Browsed by
Category: 報道

連立とか首班指名とか

連立とか首班指名とか

10月4日の自民党総裁決定後からの報道を観ている部外者の私としては、結論が出ていそうなのに何をやっているんだろうという傍観者の気持ち。支持者の顔色をうかがうためか、あるいは支持者の要望を検討しているフリをするためのポーズなのか、やってる感を出すためなのか、可能性を協議してばかりしている印象。

国民民主党は、立憲民主党と可能性の協議を続ければ続けるほど、考えが交わらずに別れた2党なのに、やっぱり近しい考えなのではないかと誤解を有権者に与えそう。早めに結論出したほうがよさそうに見える。

公明党が今回の最大のファインプレーだと思う。連立を離脱すると決めたことが、日本が前向きに進んでいきそうな予感をさせた。自民党がよいとは思わないけれど、高市首相が誕生して日本が変われるとしたら、公明党代表の英断だと思う。

維新のことは良く知らないので何もいえないけれど、報道やその書き込みコメントなどを観ていると、自民と考えが近いらしいので悪くはなさそうだけれど、私が知っている数少ない情報のうちの一つの高校無償化には全く同意はできない。しかし、高市首相誕生をアシストするのであれば、公明党につぐファインプレー。

国民民主だけ割食った感じかなあ。素人だけど。

一番残念なのは報道かなあ。彼らに大事なことは、売上や閲覧数、視聴率だろうからあることないことを言ってみてもらうのが一番大事で、なにが大事だとかは関係のないことが今回のことでもよくわかる。

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

高市自民党新総裁の会見待ちの記者の発言がライブ中継に乗ってしまったという記事をみた。
支持率発言についてはもう一つ、「支持率下げるような写真しか出さねえぞ」というのもあったとか。

いままで、なぜこんな写真を使うんだろう、もっといい写真あるはずだろ、と思った記事写真は数多くある。政治家はまだしも、イメージが重要でいつもはきちんとした姿を視聴者に見せている芸能人のぼけた写真や変な角度からの写真、さえない表情をした写真などは悪意のあるものだと想像していた。しかし、今日は、ああ、なんだ、意図持ってやっていたのかということがはっきりしたので、あんな写真を選んで載せたのは納得、という感じになった。メディア社員が代替わりしたら、今と違う会社・業界になっていくのかな。メディアへの就職希望者の倍率って、最近どうなのかなと思ったので調べてみる。

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外国運転免許証の日本への切り替えの要件が 10 月から厳しくなったことを取り上げるネット記事があった。外国人が困惑しているということらしい。

外国人が困惑するのは無理もない。しかし、「厳格化してけしからん、外国人が困惑せぬようにしないといけないではないか」と該当の記事が主張しているような印象を受けた。タイトルのみが目に入ってきた時は特に。
記事は、安全に運転できるように制度変更の効果を期待するという締め方にはなっているものの、外国人が困惑していることを前面に出す必要があるだろうか。これを配信したメディアは、ハードルの低い日本の外免切替を利用してルールをきちんと知らない(あるいは知っていて無視している)運転者が悲惨な事故を起こしても、外免切替の問題点を指摘する資格はない。いろいろな視点を取り上げるのがメディアであるとこの会社が主張するならば、どんな犯罪でも批判的に述べてはいけないと読者に感じさせるような書き方だ。どっちの向きに対してでも、その時に出てきたこと何に対しても批判的に書けばよい時代ではない(今日死刑が執行されたら海外では死刑廃止だといって批判して、翌日には 10人をあやめた犯人に死刑判決が出なかったとしてなぜ死刑ではないのかまた批判するように、同根の事柄について、舌の根も乾かぬうちにどっちにもとにかく批判する姿勢)。

私は、現在の居住地で日本の免許からの切り替えで現地免許を取得しているので、逆方向で外免切替の恩恵を受けている。しかし、当地の人と同じように運転している。また、当地の免許は日本で可能なような旅行者の取得はできない。住所があってビザを取得し、一定期間この国に滞在する人でないと申請できないし、外免切替の制度が停止されたりもする(この場合は、現地の人も外国人も全員が同じ試験を同じ方法で受験して免許を取得というルール)。

外免切替制度に関しては、なぜ、日本のメディが外国人の気持ちを代弁する必要があるのだろうか。

経済観念 – 物価高とは言うけれど

経済観念 – 物価高とは言うけれど

テレビ番組を観ていると、街頭インタビューを目にする。ニュース番組だと頻度が高い印象。

高頻出のインタビュー・テーマの一つに物価高に関するものがある印象。しかし、見ていて違和感があるのは、パックご飯が高いと言っている人とかペットボトルの値上げのニュースとか、ほかに安くあげる選択肢があるのに、それをせずに物価が高くて何とかして欲しいと回答する街の声を聞いた時。そもそも高いものを買っているのに物価が高いと言っている人に対して、そりゃそうだろと思わずにいられない。

米を炊くにも米食頻度が低いので炊飯器を買う先行投資の方が割高になるのかもしれないが、そうであればパックご飯を買う機会なんてそれこそ稀なことなのではないだろうか。そんな稀なケースを引き合いに出して生活が困っているというのはどうなのか。人それぞれにお金をかけてもよいものと、そうでないものがあるだろうから、スマホ通信料に文句を言わずにパックご飯が高いと文句をいうのはその人の価値観によるからいいのだけれど、街角の代表意見のように報じるのはちょっとどうかなと思う。そもそも、街のコメントを使うメディが側が言ってほしいコメントのみを使っていたりするだろうから、私は街頭インタビューを真面目に見えてはいないけれど。

アメリカで建設中の工場で不法就労

アメリカで建設中の工場で不法就労

ニュースが報じている。

私がみたニュースでは、トランプ大統領の移民政策をメインキャスターが批判をし、サブ的な人も同じように批判していた。もう一人いて、その人も同様。

そのニュースを見る数時間前に読んだネット・ニュース記事では、必要な査証を取らずに建設工場に従事していたのを摘発されたという主旨のことが書いてあったのに、私がみたニュースは査証がないことには言及せずにトランプが悪い、というばかりだった。

翌朝、その報道ぶりがどうしても気になってAI先生に聞いてみた。まず私の感想を述べて、そのあとに、私の感想と似たようなコメントしている書き込みがないですか?と聞いてみた。リンクで返してくれるのを期待していたが、そうではなかった。だけれど、同様に考える人がいますというコメントがかえってきた。AI先生が適当の話を合わせてくれたのかもしれないが、とりあえず私だけが憤っているわけではなさそうで嬉しかった。

企業側には、投資を呼び込んでおいて査証をなかなか出してくれないとか言い分はあるように伝えていた媒体もあったが、そのような言い分も報じるべきだと思う。取材をしているのに、そういった背景事情に届いていないことはなかろう。

報道のことはこれくらいで、そもそも、査証を取得せずに仕事する・仕事をさせるのはどうしたものかと思う。それと、細かな事業を知らずに言えば、現地雇用をせずに本国から人を連れてゆくのも私としてはなぜにと思うところ(特殊技術者などはその限りではない)。海外案件に必要なことはいくつかあるが、投資国の裨益は事業を成功させる要因のうちの重要な一つだと私は思っている。例えば、工場内に寮を建てて本国から連れてきた人をそこに囲い込んで働かせるケースを聞いたことがあるが、そんなことでは現地に根差した事業はできるまい。また、囚人の強制労働的に海外の現場で働かせるケースもあるようなことを聞いたこともある。

建設している企業にしても、報道する側もなんだかな、の事案だった。

企業業績ニュースのコメントに違和感

企業業績ニュースのコメントに違和感

ここ数週の間に見た企業業績に関するニュースの中で、トランプ関税による業績下振れというものが一定数あった。そのニュースよりは少なかったけれど、それでもそれなりの頻度で為替影響による業績下振れもあった。日米金利差縮小の予測による為替変動で、主に輸出企業の業績が下振れた、または下振れる見通しというもの。

そこでよく聞いたのが、「円高による業績悪化」のような説明ぶり。これに違和感を持たずにいられなかった。

確かに、ちょっと前よりは円高方向に為替は変動したけれど、それをもって「円高」と表現するのはちょっと違うような気がする。「円高」には相対的な意味の円高と、絶対的な評価を意味する場合の二つの使い方がある。最近のニュースで聞いた「円高」が相対的な意味で使われているのは判るけど、相対的評価として「円高」を表現する場合は、その必要条件としてある程度は絶対的に円高な状況にあることが条件だと私は感じる。多少円高方向に振れたとしても、今のように絶対的な円安状況では円高は適切な使い方ではないというのが私の感覚。

あくまで私の感覚だと判っているし、私の感覚はよく間違っているのも知っている。だけど、この円高表現の使い方は、私は少数派ではないのではないかと少し信じている。

おまけ目当てで食品を投棄

おまけ目当てで食品を投棄

マクドナルドのハッピーセットのおまけの話題がしばしばニュースに登場する。あまけ目当てでセットを購入し、メインの食品のほうを食べずに投棄する人がいるとか、おまけが売買ネットに出品されている、本来であれば商品の対象となるべき子どもに行き渡らないほどの買い占めが行われているとか。

以前であれば、地理的に遠くても即座に簡単に売買ができるオンライン上で売買できる環境になかったとか、何かプレミアム的なものにとびつく余裕がなかった時代であったとか(私が育った家庭だけ?)、今は堅苦しい話題のニュースよりも街中の出来事をネット警察的に報じる方が視聴者の関心を引きそうだとか、その事象や報道の背景は種々あると思うけれど、商品の主体である食品が無駄にされることは、何も最近になって始まったことではない。程度の差こそあれ、プロ野球チップスについているカードで欲しい選手のものが出るまで買ってチップスを捨てる人や、好きな模型目当てで本体が捨てられるビッグワンガムなどについて、学校の先生から注意喚起されたりしたことがあったと記憶する。チップスもガムも保存がきくのに捨ててしまうのは、現代よりも質が悪かったのかもしれない。

私は、どうしても欲しかったおまけは特にこれまでの人生で記憶がないので、高いお金を出して売買サイトで個人から買おうとしたことはないし、おそらく、今後も買おうとすることは起きないと予測する。ゆえに、自分個人の都合だけで考えれば、人の弱みに付け込むような転売に対して悪い感情しかないのだけれど、極端な話をすれば、買う人がいるから売る人が出てくるのであって仕方ないという気がしなくもない。しかし、食品廃棄はそんな感じで割り切れる話にはならない。作り置きのファストフード自体に時間制による廃棄ルールがあったりして、便利さや出来立てのおいしさの裏にはもともと無駄は存在するので、転売屋のムダのみを取り上げるのはフェアではない部分もある。しかし、それでも無駄の性質は同じではない。買い占めについては、ちょっと意見が難しい。震災時の生活必需品の買い占めはもってのほかだが、かといって、なんでもかんでも買い占めけしからん、とは言い難いところもあると思う。むしろ、買い占める人を管理するよりも、買い占めに歯止めをかけるルールを売り手が採用した方がうまくいく確率が上がると思う。ただ、代金が何百円といった商品の場合に、誰が幾つかったか逐次トレースができるようにするには売り手側のコストが見合わないと思うので、誰かが何かうまい方法を考えてほしいのだけれど、誰もかれも儲けさえすればよいという発想になってしまっているように感じる現代では、難しいのかもしれない。利己的になりすぎないように教育から見直す必要がありそう。

今回の件では、カード発行枚数がそれなりにあるため、プレミアムにはならないとコメントしたマクドナルドには、今後は何か考えてほしい。こうなることは判っていたはずだから。そうまでして集客しなければならないような企業ではないだろうにと思う。

何してもうまくいかない難しい世の中になったものだと感じる。このようなことが起こるのは、選択肢が増えたり余裕があったり、より良い世の中になってきている証拠なのだと思うけれど、不具合もまた多くなっている(でも、報道を見ていると景気は悪いはずなのでは?)。

私の読解力を心配している

私の読解力を心配している

最近の話ではなく、もう、ここ数年のことになるのだけれど、自分で読解力が落ちたことを思う機会が多い。

最近の例を挙げると、夏の高校野球甲子園大会の記事で、二つの意味にとれそうな文で、どちらの意味なのか分からない表現があった。

出典①:デイリー 「夏の甲子園 小松大谷は2年連続初戦突破ならず」
出典②:スポニチ 「 【甲子園】 小松大谷は2年連続の初戦突破ならず」

最初にネット記事で①が目に入った。2年続けて初戦を突破できなかった(2年とも初戦で敗戦)のか、昨年は突破したが今年は突破できず、2年続けての突破ができなかったのか、タイトルだけではどちらの意味か判らなかった。内容を読めばわかったのだと思うけれど、そうするまえに②のタイトルが目に入ったので、去年はいけたけど今年は負けてしまったことと理解した。

もしも2年連続で初戦を突破できなかったのであれば、「2年連続初戦敗退」というような表記になるか、あるいはわざわざ2年連続ということを強調するタイトルにしないであろうことは、冷静に考えれば想像できそうなものではあるのだけれど、私がその時に思ったのは、私のように読むのは文法上ありえないのか、あるいは、私の誤解は起こりえることで書き手側に丁寧さが欠けていたのか、一体どっちなのかということだった。私のように理解するのがありえないのであれば、私が日本語を正しく使ってこなかったと反省して済ませることができるが、他方のケースであれば、なんでそんな書き方をするのだろうという単純な疑問である。タイトルは文字数も限られていて簡単ではないことは素人でも想像できるが、スポニチは読者に判るようにタイトルをつけているのだから、むしろこれは、本文を読ませるためにわざと変なタイトルをつけているのではないかとの疑いすら生じる(本当は、そんな疑いは持っていない。書こうとすることが判っている書き手が、読者も判っているだろうというバイアスを抱いてつけた不注意タイトルだと推測)。書き手の実力不足なのか、はたまた、別の理由なのか。周りに日本人がいないので、私と同じように意味に悩んだ人がいるかどうかのアンケートを取ることができないのが残念だ。

批判ばかりで、いやになる

批判ばかりで、いやになる

動画とかネット・ニュースなどを見ていると、批判が多いと感じる。前からそうだったっけ、と思うくらい批判が多いと感じている。メディアも個人チャンネルも批判が多い。海外でも同様なのだろうか。

少し前の記事で書いたけれど、上の年代の人たちの中には、批判が格好良いと思われていたであろう時代に青年時代を過ごした人がいて、その記憶・体験のままに批判的スタンスの人がいるように想像する。ただ、今の批判調は上の年代の人たちだけがリードしているものではないと思う。なぜなら、どこから何をみても批判が多いように見えるから。

批判のほうが簡単なのは、その人の主張や意見を理解しなくても批判は出来てしまうから、というのもあるように思う。支持したり、代弁するには理解がなくてはできないので、時間も労力も必要になるが、批判は勝手にできるから簡単なのではないだろうか。

ちゃんと話を聞いて、理解して、そのうえで反対するなら反対し、自分と異なる意見も尊重できる人間になりたい。

停戦合意違反

停戦合意違反

カンボジアとタイが軍事衝突し、その後、停戦合意したものの、合意に反して攻撃が続いているという報道があった。

この手の報道でよく判らないのは、前線の部隊・兵士まで停戦の指示がきちんと行き届くのだろうか、そして、届くとしても、翌日から停戦などという短いリード・タイムで指示が徹底されるのだろうかということ。停戦合意違反といっても、実は、指示が届いていないとか(業務連絡を社内の部署へ一斉メールするのと訳が違うはず)、届いていても武力行使支持派が指示に反発してあえて攻撃を継続するような背景はないのだろうか。

統制のとれた国であれば、指示は徹底しているだろう。しかし、21世紀にもなってまだ軍事衝突するような国であれば、そもそも国や軍のガバナンスがうまく機能していないということもあるのではないか。

これは個人的な疑問であって、地球人の私としては、理由がなんであろうが停戦を合意したなら、お互いに合意を遵守し・遵守させ、違反があらたな火種にならぬように対処して欲しい。

参院選が終わって

参院選が終わって

投開票が終わって約1週間が経つところ、選挙を振り返る報道のネタがつきて来る頃と思いきや、首相が退陣する・しないでもう暫らくは選挙ネタで賑わいそうな様子に見える。

私がネットで観る動画にその傾向があるだけなのかもしれないが、多くの番組や記事は政局についてコメンテータが述べているものが多いように感じる。多分、それに興味を持っている人が多いと、番組制作側が考えているのだと推測する。そのような番組を観ていると、取材した結果をコメンテータが述べているというよりも、コメンテータが言いたいことや、コメンテータが推測していることを述べているだけのように見えるものが多く、今後の政治を展望するものはあまりないように感じる(私もアルゴリズムの餌食なのか…)。

あと、選挙後のこの時期に選挙前の番組を見ると、やっぱり誰の予測も当たらないいんだなと再認識させてくれる。予測が当たらないのは当たり前という感じを持っている。まず、有権者が世論調査に本当のことを言うことはないだろうし、いくら統計学を駆使したとしてもサンプル数が少なかったり偏っていたり、予測するための材料が十分でないだろうと思う。また、各メディアは何か意図があって報道しているように私には感じるため、報じられていることをそのまま受け取ることができない。意図あって、予測とかを述べているように思うことが多い。

私は私でうがった見方をしているのは自覚している。けれど、公平にみても、メディアの報道をうのみにしてはいけないというのも間違った意見ではないとも思う。私自身も、報道に対するいい塩梅のスタンスを見つけられるようになりたいと思っている。それには、様々な角度からの情報を得ることが一つの方法だと思っている(自分の信じたいことだけを信じられたら楽になれるとは思うのだが、私はちゃんと知りたい。でも、ちゃんと知ったところでどうなるとも思っている)。

プロ野球・オールスター戦の選手マイク

プロ野球・オールスター戦の選手マイク

オールスター第一戦を YouTube で観戦した。CM中(多分)の映像も映っていたので公式映像を YouTube で流しているのだと思ったのでネットで観ていた。しかし、公式チャンネルではないことに途中で気付いた。よくありがちな、東南アジアの名前でやっているものだった。勝手に流しているもので、あ、これ観てはいけないものだ、違法者に協力してる、と思った。

途中まで観ていた中継だったけれど、出場中の選手の試合マイクのシーンを見た。後日、ネットニュースで選手マイクに批判的な芸能人発言を取り上げた記事や、その記事での批判的な投稿をみた。

私は、この企画は面白いと思った。ただ、せっかくのマイクなので、違う使い方したらよかったのにという感想を持った。コメント欄で多くの人が言っていた通り、投手が投げる瞬間にマイクをつけた野手との会話するのはちょっとどうかなと思った(でも、ネットコメントほど、否定的なスタンスではない)。また、会話の内容についても、私だったらどういう意図でどういう守備位置にいるとか、この打者だとどいうことを考えてその守備ポジショニングをとっているとか、そういったことを放送席から聞いて欲しかった。実況していたアナウンサーと私は興味が違うから仕方ない。でも、プレーに関することを聞く機会がもっとあれば、子どもたちプレイヤーにも有意義な中継になるのにな、と思った。子どもで視聴率は取れないので仕方ないけど。あと、プロ野球選手のレベルになれば、逐一周りの選手と会話して確認する作業もあまりないだろうし、また、真剣勝負でもないということもあるのだと想像するけれど、選手間会話をもっと聞ければよかったと思った。

新たな取り組みなので、今年は意見様々なのはよく理解できるので、来年以後も続けて欲しい企画だと思った。その時は、私の聞きたいようなことを聞いてくれたらうれしいのだけど。

熊を駆除したことに苦情

熊を駆除したことに苦情

私は熊が出没する地域には住んでいないが、人間の居住区に出てきた熊を駆除することには反対しない。居住区に出てきたということは、もしかしたら畑に美味しいものがあることを知ってしまったかもしれない。そうすると、再び里に下りてくることもあるかもしれないし、その時に人と出くわしてしまい、人を恐れた熊が攻撃的になってくるかもしれない。山に入って駆除する必要はないと思うし、それは不可能であるけれど、里におりてきた熊を駆除するのは致し方ないことだと思う。熊よりも人間の方が生かしておくべき存在だから、人の命を助けるためには熊を駆除するのは当たり前だ、とかいう理屈で肯定するわけではないが、人間が人間側を贔屓するには仕方ないことだとおもう。少なくとも、私は熊に襲われて死にたくない。

三連休のなかびが参院選の投票日

三連休のなかびが参院選の投票日

海外にいる私は、大使館へ行き在外公館投票をする予定。在外投票の期間は、選挙の公示日の翌日から日本国内における投票日の6日前までと規定されているようで、日本では日曜日が投票日になることから、衆院選の場合は在外投票期間中に週末が一度含まれ、参院選の場合は二度の週末が投票のチャンスになる。大使館の所在地へ出張がうまい具合に入ることはまずないし、週末にチャンスがあることから休暇をとって平日に投票へいくことも考えたことはない。

日本の報道をみていると、三連休なかびに投票ということを度々、言及している。中には、「参議院選挙は公職選挙法で国会が閉会してから24日以後、30日以内に行われること」になっていることを伝え、会期延長がなければこの週末になることは国会会期が決まった時には推定できたことも伝えるメディアもあるが、基本的には投票率を上げさせないために恣意的に決めたような報道ぶり。

まあ、それはよいとして、もしも連休中に出かけることを予定しているならば、不在者投票や期日前投票という制度もあるのだから、なかびであることが投票率があがらない理由にはならない筈だと思う。それと、メディアが頻繁に伝えているように、景気が悪いのであれば、わざわざお金を遣うような宿泊旅行にはいかないだろうから、影響ゼロとは言わないが顕著な投票率の違いにはならないと思う。もし、投票率が低いようなことがあれば、いつやっても低いのではないだろうか(ちなみに、私は自民党の肩を持とうと思って、このような感想に至っているわけではない。メディアのレッテル貼りというか脊髄反応を見ていられないだけ)。

私は粛々と選挙権を行使してきます。ついでに買い出しもしてきます。

批判が格好良かった時代

批判が格好良かった時代

動画でも文字でも、報道は批判ばかり。そんなこというなら、お前がやって全て解決してみろ、と思ってしまう。以前に私が勤めていた会社では、OKY = Omaega Kite Yattemiro (お前が来てやってみろ)という言葉が十年くらいまえに流行っていた。

会社において私がちょっと弱い点は、他人ができないことに対して意見を言うには自分がそれをできるという前提があること、と気持ちがあることだ。だからコメンテータ的な発言はしたくないし、また、批判的な意見を持つことも頻度的には低い。報道で批判ばかり目にすると、なぜ、あの人は批判ができるのだろうか?と疑問に思う。

私なりの推測としては、年代が上の方で批判が多めの人は、批判することがカッコよいとされていた時代に多感な若者時代を過ごしていた人なのではないか。学生運動をしていた人が登場する動画をたまに目にすることがあるが、学生時代の批判は思想に基づいていたものではなかったので、就職とともにそれまで主張していたことはどうでもよくなったというようなコメントをみたことがある。商売でも製造でもサービスでも、勤め始めると自分の仕事に注意が注がれてきて、それぞれの価値観をアップデートしながら生きてきたのだと思うけれど、そうではなくて、メディアに就職してしまった人の場合、世の中から取り残されて今でも批判精神を維持している人がいるのではないかと想像する。メディアは批判するのが仕事、という概念を持っているのではないだろうか。

多分、いまそれなりの役職にいる人々がそのような世代の最後の人々ではないかと思う。世代交代とともに報道ぶりも変わることを期待している。だが、報道を見ていると、とてもフォーマット化されているのが報道のように私は感じているので、人(世代)が変わってもスタンスはあまり変わらないような気もする。受け手側が主体的に考えればよいという意見には私も同意する。だが、そうであれば、よけいに流す方が変革する機会が来ることはないのではないか。需給のミスマッチは本来、それが廃れて新しいものが生まれる機会になるのだろうけども、こと報道についていえば、延々と続きそうだ。

報道ぶりに思うこと – イラン・イスラエル

報道ぶりに思うこと – イラン・イスラエル

イランとイスラエルが停戦で合意したというニュース。一般人が知らないだけで、今回の停戦へ至る過程で新たな禍根をつくってしまったりしたのかもしれないが、今回のアメリカによる仲介があってもなくても、両国が永遠に停戦することは残念ながらなさそうに思えるため、仮に一時的な停戦であったりニュースの解説者がいうようにイランの核開発の進捗を数か月のみ遅らせた結果であったとしても、短期的に最悪な状況までに陥ってしまうことが回避できたことを私は喜ばしく感じながらこのニュースをみた。

しかし、報道ぶりを見る限り、コメンテーターも記者もアナウンサーもこぞってトランプ大統領がどうのこうのと批判しており、両国の攻撃の応酬が続くことを皆が望んでいたのかと誤解してしまうほどである。核開発の進捗を少し止めただけといったって、新たに生じたその少しの間に対話もできるだろう(当事者でない私は、本件が対話で解決する話かどうか判らないながらも多分解決しないであろうかもしれないが、対話の機会があるかないかは何かには違いを生じさせうると信じているし、変わらなくてもしばらくの停戦中に逃げることができるかもしれない)。

トランプ大統領批判ありきなのか、戦争になったほうが視聴率や購読率が上がって都合がよいと思っているのか知らないが、ミサイルを撃ち込まれる住民にとっては背景はなんでもよいので、とにかく止めてくれと思っているのではないだろうか。メディアのひとたちの思考回路がわからない。多分、異なる人たちなのであろう。

「暑さのピークは20日」は表現のサボり

「暑さのピークは20日」は表現のサボり

暑さのピークは 20日、と数日前のネットニュースにあった。

6月半ばを過ぎたところだけれど、既に日本は暑いというのはネットニュースから知っていた。記事の言わんとすることは、「ここしばらくの間の足元の」ピークが 20日ということなのは判るけれど、暑さのピークと聞いたら、これから 7月・8月だというのにもうピークだったら今年は冷夏か、と誤解してしまう(しないけど)。動画と違って決まった文字数でニュースを配信する都合上、誤解が生じない範囲で言葉を省略するのかもしれないけれど、せめて「この一週間のピーク」とか「再来週に天気が崩れるまで」とか付け足すのが丁寧ではないかと思ってしまった。記事を書いた人の頭の中では、一定期間の間のピークという文章になっているのが、実際にネット上に載る時に省略されてしまったのだろうと思う。ただ、掲載する前に確認したら違和感を持ちそうなものではないかと思ってしまった。あるいは、私はつまんないことに突っ込むマイクロマネジメントな人なのだろうか。別に新聞社に文句をいうわけではなく、思ったことをひとりつぶやくくらいいいだろうか。なにせ、今年の目標の一つは、いろいろなことに感想を持つ、ということだから。

(そういえば、記事の途中で「冷夏」と書いたが、冷夏と報道で見聞きすることもない暑い夏が常態化してしまって冷夏は死語になってしまったのかもしれない)

謝罪文のテンプレート化 – 迷惑と心配

謝罪文のテンプレート化 – 迷惑と心配

「ご迷惑とご心配」が対メディアでの謝罪文のテンプレートになってから、結構な時間が経ったと思う。誰かが謝罪したというネット記事の投稿コメントには、この迷惑と心配について言及する人がかつては結構いたけれど、もうテンプレートになってしまったから、最近は思っていても特に書き込まない人が増えたのかもしれない。

本件に限らず、私はニュース記事へのコメント投稿はしないのだけど(読むのは大好き)、迷惑と心配に今でも不満を持つ人間の一人。誰も心配などしていないのに、と独り言で突っ込む日々だ。なんでこれがテンプレートになったのかは判らないけれど、単純に「迷惑かけてすみません」という謝罪のみの発言だと自分が悪かったと認めることになるので、自分の非を薄めるために意味をなさない「心配」を付け加えているだけのような気がする。

誰かが書いた謝罪文を読まされているだけかもしれないし、本人も不本意(本当は土下座したい気持ちだったりするかも)にそう言っていわざるをえない大人の裏事情もあるのだろうけれど、それは私たちには見えないので、見えるもので発言して欲しい。

小泉大臣のセクシー発言はコンサル受け売りと思う

小泉大臣のセクシー発言はコンサル受け売りと思う

農林水産大臣が交代した。辞表を提出した前任者は、昔からよくいたタイプの国会議員だったようだ。

後任大臣に小泉議員の起用が報道されるというニュースのコメント欄には、いろいろな書き込みが(ちなみに、私はネット・ニュースのコメントを読むことが好き 投稿を編集 “ネット・ニュースの投稿コメントが好き” ‹ Journeyman : Blog — WordPress)。

環境大臣時代のセクシー発言を蒸し返す投稿コメントもあった。当時にあれを聞いたときに、小泉大臣のブレーンにコンサルが入っていて、その人が書いた台本かコンサルの受け売り発言だろうと思った。

コンサル会社を起用する機会のある業務から離れているので最近の傾向は判らないけれど、以前に取り組んだ案件で関係したコンサルには、セクシー発言を度々する人たちがいた。そんなことがあったため、大臣がセクシーと発言したことについて特に違和感がないというか、きっとコンサルの影響なのだろうと思った。流行語か業界語のようなものだから、もうセクシー発言は忘れてあげてもよいのではないかと思う。コメ問題のタイムリーな話題に事欠かない農林大臣に就いたことで、大臣の発言が報道で取り上げらえる機会も増えるので、きっと新鮮な発言を提供してくれるだろうと思う。

小泉大臣は身近でないので構わないのだけど、コンサルに影響された会社の後輩が「セクシー、セクシー」言っていた時期があって、その場に一緒にいることが堪らなく恥ずかしかったのを思い出した。言葉は自分のものにしてから使った方がよいと思う。

カンヌ映画祭がヌーディティ禁止の新規則

カンヌ映画祭がヌーディティ禁止の新規則

昨日のニュースで、カンヌ映画祭でのヌーディティや動線や着席に支障をきたす裾の長いボリューミーな衣装を禁止するというものがあった。レッドカーペットを含む映画祭のほかのエリアでも禁止とのこと。

カンヌに限らず、外国のイベントで露出度の高い衣装の女優やセレブなどの映像を目にすることは珍しくないが、どうしてあんな恰好をしているのだろうといつも思っていた。本人や服のデザイナーにはこだわりや美の基準があるのだと思うけれど、本人が見せたいのか話題づくりなのか、理解が難しい(むこう側の人からしたら、私なんぞに理解してほしいと思っていないだろうけど)。

女性の権利や役割とか、ルッキズムとか、スリムとオーバーサイズとか、いつもはいろいろと問題提起に事欠かない世の中なのに、このような衣装に対するネガティブなコメントや記事をあまり見た覚えがないのも理解しがたいものだった。

結局、世の中、ダブルスタンダードというか、大きい声しか聞こえてこないというか、自分がよければそれでよしというか、芸能の人は非芸能の人と感覚がやっぱり違うのかなという感想。

ちなみに映画祭は、5月13日開幕とのこと。しばらく映画を観てないな。