やってしまった

やってしまった

落としちゃいけないと思っているそばから、やっちゃいけないイメージの通りに手にしたものをこぼれ落としたりぶつけてしまうケースが増えてきたことを、少し前に記録しておいた(慎重にやってるのに手からこぼれる – Journeyman : Blog)。この事象は最近始まったことではなくて、これが起こり始めてからも普通に生活を送っているので、脳に異常があるとか重大な何かがあるとかではなく、老化や注意不足が原因だと自分では思っている。よって、何かをするとにきは、いままで以上に手元をきちんと見ながら作業することで解決するかを見守るつもりでいる。

そんな中、今日はいままでとは違うタイプの失敗で、かつ、そのタイプの失敗としては非常に久しぶりのことをしてしまったので、後日のために記録しておく。

鼻うがいをしようと思い、水に溶かして使用する生理食塩水の元(粒体)を手に取った。この粒体は、一回分の使用量の個別包装に入っていて、その包装を引きちぎった。そのあと、引きちぎられたほうの包装ゴミを捨てようとしながらも、なぜか、逆の手に持っていた粒体がまだ入った状態のもう一片のほうの包装をゴミ箱に向かって傾けてしまった。ゴミ箱にドサッと捨てたというよりも、コーヒーに砂糖を入れるときのように、袋状になった包装を傾けていたので、本来は溶解するために水が入ったボトルに対してすべき動作をゴミ箱に向けてやってしまったような形だ。

朝食を食べたあとの出来事だったので、起床してから30分以上たってからのことだから、寝ぼけていたのは原因ではないだろう。ボケの始まりか。なんだろう。入浴中に手に取った洗顔料を髪につけて洗髪しそうになったことはあるが、それは1年以上も前のことで、この手の事件は久しぶりだ。また、鼻リンスについていえば、もう何年もの間やってきたが、こんなことは初めてだ。次に何しようと意識をさほど使わずにできるタイプの行動の時にこんなことをしでかしてしまってびっくりだ。

明日は、起きて30分後の血圧を測って、夜や昼の血圧と比較してみようかな。





終始ついてくる店員が苦手 東南アジアにて

終始ついてくる店員が苦手 東南アジアにて

買い物しているときに苦手に感じることは、店員さんが終始ついてくること。訪問したことのない国のことは判らないが、これまでの私の経験では、東南アジアの国で店員さんがついてくる率が高い。

万引き防止のための見張りなのだろうか。

キャッシャーに入力者の記録が残るので、ほかの店員に販売実績の横取りされたくないがための尾行だろうか。いや、さっきの店には、尾行していた人以外には、店員さんはいなかったから違うだろう。

では、いつ質問されてもいいようにサービスの一環なのだろうか。いや、それも違うだろう。なぜなら、監視はするが決して私に近づいてくることはしない。私のことが見える位置に移動しながらも遠くから私を見守ってくれている。

飲食店では逆に、私と目を合わさない選手権をしているかのような店員さんが多い。きっとこれは、注文取るのが面倒なのだろうと推測している。同じ時給をもらえるならば、誰でも仕事は少ないほうがよいに決まっている。また、道路上でも同選手権は開催されている。路上のケースでは、誰か周囲の人に気付いた方が相手に進路を譲らないといけないというローカル・ルールがあるようで、相手のことが目に入っていないかのように振る舞う必要があると聞いたことがある。だから絶対に目を合わさないらしい。車と車、バイクと車、歩行者とバイク間で対戦が繰り広げられている模様。

尾行されたり無視されたり。ツンデレか。

ついてこられるのが嫌なのは、一つには、私がそうされることに慣れていないからだと思う。そうであれば、嫌と感じるのは私の都合であって、相手は悪くないことになる。別の理由は、万引き防止の尾行であるとすると、私が警戒されていることに不快感を覚えて嫌だと感じる。しかし、これも私の都合であって、店員さんは私の時だけ尾行しているわけではないはずだ。そう考えると、明日からは尾行する店員さんを寛大な気持ちで受け入れたいと心を入れ替えつつも、なぜ尾行しているのか、いつかは聞いてみたいとも思っている。


誘惑に打ち勝った

誘惑に打ち勝った

久方ぶりに都会へ買い出しに行ってきた。買い出しに行く時の目的はだいたい食料品。

ひと通り食料を調達した後は、弁当や総菜、パンを買って買い出しを終え帰宅。帰ってから2-3日は、その弁当、パン類で過ごす。新しい店もできているとは思うけれど、その街へ行くときは、だいたい同じ店に行ってしまうので、同じような弁当や総菜、パンを買ってしまう。今回の買い出し旅も途中までは同じ流れで好きな総菜を入手した。

いつもの買い出しでは、日本酒やワインも調達して、その日だけはと自分を甘やかして総菜や弁当とともに自宅で一杯ひっかけるのが流れ。ただし、今はアルコール類を少し控えているので、今回は買い物リストに酒はもともと入れておらず、総菜を買うまではその流れの通りに買い物を進めていた。

ところが、だ。

総菜を買っていると、出来上がりの品物が陳列棚にならんだ。それは、食べたいものだった。いつもは買っているものなのだが、最初は陳列棚になかったので、あやうく買い忘れるところだった。それで、それを入手した瞬間、あ、日本酒があるといいと思ってしまった。

今回は酒を買わないという計画で買い物にきて、その後、酒が欲しくなり、そして、その誘惑を押し返した。そのやり取りを自分の心の中で何往復かして、そのたびに誘惑と強い意志の振幅が大きくなっていった。その間、酒売り場とそのほかの商品の売り場の間を何往復もした。

結局、今回は酒を買わなかった。今回の心の動きを誘惑と呼んでよいものかどうかわからないが、その言葉を使うとすると誘惑に打ち勝ったと言える。いくら途中で考えが変わりそうになったといっても、もともと買わない計画だったので、計画通りに実行しただけといえばそうなので、打ち勝ったといって誇るほどのものではないかもしれない。

しかし、一度決めたことからなびかなかったことは事実なので、私の身の回りのことで、何かが少し好転するような期待がある。何かを求めて何かを我慢するような交換条件の結果ではないのだが、自然と期待が湧いてきている。

エクセル:SUMIF 検索範囲と合計範囲は同じ列の数だけ

エクセル:SUMIF 検索範囲と合計範囲は同じ列の数だけ

またも最近の発見。SUMIFの検索範囲と合計範囲の列の数は、同じだけということ。
例えば、検索範囲を1列で設定すると、いくら合計範囲として複数列を設定しても、検索範囲の列数である1列(設定した合計範囲の中で最も左に位置する列)しか合計しないということ。
基本的なことかもしれませんが、私は知らなかった。

①検索範囲を1列、合計範囲を3列設定したケース=一番左しか合計されない

②3列を合計範囲として計算させたいときは、検索範囲も3列設定する必要あり

※上記の説明は、下記の例と一致しませんが、伝えたいことは、下記の例では検索範囲を5列(ただし、検索ワードが入力されている実質の検検索範囲は3列)にしたら、合計範囲も5列に設定して、検索範囲の右隣の列から合計を導いてください、とSUMIF関数を設定する必要がある、ということの模様。

全個体電池を試験的に車両に搭載

全個体電池を試験的に車両に搭載

掲載から1か月くらいがすでに経つが、日経新聞に「BYD、全固体電池を27年にEV搭載 大量生産は30年以降」という記事があった(2025年2月18日)。記事には、「BYD子会社の幹部は15日、2027年ごろから次世代電池「全固体電池」を試験的に車両に搭載すると明らかにした」とあったのだが、試験的に搭載するという記述に目がいった。もしかしたら、発言した幹部の中国語の翻訳が実は「試験的」では正しくなかったとか、あるいは、中国語に相当する「試験的」の定義が上市一歩手前であとは認証のハンコを押すだけとかかもしれない。しかし、仮に翻訳や解釈によるものであったとしても、「試験的」に搭載するという表現が私にはショッキングだった。

ひとつには、手続きが全て終わる前に搭載することへのショック(=心配)。もう一つは、試験的にでも搭載できる早いアクションへのショック(=感嘆)。

にわか調査員としてネット検索すると、中国自動車業界は、GB規格(Guo jia Biao zhun、The Chinese national standards、中国国家標準規格)というものに基づいていて、日本はECE法規(Economic Commision for Europe、欧州経済委員会)という規格に基づいているとある。異なる規格・法規・基準に基づけば、異なることができるのは理解できるし、試験的にでも搭載することでより多くの実地データが入手できて、安全性能に活用できるかもしれない。もしかしたら、大昔の犠牲者のおかげで、今、フグを食べられている事実に似ているのかもしれない。このことに関しても、私にはどちらがよいのか判らない。また、今日も眠れない。

エクセル:sumifs関数、ダイアログボックスにスクロールバーあり

エクセル:sumifs関数、ダイアログボックスにスクロールバーあり

今更なにを言うんだ、という人が殆どかと思いますが、もしも私のようなおっちょこちょいの人がいれば、ご参考になるかもと思って書きます。

sumifsを使って3つ以上の条件設定をしようとしましたが、ダイアログボックスには条件2つまでしか目に入らず。ネットで探すと条件は127個まで設定できるとあるが、2つまでしか目に入らず。
ここで、私が勝手に解釈したのは、
      ・条件は最大127個設定可能
      ・ただし、ダイアログボックスでは2個まで
      ・3個目から127個目までは、関数の括弧内は自分で手入力してゆく

ダイアログボックスの右側にスクロールバーがありました。
127個全部、ボックスで対応可能です。
私がおっちょこちょいというか、注意不足というか、とにかく焦りすぎてました。


社長は判りやすい話し方をする

社長は判りやすい話し方をする

イントネーションやアクセントのような発音の違いや、普通名詞の単語自体に違ったものを使ったりする。また、稀なケースではあるが字幕スーパーの共通語翻訳付きの映像を見ることもある。これらは日本語の中での違いの話。日本列島が南北に長いためか、地域による言葉の違いが国土面積以上にあるように思う。

日本語でそうなのだから、地球規模でいえば違いはさらに大きくなる。さすがに地球規模となると同一言語でなくなってしまうため、例としては日本語の違いが発生した経緯とは違うのだが、多くの国で多くの人が意思疎通に使う英語の喋り方の違いも興味深い。個人差からくるものと、母国語に引っ張られる違いが掛け算になると、しゃべり方のバリエーションは尽きない。

ただ、非常に聞きやすい英語を喋る人たちがいる。その一つの例が社長だ。社長と呼ばれる人たちの話をきくと、スピーチ・トレーニングを受けたかのように、非常に聞き取りやすい話し方をしてくれる印象がある。それは、社長という立場にいる人は、社員や投資家、取引先など不特定多数の人と会話する必要があり、また、会話時には、相手のリスニング水準に多少、難があったとしても、間違いなく正確に内容を相手に伝える必要があるという目的が明確だからだと思う。

私も、できれば聞き取りやすい英語をつかえるようになりたいと、日々、思っている。それには、一度で通じない時には単語や表現、イントネーションを変えてみたり工夫もしている。英語を学び始めの頃に You-attitude という発想を先生から教わり、いまも心掛けている。発音の仕方も同様に、できるだけ判ってもらいやすい話し方をみにつけてゆきたいと思う。

ゴルフは紳士のスポーツ

ゴルフは紳士のスポーツ

堅苦しいことを主張するつもりはない。その場がどのような機会なのか、またはどういったメンバーでの機会なのかで紳士のレベルを緩急させてもよいかと個人的には考えている。決して、仲間うちのゴルフが適当でいいわけではないが、正式なコンペほどガチガチにせずに、後ろからくるパーティや進行状況、周りの状況でよい塩梅に対応してよいと思っている。

ただ、それもプレー・マナーが許す範囲内ならばブレさせることもあり、というのが私のスタンス。しかし、ルールを無視してまでも自分を利するようなプレーはマナーに反するし、それをするのを目にすると、一緒に回っている私は興ざめするし、私にも同様にズルしてよいと言われても、その日のスコア自体を否定することになるので、嬉しくも楽しくもないし、誰のボールか確認するのに、私に断りなく私のボールを拾い上げてその辺りに適当に投げ捨てるのもやめてほしい。私はあまりゴルフをしないので、これまでに私が一緒にプレーした数少ない人たちをサンプルにすれば、日本人には個人的ルールを適用させる人はあまりいないし、いわるゆ西洋の人も同様なのだが、アジアの人にはフレキシブルな人が多かった。もちろん、国民性を単純化して正しく表現はできないけれど、ゴルフを楽しむにはやはりルールやマナーを守れる人と回るということも大事な側面の一つだと思う。

球春、野球中継のカメラワーク

球春、野球中継のカメラワーク

プロ野球キャンプ・インからひと月半がたち、オープン戦のスタメンも公式戦メンバーに近い形になりつつあるようなことをスポーツ・ニュース記事で見かけるようになった。また、センバツの記事もぼちぼち目にするようになった。

海外にいると、日本の野球中継を観る機会はほぼない。加入している衛星方法のチャンネルによるところが大きいと思うが、アメリカ大リーグの中継は衛星でやっていても日本プロ野球はやっておらず、また、You Tubeの個人チャンネルで流れている日本のプロ野球中継は違法だろうから視聴しない。

そんなこんなで、しばらく中継を観ていないので今は違っているかもしれないけれど、日本の野球中継で変えてもらいたいことがある。それはカメラワークに関連することで、いくつかある中で特に不思議に思ってきたのはホームランの時に打球のアップを映すことだ。あれは、視聴者が観たいと望んでいるというよりも、カメラマンが自分の腕を示すことに使われているようにずっと思ってきた。いつからあの画面が使われるようになったか判らないが、小さいころから見たような記憶があるので、もう何十年もあのやり方になっているのであろうから、あれを見て育った若いカメラマンもそのフォーマットを受け入れることになるのかと推測する。

私の希望が特殊なものだったらそうならないのは仕方ないが、私がみたいのはホームランの時の周りの景色だ。両チームを応援するスタンドや選手たちの雰囲気をみたり、打った瞬間からスタンドにボールが入るまでの間の打球の軌跡を、終始、画面の中で追うことができるくらいまで引いた固定カメラの映像だ。また、固定カメラついででいえば、塁上のクロスプレーやグラウンド地面すれすれで捕球したかどうかの場面を映すカメラも固定が望ましいというのが私の意見だ。打球や走者をカメラが追うことで、すれすれの画面のスロー映像がぼやけてしまい、せっかく映像をみても何が何だか判らない。あれは、カメラが捉える範囲を固定することで解決する部分があると思う。

ほかにも私の希望はいくつかあるが、私が望むような映像を見ることができないのは、そういう需要がないからだと思う。それは判っている。とはいえ、スポーツ娯楽 ≒ 野球だった時代と違って、観るにせよプレーするにせよ(子どもたち)、野球の地盤沈下が言われている中ではプレーをもっと丁寧に見せることも野球ファンを増やすのに役立つのではないかと感じているので、いつか私の個人的意見がどこかの誰かに響いてほしいので、テレビ局に投書でもしてみようかな。

ロシアン・ティー

ロシアン・ティー

飲み物の分野でいえば、私は完全にコーヒー党。普段は、水を除けばコーヒー以外の飲み物は、よっぽどのことがない限り選択肢に上がってこない。ところが、先日に突然、たまには紅茶を飲んでみようという気分になった。何かで見たとか読んで影響を受けたわけではなく、本当に何の前触れもなく紅茶が頭に浮かんだ。

コーヒー党ゆえに家に紅茶の在庫はいので、即日実行とはいかずに、まずはスーパーで紅茶を買う必要があった。美味しい紅茶の方が長続きすると思って名前を知っているところの紅茶の葉を買うことも考えたが、最後まで使い切れるかどうかの自信がないため、割と安めのものをまずは試してみることにした。

スーパーの紅茶売り場に立っていると、例の突然のひらめきでロシアン・ティが降って湧いてきた。こちらはゼロから出てきたわけではなくて、30年以上前に当時の知り合いと喫茶店に行ったときに、一緒にいた人が注文したのがロシアン・ティだった(ゼロからではないが30年以上前の記憶からだった)。そう思い始めると、ロシアン・ティにあう茶葉ってなんだろうとスマホで検索したのだが、ジャムは溶かすものではなくて、紅茶をのみながら舐めるものだという説明に目が入った。ロシアンティを初めて知ったあの日から30年以上、ジャムは溶かすものとばかり思っていたので、目から鱗が落ちた瞬間だった。そうすると、この飲み方に関するほかの情報も知りたくなって調べを進めると、ロシアのお茶文化といった一般名詞としてのロシアン・ティを除くと、アメリカ発祥のロシアン・ティはジャムとは無関係だとかいろいろ出てきて、今日も探求心から眠れなそうだ。

自分のことを喋るのは気分が良くなる

自分のことを喋るのは気分が良くなる

観ていたYou Tubeの番組の中で、良い質問をする人がよい聞き手ではなくて、相手に多くの話をさせる人がよい聞き手という定義を持っている人がいた。その人曰く、人は自分のことを喋ると気分がよくなるから相手に多くを語らせるとよい、ということだった。

たしかにそうだな、と思った。よい聞き手の定義のうちの一つとなるのに十分だと私は思った。

私にとっては初耳だったが、このことが広く一般に知られていることか気になったのでネット検索してみると、キーワードのあいまいさでヒットした関係ないことや、ネガティブな感情を口に出すと苦痛が緩和されるようなことは書いてあった(後者のことは、カタルシス効果と呼ぶようだ。テレビ・ドラマ「ブラッシュアップライフ」で登場人物が言っていたが、ドラマを見たときは、正直に言ってカタルシスの意味が分からなったし調べもしなかった)。

自分のことを喋ることで考えに整理がついて、整理がつくとすっきりして、すっきりすると気分がよくなることはあると思う。それが、「自分のことを喋る」ことが「気分がよくなる」と直結させて言ってよいかどうかは実際のところ判らないが、気分がよくなる話であれば誰にも不満はないだろう。

ファミリー・ネーム

ファミリー・ネーム

選択的夫婦別姓が施行されると、「姓」に対する英訳は、日本では「surname」だけになって「family name」は姓の訳語として使われなくなるのだろうか。Family なのに父母で異なる名字を使うことを選択した人には、もう family の name ではなくなる。父方 family の name や母方 family の name では、自分の親家族には違いないが、自分が結婚を決めた配偶者とその配偶者との間の子どもという意味での家族感とは違う。

ところで、夫婦同姓を法律で強制するのは日本だけのようだが、family name という単語は世界各地で公文書に使われているのか surname が正式な英単語なのか(あるいは、それぞれの国の現地語に surname と family nameの両方の単語が存在するのか)など判らないけど調べてみたいことだらけで、今日も時間が足りない。

普段と違うことをやってみたら…

普段と違うことをやってみたら…

昨夜、取引先と食事をした。会食ではなく、先方の会社の社内イベントに同席させていただいた。その会社は、私が勤務する会社の近くに工場があるものの、本社アドミは車で数時間の場所にあり、私を招待してくれた人もそのアドミ事務所勤務。そのお方が工場に来るときは、だいたい食事に誘ってくれて、時には先方社員の食事会に私一人、部外者で参加することもある。昨夜はそのパターンでもう少し大規模の会社イベントに同席させていただいた。

会場は、私が住む町ではあるものの、普段はあまり行かないエリアにあるホテルだった。早く着きすぎたら、丁度、用事もあるんのでスーパーへ行って時間調整しようと思い、いつも以上に余裕をもって会社を出発。
結局、だいぶと早くついたので、いざ買い物へ。
いつもは行かないスーパーなので、何がどこにあるか判らず何度も同じ場所をぐるぐる・うろうろしていると、私に声をかける人が。名前を呼ばれたので会社の人だろうとは思ったのだが、よく聞くと私の勤務先にインターンとして7-8年前に働いていたとのこと。私は名前と顔を覚えるのが苦手であることに加えて、私の勤務する製造業の会社の従業員は数百人レベルとあって、よくあるように昨晩も申し訳なく感じつつも、お互いに近況を少々報告しあって会話を楽しんだとともに、声をかけてくれたことが非常に嬉しかった。同時に、外国人は目立つから、悪いことはしちゃいけないなと再確認した(普段から悪いことはしていない)。

再会と買い物を終えてスーパーを出ると、横にドラッグストアがあった。私がこの町にきて暫くたった頃にふと入ったスーパーで見つけた、とても泡々なボディーソープが気に入ったのだが、そのスーパーは数か月前に閉店してしまい、その後はどこを探してもそのボディーソープを扱っている店に出会うことができなかったが、なんと、たまたま入ったドラッグストアにその商品がおいてあった。ああ、来てよかったとつくづく思った。

弁護士の人は、日々の生活の中で下さなければならない決定や選択に脳みそを浪費しないよう、生活をパターン化させている人が多いと聞いたことがある。私は弁護士でもなければ脳みその浪費を回避しようとしているわけでもないが、パターン化した生活という意味では似ている。時にこれでは味気ないと思いつつも、仕事で疲弊しているのも事実で、こうなってしまう。しかし、昨晩のようなことがあると、たまには普段と違うことをするのもいいことがあるなと思うのだが、それがまたジレンマを生み、いつも通りにすべきか違うことをすべきかで心をすり減らしてしまうのだ。解決しない。



あの先生がいなかったら別の人生かも

あの先生がいなかったら別の人生かも

そう思う先生が三人いる。

中学2年の時の英語の先生。
高校2年時の数学の先生。
それと、大学時代の商業英語の先生。

この三人にそのタイミングで教わることがなければ、きっと違う進路に進んでいたであろうし、そうとなれば、私が過ごしてきたこれまでの日々とは全く異なる経緯で今日を迎えていたことだろうと思う。

中学1年の時に英語がちんぷんかんぷんだった私を洋楽で救ってくれた2年の時の先生、中学数学から高校数学に変わって全くついていけなくなった私に、ノートの効果的な取り方や数式等を書くことで理解が進むことに気付かせてくれた数学の先生、商社マンから大学講師に転職した先生から聞いた貿易実務になんだか興味を覚えた大学時代。

卒業シーズンなこの時期、きっと叶わないと思うが、会ってお礼が言いたい。

英語環境PCの文字化け対処

英語環境PCの文字化け対処

最近、私が遭遇した問題で解決に至った方法をかきます。
もし役に立てば幸いです。

■ 起きた事象
海外で新規購入したWindows PCで発生
一つのアプリ(私の場合はOutlook)のうち一部文字化け、一部正しく表示

■ 対処法
①コントロールパネル → ② 「Region」を選択

③Regionを開くとFormatsタブが開くので「Administrative」タブを選択


④ 「Change System Locale」を選択


⑤ Current System Localeを「Japanese (Japan)」へ変更する

これで解決する例があれば幸いです。



■ 私が遭遇した問題の具体的説明
・海外製PCを購入
・OutlookのPSTファイルを移植
・Outlookアプリ上、移植した個人用フォルダの名前の一部は正しく表示されたが、一部は文字化けしてしまった
・全ての個人用フォルダが文字化けしていたら、そういうものかとあきらめていたが、そうでなかったため、どこかに問題があって、どこかに解決策があると思

新聞社と多様性

新聞社と多様性

海外赴任の累計が10年を超えていたので、日本の新聞を読まないこともそれなりの期間に及んだ。初赴任時は、ファックスで新聞が送られて来る高価なサービスを着任先の会社が購読していたが、その後は、海外印刷の新聞がクーリアで手に入る時代になったものの、赴任地の地理的事情(クーリアでも入手までに数日を要する)や日本人が私一人の事務所などといった理由から、購読する選択肢がないことが殆どだった。一方、今になっては電子版があり、個人レベルの申し込みでも金銭的負担へのハードルはさほど高くない。

さて、毎日、継続して何かにかかわる中では少しずつの変化にはなかなか気付かないが、しばらく時間をおいて暫らくぶりだと違いに気づきやすいことがある。この一例として、わが子の成長と違って久々に会う親戚の子の成長は、目に見えてはっきり気付くことがある。

私にとっては新聞もそういったところがあって、新聞を毎日読んでいた時には気付かなかったことが、しばらく新聞から遠ざかると変化に気付く、というか、新聞が変化していないことに気付くことがある。新聞社も営利企業である以上、特定のイデオロギーに基づいた意見を掲載することは当たり前のこととして理解できるし、自社の意見を正と主張するのも理解はできる。とはいえ、久々に新聞に目を等してみると、社説でよくみかける「〇〇せよ」という見出しをいまだに見かけるのには違和感を覚える。特に、自分たちの努力や主権が及ばないことに対しても「〇〇せよ」と主張する社説を先日見たときは、思わず吹き出しそうになった(トランプ政権に対して命令している記事はもう見慣れたが、私が吹き出しそうになったのは中国政府に対して、「〇〇すればうまくいく」と自信たっぷりもの申していた。少し話はずれるが、10年以上前に世間のサラリーマンの間でささやかれていた「OKY」=お前が来てやってみろ、Omaega Kite Yattemiroと思った)。

また、自社の意見を主張するのと、他社の意見を否定してよいかどかは別物だ。吹き出しそうになった出来事をこの例からいうと、普段は他者の意見を尊重せずに頭ごなしに批判している新聞社が、多様性からの離脱風潮に対して批判的な意見を展開していることだ。

それも含めて新聞社。読者が知恵が真偽を見分けるのは無理だけど、疑いの目をもち、いくつものソースを調べ、多角的に自分で分析・考えることはできるはずだ。

国際女性デー

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。女性の役割拡大や地位向上を目指すこと、その進捗を確認するために年に一度、記念日を設けることに私は賛成の立場。

男性への逆差別云々という一部世間の声について、個人レベルで利己的に述べると一部には同意できる事柄もあるけど、人類の中の male という性の中の一人の見地から言えば、逆差別のような事象は私の生死に影響を与えるほどの重要問題ではないし、また、これを是正しなければと本気で主張するつもりも私にはないし、女性の日があって男性(割引き)の日がないことに私も文句もない。

とはいえ、ここ数年のありとあらゆる多様性への主張は、ちょっと違うんじゃないかとずっと感じてきた。それは、そういった主張をする人々の表現の仕方に影響されている部分のあると感じている。それはというと、少数こそ正義というメッセージに聞こえる場合があるからだ。いろいろな媒体で出尽くしている表現になるが、少数派こそ多様性を受け入れない人たち、利権団体にすら思えてしまうことがなくもない。

私がジャーニーマンのように働いてきた経歴の中で、どちらかといえば私が仲間に入っている立場になることのほうが多かった。けんか腰で自分の立場だけを主張していても、当然、受け入れてもらえない。受け入れられなければ、たとえ私が良い案を提案しても採用されることはなかっただろうし、事柄がうまく回ってゆくこともなかったかもしれない。受け入れてもらうために自分を偽る必要はないが、まずは受け入れてもらって、やっと何かが動くのだと思う。そういった意味では、本当に世の中を変えてゆこうとするならば、アプローチを変える必要があるし、大声を出さないと変われないと人々に思われる世の中も変えてゆかないといけないと思う。

多様性の進捗を測るために目標を数字で規定することは、それが目的化してしまう問題や目標値の決め方に課題があるのも誰もが気付いていることではあるが、かといって、客観的評価を可能にするには目標と現状を比べる以外の方法を思いつかないのも正直なところ。ただ、多様性のもともとの意義は、多様な人材や視点、アイデアが生まれやすくなることで問題解決の幅が広がって良い成果につながる、ということだったはずなので、こっちの視点からの何らかの評価方法を考える必要がある。もしも私が経営者になったと仮定して、どんな方法があるか考え続けることを止めないようにしたい。

マツダ6生産終了(海外)

マツダ6生産終了(海外)

既に終了していた国内生産に続き、海外でも部品がなくなり次第に生産を終了するとニュース記事が報じている。

マツダ6に対しては、外観が欧州車に近い最初の日本の四輪車というイメージがある。日本からの輸出と海外での現地生産の両方ともに、北米が日本の自動車産業にとっての大きな市場であり続けていたことからか、その大きな市場で販売しやすいように、日本メーカーの四輪車の外観は、欧州車よりもアメリカ車のほうに寄せていた印象で、今なおも多くのモデルに対して同様の感想を持っている。SUVに関する欧米差は、小さなトラックといった感じの北米SUVに対して、欧州車は大きな乗用車といったような、さほど大きくない差のように私には見えるが、これがセダンやステーションワゴンとなると、ものの見え方の基準が欧米では違うんだろうなというくらいの大きな差異があるように私には見える。
そんな北米テイストの外観が多い日本車の中で、私が欧州にいたころにデビューしたマツダ6は、欧州でみた日本車の中で最もカッコ良く、欧州の風景と周りを走る欧州車の中にとても溶け込んでいると感じていた。事実、日本車の中では欧州で販売台数的にも成功した部類のモデルだったような記憶もある(定かではない)。

日本では、セダンとステーションワゴンの売れ行きがかつてほどではないという記事を見ることが多くなった。少数の希望者のために売れない車を開発する余裕も義理立ても自動車メーカーにはないだろうし(最近、16eに代わったiPhone SEにも同様のことが言えると思う)、フル・ラインナップを持つより自社の特徴を生かした車に経営資源を投入するのが営利企業としての姿勢であろう。私がいつか日本に帰る時、車の選択肢がどうなっているのだろうか。まだ自分で乗ったことはないのだが、一度はクーペを保有してみたいと思ってきた。歩行者保護とか安全性や燃費など、車の外観にも影響を与えうる設計・性能上の要求事項が増えてきている中で、それらを考慮するがためにカッコよい外観の車が絶滅してしまう前に最後の車を買って長く乗りたいと思っている。

短期業績を出し続ける

短期業績を出し続ける

外国人経営者と聞いてイメージするのは、株価を上げることを最大の関心事にしていそうだ、ということだ。海外の企業では外国人経営者が当たり前なので、あまりに乱暴な分け方の表現になってしっているけれど。

将来性が株価に反映されているという見方はあるものの、株価を上げる=短期的な施策に注力する、というイメージの方が強そうに私は感じている。株価を気にするあまり、近視眼的なアプローチをとりがちになり、自分のいる間の業績さえ良ければあとのことは知らない、業績連動の報酬という個人でのベネフィットも得られる、というスタンスになってしまうのではないかと。

ただ、最近はこの考えが間違っているのではないかと思うようになった。

まずは、経営者は自分の任期の間に結果を出すべきであって、長期ビジョン云々いっても、その結果が出る頃にはご本人は経営の一線にはいないであろうから、検証できず結果責任を問われることもなく無責任この上ない。そうであれば、聞こえのよい夢物語を言っても許されるし、メディアも夢物語を取り上げてワッショイ記事を書きやすいだろう。

また、短期・短期で全力で結果を出すことを繰り返すことで、それが長期に結果を出し続けることにつながるのではないかと思い始めた。それには、多くの日本企業が行っているような業績予想を開示するのをやめることもセットとする必要がある。なぜ、年度が始まる前から業績予想を出す必要があり、また、その予想に憑りつかれたように益出しのために優良資産を売却したりしないといけなくなるのか。業績予想こそ、市場に予断を与える情報ではないか。

会社がおかれた状況や業界、時代や景気動向などが変われば最適解も異なるだろうから、簡単に結論づけられる話ではないが、短期で利益を出して社内で勝ち癖をつけることや、市場や取引先からの見え方を変えてゆくことにつながる施策は経営者がこだわるべきところだとは思う。