閲覧者
カテゴリー: 報道

根拠のない解説

根拠のない解説

米軍とイスラエル軍がイランを攻撃したあとの3日間で株価が 4,500円以上値下がりしたのち、4日目の寄り付きは多少戻して取引を開始して、一時、2,300円を超えて上昇した、というニュースがあった。

上昇した理由として、イラン情勢への懸念が和らいだという解説をしているニュースをみた。報道の情報しかない私には和らいだようには思えず、不透明感満載な感じなのにと思った。メディアのひとは、視聴者・読者が知りえない情報を持っているのかなあと感心するとともに、もしそうだとしたら、信ぴょう性に関わらず真っ先に報じたくなる習性をもつメディアから和らいだという報道ぶりが伝わってこないのはどうしてかなあとも思った。

たぶん、株価が上がった理由がよくわからないから、和らいだから上がったことにしたのではないかと疑った。株価の動向など、誰にもわからない。超巨額の資金を使って株価を操縦する人がいれば、その人だけは判るかもしれないが、そんなことはありえない。基本、株価動向は誰にも分らない、というのが私の認識(間違っているかもしれない)。投資家は、人の推測に反して動くから利益をとることができるだろうし、そんなのが複雑にからむと予想はできないだろう。まして、メディアが予想するのは難しいだろうから、後付けで説明を生み出したり、専門家と呼ばれる誰かが言ったことを自分の考えと錯覚してしまて言っているのではないだろうか。

報道する人は「判りません」とは言えない人なのだろうから、今後も根拠のない解説であふれることだと思うので、私はそれらに振り回されないようにするだけ。

イラン情勢に関するニュース

イラン情勢に関するニュース

アメリカがイランを攻撃してから2日くらい経過した日に、日本のニュース番組をみていた。

その日は、中東の米軍基地やエネルギー施設がイランの報復攻撃を受けていた模様。イランの宗教指導者が攻撃を受けたあとのニュースでは、悲しむ国民や恐怖・怒りをあらわにするもの、逆に歓喜の声をあげる国民もいるというニュースがあったのだが、この日のその番組では国民の反応の続報を伝えることでもなく、また、今後のイランの国家体制がどうなるかという報じぶりもなく、あっちの米軍基地が攻撃された、こっちも攻撃されたということばかりを番組冒頭から伝えていた。その伝え方からすると、ちょっと意地悪い見方をすれば、米軍が攻撃されることが嬉しくて嬉しくてたまらない人たちによって構成された番組を見せられているようだった。とても驚いた。

新聞社はニュースのプラットフォーマーか?

新聞社はニュースのプラットフォーマーか?

気になる出来事があってニュース記事をネットで検索していたところ、日本の新聞社の記事をYahoo! ニュース上で見つけたので読み進めた。そのニュースは通信社のニュースを配信したものだった。国際ニュースならばそういったことは多いと思う。特に、速報的なニュースの場合には、日本の報道会社にはそれに対応して取材するキャパや体制が整っていないと想像する。

冷静に考えると、他社の記事を流すのであれば、日本の新聞社もプラットフォーマーということなのかなあと。第三者の情報を流す場と化してしまった?そうであれば、速報ニュースは捨ててしまい、自社でのリソースで対応できるニュースに特化してしまえばリストラできてコストも下げられそう。コストが下がればユーザー(読者)にとってもメリットが生じる。どうだろうか。

輸出規制リストに関するニュースにリスト掲載がない

輸出規制リストに関するニュースにリスト掲載がない

中国商務部が輸出管理リストに日本の防衛関連企業・団体を掲載した、というニュースが流れてきた。私の雇用主は日本企業ではないものの、幅広い意味や間接的には取引先になりえるかもしれないので、その企業・団体が知りたくなった。

最終的には見つけることができたのだけれど、調べ始めて最初のうちは、ニュース・サイトを閲覧しても「〇〇社など20社」という記事ばかりでなかなか答えに辿り着かなかった。これが、例えば企業開示など発表資料の元データにあたることができるものであればそれが最も早くて確実、バイアスの掛かっていない情報なので、私がよくやるのはこの方法。ニュース・サイトの気になる記事は、大元のソースにあたる。ただ、今回のニュースに関して中国商務部の発表を自分で探しにいくには自動翻訳を使って調べないといけないので、ちょっと面倒くさいかなあと思ったりもした。

メディアの人にお願いしたいのは、リストが開示されたというニュースであればリストを載せてほしいということ。文字数の制限があるとは思うけれど、リストはこちら、のようにリンク(最近、リンクはいろいろ怖いけど)にするなり方法はあると思う。ニュース・サイトによって記事中に記載されている企業が異なっていたので、他社記事からのコピペではないとおもうのだが、そうであればリストを載せてくれるのが読者ファースト(一種の流行言葉か)だと思う。あと、もう一つ気になったのは、メディアの情報元は各社の中国支局とかなのだろうか。あるいは、例えば経産省が報道各社にこんなことがあったと情報を提供してメディアが書いているのかちょっと気になった。まあ、気になっただけで、どうでもいいのだけれど。主題は、あくまでリストを掲載してほしいということ。

他社より早く出すことが記者には大事らしい

他社より早く出すことが記者には大事らしい

先日にYouTube番組をみていたところ、以前は新聞社に所属していたというフリーライターがゲストで出演している番組が流れてきた。いわゆる大手の新聞社に属している記者あるあるのようなことをインタビュアーから聞かれて答えていた。

あるあるのひとつとして、記者は他社よりも少しでも早く配信したいという気持ちがあるというようなことを言っていた。非常に理解できる。紙のニュースだった時代ならいざしらず、ネット配信となると朝刊・夕刊の時間を待たずに随時配信できるから、一分一秒でも早くというのは非常によく分かる。

ただ、それは、読者に有用な情報を少しでも早く伝えないといけないという使命感よりも、他社を差し置いて早く伝えたいということに重きをおいているようで、そうなると半分理解して半分はなんだかな、という印象を受けた。また、記事の真偽は別でとにかく早く出せばよいようなことを匂わしていたので、さっき、私が記者の習性の半分理解を示したうちのまた半値七掛けくらいしか共感できなくなってしまった。

それって個人の承認欲求を紙面や公共の(?)ネットを使って満たしているだけでしょうと思った。本心ではそう思っていても、その気持ちを隠すくらいしてもよいのではないかとも思った。

私が以前に関与していた案件に関わるメディアの報道ぶりに疑問を感じたことが過去にあり、それからは記事を信じなくなってはいたのだけれど、今回のこの番組によって、より強くそれを思うようになった。

メディアも営利企業だから、記事へのアクセスが増えることが第一義だろうから読んでもらえそうなセンセーショナルさが正確性にまさるし、そのメディアに所属する記者の側も、記者個人の評価が一番であるという人が多いのではないだろうかと想像する。正しく書いたからといって読者が増えたり評価がよくなったりするわけではない仕組みなのだと思う。また、何が正しいかを知らない私たちは、結局、記事が正しいかどうかさえ判別つかない。できるのは、自分が精通している分野がどう書かれているか比較して、その評価を参考にすることくらいだろう。

フォーマット化:うまく使う分にはよいが

フォーマット化:うまく使う分にはよいが

フォーマット化してできることは省力化・省人化・迅速化などなど、決まりきった何かを遂行する場合には良い面が多いと思う。一方、臨機応変に対応しなければならない状況には使えない。行動に関する場面では、「マニュアル化」と言い換えてもよいと思う。思考をアウトプットしたりする場合は、「フォーマット化」がふさわしい表現だと思う。

今月に実施された衆議院選挙後の動きを見ると、フォーマット化のよくない面を見ているような気がする。一番大きな例としては、中道改革連合の代表交代というのが私の意見。議席数を減らした二人の共同代表が引責辞任をし、さっそく、新代表が選出された。政治の分野に限らず、何か不祥事などが起きた直後に引責辞任はよくある話であり、また、辞任しない場合にはそのトップに対してマスコミや芸能人、政治家・経済人、世論などからの辞任を求める声が大きくなったりする。まれに、問題に対処するため辞任しません、というトップもいるけれど、保身だとかなんだとかで批判の矢面に立たされる。

多くの人に引責辞任がフォーマット化されていると思う。しかし、今回の中道をみていると、党内を落ち着かせてから新代表を選出した方がよかったのではないかと私は思う。特別国会の召集までに新体制にしたかっただろうし(首班指名に野田もしくは斎藤共同代表の名前を書くことはできないだろう)、共同代表自身が辞任を言ってしまったし(取材マスコミは辞任の言質をとるまで身の振り方を聞き続けただろう)、前代表自身としても辞任した方が楽だということも考えただろう。

しかし、今回の中道のようなケースでは、真摯に敗因を分析し、最終決定は新体制確定後だとしても、党内に将来の安心感をあたえるような方向性の案を打ち出したりして、悪い膿は自分たちがいる間に出し切り、新代表選出後は前向きな議論に集中できるような体制を作ってから辞任すべきだったと思う。それには、党員やマスコミもむやみに辞任させようとするのはどうかと思う。

フォーマット化が負の働きをする例だったと思う。決まりきったことを遂行するにはよいが、答えを見つける行動の場合には、思考停止につながるフォーマット化はうまく機能しないと感じさせる事象だ。

脱炭素が生む新たな環境負荷

脱炭素が生む新たな環境負荷

ちょっと前のネット・ニュースに、脱炭素のあとに生じる環境負荷について取り上げた文章があった。

大変だなあと思った。飯のタネを探し続けること、誰かが何かを言う前に先手を打たなければならないこと、常に何かに対して文句言い続けなければならないこと。そういったことをしなければ、存在価値がなくなってしまうのを危惧しているのだろうか。

大変なのかお気楽なのか、どちらかわからないけれど気の毒な感じがした。また、それを取り上げるメディアに勤める人も同じように気の毒だと思った。

在外選挙登録者の投票率

在外選挙登録者の投票率

先日に、大使館で衆院選の在外投票を行った。

ふと、在外選挙登録をしている人の投票率がどれくらいか気になっためネット検索をすると、2024年の衆院選のデータでは、95千人の在外選挙登録者数に対して約 18%ほどの投票率だったようだ(選挙区・比例ともに 18%台)。

これは、在外選挙登録している人に対する比率なので、実態としはどうなのだろうか。外務省が開示している「海外在留邦人数調査統計」2025年10月1日現在版によれば、2025年の総数が約 13百万人で、うち長期滞在者が 709千人、永住者が 588千人とのこと。永住者は日本国民ではないので選挙権はないと思うので、永住者 588 千人を分母にして、うち、日本国内の人口に占める有権者の割合(約80%)が海外にも適用されるとして、在外有権者数は 470千人と試算。そこから 2024年の投票者数から計算すると 在外日本人有権者の投票率が 3-4% の間と試算できる。精度は不明ながら、かなり低いことが想像できる。

私も何時間も車を運転して大使館へ行くが、もっと遠くに住んでいる人もいるだろうから、物理的に難しいケースもあろう。また、投票期間は参院選であれば週末が二度あるが、衆院選は一度の週末しかないため、何時間かで行ける私ですらチャンスは限られる。

セキュリティの問題もあるだろうが、ネット投票ができる時代になるとよいなあと思う。

ネット投票が可能になる暁には、投票を義務に課すのも検討してみるのもよいのではないかと思う。私の同僚の出身国ですでに義務化している国がある。検討くらいしてみてはどうだろうか。

最後に、在外投票でいつもなんだかなあと思うのは、投票用紙を自身の名前を記載した封筒に入れて投票するのがいつも気になる。開封する人がたまたま私の知り合いだったりするのが嫌だなあといつも投票所で感じている。


人の心情を勝手に想像して記事にする人々

人の心情を勝手に想像して記事にする人々

記者やそのほかの対外的に情報発信する人々は情勢を分析しているつもりかもしれないが、読み手である私たちからすると、人の心情や意図など判りもしないのに、それを勝手に想像して書いているんじゃないのかと疑ってしまうことがある。

最近の例でいえば、解散総選挙になるかという観測の中での報道。「高市首相は〇〇ということで解散総選挙を実施するのだろう。けしからん」といった文脈のこと。高市首相や選挙実施に対する私のスタンスは一旦横におき、ここでは記者や記者の所属会社の態度について言っている。高市首相へ取材した結果なのか?と聞きたい。想像で記事を書いているのに、事実のように書いていないか?それこそ、レッテル貼りや世論の誘導だなあと。

現実離れしたストーリーのドラマを見ていると、見ているこっちが恥ずかしくなるタイプが私。それと同様に、想像した心情や勝手に作ったストーリを事実のように書いている記事も読んでて私が恥ずかしくなることがある。事実なら事実と書けばよいし、想像ならばそうであることが読者に判るように書くべき。また、記者自身の政治的立場を明記したうえで書いてくれれば、ああこの人はこういう信条だからこういう見方・主張をしているんだ、と分かるというもの。

事件とか社会ニュースにも同じことが言えると思う。被害者・加害者のことを勝手に推測して書いてるのに、最後は断定している。嘘を書くと事務所がうるさいのか、芸能ニュースからは、勝手に詮索して書いている感じはあまりうけない。先日のアメリカによるベネズエラ大統領拘束に関する記事もファンタシーを堂々と書いているようで、読んでいててムズムズしたりする。

先輩の代から引き継いできたフォーマット化された伝統的な働きぶり・書きぶりなのだと思う。ここらで一度、リセットできる人に変わってもらいたい。あるいは、あたらしいメディアに登場してもらいたい。

ポジション・トーク

ポジション・トーク

私は、動画で討論や解説ものをみるのが好き。
ところが、最近は、好きでなくなりそうな感覚を持ち始めている。

解説者やコメンテータ、YouTuberが言っていることが、皆、以前にもましてポジション・トークだとしか思えないようになってきて、真面目にきくのがばからしくなってきた。それ違うんじゃない?と思うことがあるが、彼らはポジション・トークをしているだけだから、それに反応するのもばからしく感じるようになった。これまでは、自分と違う意見を聞くことを楽しめたのだが、最近は時間の無駄だと思うようになってきた。人生の残り時間が少なくなってきているはずなので、時間の無駄遣いがなくなるように仕向けてもらっていると思って、ありがたく感じている。

今までも淡々として生きてきたような気がするが、さらにそれが進行していくことが少し怖い。

オフレコ

オフレコ

官邸幹部のオフレコ発言が最近に報じられていた。

何年に一度の頻度でオフレコ発言が取りざたされる。そのたびにいろいろ議論があるが、私の中では政治家にはオフレコ発言はないと思っている。オフレコといってそれを本気にするマスコミは存在しない、というのが既に暗黙の了解になっているという認識だった。

だから、政治家が「これ、オフレコだからな」という場合は、流出するのが判ってあえてその情報を流すのが政治家でも常識になっているのかと勘違いしていた模様。

今回報道されている案件にどのような背景があるのか判らないけれど、センシティブな時の変な発言もよく判らないし、オフレコ発言を書くくらいなら発言者の名前も明かせばよいのにそうはしないのはなぜかもマスコミの世界にいない私には想像もつかない。オフレコ書くなら、その官邸高官とマスコミの信頼関係は壊れてしまっているはずなので具体名を隠す必要がないように私にも思える。

彼らには彼らの暗黙の了解があるのだろうけれど、オフレコは書くというのがそうなのであれば、発言者はもっときちんと認識すべきだと思う。そうでなければ、わざと言ったとしか思えない。だとしたら、今じゃなくてよかったのではという私の感想。あるいは、わざと足を引っ張るために、書かれる前提でオフレコ発言すれば、オフレコだからってそんなこと言ってもいいのかというように余計に否定的な意見を引き出しやすい。そうであれば、マスコミが名前を出さない理由はありそう。ともにアンチ現政権ということになるだろう。

経済効果と言ったって

経済効果と言ったって

中国人観光客減少による経済損失をどうしてくれるんだ、という意見を言うコメンテータやそういった発言を引用して伝えるニュースがある。

経済効果という文節では、例えばヤクルト・スワローズが優勝して経済効果が〇〇億円と言ったって、真水で〇〇億円が余計に使われたわけではなくて、その分、今日の晩御飯は質素にとかいうのがあってのヤクルト関連支出である、というようなことを言っていた人がいた(ヤクルトは例として私が使用)。よく考えてみれば至極当然な感じはするが、なるほどね、と思った。お金持ちは別として、ヤクルトに余計にお金をつかうのではなく、その分がどこかでへこんでいるはずだ。

一方、経済損失はどうなんだろう。中国人は中国人の経営する宿などを利用する人が多いからそもそも日本の経済には影響していない、という説はここではいったん忘れるとして、外国人が使わなくなるものは他で埋め合わせはないであろう。だから、外国人に由来するものは経済損失で確定、ただし、中国人が少なくなった観光地や店舗に日本人が訪れてお金を落とすから多少は埋め合わせする、は成り立つのだろうか。しかし、その日本人の旅行代金や支出は、今日は安売りの魚にして節約した分から支出されいるだろうから、そうするとやはり経済損失は損失で確定なのかなあと思ったりする。

政治発言をどうのこうのとか、旅行者減少がどうとかいうつもりはなく、単純に、経済効果や経済損失という言葉について考えてみた。

普段は意見の違うニュースでも楽しめるのに…

普段は意見の違うニュースでも楽しめるのに…

ちょっと見ていてしんどいニュース番組があった。スタンスの異なるニュースでも、普段の私は突っ込みを入れながらもバラエティっぽく報道番組を見ることができる。違う意見があるのは当然だし、テレビ局も民間の営利企業ゆえに収益が大事であり、そうなると、視聴率を上げないといけないし、そのためには事実であるかは彼らにとっては重要ではなく、伝え方をセンセーショナルな方向にもっていきたくなるのも理解しているつもり。

そんな私でも、最後までみていられない報じぶりの番組があった。

最近の中国との関係について報じる番組の中で、沖縄に関する中国側の要人発言を取り上げ、そこから派生して、現在の沖縄県に中国の影響を受けたものが多く存在していることを説明していた。ここにもある、あそこにもある、と。このままいくと、中国側の主張に沿った話題のみを展開して沖縄は中国の一部ということを言い出しそうな感じで、その時だけは途中で見るのをやめた。中国が何かを言う権利は認めるけれど、なぜ、日本の報道会社が他国の主張ばかり垂れ流すか判らない。同様のことは、私が見るのをやめたテレビ局のものだけではないのだけれど、その日のそれは、もう本当に見ていられないというか、それ以上みたら本当に気分が悪くなりそうだった。

少し前には、米国で USAID(United States Agency for International Development、アメリカ合衆国国際開発庁)が報道機関に資金支援をして自分たちに有利な報道をさせていた、という報道もあったし、アメリカが国外の報道機関にも資金を与えて影響をおよぼしていたというニュースもあった。日本の報道会社が買収されていないとも限らない。

自虐史観という言葉・概念がこの報道の事象に関係しているのかどうか判らないけれど、どうも日本人は日本のことを尊重してはいけないということになってしまっているような気がしてならない。私の場合は、自国を愛するという概念はちょっと違う感じを持っているのだけれど、自国を尊重して自国ファーストのスタンスをとることは、国民にとって、ごくふつうのありふれた反応だと思っている。

報道 – 極端な例を注釈なく引用、意図的なのだろう

報道 – 極端な例を注釈なく引用、意図的なのだろう

私が身を置く業界の製品価格が報道に取り上げられることがたまにある。業界動向は昔から事実でない記事が多かったけれど、価格面については、市場価格情報プロバイダーが毎日・毎週の市況を伝える客観情報があるので嘘は付けず、割と実態にあった報道ぶりだった。ところが、今年になって米国が世界中の国に追加関税を発表して以後、一般紙は価格も意図的としか思えないミスリード記事を載せるようになった(トランプ大統領のせいで商品市況があがって由々しき事態だと印象付けるため?)。

価格が半年前の3倍になりました、とか。でも実際は、メイン市場では1割とか2割の上昇なのに、小さい市場で3倍になっているのをあたかも世界中で3倍になっているかのように報じていたりする。そんな報道ぶりにもやもや感を持ってなんだかなあと思っていたところ、最近になって初めて、「欧州市場価格」という説明つき記事を初めてみた。そう、たしかに欧州は急騰していたのだが、欧州需要はあまりない製品の業界なので、欧州価格を代表とみる業界の人は一切いない。経済に強いと言われる一般紙の商品担当者はそんなこと知っているはずだから、知っていてやっているパターンだろう。それまでは、3倍になっている欧州価格の折れ線グラフをなんの注釈もないままに、単に市況価格として報じていた。アジアや中国、アメリカでは価格が上昇していても二けたパーセントの上昇にとどまっているのに。

読者の興味を引くことができれば、内容はどうでもいいんだなあというのがはっきり伝わる良い例。
自分がよく知らない分野のことは、だまされないようにしないと。

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

プーマに買収報道

プーマに買収報道

中国のスポーツ用品大手がプーマ買収に動いているという報道があった。

アシックスも検討しているようにも書いてあったが、別のメディアは、アシックスは検討の事実はないと対外発表を引用して報じている。一度、火消しをしているだけなのか、本当に検討の事実がないのかは外部の私には知る由もない。あるいは、アシックスに買って欲しいと思っている人が、市場やアシックスがどんな反応をするのか、勝手に観測気球を打ち上げているだけかもしれない。

いち消費者の勝手な立場からすると、プーマは今のプーマのままでいてほしいと思っている。あるいは、元さやというかアディダスに買われて兄弟仲良くというのもよいかも。私は、小学生と高校生の時に Tシャツと靴下を買ったことくらいしかプーマ歴はない。靴は、兄のおさがりのサッカーシューズを履いていたことがあるが、自分で買ったり親に買ってもらったことはない。プーマの経済性にこれっぽっちも関与したことのない私には、プーマの方向性の希望を言える権利はないのだけれど、プーマは今のプーマでいてほしい。中国企業に買収されたのちもプーマというブランドはずっと生き残るはずだと思うけれど、それでも、今のプーマのままでいてほしい。次に何か買う機会があり、プーマの製品群にそれが含まれていれば、その時はプーマ製品を優先的に検討してみようかな。

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

株価が上がれば、後付けで上がった理由になりそうな説明を探して報じ、誰かが警戒感と言えば自分の意見でもなさそうなのに急に同調してブレーキをかけるようなことを言い出し、テレビの経済ニュースで話している進行役の人やコメンテーターってなんだかなあと思う。根拠なく、さんざん自分であおっておいた後に警戒感だなんて、マッチポンプそのものといった感じ。広い視点をもってより深く分析し、自分が知らないことは手に負えないと宣言して、もっと淡々と仕事できないものかなあと思う。自分なりの根拠を持って、後付け解説はやめにしてはどうかと思う。

予想を超えた値動きというのも最近聞くコメント。それって、単純にあなたの予想が間違っていたということでは?予想を超えたのではなくて、予想が間違っていたと。

あんまり批判的なことは言いたくはないけれど、自分が正しいとは限らないということを理解して欲しい。

社説の「~せよ」にうんざりする

社説の「~せよ」にうんざりする

以前は感じなかったけれど、「~せよ」と言っている社説にうんざりするようになった。
ひとつの意見として社説を書いている人の意見を尊重はするが、それがあたかも唯一の正義・正解のように「せよ」と主張することに、なんだかなあと感じるようになった。

先輩が脈々と続けてきた書き方がフォーマット化されてしまっているのではないかと想像する。変えるのは難しいのだろうと思う。しかし、「~せよ」調の社説にうんざりしている人は、私以外にも結構いるのではないかなあと思う。

私の個人の感想です。

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

ニュースなどの動画をみていて最近よくあるなあと感じているのが、他人の考えや感情を想像して別の誰かがコメントする時に断定調なのに、公知の事実だったり誰かの発言を引用する時には逆に、「〇〇だったと思うんですけど」のような表現の仕方をする人が多いということ(例:「日本は太平洋に面していると思うんですけど」→ 間違いなく面しているのであなたが「思う」必要はない)。

事実や引用だから「思う」とかつけなくて良いし、人の感情や考えでほかの誰も知りもしないのに断定調で発言する人に対して、どうしても違和感を感じる。前者は、大本の発言者に迷惑はあまり掛からなそうだし、受け手の私も「変だな」くらいの感覚だから良いとして、後者は刷り込みを意図するとか虚偽を含んだものだと私は考えるので大いに問題ありという立場にいる。

日本語を厳格に使えと私は言いたいわけではない。だけど、私の受け取り方がおかしいのかなあ。おかしくないとして、では、私自身が普段の会話で同じようなことをしていないかを気を付けたい。

予想することに意味ない時代になったのかも

予想することに意味ない時代になったのかも

プロ野球などスポーツの順位予想や各種選挙の当落予想、交渉ごとの進展の見込みなど、いろいろな予想が巷にあふれている。業績見通しなど組織内で予想・見通しを作成してその組織内でそれを使うことや、個人がその胸の内で予想するのは構わないのだけれど、予想を対外的に開示するのは、その目的や影響で要否が変わってくると思う。日本の上場企業は業績予想を堂々を開示するが(というか、投資家がそう望んでいるのだと理解しているのだが)、国によっては株価に予断を与えかねないとして業績予想を開示できない市場もあると私は認識している。

少し話がそれたけれど、最近のいくつかの選挙を見ていると、マスコミが当落予想を報じることに意味があるのか疑問に思うようになってきた。どう予想しようが、投開票が済めば結果は判るものだから、その日を待てばよいのではないかと。

世論調査結果に恣意的な要素を加えて投票の動向を操作しようとしているのであれば、マスコミ側は予想をやめるようなことはないかもしれない。ただ、最近は結構予想が外れているという感覚が私にはあって、マスコミは恥ずかしく思ったりしないのかなあと心配してしまう。また、世論調査のサンプルが適正かどうかの問題、質問された人が正直に回答しているかどうかの疑問などもあって、予想する意味がどれだけあるのか、とも思う。

学者や論説委員など、見通しを述べることを仕事の一部としていた人たちがいて、それを有難がって聞いていた人たちもいた。だけれど、複雑にいろいろな要素が絡んだ世の中になって、予想することがとても難しい世の中への変わってきたような気がして、もう予想はやめにしてはどうかと思う。