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Category: 趣味

水のはね方

水のはね方

肉類を切った包丁やまな板の洗い方が原因になって、家庭内で食中毒になる例を紹介する記事がネットに定期的に上げられる。変なことになりたくないので、使用した調理器具の扱いは私も適度に気を付けているつもり。

私が最近に感じることの対象物は、スーパーでパック入り販売されている肉類のトレー。トレーから肉を取り出したあと、ゴミ箱に入れる前に水洗いするのだけど、シンク内にトレーを置いて蛇口の水を上から流してトレーに一旦水を溜める。その時、水流をどう調整しても100%の確率で水が跳ね返ってくる。シンク内への跳ね返りであればシンクを掃除すればよい話しだけど、着ているものにも跳ね返る。夜や休日はよいのだけれど、出かける前で微妙な跳ね返り量だと着替えるべきかどうか悩む。

悩みはよいとして、シンク底と同じ高さからの落下水なのに、シンクからの跳ね返りは数センチな一方で、トレーはシンクの深さを超えて高く水を跳ね返す。シンクは平面、肉トレーは凸凹している違いはあるが、はたしてこれだけが跳ね返す高さを変えるまで影響を及ぼしているのか不思議。水流の最初の段階では角度をつけて洗い流せばよいのだけれど、毎回、今日こそはと思って実験するけど毎回跳ねる。不思議だ。

前の車の、その前を走る車が見えない

前の車の、その前を走る車が見えない

車を運転していて感じるのは、以前は、何台か前の車の動きまで見えていたのに、最近は、自分の目の前の車しか見えないな、ということ。

私はできるだけブレーキを使わない運転を心がけているので、前の車だけではなくて、それより前の車の動きも見るようにしているのだけど、前の方を見通すことができない車が増えた。ある程度新しい車だと、ほぼほぼ全車、前を見通すことができない印象。一つにはリアガラスにフィルムが貼ってあって透過性がないこと、二つ目にはデザインなのかガラス重量を減らして燃費改善なのか判らないけれどリアウィンドウが小さくなってきていること(加えてリアウィンドウに角度がついていて前を覗くことができる面積が余計に狭い)。

その分、車間距離をとれということだろうけども、急ブレーキかける人やウィンカーを使わない人とかいるので、車間距離だけでは怖くてやはりもっと前を見たい。フィルムを張ることで車内スペースにプライベート感が出て乗り心地が改善したり、UVカットの効果があったり、また、エアコンの出力を抑えて燃費改善効果が期待できたりもするのだろうけれど、もう少し色を薄くしてもいいんじゃないかと思う。危ないのはよくない(車間距離をもっととればよいのだろうけど)。

音をたてて歩く人のことが苦手

音をたてて歩く人のことが苦手

オフィスで仕事をしていると、誰が歩いて来るかが靴音で判る人がいる。

今、私が勤務する事務所はカーペット床ではなくてタイル床の事務所(モップで拭き掃除のほうが掃除機より簡単なのかな、まあ、いいけど)。社員の足元を見ているわけではないのであくまでイメージではあるものの、スニーカー率が最高で、東南アジアで気温が高いということもあってかサンダル履きで仕事に来る人もそれなりの比率でいる。日本の男性の革靴のイメージの靴や女性のパンプスのような人はいない。

履物によって音は違うけれど、音を立てて歩く人が一定数いて、その中でどうしても気になる音をたてている人がいる。引きづり足でサンダルがクチャクチャ鳴っている人、普段は聞かないブーツみたいな靴の金具音がするので「あ、出張で〇〇が来てる」なとすぐわかる人、ごく少人数だけどどうしても気になる音をさせる人がいる。その人は、自分の音を判っているはずで、それでも音をさせる歩き方をしているということは、本人たちはそれを気に入っているのではないかと推測する。だから、余計に聞きなすことができない。

会社以外の場所で知らない誰かが、通りすがりのその時だけのわずかな時間、音をさせて通り過ぎる分には何ら気にならないのだけど、同じ人が同じ音をさせて会社を歩き回るのをきいていると、その音が好きでわざと音をさせているように思えて聞きたくなくなる(と、いう今日の感想)。

カッコ好い車がなくなった(個人的見解)

カッコ好い車がなくなった(個人的見解)

車は嗜好品。好みは人により千差万別、カッコ好いの定義も人それぞれ。

ゆえに、私の感想に留まる話ではあるけれど、カッコ好い車、自分で乗りたい車が以前に比べて減ってきた。あくまで私の基準による分類。

歩行者保護をはじめとした安全基準によるボディ形状、燃費と空気力学を考えた車体の形、製造コストなど、以前よりもデザイン上の制約が増えているだろうとは想像がつくので、仕方ない部分は理解する。理解はするけど、買いたいと思う車は減った。若いころと比べると、車に出せるお金は多少増えたというのに、買いたいと思う車は減った。

私の場合、車を選ぶうえで大事な点は「見た目」。価格によっては検討すらできないモデルもあるので、もちろん、車体価格は最重要。しかし、燃費はよっぽど悪くない限りは気にしない。装備については種類によって、気にするものとそうでないものが混在しているけれど、装備はよいけど外見が好きでない車よりは、外見がよければ装備は我慢できるところはある。

え、このデザイン?という見た目の車を街中で見ること不思議な気がするが、車が嗜好品であるがゆえに消費者の好みの問題だとは思うけれど、一定の台数を売ろうとする自動車会社のそのモデルの責任者がよく決裁したな、と疑問に思わざるを得ない車もある。自動車の歴史が始まって以来、デザインも出尽くして少しでも似たような見た目にしたら真似しただの言われかねないのも想像できる。だけど、私のように見た目重視の人もまだいるだろうから、もうちょっとデザインに気を配ってみてはどうかと思う。車以外にお金を遣う人が車を買ってくれないという前に、買いたいと思うような車を出してくれないことには売れないよ、と思うこともある。



5月3日の記念日
・憲法記念日:1947 年のこの日に日本国憲法が施行されたことを記念

文章を書くハードル

文章を書くハードル

いまさらだけれど、パソコンは便利だ。計算が違えばやり直しは簡単だしどこで間違えたかの見直しも見つけやすいし、文章にしても、一遍に消したりまとめて段落の順序を入れ替えたり、何にしても便利だ。また、必要に応じて、文章を残したファイルにパスワードをかけて内緒にすることもできる。

その便利さのおかげで、手書きの時と比べて文章を書こうとする時のハードルが相対的に下がった。何か文章を書いてみようという気になりやすい。

反面、とりあえず書いてから後で推敲すればよいという気持ちで書き始めることが増えた。よく考えずに取り掛かってしまうので、書きたいことを書き始められるまで時間がかかる時がある。ただし、これは業務のなかで文書を作成する時にはかなり便利で、とりあえず箇条書きも使いながら主旨をかいてから、それにあうように前文を書いたりすることができる。別にパソコンでしかできない書き方ではないが、パソコンの場合は消しゴムでこすりすぎて紙を破ってしまうこともないし、消しカスもでないのでやっぱりパソコンが便利。

ただ、やっぱり私は今でも書くのが好き、なぜならペンが好きだから。社会人になりたての頃は、メモをほとんどとらない不良若手社員だったのだけれど、何をきっかけか忘れたけれど 5年目くらいからはとにかく書くようになった。そうなってしばらくして経ってからのこと、海外で一緒に仕事をしていたドイツ人の人にボールペンをもらったのだが、その書き味がとにかくとても良くて、それまで以上に書くことが好きになった。仕事でノートをとることはもちろん、手書きのスケジュール帳を買ったのもそのころで、20年以上たった今でも、毎年、その時と同じ会社が出している手帳を買い続けている(書くことが好きなので手帳は変えてもよいのだろうけど、結局、毎年その手帳を買い続けている)。
(よくよく考えてみると、高校の時の数学の先生にノートの取り方を教えてもらって目から鱗だったとおもに、成績も上がった経験が記憶の奥深くの普段は無意識の領域に保存されているのかもしれない:あの先生がいなかったら別の人生かも – Journeyman : Blog)。

私の感覚に同意してもらえる人も、理解できない人もいると思うけれど、気に入ったペンで書くという行為はどうしてあんなに気分のよいものだろうか。パソコンで何かを書くハードルは下がったのだけれど、依然として、ペンで何か書きたいという欲求がある。徐々にペン自体の塗りが変化してきて味わい深い見た目のペンもあるし、ペン先と紙のこすれあう音も気分が上がるし、自分なりに今日はうまい字が書けたと思える日は気分が良い。

書くことがデフォルトだるデメリットとしては、書かないと思えづらい脳になってしまうことだろう。例えば、コロナで在宅勤務だったころは、自宅にプリンタがないので印刷した資料に手書きでメモや補足、あとで調べる疑問点などを書き入れることができなかったり記憶が進まないことがあった。無用な印刷をせずに省資源に貢献する世の流れに従おうための訓練として書かずに頑張ってきたが、デジタル教科書から紙の教科書にもとりつつあるいくつかの国の例かれもわかるように、書くことと学習には関連があると思う。

そんなことを考えていたら、最近、郵便の手書きの手紙を出してないな、と。人との連絡には電子メールが便利なのは間違いないけれど、たまには手紙を書いてみようと思った。


4月20日の記念日
・穀雨:田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨が降るころ。二十四節気の第六。2025年は今日。
・郵政記念日:飛脚制度に代わり郵便制度の実施を記念。もとは逓信記念日として1934年に制定。
・青年海外協力隊の日:1965年に発足。
・珈琲牛乳の日:1923年のこの日に初めて販売された。東海道線国府津駅で。守山乳業㈱。

・イースター

美容院の倒産件数増加

美容院の倒産件数増加

3月初めに美容院倒産件数が急増しているとの記事があったのを覚えている。その後も、コンサルタントといった業種別のデータに焦点をあてて報じる倒産報道をいくつか見たのと、従業員の退職による倒産といった経緯・背景側面からのニュースもあった。

原料やユーティリティなどのコスト上昇が言われてからすでに長い時間がたっていて、その高いコストの下で、もともと業種毎の企業数が多すぎることでの過当競争がさらにコスト面で圧迫している背景もあると思う。

たしかにコストを積み上げて計算してゆけば、採算が年々厳しくなっているであろうことは、異業種にいる私でも想像できるのだけれど、価格を決めるのは市場側だとすれば、お金をかけなくなったことの方が影響としては大きいと思う。

ニュースを見ていると、給与・賃金が増えていないので生活が厳しいために節約しているとかいう街頭インタビュー・コメントをよく見かけるが、その割には、価格が高そうな商品が並んでいる店は客入りもよい上に実際にキャッシャーで支払いしている人も多く見かけるし、価格が高そうな車に乗っていたりしている。車については残価設定ローンとか費用負担の新しい選択肢が出てきたこともあるだろうし、お金を遣う対象が変わってきているのもあるとは思う。そういう意味では、自分の見た目に遣うお金の世の中での総額は確実に減っているように感じている。

個々人でみれば、たくさんお金をかけている人は今でもいると思うけれど、見た目への出費を以前より抑えている人の方が多数派になって、世の中総額では減少していそう。たとえば、一昔前であればTシャツでは出かけなかった場所にも、今はそれで出かけている人が多い(Tシャツもびっくりするような値段のものもあるが)。選択肢が増えてよい流れにはなっていると思うし、他人の目を気にする必要が薄れてきた世の中もよい方向。掛けられるお金に上限がある以上は、自分が掛けたい分野にお金を掛けるように優先順位を設定する必要があるのは仕方ない。ただ、もう少し見た目にお金をかけて TPO を考えてもいいのかなあとは思ったりする。私はバルブを知らない世代ではあるけれど、就職氷河期に巻き込まれていないから、そんな考えを持っているのだろうとの自覚はある。モノが売れない時代に変化しているのに、趣味嗜好が細分化されてきて大ヒット商品が生まれずらくてますますコストも上がってしまい、本当に大変な世の中になってきた。

仕事を早く終えて帰る動機、〇〇しよう

仕事を早く終えて帰る動機、〇〇しよう

担当業務によって、物理的に事務所にいる方が効率がよい仕事もあれば、自宅でも特にクオリティの落ちない仕事もある。また、自分が業務に精通していて、所属チームや社内の関係部署の誰に何を話すべきかを知っていれば、使用する業務システムで不都合なければどこでも仕事は可能だと思う。

私の場合、現在の職務内容から言えば、必ずしも事務所で仕事を毎日する必要はない。逆に、全く出社する必要ないかと言えば、そうではない。外でもできる仕事の方が多くて、一部には事務所の方がやりやすい仕事もある、という感じ。

私の勤務先の場合、会社的には出社して業務を行うことになっているので、体調不良の時くらいしか在宅勤務はしないのだけど、一日、事務所で業務したあとに早めに帰宅して家で仕事を続けることがある。場所をかえて気分転換とか、同僚のアクション待ちの時に事務所にいると帰宅が遅くなりそうなときに、まず家に帰ってしまってからアクションを待つときなど。ただ、別の意味で気分転換になってしまって、帰宅後にだらっとしてしまう時がないとも限らないのがあぶないところ。

今のところ、帰宅しても会社のOutlookを開いたりデータ処理をすることが多いので、帰宅という行動は所在地を変えるための行動になっていて、それ以上の意味は付与されていない。今年は、これを変えたいと思っている。帰宅後に仕事以外で夢中になれることを見つけることと、それを実行するために早く仕事を終えたいとワクワクしながらも退社予定時刻と闘いながら仕事をするような日々に変えたいということ。メリハリある生活を送ることで、副次的な効果もえられるだろうと思う。一生涯続けられる趣味につながる何かを見つけられるかもしれないし、それが新たな交友関係につながったり、視野が広がるかもしれない。効果を期待して何かを始める意図はないけれど、何かを始めればほかの何かが起こるだろうし、そのほかの何かが判らないからこそ、それが何なのか楽しみに感じられる気持ちを持っていたい。

ゴルフは紳士のスポーツ

ゴルフは紳士のスポーツ

堅苦しいことを主張するつもりはない。その場がどのような機会なのか、またはどういったメンバーでの機会なのかで紳士のレベルを緩急させてもよいかと個人的には考えている。決して、仲間うちのゴルフが適当でいいわけではないが、正式なコンペほどガチガチにせずに、後ろからくるパーティや進行状況、周りの状況でよい塩梅に対応してよいと思っている。

ただ、それもプレー・マナーが許す範囲内ならばブレさせることもあり、というのが私のスタンス。しかし、ルールを無視してまでも自分を利するようなプレーはマナーに反するし、それをするのを目にすると、一緒に回っている私は興ざめするし、私にも同様にズルしてよいと言われても、その日のスコア自体を否定することになるので、嬉しくも楽しくもないし、誰のボールか確認するのに、私に断りなく私のボールを拾い上げてその辺りに適当に投げ捨てるのもやめてほしい。私はあまりゴルフをしないので、これまでに私が一緒にプレーした数少ない人たちをサンプルにすれば、日本人には個人的ルールを適用させる人はあまりいないし、いわるゆ西洋の人も同様なのだが、アジアの人にはフレキシブルな人が多かった。もちろん、国民性を単純化して正しく表現はできないけれど、ゴルフを楽しむにはやはりルールやマナーを守れる人と回るということも大事な側面の一つだと思う。

マツダ6生産終了(海外)

マツダ6生産終了(海外)

既に終了していた国内生産に続き、海外でも部品がなくなり次第に生産を終了するとニュース記事が報じている。

マツダ6に対しては、外観が欧州車に近い最初の日本の四輪車というイメージがある。日本からの輸出と海外での現地生産の両方ともに、北米が日本の自動車産業にとっての大きな市場であり続けていたことからか、その大きな市場で販売しやすいように、日本メーカーの四輪車の外観は、欧州車よりもアメリカ車のほうに寄せていた印象で、今なおも多くのモデルに対して同様の感想を持っている。SUVに関する欧米差は、小さなトラックといった感じの北米SUVに対して、欧州車は大きな乗用車といったような、さほど大きくない差のように私には見えるが、これがセダンやステーションワゴンとなると、ものの見え方の基準が欧米では違うんだろうなというくらいの大きな差異があるように私には見える。
そんな北米テイストの外観が多い日本車の中で、私が欧州にいたころにデビューしたマツダ6は、欧州でみた日本車の中で最もカッコ良く、欧州の風景と周りを走る欧州車の中にとても溶け込んでいると感じていた。事実、日本車の中では欧州で販売台数的にも成功した部類のモデルだったような記憶もある(定かではない)。

日本では、セダンとステーションワゴンの売れ行きがかつてほどではないという記事を見ることが多くなった。少数の希望者のために売れない車を開発する余裕も義理立ても自動車メーカーにはないだろうし(最近、16eに代わったiPhone SEにも同様のことが言えると思う)、フル・ラインナップを持つより自社の特徴を生かした車に経営資源を投入するのが営利企業としての姿勢であろう。私がいつか日本に帰る時、車の選択肢がどうなっているのだろうか。まだ自分で乗ったことはないのだが、一度はクーペを保有してみたいと思ってきた。歩行者保護とか安全性や燃費など、車の外観にも影響を与えうる設計・性能上の要求事項が増えてきている中で、それらを考慮するがためにカッコよい外観の車が絶滅してしまう前に最後の車を買って長く乗りたいと思っている。

観るスポーツで好きなのは何ですか?

観るスポーツで好きなのは何ですか?

外で仲間と食事していた時の会話内容。そこに居た数人は、今所有しているパスポートの数で言えば4か国、本人のルーツでいえば5か国の人々が集まって食事をしていた。誰かが、「プレーするスポーツと観るスポーツ、みんな何が好き?」という話になって、別の一人が「じゃあ、テーブルの席を順繰りにまわって各自言って」という話になった。

私にとってスポーツ(運動。体を動かすこと)は、プレーするものとしての位置づけの比重が大きくて、観るスポーツとなると、観ることに対する熱量が多くない代わりに何を観てもそれなりに楽しめるとは思っている。

食事時の質問の順番が私に回ってきた。正直に言えば、最近スポーツを観ていない。決してスポーツが嫌いなわけではない。なぜ観ていないのか。

帰宅してから考えていたら、そもそも私はテレビを観ないし、競技場でスポーツを観るほど熱心なファンでもない。

テレビは一家に一台が普通の時代に育ったので、中学生くらいまでは父親が観るテレビ番組一択だったので、私にとってのテレビ番組は娯楽ではなかった。高校生になると部活が忙しく、そもそもテレビを観た記憶がほぼない。大学入学とともに始めた一人暮らしには自分用のテレビはあったが、高校生までにテレビを観ない生活が普通になってしまっていたし、大学生はそれなりに忙しいのでこの年代でもテレビをあまり観ていなかった。就職して最初の2年くらいは始発・終電での勤務が多かったし、そういえば、テレビを買ったのは入社3年目だったと記憶する。その後は海外勤務が重なって全くテレビを観ない生活が復活。

テレビを観ない経緯は私個人の特殊な環境とかで同僚にはどうでもいいことではあるけども、日本人にそれなりの確率で生じうる共通点としては、高校時代のノンプロのような部活生活でテレビを観ない生活になった、という人は特殊な人々ではない程度の一定数は存在しているのではないかと思う。この辺の部活どっぷり生活は、海外の人に説明しても背景を理解してもらいずらい事象ではないかと思った。

猫の日

猫の日

にゃん・にゃん・にゃんの語呂合わせで2月22日は猫の日。にゃん3回だとちょっと冗長な気がして、にゃん・にゃん2回のほうがリズムがよいように思えるが、2月2日ではなくて2月22日。

もともと2月3日に節分がビッグ・イベントとして存在していることから、猫の日を決めた人々の中に、節分に隠れる可能性を心配した人がいたかもしれないことや(今年の節分は2月2日だった)、猫のかわいさに全く関係ない別の意味で「ニャンニャン」が世間で使われているのを嫌がったのかもしれない。まあ、そんな考察はいいとして、去年までは猫の日を知らなかった私が今年になって知ったように、今年初めて知った人はほかにもいるだろうと思うので、知名度が大事な記念日にとっては、してやったりだろう。

ちなみに、2月22日が記念日になっている日で、その由来が日付の語呂や見た目が理由と思われるものは下記の通り。

・おでんの日=「ふー、ふー、ふー」(これも音的には2回の方がしっくり)
・食器洗い乾燥機の日=夫婦(22)にっ(2)こり
・猫背改善の日=猫背の人を横から見て形が似る数字の2が最も多いのが2月22日
・温泉マークの日=温泉マークの湯気(逆からみたとき)