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カテゴリー: 報道

人の心情を勝手に想像して記事にする人々

人の心情を勝手に想像して記事にする人々

記者やそのほかの対外的に情報発信する人々は情勢を分析しているつもりかもしれないが、読み手である私たちからすると、人の心情や意図など判りもしないのに、それを勝手に想像して書いているんじゃないのかと疑ってしまうことがある。

最近の例でいえば、解散総選挙になるかという観測の中での報道。「高市首相は〇〇ということで解散総選挙を実施するのだろう。けしからん」といった文脈のこと。高市首相や選挙実施に対する私のスタンスは一旦横におき、ここでは記者や記者の所属会社の態度について言っている。高市首相へ取材した結果なのか?と聞きたい。想像で記事を書いているのに、事実のように書いていないか?それこそ、レッテル貼りや世論の誘導だなあと。

現実離れしたストーリーのドラマを見ていると、見ているこっちが恥ずかしくなるタイプが私。それと同様に、想像した心情や勝手に作ったストーリを事実のように書いている記事も読んでて私が恥ずかしくなることがある。事実なら事実と書けばよいし、想像ならばそうであることが読者に判るように書くべき。また、記者自身の政治的立場を明記したうえで書いてくれれば、ああこの人はこういう信条だからこういう見方・主張をしているんだ、と分かるというもの。

事件とか社会ニュースにも同じことが言えると思う。被害者・加害者のことを勝手に推測して書いてるのに、最後は断定している。嘘を書くと事務所がうるさいのか、芸能ニュースからは、勝手に詮索して書いている感じはあまりうけない。先日のアメリカによるベネズエラ大統領拘束に関する記事もファンタシーを堂々と書いているようで、読んでいててムズムズしたりする。

先輩の代から引き継いできたフォーマット化された伝統的な働きぶり・書きぶりなのだと思う。ここらで一度、リセットできる人に変わってもらいたい。あるいは、あたらしいメディアに登場してもらいたい。

ポジション・トーク

ポジション・トーク

私は、動画で討論や解説ものをみるのが好き。
ところが、最近は、好きでなくなりそうな感覚を持ち始めている。

解説者やコメンテータ、YouTuberが言っていることが、皆、以前にもましてポジション・トークだとしか思えないようになってきて、真面目にきくのがばからしくなってきた。それ違うんじゃない?と思うことがあるが、彼らはポジション・トークをしているだけだから、それに反応するのもばからしく感じるようになった。これまでは、自分と違う意見を聞くことを楽しめたのだが、最近は時間の無駄だと思うようになってきた。人生の残り時間が少なくなってきているはずなので、時間の無駄遣いがなくなるように仕向けてもらっていると思って、ありがたく感じている。

今までも淡々として生きてきたような気がするが、さらにそれが進行していくことが少し怖い。

オフレコ

オフレコ

官邸幹部のオフレコ発言が最近に報じられていた。

何年に一度の頻度でオフレコ発言が取りざたされる。そのたびにいろいろ議論があるが、私の中では政治家にはオフレコ発言はないと思っている。オフレコといってそれを本気にするマスコミは存在しない、というのが既に暗黙の了解になっているという認識だった。

だから、政治家が「これ、オフレコだからな」という場合は、流出するのが判ってあえてその情報を流すのが政治家でも常識になっているのかと勘違いしていた模様。

今回報道されている案件にどのような背景があるのか判らないけれど、センシティブな時の変な発言もよく判らないし、オフレコ発言を書くくらいなら発言者の名前も明かせばよいのにそうはしないのはなぜかもマスコミの世界にいない私には想像もつかない。オフレコ書くなら、その官邸高官とマスコミの信頼関係は壊れてしまっているはずなので具体名を隠す必要がないように私にも思える。

彼らには彼らの暗黙の了解があるのだろうけれど、オフレコは書くというのがそうなのであれば、発言者はもっときちんと認識すべきだと思う。そうでなければ、わざと言ったとしか思えない。だとしたら、今じゃなくてよかったのではという私の感想。あるいは、わざと足を引っ張るために、書かれる前提でオフレコ発言すれば、オフレコだからってそんなこと言ってもいいのかというように余計に否定的な意見を引き出しやすい。そうであれば、マスコミが名前を出さない理由はありそう。ともにアンチ現政権ということになるだろう。

経済効果と言ったって

経済効果と言ったって

中国人観光客減少による経済損失をどうしてくれるんだ、という意見を言うコメンテータやそういった発言を引用して伝えるニュースがある。

経済効果という文節では、例えばヤクルト・スワローズが優勝して経済効果が〇〇億円と言ったって、真水で〇〇億円が余計に使われたわけではなくて、その分、今日の晩御飯は質素にとかいうのがあってのヤクルト関連支出である、というようなことを言っていた人がいた(ヤクルトは例として私が使用)。よく考えてみれば至極当然な感じはするが、なるほどね、と思った。お金持ちは別として、ヤクルトに余計にお金をつかうのではなく、その分がどこかでへこんでいるはずだ。

一方、経済損失はどうなんだろう。中国人は中国人の経営する宿などを利用する人が多いからそもそも日本の経済には影響していない、という説はここではいったん忘れるとして、外国人が使わなくなるものは他で埋め合わせはないであろう。だから、外国人に由来するものは経済損失で確定、ただし、中国人が少なくなった観光地や店舗に日本人が訪れてお金を落とすから多少は埋め合わせする、は成り立つのだろうか。しかし、その日本人の旅行代金や支出は、今日は安売りの魚にして節約した分から支出されいるだろうから、そうするとやはり経済損失は損失で確定なのかなあと思ったりする。

政治発言をどうのこうのとか、旅行者減少がどうとかいうつもりはなく、単純に、経済効果や経済損失という言葉について考えてみた。

普段は意見の違うニュースでも楽しめるのに…

普段は意見の違うニュースでも楽しめるのに…

ちょっと見ていてしんどいニュース番組があった。スタンスの異なるニュースでも、普段の私は突っ込みを入れながらもバラエティっぽく報道番組を見ることができる。違う意見があるのは当然だし、テレビ局も民間の営利企業ゆえに収益が大事であり、そうなると、視聴率を上げないといけないし、そのためには事実であるかは彼らにとっては重要ではなく、伝え方をセンセーショナルな方向にもっていきたくなるのも理解しているつもり。

そんな私でも、最後までみていられない報じぶりの番組があった。

最近の中国との関係について報じる番組の中で、沖縄に関する中国側の要人発言を取り上げ、そこから派生して、現在の沖縄県に中国の影響を受けたものが多く存在していることを説明していた。ここにもある、あそこにもある、と。このままいくと、中国側の主張に沿った話題のみを展開して沖縄は中国の一部ということを言い出しそうな感じで、その時だけは途中で見るのをやめた。中国が何かを言う権利は認めるけれど、なぜ、日本の報道会社が他国の主張ばかり垂れ流すか判らない。同様のことは、私が見るのをやめたテレビ局のものだけではないのだけれど、その日のそれは、もう本当に見ていられないというか、それ以上みたら本当に気分が悪くなりそうだった。

少し前には、米国で USAID(United States Agency for International Development、アメリカ合衆国国際開発庁)が報道機関に資金支援をして自分たちに有利な報道をさせていた、という報道もあったし、アメリカが国外の報道機関にも資金を与えて影響をおよぼしていたというニュースもあった。日本の報道会社が買収されていないとも限らない。

自虐史観という言葉・概念がこの報道の事象に関係しているのかどうか判らないけれど、どうも日本人は日本のことを尊重してはいけないということになってしまっているような気がしてならない。私の場合は、自国を愛するという概念はちょっと違う感じを持っているのだけれど、自国を尊重して自国ファーストのスタンスをとることは、国民にとって、ごくふつうのありふれた反応だと思っている。

報道 – 極端な例を注釈なく引用、意図的なのだろう

報道 – 極端な例を注釈なく引用、意図的なのだろう

私が身を置く業界の製品価格が報道に取り上げられることがたまにある。業界動向は昔から事実でない記事が多かったけれど、価格面については、市場価格情報プロバイダーが毎日・毎週の市況を伝える客観情報があるので嘘は付けず、割と実態にあった報道ぶりだった。ところが、今年になって米国が世界中の国に追加関税を発表して以後、一般紙は価格も意図的としか思えないミスリード記事を載せるようになった(トランプ大統領のせいで商品市況があがって由々しき事態だと印象付けるため?)。

価格が半年前の3倍になりました、とか。でも実際は、メイン市場では1割とか2割の上昇なのに、小さい市場で3倍になっているのをあたかも世界中で3倍になっているかのように報じていたりする。そんな報道ぶりにもやもや感を持ってなんだかなあと思っていたところ、最近になって初めて、「欧州市場価格」という説明つき記事を初めてみた。そう、たしかに欧州は急騰していたのだが、欧州需要はあまりない製品の業界なので、欧州価格を代表とみる業界の人は一切いない。経済に強いと言われる一般紙の商品担当者はそんなこと知っているはずだから、知っていてやっているパターンだろう。それまでは、3倍になっている欧州価格の折れ線グラフをなんの注釈もないままに、単に市況価格として報じていた。アジアや中国、アメリカでは価格が上昇していても二けたパーセントの上昇にとどまっているのに。

読者の興味を引くことができれば、内容はどうでもいいんだなあというのがはっきり伝わる良い例。
自分がよく知らない分野のことは、だまされないようにしないと。

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

プーマに買収報道

プーマに買収報道

中国のスポーツ用品大手がプーマ買収に動いているという報道があった。

アシックスも検討しているようにも書いてあったが、別のメディアは、アシックスは検討の事実はないと対外発表を引用して報じている。一度、火消しをしているだけなのか、本当に検討の事実がないのかは外部の私には知る由もない。あるいは、アシックスに買って欲しいと思っている人が、市場やアシックスがどんな反応をするのか、勝手に観測気球を打ち上げているだけかもしれない。

いち消費者の勝手な立場からすると、プーマは今のプーマのままでいてほしいと思っている。あるいは、元さやというかアディダスに買われて兄弟仲良くというのもよいかも。私は、小学生と高校生の時に Tシャツと靴下を買ったことくらいしかプーマ歴はない。靴は、兄のおさがりのサッカーシューズを履いていたことがあるが、自分で買ったり親に買ってもらったことはない。プーマの経済性にこれっぽっちも関与したことのない私には、プーマの方向性の希望を言える権利はないのだけれど、プーマは今のプーマでいてほしい。中国企業に買収されたのちもプーマというブランドはずっと生き残るはずだと思うけれど、それでも、今のプーマのままでいてほしい。次に何か買う機会があり、プーマの製品群にそれが含まれていれば、その時はプーマ製品を優先的に検討してみようかな。

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

株価が上がれば、後付けで上がった理由になりそうな説明を探して報じ、誰かが警戒感と言えば自分の意見でもなさそうなのに急に同調してブレーキをかけるようなことを言い出し、テレビの経済ニュースで話している進行役の人やコメンテーターってなんだかなあと思う。根拠なく、さんざん自分であおっておいた後に警戒感だなんて、マッチポンプそのものといった感じ。広い視点をもってより深く分析し、自分が知らないことは手に負えないと宣言して、もっと淡々と仕事できないものかなあと思う。自分なりの根拠を持って、後付け解説はやめにしてはどうかと思う。

予想を超えた値動きというのも最近聞くコメント。それって、単純にあなたの予想が間違っていたということでは?予想を超えたのではなくて、予想が間違っていたと。

あんまり批判的なことは言いたくはないけれど、自分が正しいとは限らないということを理解して欲しい。

社説の「~せよ」にうんざりする

社説の「~せよ」にうんざりする

以前は感じなかったけれど、「~せよ」と言っている社説にうんざりするようになった。
ひとつの意見として社説を書いている人の意見を尊重はするが、それがあたかも唯一の正義・正解のように「せよ」と主張することに、なんだかなあと感じるようになった。

先輩が脈々と続けてきた書き方がフォーマット化されてしまっているのではないかと想像する。変えるのは難しいのだろうと思う。しかし、「~せよ」調の社説にうんざりしている人は、私以外にも結構いるのではないかなあと思う。

私の個人の感想です。

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

ニュースなどの動画をみていて最近よくあるなあと感じているのが、他人の考えや感情を想像して別の誰かがコメントする時に断定調なのに、公知の事実だったり誰かの発言を引用する時には逆に、「〇〇だったと思うんですけど」のような表現の仕方をする人が多いということ(例:「日本は太平洋に面していると思うんですけど」→ 間違いなく面しているのであなたが「思う」必要はない)。

事実や引用だから「思う」とかつけなくて良いし、人の感情や考えでほかの誰も知りもしないのに断定調で発言する人に対して、どうしても違和感を感じる。前者は、大本の発言者に迷惑はあまり掛からなそうだし、受け手の私も「変だな」くらいの感覚だから良いとして、後者は刷り込みを意図するとか虚偽を含んだものだと私は考えるので大いに問題ありという立場にいる。

日本語を厳格に使えと私は言いたいわけではない。だけど、私の受け取り方がおかしいのかなあ。おかしくないとして、では、私自身が普段の会話で同じようなことをしていないかを気を付けたい。

予想することに意味ない時代になったのかも

予想することに意味ない時代になったのかも

プロ野球などスポーツの順位予想や各種選挙の当落予想、交渉ごとの進展の見込みなど、いろいろな予想が巷にあふれている。業績見通しなど組織内で予想・見通しを作成してその組織内でそれを使うことや、個人がその胸の内で予想するのは構わないのだけれど、予想を対外的に開示するのは、その目的や影響で要否が変わってくると思う。日本の上場企業は業績予想を堂々を開示するが(というか、投資家がそう望んでいるのだと理解しているのだが)、国によっては株価に予断を与えかねないとして業績予想を開示できない市場もあると私は認識している。

少し話がそれたけれど、最近のいくつかの選挙を見ていると、マスコミが当落予想を報じることに意味があるのか疑問に思うようになってきた。どう予想しようが、投開票が済めば結果は判るものだから、その日を待てばよいのではないかと。

世論調査結果に恣意的な要素を加えて投票の動向を操作しようとしているのであれば、マスコミ側は予想をやめるようなことはないかもしれない。ただ、最近は結構予想が外れているという感覚が私にはあって、マスコミは恥ずかしく思ったりしないのかなあと心配してしまう。また、世論調査のサンプルが適正かどうかの問題、質問された人が正直に回答しているかどうかの疑問などもあって、予想する意味がどれだけあるのか、とも思う。

学者や論説委員など、見通しを述べることを仕事の一部としていた人たちがいて、それを有難がって聞いていた人たちもいた。だけれど、複雑にいろいろな要素が絡んだ世の中になって、予想することがとても難しい世の中への変わってきたような気がして、もう予想はやめにしてはどうかと思う。

連立とか首班指名とか

連立とか首班指名とか

10月4日の自民党総裁決定後からの報道を観ている部外者の私としては、結論が出ていそうなのに何をやっているんだろうという傍観者の気持ち。支持者の顔色をうかがうためか、あるいは支持者の要望を検討しているフリをするためのポーズなのか、やってる感を出すためなのか、可能性を協議してばかりしている印象。

国民民主党は、立憲民主党と可能性の協議を続ければ続けるほど、考えが交わらずに別れた2党なのに、やっぱり近しい考えなのではないかと誤解を有権者に与えそう。早めに結論出したほうがよさそうに見える。

公明党が今回の最大のファインプレーだと思う。連立を離脱すると決めたことが、日本が前向きに進んでいきそうな予感をさせた。自民党がよいとは思わないけれど、高市首相が誕生して日本が変われるとしたら、公明党代表の英断だと思う。

維新のことは良く知らないので何もいえないけれど、報道やその書き込みコメントなどを観ていると、自民と考えが近いらしいので悪くはなさそうだけれど、私が知っている数少ない情報のうちの一つの高校無償化には全く同意はできない。しかし、高市首相誕生をアシストするのであれば、公明党につぐファインプレー。

国民民主だけ割食った感じかなあ。素人だけど。

一番残念なのは報道かなあ。彼らに大事なことは、売上や閲覧数、視聴率だろうからあることないことを言ってみてもらうのが一番大事で、なにが大事だとかは関係のないことが今回のことでもよくわかる。

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

高市自民党新総裁の会見待ちの記者の発言がライブ中継に乗ってしまったという記事をみた。
支持率発言についてはもう一つ、「支持率下げるような写真しか出さねえぞ」というのもあったとか。

いままで、なぜこんな写真を使うんだろう、もっといい写真あるはずだろ、と思った記事写真は数多くある。政治家はまだしも、イメージが重要でいつもはきちんとした姿を視聴者に見せている芸能人のぼけた写真や変な角度からの写真、さえない表情をした写真などは悪意のあるものだと想像していた。しかし、今日は、ああ、なんだ、意図持ってやっていたのかということがはっきりしたので、あんな写真を選んで載せたのは納得、という感じになった。メディア社員が代替わりしたら、今と違う会社・業界になっていくのかな。メディアへの就職希望者の倍率って、最近どうなのかなと思ったので調べてみる。

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外国運転免許証の日本への切り替えの要件が 10 月から厳しくなったことを取り上げるネット記事があった。外国人が困惑しているということらしい。

外国人が困惑するのは無理もない。しかし、「厳格化してけしからん、外国人が困惑せぬようにしないといけないではないか」と該当の記事が主張しているような印象を受けた。タイトルのみが目に入ってきた時は特に。
記事は、安全に運転できるように制度変更の効果を期待するという締め方にはなっているものの、外国人が困惑していることを前面に出す必要があるだろうか。これを配信したメディアは、ハードルの低い日本の外免切替を利用してルールをきちんと知らない(あるいは知っていて無視している)運転者が悲惨な事故を起こしても、外免切替の問題点を指摘する資格はない。いろいろな視点を取り上げるのがメディアであるとこの会社が主張するならば、どんな犯罪でも批判的に述べてはいけないと読者に感じさせるような書き方だ。どっちの向きに対してでも、その時に出てきたこと何に対しても批判的に書けばよい時代ではない(今日死刑が執行されたら海外では死刑廃止だといって批判して、翌日には 10人をあやめた犯人に死刑判決が出なかったとしてなぜ死刑ではないのかまた批判するように、同根の事柄について、舌の根も乾かぬうちにどっちにもとにかく批判する姿勢)。

私は、現在の居住地で日本の免許からの切り替えで現地免許を取得しているので、逆方向で外免切替の恩恵を受けている。しかし、当地の人と同じように運転している。また、当地の免許は日本で可能なような旅行者の取得はできない。住所があってビザを取得し、一定期間この国に滞在する人でないと申請できないし、外免切替の制度が停止されたりもする(この場合は、現地の人も外国人も全員が同じ試験を同じ方法で受験して免許を取得というルール)。

外免切替制度に関しては、なぜ、日本のメディが外国人の気持ちを代弁する必要があるのだろうか。

経済観念 – 物価高とは言うけれど

経済観念 – 物価高とは言うけれど

テレビ番組を観ていると、街頭インタビューを目にする。ニュース番組だと頻度が高い印象。

高頻出のインタビュー・テーマの一つに物価高に関するものがある印象。しかし、見ていて違和感があるのは、パックご飯が高いと言っている人とかペットボトルの値上げのニュースとか、ほかに安くあげる選択肢があるのに、それをせずに物価が高くて何とかして欲しいと回答する街の声を聞いた時。そもそも高いものを買っているのに物価が高いと言っている人に対して、そりゃそうだろと思わずにいられない。

米を炊くにも米食頻度が低いので炊飯器を買う先行投資の方が割高になるのかもしれないが、そうであればパックご飯を買う機会なんてそれこそ稀なことなのではないだろうか。そんな稀なケースを引き合いに出して生活が困っているというのはどうなのか。人それぞれにお金をかけてもよいものと、そうでないものがあるだろうから、スマホ通信料に文句を言わずにパックご飯が高いと文句をいうのはその人の価値観によるからいいのだけれど、街角の代表意見のように報じるのはちょっとどうかなと思う。そもそも、街のコメントを使うメディが側が言ってほしいコメントのみを使っていたりするだろうから、私は街頭インタビューを真面目に見えてはいないけれど。

アメリカで建設中の工場で不法就労

アメリカで建設中の工場で不法就労

ニュースが報じている。

私がみたニュースでは、トランプ大統領の移民政策をメインキャスターが批判をし、サブ的な人も同じように批判していた。もう一人いて、その人も同様。

そのニュースを見る数時間前に読んだネット・ニュース記事では、必要な査証を取らずに建設工場に従事していたのを摘発されたという主旨のことが書いてあったのに、私がみたニュースは査証がないことには言及せずにトランプが悪い、というばかりだった。

翌朝、その報道ぶりがどうしても気になってAI先生に聞いてみた。まず私の感想を述べて、そのあとに、私の感想と似たようなコメントしている書き込みがないですか?と聞いてみた。リンクで返してくれるのを期待していたが、そうではなかった。だけれど、同様に考える人がいますというコメントがかえってきた。AI先生が適当の話を合わせてくれたのかもしれないが、とりあえず私だけが憤っているわけではなさそうで嬉しかった。

企業側には、投資を呼び込んでおいて査証をなかなか出してくれないとか言い分はあるように伝えていた媒体もあったが、そのような言い分も報じるべきだと思う。取材をしているのに、そういった背景事情に届いていないことはなかろう。

報道のことはこれくらいで、そもそも、査証を取得せずに仕事する・仕事をさせるのはどうしたものかと思う。それと、細かな事業を知らずに言えば、現地雇用をせずに本国から人を連れてゆくのも私としてはなぜにと思うところ(特殊技術者などはその限りではない)。海外案件に必要なことはいくつかあるが、投資国の裨益は事業を成功させる要因のうちの重要な一つだと私は思っている。例えば、工場内に寮を建てて本国から連れてきた人をそこに囲い込んで働かせるケースを聞いたことがあるが、そんなことでは現地に根差した事業はできるまい。また、囚人の強制労働的に海外の現場で働かせるケースもあるようなことを聞いたこともある。

建設している企業にしても、報道する側もなんだかな、の事案だった。

企業業績ニュースのコメントに違和感

企業業績ニュースのコメントに違和感

ここ数週の間に見た企業業績に関するニュースの中で、トランプ関税による業績下振れというものが一定数あった。そのニュースよりは少なかったけれど、それでもそれなりの頻度で為替影響による業績下振れもあった。日米金利差縮小の予測による為替変動で、主に輸出企業の業績が下振れた、または下振れる見通しというもの。

そこでよく聞いたのが、「円高による業績悪化」のような説明ぶり。これに違和感を持たずにいられなかった。

確かに、ちょっと前よりは円高方向に為替は変動したけれど、それをもって「円高」と表現するのはちょっと違うような気がする。「円高」には相対的な意味の円高と、絶対的な評価を意味する場合の二つの使い方がある。最近のニュースで聞いた「円高」が相対的な意味で使われているのは判るけど、相対的評価として「円高」を表現する場合は、その必要条件としてある程度は絶対的に円高な状況にあることが条件だと私は感じる。多少円高方向に振れたとしても、今のように絶対的な円安状況では円高は適切な使い方ではないというのが私の感覚。

あくまで私の感覚だと判っているし、私の感覚はよく間違っているのも知っている。だけど、この円高表現の使い方は、私は少数派ではないのではないかと少し信じている。

おまけ目当てで食品を投棄

おまけ目当てで食品を投棄

マクドナルドのハッピーセットのおまけの話題がしばしばニュースに登場する。あまけ目当てでセットを購入し、メインの食品のほうを食べずに投棄する人がいるとか、おまけが売買ネットに出品されている、本来であれば商品の対象となるべき子どもに行き渡らないほどの買い占めが行われているとか。

以前であれば、地理的に遠くても即座に簡単に売買ができるオンライン上で売買できる環境になかったとか、何かプレミアム的なものにとびつく余裕がなかった時代であったとか(私が育った家庭だけ?)、今は堅苦しい話題のニュースよりも街中の出来事をネット警察的に報じる方が視聴者の関心を引きそうだとか、その事象や報道の背景は種々あると思うけれど、商品の主体である食品が無駄にされることは、何も最近になって始まったことではない。程度の差こそあれ、プロ野球チップスについているカードで欲しい選手のものが出るまで買ってチップスを捨てる人や、好きな模型目当てで本体が捨てられるビッグワンガムなどについて、学校の先生から注意喚起されたりしたことがあったと記憶する。チップスもガムも保存がきくのに捨ててしまうのは、現代よりも質が悪かったのかもしれない。

私は、どうしても欲しかったおまけは特にこれまでの人生で記憶がないので、高いお金を出して売買サイトで個人から買おうとしたことはないし、おそらく、今後も買おうとすることは起きないと予測する。ゆえに、自分個人の都合だけで考えれば、人の弱みに付け込むような転売に対して悪い感情しかないのだけれど、極端な話をすれば、買う人がいるから売る人が出てくるのであって仕方ないという気がしなくもない。しかし、食品廃棄はそんな感じで割り切れる話にはならない。作り置きのファストフード自体に時間制による廃棄ルールがあったりして、便利さや出来立てのおいしさの裏にはもともと無駄は存在するので、転売屋のムダのみを取り上げるのはフェアではない部分もある。しかし、それでも無駄の性質は同じではない。買い占めについては、ちょっと意見が難しい。震災時の生活必需品の買い占めはもってのほかだが、かといって、なんでもかんでも買い占めけしからん、とは言い難いところもあると思う。むしろ、買い占める人を管理するよりも、買い占めに歯止めをかけるルールを売り手が採用した方がうまくいく確率が上がると思う。ただ、代金が何百円といった商品の場合に、誰が幾つかったか逐次トレースができるようにするには売り手側のコストが見合わないと思うので、誰かが何かうまい方法を考えてほしいのだけれど、誰もかれも儲けさえすればよいという発想になってしまっているように感じる現代では、難しいのかもしれない。利己的になりすぎないように教育から見直す必要がありそう。

今回の件では、カード発行枚数がそれなりにあるため、プレミアムにはならないとコメントしたマクドナルドには、今後は何か考えてほしい。こうなることは判っていたはずだから。そうまでして集客しなければならないような企業ではないだろうにと思う。

何してもうまくいかない難しい世の中になったものだと感じる。このようなことが起こるのは、選択肢が増えたり余裕があったり、より良い世の中になってきている証拠なのだと思うけれど、不具合もまた多くなっている(でも、報道を見ていると景気は悪いはずなのでは?)。

私の読解力を心配している

私の読解力を心配している

最近の話ではなく、もう、ここ数年のことになるのだけれど、自分で読解力が落ちたことを思う機会が多い。

最近の例を挙げると、夏の高校野球甲子園大会の記事で、二つの意味にとれそうな文で、どちらの意味なのか分からない表現があった。

出典①:デイリー 「夏の甲子園 小松大谷は2年連続初戦突破ならず」
出典②:スポニチ 「 【甲子園】 小松大谷は2年連続の初戦突破ならず」

最初にネット記事で①が目に入った。2年続けて初戦を突破できなかった(2年とも初戦で敗戦)のか、昨年は突破したが今年は突破できず、2年続けての突破ができなかったのか、タイトルだけではどちらの意味か判らなかった。内容を読めばわかったのだと思うけれど、そうするまえに②のタイトルが目に入ったので、去年はいけたけど今年は負けてしまったことと理解した。

もしも2年連続で初戦を突破できなかったのであれば、「2年連続初戦敗退」というような表記になるか、あるいはわざわざ2年連続ということを強調するタイトルにしないであろうことは、冷静に考えれば想像できそうなものではあるのだけれど、私がその時に思ったのは、私のように読むのは文法上ありえないのか、あるいは、私の誤解は起こりえることで書き手側に丁寧さが欠けていたのか、一体どっちなのかということだった。私のように理解するのがありえないのであれば、私が日本語を正しく使ってこなかったと反省して済ませることができるが、他方のケースであれば、なんでそんな書き方をするのだろうという単純な疑問である。タイトルは文字数も限られていて簡単ではないことは素人でも想像できるが、スポニチは読者に判るようにタイトルをつけているのだから、むしろこれは、本文を読ませるためにわざと変なタイトルをつけているのではないかとの疑いすら生じる(本当は、そんな疑いは持っていない。書こうとすることが判っている書き手が、読者も判っているだろうというバイアスを抱いてつけた不注意タイトルだと推測)。書き手の実力不足なのか、はたまた、別の理由なのか。周りに日本人がいないので、私と同じように意味に悩んだ人がいるかどうかのアンケートを取ることができないのが残念だ。