カップか水筒かで変わるコーヒーの味

カップか水筒かで変わるコーヒーの味

最近に度々起きてることなのだけど、コーヒーをおいしく感じないことがある。好きな味の豆が手に入らなくて、確かに1か月くらい前までは別の種類だったのだけど、最近はいつもの豆に戻っている。それでも何かが違う。

コーヒー豆の価格高騰で品質が変わったのか。あるいは、私の好みが変わったか。はたまた、味覚障害にでもなったか。

いろいろ考えていたところ、週末に自宅で飲んだコーヒーはいつも通りの味だったことを思い出した。自宅と会社で違うところは、カップで飲むか水筒で飲むかだ。そこで疑ったのは、ストローでアルコールを飲むと酔いやすいのは空気と一緒に飲むから、というのを思い出した。コーヒーも水筒の狭い飲み口から少ない空気とともに飲むとを味が変わるのではないか。

ネットに答えがないかと思って探してみたところ、水筒は作り置きなのでカップで飲む時より温度が低いことと、周りの雰囲気で味が変わるというのにヒットしたけれど、私にはちょっとしっくりこなかった。そんなちょっと落ち着いた感覚になったのもあってか、この疑問のことは少しの間、忘れていた。

何の拍子か、また、気になる瞬間が来た。今度は別のキーワードでネット検索してみたところ、あるわあるわ、同じようなことを言っているページがたくさんヒットした。ああ、みんな同じような経験をして、同じような感想を持ったんだと認識した。

結局、まだ理由は判っていないのだけれど、試しに会社にカップを持って行き、水筒からカップに注いで飲んだところ、いつもの味なのに気が付いた。水筒に入れている間に味が変わったのではなくて、水筒から飲むと違う味に感じるところまでは実証できた(理論は不明)。またおいしくコーヒーが飲めるのが楽しい。


※ 逆流性食道炎の改善のためにカフェインを控える実験をしようと考えたのは、改善を企図しているのは本当にそうなのだけれど、最近、コーヒーをおいしく感じない場面が増えたのも実はその背景のひとつ。カップでおいしく飲めることに気付いてしまったので、さあ、どうしよう。

服のしわが皮膚に転写されている

服のしわが皮膚に転写されている

ボトムスのウェスト・ゴムの跡が皮膚につくことは以前よりよくあることだった。ここ数年に加わったのは、特段きくつない靴下をはいていた日であっても、足がむくんでゴム部分の跡がつくこと。

最近に新たに加わった事象は、着ているシャツや履いているパンツのしわが皮膚に転写されていること。フィット感の強い服を私は持っていない。姿勢によっては普通のサイズ感・フィット感の服でも肌にはりつく感じの時があるが、そういう状態が長く続いた時のこと。ゴムとかはっきりと圧が掛かっていることが分かるものの跡がつくことは不思議ではないが、皺までが皮膚につくとなると、皮膚の弾力性に大いなる疑問が。単純なる老いならば残念ではあるが受け入れるが、運動不足で血行が悪いから?それとも、何か病気か?

少し心配ではある。

こっちに向かって虫が歩いて来る

こっちに向かって虫が歩いて来る

会社のトイレ個室に入っていた時のこと。名前を知らない虫がこっちに向かって歩いて来る。ムカデに小さな羽が生えたような感じだけど、飛ぶことはさなさそうな虫。

トイレでの用事は終わったあとだったので、私は自由に動くことができる状況にあり、体の位置を変えてみた。そうすると、その虫が向きを変えた私のほうに向かって歩いて来る。なんということだ。

たまたまかと思って、再度、体(足)の位置を変えてみる。そうすると、また同じことが起きた。アンビリーバブル。

もう一回やっても同じことが起きたので、体温なのか体臭なのか判らないけれど、何かの感覚で私の位置を認識したうえで虫が歩いていることの疑いが高いことがはっきりしたと言ってよいと思う。でも、なぜ私のほうに近づいてきたのだろう。私が生物だと認識していたとしても、大きさとかどんな生物かは認識できないと思う。もしかしたら、自分(=虫)を襲ってくるかもしれないような得体のしれない生物(=私)に向かって自分から近づいてくるだろうか。普通は逃げるのじゃないか。生物学に詳しい人と会う機会があれば聞いてみたい。

逆流性食道炎

逆流性食道炎

数年前に逆流性食道炎と診察された。会社勤めしていた当時の成人病検診では、上部内視鏡検査は含まれておらず、腹部超音波を診察に使用していた。最初は、エコーで胃粘膜下腫瘍を疑う所見と検査成績表に記された。検診後は、産業医との面談を行うことに会社のルールでなっていた。産業医は何名か所属していたが、私が面談をした産業医は、週に一度、内科の病院で勤務した関係で、上部内視鏡での確認をしてはどうかと提案をされ、それを受けてみることにした。

その時以来、上部内視鏡検査を受けた年は、逆流性食道と食道裂孔ヘルニアと診断されるようになった。

所見には、内服治療が必要とコメントされているのだけれど、海外にいるので継続的に通院もできずにいるのだけれど、初めて逆流性食道炎とコメントされる前の何年も前から胸焼けは自覚していたし、普段は飲まないオレンジジュースを飛行機内や宿泊先の朝食で飲むと、いつも以上に非常に強い胸焼けを感じたりもしていたので、食道から胃にかけてはちょっと荒れてるのかなあとは常々思っていた。

ながながと書いたけれど、今日思ったことは、次回の検診の前は、1ー2か月のあいだ、コーヒーを控えてみようということ。私はコーヒー中毒で、毎年の検診前の絶食時や、飛行機内で移動する際に自由にコーヒーを飲めない時間が半日でも続くと頭痛になる。所謂、カフェイン離脱からの頭痛。だから、コーヒーを控えるのは十分な準備をしてからでないと厳しいことになると容易に想像できる。しかし、好みの味のコーヒー豆が手に入りにくくなっているのもあるので、そろそろコーヒーも潮時というか、止める・減らすにはちょうどタイミングがよいのかもしれない。タバコは何年か前に辞めたし、アルコールもしばらく控えていた。これにコーヒーまで控えるとなると…という気持ちもないわけではない。だけれど、コーヒーと食道炎の相関を調べるには、一旦コーヒーを控えて検診を受ける以外にはないので、もしも何も変化がないならそのままコーヒーを飲み続けられるという検証になるので、来年はやってみようと思う。

雨の日

雨の日

雨の日は嫌いではない。「好き」と積極的に言えるまでではないのだけれど、嫌いではない。好きな側面はあまり見当たらないのだけれど、雨の日ならではな部分もあって、完全には嫌いになれないというのが適当な表現かもしれない。

私は、昭和の時代に小学生として過ごした。ステレオタイプな発想として、当時の多くの小学生と同じように、放課後は野球をして遊んだ。雨が降ると野球やそのほかの外の遊びができないので、家に一人でいることになる。当時に流行っていたゲームウォッチをはじめとした電子ゲームが我が家にはなかったので、雨の日はテレビを観るくらいしかやることがなかった(私の小学生時代は特に宿題とかなかったか極々少量だったような気がするので、宿題があっても学校の休み時間に終わっていたような記憶がある)。

だから、雨の日は家にいる日、というのが私の意識に今でも刷り込まれたままになっている。

とはいえ、家にいる日という認識と雨の日が嫌いでないこととは、特に関係がない。まあ、外出する選択肢がない分、ネガティブに作用しかねないことでもあるし。

雨の日ならではなことの一つに、匂いがある。ここ数年は、より化学的な説明がなされるようになってきたが、以前はアスファルトの匂いとして説明されていた、あの匂い。パブロフの犬ではないが、あの匂いは家にいる日のサインでもある。また、家にいる時に雨が降り始める時は、雨粒が屋根に当たる音が聞こえるような大雨ではない限り、いったん、静寂がおとずれてそのあとに雨が降り始めたことが分かる感じ。あれも、いとをかし。




追伸:外で競技を行う運動部に在籍していた高校生当時は、雨の日は校舎内を走り回ったり柔道場でサーキットトレーニングをしたりするので体力的にきつかった。通常の練習よりも時間は短く、日が暮れる前に学校を出ることができたのでその点はよかったのだけれど、雨合羽をきて自転車で40分くらいかけて帰るのがつらかった。

自分の物差しが少数派なことに気付くとき

自分の物差しが少数派なことに気付くとき

私があまり得意でないタレントがテレビ CM に出ていた。なんとなく苦手に思う理由は、その人の表情やものの言い方を自然に受け取れないため。テレビに出る人は、それがドラマであろうがインタビューであろうがなんであろうが、皆、素の自分ではなく、芝居をしているわけではあるけれど、私の印象ではその人はあまりにわざとらしくて、素直に受け取れないと見るたびに感じている。

その人が CM に出ていて、その CM でもわざとらしいセリフ感が満載だったので正直、意外だった。

私にとっては、その人があまりに露骨に感じているので、私と同じような感想を持つ人は少なくないのではないかと勝手に想像していた。しかし、私と同様の印象を持っている人が多数派であれば、CM に起用さえることはなかっただろうから、私の見方は少数派なのだろう。少数派だから間違っているとも、また逆に、少数派の意見だって尊重されるべきだとかいうつもりはなく、単に、この件については私が少数派ということが全てであって、それ以上でもそれ以下でもない。

だけど、その人に対する私の物差しが少数派だったのは、少し意外に感じた。ああ、そうやって世間とズレていくのかなあと思った。何事にも、各人にはし好があるので世間とのズレはあるのが当たり前なのだけれど、時折、何がどれくらいズレているかを確認する作業は有意義だとは思っている。

物忘れに改善の兆しか

物忘れに改善の兆しか

ここ何年か物忘れがひどくて、何かやろうと立ち上がった瞬間に、どうして立ったのか思い出せないことや、それに似たようなことがある。

ところがどっこい、最近は、思い出そうとしてから思い出すまでの時間が短くなったり、以前はそのまま思い出せなかったことが多かったのに、最近では思い出せることが増えた。

なぜだ。

悪い話ではないけれど。

テレビ・ドラマの世界

テレビ・ドラマの世界

今に始まったことではないけれど、テレビ・ドラマを見ていて思うのは、これって実際の世の中を反映していることなのかどうか、ということ。

自分が知っていることであれば比較はできる。例えば、自分がかつて勤めていた日本の会社では、スーツの上着は出社とともに脱ぐのだけど(入社してから転職するまでの約30年間変わらず)、ドラマでは事務所で仕事中も上着を着たままの人が多い。これって違うんではと思いつつ、自分が勤める会社しか知らないから、自分が知っていることが多数派なのか少数派なのか判らない。

自分の感覚と違うことが一つあると、他も違うんじゃないかと思い始めてしまう。

最初に、今に始まったことではないけれどと書いたが、少し前にそれを再認識したのは、学校の保護者カーストのような人が登場する場面のこと。そういった人間関係から遠いところにいるのでよく判らないけれど、本当にそういった人(カーストの上のほうにいて権力を振りまく人)っているのだろうか、自分の周りで観たことも聞いたこともないので、テレビ・ドラマの世界だけで存在している人なのではないだろうかと思ったりする(あるいはいても、ごくごく希少な人々)。

自分が知っている世界とテレビ・ドラマ内の世界があまりに違い過ぎる時、私はドラマを直視できないほどに恥ずかしい気持ちになる。これは現実世界を反映しているもの?それとも、おとぎ話の世界?

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

競合他社の四半期報告が開示され、同日に投資家コールが開催された。

競合他社ということもあって、勤務先のメールアドレスで出席者登録は控えて、私用メールアドレスで出席するか少しだけ考えたが、結局、会社のもので登録して出席した。

その競合他社はアメリカの企業なのだけれど、正直、投資家コールを聞いても米国人の英語が判らずに時間の無駄になるかもしれないと思っていた。ところがだ。まあ、投資家コールという場だから万人に分かりやすい発音やイントネーションで話すことを心がけていたのだろうとは思うけれど、とても分かりやすかった。さすが、社長やその近くのマネージメントの人は、わかって貰うことを大事にしているのだと感じた。

私が勤める会社の社長もとても分かりやすい話し方をする人だけれど、それは、私のボスだけではなかったことを理解した。一方で、日本の社長とかという大雑把な仕分け・レッテル貼りはよくないとは思うけれど、日本の社長はわかって貰おうとする努力が足りない人が多いように思う。社長は、社員や株主、投資家、取引先などありとあらゆる人に誤解なく理解してもらうのが大事な仕事なのに、口下手だけど仕事ができるような論調は全部が全部正しいとは言えないと思う。

特にアメリカ人に対して思うことだけど(大雑把なレッテル貼りには私は大反対だが)、なんだ、やればできるじゃんとも思った。普段はあんなに分りづらく、もしかしたら、いやがらせ的にわざと分りづらくしゃべているのでないかと私は密かに疑っている米国人が、あんなに分りやすくしゃべるじゃないかと。

カノープス、南十字星

カノープス、南十字星

日本よりも赤道に近い場所にいることでうれしいことの一つは、日本では見ることのできない南天の星が見えること。小学生の時からしばらくの間、星が好きだったけれど大人になってからは忘れていた。

でも、よく考えたら、富士山に登らないと見えないカノープスがここから見えそう。

が、しかし、東南アジアって夜も暗くない。真っ暗な場所を探してうろうろしたこともあるけれど、私の住む場所にはあまり暗い場所がない。東南アジアってライトきらきらド派手なのが好きみたいで星を見るという観点では残念。そんなにギラギラさせられるほど、電気代って安かったっけ?

必要は発明の母

必要は発明の母

先達は、簡潔に本質的なことをうまいことよく言ったものだ。

必要は発明の母、ということを最近になってあらためて思う。もちろん、発明などはしていないのだけれど、例えば、業務面で言えば、手抜きをするための自働化ファイルの作成は、何かどうにかしたいという需要があることによって、世の中では新しいことではないけれど、私の歴史の中ではある操作・機能を初めて活用するので発明のようなものと言える。

私は、半世紀以上を生きてきた年齢なのだけれど、新しいことを試すのはチャレンジングで楽しくもあれば、初めてで理解が追い付かなかったり飲み込むのに時間が掛かったりはするが、何歳になっても刺激的なものである。人生、最後の瞬間まで学び続けていくことになるのだと思うし、それが楽しいとか苦しいとか感じなくなるのは少し怖いことかもしれない。

小学生の頃は、決まったお小遣いがなかったこともあって、何かやろうと思った時には創意工夫や何かを手作りしたり、代用品を活かしたりしていたことを思い出した。その後、働きだすと忙しいこともあって、自分で何かつくる機会もなかったけれど、最近にその気持ちを思い出したことは大きなヒットだと感じている。この気持ちを忘れずにいれば、楽しみをひとつ余計に保持しておくことが出来そう。

痛み

痛み

運動中に体を痛めた場所がある。痛めてから一年弱が経過する今でも、特定の動きをするとまだ痛い。痛めてから1か月間くらいは、何をしても痛くてたまらなかった。一生残る痛みになったら嫌だなと思っていた。運動中に無理したわけじゃないけれど、日常生活にはない動きをしてしまった。ああ、やっちまった。

今住んでいる国では医者にはいかなかった。そのうち治るだろうという期待と、英語で説明されても医療用語を理解できないんじゃないかと思ったから。ところが、休暇を日本で過ごす機会ができ、日本でならばと思って整形外科で診てもらうことにした。ただ、滞在が短時間なので治療は無理だと思っていたので、X 線で現状どうなっているかを知ることと、現状から言える今後の可能性を先生から聞くことが目的。

以前に受診したことのある整形外科へ行った。前回、多分それが初診だと思うのだけど、いつだったかの記憶がない。また、その整形外科へゆくことになったのは、どこを痛めたからかも記憶がない。

しかし、X 線をとって先生の診察となったときに、今回の不具合と前回の受診理由が同じ箇所だったことがわかり、前回との比較が画像でできるラッキーな状況となった。以前の写真になくて今回の写真にあるのは、あきらかな損傷痕とのことだった。

今はもう納税国(仕事国)に帰ってきているのだけれど、休暇前に比べて痛みが改善方向にあるような感覚がある。もとからある痛みに追加的にあらたに痛めつけることがない限りは、休み前よりも時間が経過しているので治りつつあるのは当たり前なのかもしれない。しかし、それでも、経過した時間を考慮しても、休暇前より今のほうが状況が快方に向かっている気がする。日本滞在中はもっと状況がよくて、車高やベッドのマットレスの硬さが違うとか生活様式に違いがあったのかもしれないが、私が思うには、 X 線をとり、しかも以前との比較が画像を見ながら先生に説明してもらったことを理由に、精神的なものから痛みを感じる度合いが減ったのではないだろうか。

ちょっと時間が掛かるかもしれないが、いずれは痛みが消えるような希望が持てるようになっている。

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

株価が上がれば、後付けで上がった理由になりそうな説明を探して報じ、誰かが警戒感と言えば自分の意見でもなさそうなのに急に同調してブレーキをかけるようなことを言い出し、テレビの経済ニュースで話している進行役の人やコメンテーターってなんだかなあと思う。根拠なく、さんざん自分であおっておいた後に警戒感だなんて、マッチポンプそのものといった感じ。広い視点をもってより深く分析し、自分が知らないことは手に負えないと宣言して、もっと淡々と仕事できないものかなあと思う。自分なりの根拠を持って、後付け解説はやめにしてはどうかと思う。

予想を超えた値動きというのも最近聞くコメント。それって、単純にあなたの予想が間違っていたということでは?予想を超えたのではなくて、予想が間違っていたと。

あんまり批判的なことは言いたくはないけれど、自分が正しいとは限らないということを理解して欲しい。

社内会議で喋りながら寝落ちしてしまう

社内会議で喋りながら寝落ちしてしまう

ネット・ニュースの記事で思い出した。

高市首相の所信表明演説に対する野党の代表質問に関わるニュースがあった。前任4首相が論戦中に眠っている疑惑を伝えるニュースだった。

実際に眠っているのかどうか知らないが、このニュースで思い出したことがあった。

もう10年以上も前になるけれど、私が関わっていた案件でパートナーとの協議に加えて社内外からいろいろな指摘や質問、疑念があって、毎日対応に追われていた日々が4年くらい続いた。その4年の間のいつだったかは忘れたけれど、社内のリスク管理の担当者と一対一で対面して案件について協議をしていた時に、自分がしゃべりながら寝ていたことがあった。

会議参加者の発言者でない One of Them ではなく、一対一の打ち合わせで自分がしゃべりながら寝落ちしたのはさすがに焦ったというか、まずいなと思った。寝落ちしていることに気付きながらもしゃべりつつ、船をこぎつつ。ほんとうに焦ったし笑ったし、心配になった。

喋りながら眠ったのは、人生でその時、一度だけ、これまでのところ。正直なところ、朝早くから夜遅くまで働き続けていた時は、自分がしゃべらない時には会議中に眠ってしまうことは何度もあった。すみません。でも、喋りながら寝たのは、あの時だけ。

眠っても話すことが明確で、それを話すことができるのは、それはそれであっぱれか(仕事バカか)。

WECARS って WeChat から発想を得たのだろうか

WECARS って WeChat から発想を得たのだろうか

何かの番組を観ていた時に、WECARS の広告動画が流れてきた。それで思い出したのだけれど、WECARS に名前が決まった時に、WeChat 的だなと思ったことがふとよみがえった。伊藤忠商事がスポンサーのうちの1社なので、WeChat が名前選択の下地にあるんだろうなというような気がしたことも思い出された。

WeChat から名前が似ている、名前が紛らわしい、名前が模倣と思われる、とか苦情が来ていないのだろうか。それとも、事前に話がついていたのだろうか。私が心配することではないけれど。

社説の「~せよ」にうんざりする

社説の「~せよ」にうんざりする

以前は感じなかったけれど、「~せよ」と言っている社説にうんざりするようになった。
ひとつの意見として社説を書いている人の意見を尊重はするが、それがあたかも唯一の正義・正解のように「せよ」と主張することに、なんだかなあと感じるようになった。

先輩が脈々と続けてきた書き方がフォーマット化されてしまっているのではないかと想像する。変えるのは難しいのだろうと思う。しかし、「~せよ」調の社説にうんざりしている人は、私以外にも結構いるのではないかなあと思う。

私の個人の感想です。

証券会社から届くメールにあるリンク

証券会社から届くメールにあるリンク

以前にも書いたのだけれど、証券会社から届くメールにあるリンクが気になって仕方がない。

私は、証券会社2社で口座を持っている。海外在住が決まってから、全て持ち株は売却していて、海外に住み始めてから新たな取引をしていない。日本で納税していないので面倒なことになりたくないからなのだけど、それでもログインをしないといけない場面がある。今年の初めにオンラインで証券口座の乗っ取りがあったため、新たなセキュリティを証券会社が採用したりして、そのためにログインを求められたりする。

2社のうちの片方は、数か月前にメールからリンクが全て消えた。ただ、もう一社のほうは、ログインするデバイスが変わったときの本人確認の目的として、通常のログイン手順の前にひと手間が必要なのだけれど、ウェブ上でこのひと手間を操作をしたのちにメールが届き、そのメールにあるリンクをクリックすることでその先に進めることができるようになっている。

口座乗っ取り事案が報道で再三伝えられていた時に、犯人は、正当な口座の所有者に偽リンクを送り、そこに入力されるユーザー名やパスワードを見ながら、犯人が本当のサイトにログインする、という手口が説明されていた。だから、自分が手続きしてすぐに証券会社からメールが送られてきたとしても、それが偽メールで犯人が裏でほぼ同時に口座に手を掛けているのではないかとの疑いが晴れず、正直、必要な手続きであってももうやめてしまおうかと思う。

よい解決策は浮かばないが、メールリンクさせるのだけはどうかやめて欲しい。携帯アプリとPCブラウザーで連動するセキュリティとか、手間がかかるのは受け入れるので、メールのリンククリックは勘弁してほしいのが私の希望(携帯アプリは、スマホでない人が反対するだろうけれど)。対策をするように監督省庁から指導されていて、急ぎ何かをやる必要があったのかもしれないけれど、ある証券会社の対策にはやってる詐欺というか、魂が入っていないというか、対策している雰囲気を出すためだけのもののように感じている。そこんとこに指導は入らないのか?

心中穏やかな日々 – 休暇っていいなぁ

心中穏やかな日々 – 休暇っていいなぁ

ここしばらく穏やかな日々を過ごしている。その要因として思い当たるのは、休暇を取っていたことくらいしかなく、間違いなくそれが理由だと思う。

大学を卒業して働き始めてから数十年が経っているので、これまでに取得した休暇もそれなりにあるけれど、こんなに休暇明けに穏やかな気持ちになれているのは初めてだろう。休暇中にどうしてもやらなければならない業務をするのは通常運転で、今回もそれは同じ。だけれど、今回は休暇後の穏やかさがとてつもなく大きい。

休暇中の時間を有効に使えたのだろうと思う。何十年か振りの人に会ったり、優先度は高くなかったけれど時間があったら是非にやってみたかったことを今回は実現できたのもあったし、一部は計画通りにならなかったものの、結構、事前にいろいろ考えて、計画をたてる段階からワクワクしていたような気もする。

こんな休暇の過ごし方を以前からできていれば、生産性がもっと上がっていたのかと思うと少し悔しいものの、今、そう思うような働き方をしてきたからこそ今回のような休暇を取る余裕が生まれたのかもしれず、こればかりは結果論で何とも言えない。

ああ、今回の休暇は良かった。この充電具合、穏やかな状況はどれくらいの期間、保てるだろうか。放電しきらないように、休暇ほどのものでなくても適度にチャージできれる生活を送ろう。

政府関係者への贈答品

政府関係者への贈答品

外交ウィークだった。ASEAN 首脳会議をきっかけに ASEAN+3(日中韓)首脳会議が開かれ、トランプ大統領もタイ・カンボジア和平合意式典に参加するために ASEAN 会議の開催地であるマレーシア入り。その後、トランプ大統領は来日し、また、APEC が開催された韓国では、米中、日中、日韓首脳会談も行われた。

トランプ大統領に関わる報道では、日本と韓国で贈答品について報じられていた。

民間企業の場合は、アメリカの The Foreign Corrupt Practice Act of 1977 に日本の企業であっても監督されるし、民間企業自体も海外腐敗防止規定などを作成して海外公務員への贈答や、民間企業間の贈答品を含む接待に関わる規定を定め運用している。

それに対して、今回の外交ウィークの報道を見ていると、政府間の贈答品については規定がないのか、政府トップなどの一部にはルールが適用されたいのかとか気になった。自分がその立場や関係者になることはまずないので、このことを自分で調べてみようと思うほど気になるわけではないので調べないが気にはなった。

貰って喜ばしいものを貰っていなそうだったので、なおさらそう思った。贈賄規定があるからその王冠はもらえませんとトランプ大統領が言ったらどうなるだろうか。大統領個人がもらっているのかホワイトハウス寄贈になるのか、また別の方法で管理されるのか判らないが、規定上、貰ってよいのであれば価値のあるものよりは貰って嬉しいものの方が私はいいなあ。

2025 年版 Strongest Passport

2025 年版 Strongest Passport

仕事中にネットで調べものをしようとしてあけたブラウザーで、Strongest Passport ランキングに関する記事のタイトルが目に入った。中身を見てみると、ビザ無しで入国できる国が 193か国に上るシンガポールが1位、190か国の韓国が2位、日本は 189か国で3位との内容らしい。

ふーんと思って、帰宅後にほかの記事でクロスチェックしてみようと思ったら、2025年3月の日付で「2025年版ランキング」というのがあり1位がシンガポール、2位が同率で韓国と日本だった。会社で読んだのも帰宅後に見たのもともに「2025年版ランキング」なのだけど、後者のものは3月の日付がついた記事なので発表年が 2025年という意味の 2025年版で、会社で見た 10月の日付がついた記事は 2025年の実績からのランキングで 2025年版ということなのかなあとか思ってみた。

ほかに記事がないか調べてみると、記事に日付がない 2025年版ランキングがあったり(ランキング的には 3月ごろの記事っぽい)、日本は 173か国で同率 19 位なんていうのもあった(2025年のものと書いてある!)。さすがにこれは定義が違うのだろう。

生きている間に訪問できる国はそんな多くないだろうから、ランキングの上位のほうにいれば特段に不具合はないとは思う(ちなみに、今日現在、入国したことのある国は多分 28か国)。

日本のパスポートってこんなんだ、と思ったのはスイスの空港。スイスでは、日本のパスポートであることが分かるように冊子を閉じて表紙を見せると、イミグレ・オフィサーは中身も見ず、スタンプも押さずにパスポートを返される。だから、今から20年くらい前は、日本人でスイスのスタンプのあるパスポートを持っているのは珍しいと言われていた。なので、車自走の陸路でスイスに入ったときに押された入国スタンプはうれしかった。スタンプラリーで珍しいものをゲットできた時の感覚。そのスタンプをゲットした当時は、西欧諸国とシェンゲン協定加盟前の東欧の国との間を車で行き来することが多くてパスポートを増刷してもらったので、その時と比べると出入国スタンプが少なくてちょっと寂しく思っている。落ち着いた日々を過ごしていると思えば今の方がよいのかな。