にするあまり、近視眼的なアプローチをとりがちになり、自分のいる間の業績さえ良ければあとのことは知らない、業績連動の報酬という個人でのベネフィットも得られる、というスタンスになってしまうのではないかと。

ただ、最近はこの考えが間違っているのではないかと思うようになった。

まずは、経営者は自分の任期の間に結果を出すべきであって、長期ビジョン云々いっても、その結果が出る頃にはご本人は経営の一線にはいないであろうから、検証できず結果責任を問われることもなく無責任この上ない。そうであれば、聞こえのよい夢物語を言っても許されるし、メディアも夢物語を取り上げてワッショイ記事を書きやすいだろう。

また、短期・短期で全力で結果を出すことを繰り返すことで、それが長期に結果を出し続けることにつながるのではないかと思い始めた。それには、多くの日本企業が行っているような業績予想を開示するのをやめることもセットとする必要がある。なぜ、年度が始まる前から業績予想を出す必要があり、また、その予想に憑りつかれたように益出しのために優良資産を売却したりしないといけなくなるのか。業績予想こそ、市場に予断を与える情報ではないか。

会社がおかれた状況や業界、時代や景気動向などが変われば最適解も異なるだろうから、簡単に結論づけられる話ではないが、短期で利益を出して社内で勝ち癖をつけることや、市場や取引先からの見え方を変えてゆくことにつながる施策は経営者がこだわるべきところだとは思う。

テレビのニュース番組が好き

テレビのニュース番組が好き

テレビやYouTubeなどの映像でのニュース番組が好きだ。新聞やネットニュースも読むが、出演者が話し言葉で意見を付け加えたり、新聞のような記者一人の切り口とは違って、進行役や専門家、ゲストやコメンテータなど複数の出演者間のインタラクティブなやり取りを観るのが楽しいので、ニュースといえばどちらかと言えば映像系が好きだ。

客観的な報道内容ではない出演者の意見・解説的なところでいえば、おそらく、テレビの人が言っていることの半分以上に同意できていないか納得できていない。それでも観るのが好きなのは、私の性格が、自分とは相容れない見解を聞くことが好きだからなのかもしれない。そんな考え方もあるのかと発見したり、これはこの人の本当の意見なんだろうかと心配してみたり、自分が詳しい分野の話題であれば、間違ったことを視聴者の前でよくそんなに流暢に喋れるもんだと感心したり、普段の生活であまり感想を持つことがない私が、こと映像系ニュース番組が相手となると、毎分毎秒、感想を持ててしまうくらいに好き(ちなみに、今までよりも多くのことに対して感想を持つことを、私は2025年の目標にしている)。

好きではあるが納得していない部分もある。そのうちの一つとしては、コメントや解説が目の前にあるニュースに対してのみ行われ、別の機会に別の切り口で同じ案件を報じる時には、それ以前のコメントと矛盾する発言をしても、何の疑問も感じずに報じているように見えることだ。もちろん、テレビの人たちに聞き取り調査したことはないので、矛盾を感じつつも台本に合わせて不本意ながら発言しているかもしれない。とはいえ、ウクライナ・ロシア戦争の件の場合、両国兵士の戦死者に関する痛ましい状況を説明し、攻撃を止めさせない限りこの状況は止まらないようなことを言ったそばから、本戦争に対するトランプ大統領の対応はけしからん、のようなことをコメントする。国際関係の裏で何がおきているか一般人の私には知る由もないが、戦争を止めたいと本気で望んでいるのは、ほかの誰よりトランプ大統領のように私には思える(日本での選挙権を持つ日本国民である私は、トランプ大統領を支持・不支持する権利はないので、報道を通じて見えている部分だけからの個人の感じ方)。戦争を止めさせたいということは、ごく一部の例外を除いては殆どの人たちの共通の望みなのではないかと思う。しかし、テレビの人たちはトランプ大統領のすべてを否定することを述べるか、または同意できそうなところには触れないようにしながら大統領批判を展開しているように見える。

これは一例であるが、全体に対して思考をめぐらすことなく、目の前のことに対してのみ反応している人を見ると、私の場合は見ているこちら側がつらくなる。テレビのニュース番組は、「ニュース・ショー」だと思ってみればいいのだけれど。

あいまいな記憶

あいまいな記憶

作家の曽野綾子さんが2025年2月28日に逝去されたことが報じられた。曽野さんの作品でいえば、太郎物語を読んだことを覚えている。大学受験勉強のころ、学びたい学部が地元の大学にはなかったため、大学生活は一人暮らしになるだろうというのが想像できたのと、名古屋にある大学を志望して時期があったことからも、太郎物語を手に取って読んだのかもしれない。名古屋・栄の夜は早い、というのをなんとなく覚えている。

しかし、よくよく考えてみると、高校時代の部活現役の間は部活中心の生活を目一杯していたし、引退後は受験勉強に振り切った生活をしていたので、本を読んだのは高校時代だったっけ?と思い始めた。高校生の時は、本を全く読まなかった頃か、本を読むなら単語帳とか参考書だった期間のどちらかだったと記憶する。大学入学後は授業の予習が大変だったが、それでも時間はあったので、もしかしたら入学後の記憶か?そうすると、結局、名古屋の大学は受験すらしなかったので、名古屋で一人暮らしをすることを想像して読んでいたのと辻褄が合わなくなってしまう。

記憶が定かでないし、記憶を呼び戻したところで今日の生活に何か影響が出るわけでもないので、この辺で記憶回復作業を止めるけれど、結論としては、記憶は非常にあいまいで、かなりの確率で書き換えられている恐れもあるからこそ、勝手な思い出の中で生きてゆけるんだろうなということだった。

高校無償化

高校無償化

自民党、公明党、日本維新の会の3党が教育支援金の見直しについて合意する文書に署名したことをメディが報じている。

ニュース番組を見れば専門家と呼ばれる人が色々と解説してくれているし、新聞では記者が内容を報じ、ネットニュースのコメント欄には一般の人々が各自の意見を披露しているので、いろいろな人が様々な考えを持っていることを理解する上で参考になった。

私が高校受験生だったのは何十年も前で、また、高校卒業とともに地元を離れたので今の動向はしらないが、私はいわゆる地方で育ち、地元の私立高校は市に一校づつといった感じだった。都会のように、教育方針や校風を理由に私立を選ぶというよりも、第一志望の公立高校に落ちたとか、特定の部活に入ることが目的で私学に進むケースが多かったように思う。公立に落ちて期せずして私立に通う場合には、支援金は有難いはずだと思う。一方で、私立を第一志望に選ぶ受験生が多くない地方の場合においては、成績優秀者には特待生制度を用意して学生を集めようとする私立も多いと思うので、支援金が効いてくる高校生の割合は、地方では都会よりも低いように想像する。支援金は、私学の中でも多くの選択肢が存在する都会において、より価値が出てきそう。

私は、地方で育ったあとに、そこからは距離も生活文化も結構離れた地方都市で大学時代を過ごし、就職で東京に出てきた。お上りさん的に双六の目を進んできたが、私個人はそれがよかったと思っている(ほかの人生を経験していないので、自分の経験がよかったとしか思えない、ということもある)。だけど、この教育支援金のニュースを聞いて考えたのは、都会と地方の教育機会格差を広めたり、それが廻り回って都会への人口集中が収まらない原因になったり、そこから少子化になったりするのかもしれないなとと思ったりした。

自分には高校生の子どもはおらず、また、将来に高校生になる年齢の子どももいないため受益者になる予定はない(今日時点)。さらに言えば、ここ数年は日本で納税していないため、教育支援金の原資を提供する側にもなれていない。だけど、教育は国づくりの基本だと思っているので、どうしても気になる。

3月3日はひな祭り
頻繁に手を動かしながら話す

頻繁に手を動かしながら話す

YouTubeを観ていたら、そこで話をしてくれる人が、始終、手を動かしながらしゃべっていた。大きさを説明したり、形を表すために手を使っているわけではなく、発言と手の動きが連動していない形で手を使っていた。

大学生の頃(何十年も前)、外国人と日本人の違いについて書いた本を多く読んでいた時がある。その時の記憶では、話すときに手を頻繁に動かす人は、海外では(その時はアメリカでの例だった記憶)知性的に見てもらえないという解説があった。YouTubeでこのことを思い出して、ネット検索してみたところ、手ぶり身振りを交えたほうがよいという説明が検索ページの上位の方に多かった(エネルギッシュとか、よいイメージを与えるという意見)。

昔の情報が嘘だったのか、時代が変わったのかわからないけれど、日本語で検索する限りは上位は手を動かした方がよいということだった。
でも、私は、人前で立ってプレゼンテーションをしたりするような時などのいくつからのケースを除いては、今後も手を無為に動かさないよう自分は話したいと思っている(他人が手を動かそうが構わない)。

ついたち、朔日、一日

ついたち、朔日、一日

今日は、ついたち、3月1日。

毎月ついたちは、丁寧に過ごしたい。ついたちを丁寧に過ごせると、その月はよい月にできるような気がするというか、むしろ、その月をよくしたいので、一日は特に丁寧に過ごす。毎月、元旦を迎えているのと同じ。

もともと験を担ぐところはあった。多分、学生スポーツをそれなりに真剣にやっていたことが影響していると思う。スポーツと「験」は、「高校・大学受験と験」と同様に相性がよいと思う。それと、切りがよいという意味でも、ついたちを丁寧に過ごしたいと思っている。別に、気分転換しないとやってられないようなひどい日々をいつも過ごしているわけではないけれど、切りがよいとか何かのきっかけを大事にしている。同時に、切りがよいタイミングが近づいるときは、その日がくるまでは暴飲暴食・自堕落な生活をしたりする。

だいぶ話はそれたが、もうちょっと残っているついたちを無難に過ごしたい。

ピボット・テーブル間の連動を解除

ピボット・テーブル間の連動を解除

エクセルのピボット・テーブルに関する長年の悩みが一つ解決した。

その悩みとは、同じ元データを引用したピボット・テーブルを、1つのエクセル・ブックに複数作成したい場合のこと。1つのテーブルで処理するには変数が多すぎて見ずらい時や、特定の目的があって1つの元データを複数の方法でピボットしたい時のこと。具体的には、一方のテーブルを更新すると、他方のテーブルが意図しない反応をしてしまうこと。
エクセルでの悩みの解決策については、たくさんの人たちがネット上で教えてくれているのであるが、このピボットの悩みはしばらく解決させることができなかった。いくつかのことなる言葉で検索するも、この問題を解説するサイトにたどりつけなかったのだが、ついに、とうとう、出会うことができた。非常にうれしい、すっきりした。

判ったこととしては、悩みの原因は「同じデータソース(ワークシート内のセル範囲またはデータ接続)に基づくピボットテーブルはデータキャッシュを共有します」(マイクロソフトのサポート・ページ上の説明)ということで、それに対する解決策は、この「共有」を解除するか共有しないようにテーブルを作成すればよい、ということのようだ。

これが判明してあらためて「ピボットテーブル」「キャッシュ」でネット検索すると、いくつもの説明サイトがヒットした。「一つのデータベースで複数のピボット、連動」で検索したときは、「複数のデータベースで一つのピボットを作成」みたいな検索人からしてみたら真逆のようなサイトがヒットしたものだった。キャッシュにかすりもしなかったのが、嘘のようだ(多分、何度もクリックして出現頻度の低いものまで辛抱強く検索していたら、いつかはたどり着けたのだろうが)。

まだまだ、検索する際のワード選択の想像力の研鑽が足りないと実感した。

ファクトチェックする方法

ファクトチェックする方法

実際にはファクトチェックする方法ではなくて(釣りタイトルか!)、メディアや報道内容の信頼性を測る方法といった方が思っていることに近いかもしれない。

仕事や趣味など何でもよいが、ある程度の知識や知見を持っているカテゴリーを誰しも持っていると思う。そういった、自分が詳しい分野の報道ぶりによって、メディアの報道姿勢やその記事の信頼性を測ることができるのではないかと思っている。もちろん、とてもニッチな分野をメディアが深く知っているはずもないので、少ないサンプルで報道機関すべてをこの方法で測れるわけはない。

とはいえ、例えば、私が従事している仕事に関連する分野の報道をみる限り、きちんと理解しているメディアが殆どいない。嘘とは言わないけれど、本当に表面上のことしか報じていない。しかも、さも全てを知っているかのように報じている。
判らなければ黙っていればよいものの、時事関係だとメディアが報じないなけにはいかないことも理解する。だったら、もっと調べるなり専門家に聞いて報じればいいのに。彼ら/彼女らからすれば、読者も事実でないことを理解できずに有難がって読んでくれると腹をくるっているだろうから、調べて報じる必要性も感じていないんだろう。

年中温暖が良いのか-熱帯雨林で思う

年中温暖が良いのか-熱帯雨林で思う

季節の変わり目がメンタルに与える影響を語る動画を見た。年中温暖な場所にいると、そうでない場所にいるよりも鬱になる例が少ないという説だ。

それを聞いて、確かにそんな気がすると思った一方で、年中温暖な場所は、日の出・日の入りの時刻が年間を通してあまり変化がないために季節感がなく、メリハリがなくてだらっとしがちだというのが私の実感。四季がある日本で生まれて育ったからこそそう感じるのであって、もともとそこで生きてきた人には微妙な変化に気づいていたり、それなりに季節変化を感じ取っているのかもしれないので、あくまで私の感じ方(ちなみに、ヘイズや洗濯物が乾く時間の違いなどから、細かな季節の変わり目を感じる)。

年中暖かいほうが着るものにお金が掛からず箪笥もスッカスカで掃除もしやすいのだが、枕草子の「冬はつとめて」って私もよいと感じる。年中寒いのは勘弁してほしいが、一年間のうち特定の期間であれば、厳しい寒さに触れると生きてる証を感じるし、春を待つのが楽しみで、また、春が来ることがうれしい。そういえば、欧州のシューパーゲルとか季節もの、特に、その年の第一発目を食べると幸福感を満たしてくれる。

慎重にやってるのに手からこぼれる

慎重にやってるのに手からこぼれる

ここ数年の事象。

何かちょっと安定感のない状態のものを運んだり、作業するために何かを支えたりするときに、慎重にやらなきゃと思っているそばから床にぶちまけてしまったり、ぶつけないように注意しているのに手や周囲の障害物にひっかけたりぶつけたり、うまく処理できないことが多くなった。というか、むしろ、ほぼほぼ毎回、何かをしでかすといってもよいくらいになっていて、正直、悩んでいる。

脳の病気や認知症を疑ったりするけれど、脳の問題であれば、粗相を長い期間にわたって繰り返す前に病気が顕在化するだろうけど、一応、生活はできているのでちょっと違うような気がする。認知症については、経験もないし周りに参考になる例がないのでよくわからないものの、そうだとしても進行(悪化)している感じはしないので、こちらも違うんじゃないかと思う(突然、悪化するのかもしれないけれど)。

これが老化なのだろうか。

車の運転にマイレージ・ポイントがあれば

車の運転にマイレージ・ポイントがあれば

2023暦年に日本人に発行されたパスポート冊数に関する先日のニュースを見たのをきっかけに、航空会社のマイレージについてあれやこれやと考えていた時に、そういえば、私は車で移動する機会が多かったっけ、と思い出した。

ざっくり計算してみると、自走で車に乗っていたのを時間に換算すると、延べ1年以上だったことが判明した。

これまでの自走距離・・・・・・約50万km
平均時速・・・・・・・だいたい50km/h
推定自走時間・・・・・・・ほぼ10,000時間
日数換算・・・・・・・・・・・416日(1年1か月強)

自走した国の中には、制限速度が他国に比べて速い国や、基本は下道しか使わない国や渋滞に巻き込まれがちな国など環境はいろいろ有りだったけれど、不思議なことにどの国も均すとおおよそ50km/hくらいが平均時速に収まっていたので、計算にはこれを採用。車を初めて買ったのは、就職から割と早いタイミングで赴任した最初の任地だったので、分母の年数はほぼほぼ働き始めてからの年数になる。累計1年の絶対的な長さもそうだが、運転経験年数(=就業年数)との相対比較においても、1年は非常に長いこと自走していたことになる。

大学生時代は金銭的な余裕がなく、またキャンパスは原付で通える距離だし、車以外におもしろいことがたくさんあったので車への興味はほとんど無かったけれど、車に乗るようになってしばらく経過すると車の運転に興味を持つようになった。他車にかける迷惑を最小限にする運転、つまり、ださくない運転の仕方を研究したり、車中が快適になるようにガジェットを買ってみたりと、運転を楽しんできた。

さっきはもともと車に興味がなかったと書いたが、そういえば、スーパーカー消しゴムに小学生の時にはまっていたので、全く興味なかったわけではないはずだ。でも、それよりも、小学生の時に自転車の運転の仕方を研究していたことをふと思い出し、結局、人間の根本は変わらないんだなど認識した。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。

観るスポーツで好きなのは何ですか?

観るスポーツで好きなのは何ですか?

外で仲間と食事していた時の会話内容。そこに居た数人は、今所有しているパスポートの数で言えば4か国、本人のルーツでいえば5か国の人々が集まって食事をしていた。誰かが、「プレーするスポーツと観るスポーツ、みんな何が好き?」という話になって、別の一人が「じゃあ、テーブルの席を順繰りにまわって各自言って」という話になった。

私にとってスポーツ(運動。体を動かすこと)は、プレーするものとしての位置づけの比重が大きくて、観るスポーツとなると、観ることに対する熱量が多くない代わりに何を観てもそれなりに楽しめるとは思っている。

食事時の質問の順番が私に回ってきた。正直に言えば、最近スポーツを観ていない。決してスポーツが嫌いなわけではない。なぜ観ていないのか。

帰宅してから考えていたら、そもそも私はテレビを観ないし、競技場でスポーツを観るほど熱心なファンでもない。

テレビは一家に一台が普通の時代に育ったので、中学生くらいまでは父親が観るテレビ番組一択だったので、私にとってのテレビ番組は娯楽ではなかった。高校生になると部活が忙しく、そもそもテレビを観た記憶がほぼない。大学入学とともに始めた一人暮らしには自分用のテレビはあったが、高校生までにテレビを観ない生活が普通になってしまっていたし、大学生はそれなりに忙しいのでこの年代でもテレビをあまり観ていなかった。就職して最初の2年くらいは始発・終電での勤務が多かったし、そういえば、テレビを買ったのは入社3年目だったと記憶する。その後は海外勤務が重なって全くテレビを観ない生活が復活。

テレビを観ない経緯は私個人の特殊な環境とかで同僚にはどうでもいいことではあるけども、日本人にそれなりの確率で生じうる共通点としては、高校時代のノンプロのような部活生活でテレビを観ない生活になった、という人は特殊な人々ではない程度の一定数は存在しているのではないかと思う。この辺の部活どっぷり生活は、海外の人に説明しても背景を理解してもらいずらい事象ではないかと思った。

猫の日

猫の日

にゃん・にゃん・にゃんの語呂合わせで2月22日は猫の日。にゃん3回だとちょっと冗長な気がして、にゃん・にゃん2回のほうがリズムがよいように思えるが、2月2日ではなくて2月22日。

もともと2月3日に節分がビッグ・イベントとして存在していることから、猫の日を決めた人々の中に、節分に隠れる可能性を心配した人がいたかもしれないことや(今年の節分は2月2日だった)、猫のかわいさに全く関係ない別の意味で「ニャンニャン」が世間で使われているのを嫌がったのかもしれない。まあ、そんな考察はいいとして、去年までは猫の日を知らなかった私が今年になって知ったように、今年初めて知った人はほかにもいるだろうと思うので、知名度が大事な記念日にとっては、してやったりだろう。

ちなみに、2月22日が記念日になっている日で、その由来が日付の語呂や見た目が理由と思われるものは下記の通り。

・おでんの日=「ふー、ふー、ふー」(これも音的には2回の方がしっくり)
・食器洗い乾燥機の日=夫婦(22)にっ(2)こり
・猫背改善の日=猫背の人を横から見て形が似る数字の2が最も多いのが2月22日
・温泉マークの日=温泉マークの湯気(逆からみたとき)

訪日外国人観光客-ニュース記事のこと

訪日外国人観光客-ニュース記事のこと

2023年に日本人が取得したパスポート発行冊数に係る外務省発表に関連するニュースが気になった昨日からの流れで、今度は、訪日外国人観光客を取り上げニュースが気になった。

それは、外国人観光客の多い北海道・ニセコで物価があがったり、上昇した最低賃金・時給の影響で人を集められなくなった介護施設が閉鎖したといったもの(2月16日頃)。そうすると、その16日の記事と関連付けて、『「外国人観光客=悪」の構図は本当か?』というタイトルの2月19日付け記事を見つけた。

その19日の記事には、『「外国人観光客などもう来るな!」とはらわたが煮え繰り返る方も多くいらっしゃるだろう。』という表現があり、私も「そうか、そんな意見が大勢を占めるんだ」と思ったのち、「え?本当。アンケートとかとった結果なの?」と、あやうく騙されそうになったことに気づいた。もしかしたら本当かもしれないし、あるいは記者の個人的考えに世論が影響されそうになったのかもしれない。実際、人々がどう思っているか知る由もないので、自分はニュートラルに記事を見ておくことにとどめておく。

さて、記事は記事として、外国人観光客が日本のルールに則った行動をして欲しいと個人としては望んでいる。円が高いときは、出張者やコストが高くても本当に日本を訪問したいと思っていた外国人、お金持ちの人々などが主な観光客だったのかもしれない。出張者ならば、基本は都会を訪問する人のほうが多いだろうし、日本好きな外国人であれば、多少は日本のことを知っていたり、あるいは事前に調べてきたり、また、日本のやり方・ルールを尊重する気持ちがある人たちだったのかもしれない。お金持ちの人が自分勝手なふるまいをしないかと言えばそんなことはないだろうが(もちろん、個人による)、悪目立ちをしないといったような人目を気にする人の割合はお金持ちに多いような気はする。

では今はどうかといえば、いいねが欲しいあまりに目立つ行為をしたがったり、日本に特別な感情はないが、円安で安く過ごせるという理由で日本を旅行先に選択し、旅の恥をかき捨てといった感じで過ごす人、世界には違いがあることを知らずにいつものやり方を通してしまう人などの訪日者も増えているのかもしれない。

インバウンドで直接的に生計をたてている人もいるだろうし、そうでなくてもモノやサービスが売れれば間接的には会社員の私たちにも売上アップのような形で関係してくるし、訪日客がいけないわけではないものの、郷に入れば郷に従ってほしいし、それが旅行の楽しさの一部であるとも思う。

結局、私には解決策の提案はできないのであるが、私には私にできることを粛々とやっていく。それは、自分が地元を出たら、そこが海外であろうが国内の地元外の場所であろうが、自分の行動を地元の人に違和感を持たせないことだ。好き好んでジャーニーマンをしてきたわけではないのだけれど、引越し先の土地やチーム、会社などで溶け込むことができる能力はジャーニーマンに必要な資質の一つだと思っている(本当に強固な技術・実績などあれば、他人に違和感をあたえても腕一本で生きていけるのかもしれないけど、私は人間、または会社員としてのジャーニーマンなので…)

パスポート保有者は日本人の6人にひとり

パスポート保有者は日本人の6人にひとり

ネット・ニュースの投稿コメントが好き

ネット・ニュースの投稿コメントが好き

ネット・ニュースのコメント欄が好き。自分で書き込むことはないが、誰かが投稿したものを読むのが好き。
いろいろと違ったスタンス、ポジションからの異なる意見に触れるのが楽しい。そのくせ、私は頑固なのか他人の意見に影響を受けることはあまりないのだが、読むのはとくかく楽しいし、多くの発見がある。画面を見ることができないときは、PC音声か誰かに読み上げて欲しいと思うくらい、好き。

EVは自動運転とセットなら

EVは自動運転とセットなら

自動車の販売台数に占めるEV比率について、2024年の海外市場では成長率が鈍化したという報道がある。

2023年までは、EV比率が上昇していた背景には、購入者に対する補助金(主に欧州)や増大させた自動車会社のEV生産能力の稼働率を上げるためにEV販売価格を抑えた(主に中国)などといった背景があったとは思う。

いったん落ち着いたEV販売比率が引き続き上昇してゆくために必要となってくる要因はいくつもあると思うが、自動運転の発展は大きく寄与すると思う。

本当に自動運転で事故が無くせるならば、頑丈なボディにする必要がなくなるはず。頑丈なボディでなくなれば軽量化が図れ、それにより電費がよくなりバッテリーの小型化が可能になるだろう。その結果、コスト・価格を抑えられると思う。また、事故がなくなれば、いくつかの安全装備が不要になるであろうこともコスト低減に貢献するはずだし、ボディの設計・製造や衝突安全のノウハウが重要でなくなれば、自動車製造の新規参入も出てきて競争原理がいまより働くかもしれない。

私が思うには、EVが売れるかどうかは、結局はHEVやエンジン車との価格差なのだと思う。エンジン車並みに短時間で給油することは無理としても、もっと気軽で早急に充電できたり、自動車の生産段階から本当にカーボン・ニュートラルになったりしない限りは、価格が最大の要因だと思う。
自動運転の信頼度があがって普及すれば、EV普及率の線グラフは今の予測よりも時間軸は右側にいくとは思うが、グラフの上昇角度はもっと急になる可能性を十分に秘めていると思う。実際のところ、EVだけが自動運転になっても、運転補助のないエンジン車に追突されたら終わりなので、しばらくはある程度頑丈なボディは必要だとは思うけれど、自動運転とのセットがEVをさらに後押しはすると思う。

コメ不足・高騰

コメ不足・高騰

お米の高騰を取り上げ、そこから米に係る政策に展開させる報道を目にする機会が最近増えた。昨年2024年の後半に小売店から米が消えたという報道をよく目にしたとき以来、一年経たないうちにまたこの手の情報が増えている。

ニュースで見聞きする様々な対策のうち、どれが解決に役立つのかは、現在起きていることの本当の背景を知らない視聴者には知る由もない。しかし、「もっと作って輸出すればよい、国内が不足するときは輸出を調整弁にして国内に供給すれば米不足対処にもなる」という意見の人に個人の立場としては賛成したい。海外にいると日本の米が欲しい私にとっては、輸出してくれるとありがたい。

一方、輸出する場合のデメリットを素人考えで想像すると、

・無制限に輸入するように海外から要求される
→ 日本の農家が売り負ける可能性。そこから米作が廃れてしまうかも。
→ しかし、外食は別として、安いという理由で内食で輸入米に切り替える?

・輸出を認める対価として、米生産の外資開放を外国政府から要求される
→ 大規模・機械化・デジタル化などで価格競争力ある米を、農協などを通さずに直接、安く消費者へ届けることで日本の農家が売り負け、既存農家が廃れる可能性(農協を通せという意見ではなく、流通ルートが変わるきっかけが外圧であってほしくない意)
 (外資規制の有無を調べる余力なく、もしも規制があるとしたら、ということで)

・輸出価格が国内価格を上回れば、輸出は調整弁ではなくむしろ国内供給が減って、米不足がより頻繁に起こりえる可能性

競争力がない産業を国が守る必要がない、という意見の人もいるとは思う。私も総論では賛成ながら、食料自給率に係ることになると、結論を急がずに、長期的視点にたって決めるべきことかと思う。

ただし、現在の政策の根本が、農家を守る、それが選挙で票になる、という前提条件のもとでお米に関するルールが構築されているのであればもってのほかだが、もしも、国益のようなものがその背景にあるとしたら(国家間の合意の中で、これは譲る、あれは譲れなどの条件交渉の中でのアイテムの一つとか)、それらの機密は国民には開示されないだろうから、残念ながら国民の勘違いや疑念も解決されることはないのだろう。

ただ、先にも書いた通り、個人としてこのニュースを見る限りにおいては、日本で作った日本の米を海外で食べたいのでもっと生産して輸出して欲しい。対象となるお米は、できればあまり古くないお米にしてもらい、日本産の認証制度を作ってほしい。なぜなら、日本語がパッケージに書いている海外で売っているお米は何か怪しく見えるから。

ベトナムのある地方の山奥にある田んぼ
2025年に実行すること

2025年に実行すること

手帳に書いた今年実行することを、備忘のためにここにも。
目にする機会が多いほどに、初志をわすれることがないように思うので。

・丁寧な暮らし
 例)食事にはお盆(トレー)を必ず使う
・持っているものは使う = 在庫をため込まず、持っているものを活用する
・無理な人とは付き合わない
・楽しみなルーティンをつくる = 仕事を早く終える動機付けにもできるし
・体重と体形の管理
・ペン字
・たまには都会にいって刺激を受ける(そうしないとだらだらしてしまう)
・運がよいことを忘れない
・一日一新

Flirt – 文化が判って理解できる英単語

Flirt – 文化が判って理解できる英単語

以前にヨーロッパで仕事をしていた時のはなし。

異性の同僚の中の一人に、感じの良い関係の人がいた。
そんな関係がしばらく続いたのちのある日、いつもゴメンね、あたなとflirtingを楽しんでいるの、目に余るようなら言ってね、というような趣旨のことをその人から言われた(正確には、受信したメールに書いてあった)。

当時に使っていた英和辞書には、たしか、「戯れる」とか「いちゃつく」とかといった感じの訳語がflirtにあてがわれていた記憶があるが、とにかく、しっくりくる訳語に出会えなくて、言われたことを理解できなかったことをはっきりと覚えている。

その後、ヨーロッパでの仕事に一区切りつき、もう同僚でもなくなってその人のことも忘れかけていた時に、中野香織さん(*)の「モードの方程式」という日経新聞のコラムがflirtという言葉について紹介していた。そこには、恋愛の代替にはならないアートで、腕も磨けば人生に楽しみを与える社交技術というような説明が書いてあった。

こちらは日本人なので、そんなアートに馴染みも概念もないのだが、何となく記事の説明でその単語を心で理解した感じがしたのを覚えている。ヨーロッパにいた当時は、仕事に強い充実を感じていたことも影響してか、いろいろなことが色濃く記憶に留まっていて、Flirtという英単語もその一部にある。

学生時代の教科書だったと思うが、氷はイヌイットには重要な物質なので、いろいろな氷の状態を表す単語がそれぞれに存在するというような話があったのを記憶するが、それと似たような感じで、文化を知らないと理解できない単語や訳語にしてしまうと理解できない単語ってあるんだなと思ったのを思い出した。

トランプ2.0が始まった際に、トランプ大統領の第一期目の当時の安倍首相が果たした役割や築いた関係の重要性についてニュース報道で言われているけれど、皇后さまとメラニア夫人との関係などもトランプ大統領の日本を見る目に良い影響を与えていたとすれば嬉しいし、そういった、言葉を超越した文化的な流暢さって結構大事じゃないかと思う。

なぜか判らないが、flirtという言葉を思い出した。


(*)著作家/服飾史家/株式会社Kaori Nakano代表取締役(オフィシャル・ウェブ・サイトより)。中野さんのXには「ファッション知の一人コングロマリット」とある。

国境(欧州、かなり前。写真の当時、手前側の国はシェンゲン条約施行前、向こう側は施行済の国)