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Category: 教育

Al の学習元によっては …

Al の学習元によっては …

今更な話ではあるけれど、AI がどこから学習をしているか心配。自分が学習した時も、ガセネタが情報源だと間違えたまま成長してしまい、一度間違えて覚えてしまうと後から修正が大変だったりする。

だから AI がどこから学習しているのかは心配。なんてことを思っていたが、もしも、AI が間違いを教えたとしても、5億人が同じ間違いから学んだとしたら、もしかしたらそれが正解になってしまうことがあるのだろうか、という疑問が生じた。客観事実がある物事であれば、例え大勢が一つの意見を表したとしても正誤を確認する術があるし、大勢が言ったからって間違いが正解になることはない。しかし、正解のないこと、例えば評判とか実際は誰も正解を持ち得ていないこと(宇宙や歴史など)については、嘘を大量に不徳的多数に拡散する能力のある AI が間違った学習成果によって流布するような時代になると怖い。意図的なもの、バグ、AI の暴走、確認作業不足など、理由は様々かもしれないが、手っ取り早く何かを知ろうと思って利用する AI のはずだったのに、ほかの検索結果とのクロスチェックが必要になると、いったい何のため?という気持ちになるかもしれない。

数式 = (a*b)/x – (a*b)/y

数式 = (a*b)/x – (a*b)/y

仕事で何かのデータを変換しようとしているときに、タイトルのような計算をすることになった。
(a*b) が共通しているので、(x-y) で計算を簡単にできると思ったのだけど、割り算のまま計算してしまって変な計算結果になってしまった。あまりにおかしい数字なのですぐに間違いと判ったのだけど、割り算だからって割ってはだめで、(1/x – 1/y)を掛けることに気付くまで時間がかかった。

単なる感想であり、衰えの実感であり、以前に出来たことが出来なくなった残念な気持ちがぐるぐるぐる。

野菜が食べられるようになった

野菜が食べられるようになった

小さい頃は野菜を食べられなかった。自分が育った家の例しか判らないので、それが一般的かどうか判らないが、私が育った家では、おかずは大皿で出されていたので、好きなおかずだけ取って食べるということができたため、野菜嫌いで特に不都合はなかった。唐揚げの周りにブロッコリがあったとしても、唐揚げだけをとることができた。これが、もしもひとりひとりの皿に盛りつけされていて、そこに野菜を盛られていたら、どうなっていたことだろう(給食で困った記憶がないのだが、それがどうしてかの記憶がない。誰かに食べてもらっていたのかも)。

野菜嫌いのパターンとしては、たしか、何度かチャレンジしたけれど克服できなかった、というケースだったと記憶する。

そんな私が中学生の時に、母親以外にお弁当を作ってもらう初の機会があった。修学旅行の初日の昼の弁当を同級生が作ってくれた(自分が持ってきたであろう弁当をどうしたのか覚えていない。事前通知があった記憶もないので、自分の分を持っていたはず)。単純、簡単な話ではあるが、私はその日を境に野菜を食べるようになった。まあ、よくありがちな話ではあるし、この出来事がなかったとしてもいつかは自発的に野菜を食べるようになっていただろうとは思うけれど、中学生で食べられるようになったこの出来事には感謝の気持ちをもっている、ということをふと思い出した。今日のスーパーでの買い物かごには、自分でも信じられないくらいの野菜が入っていた。当時に比べたら成長したなー。

ネット検索結果にもバッヂを

ネット検索結果にもバッヂを

辞書を使わなくなった。厳密にいえば、製本された辞書を使う頻度が下がってからは十年以上経つと思うけれど、ここ数年は、PC にいれている辞書アプリも使わなくなった。どうしているかといえば、多くの人もそうだと想像するけれどネット検索をしている。

辞書アプリの不使用は、勤務先の IT セキュリティも一因。転職前は、セキュリティが厳しくなる前の時代から使っていた辞書アプリがあった。それを使い始めてから PC は何度かの代替わりを経たが、IT の部署がユーザーのデータやファイルをすべて移植してくれていたおかげでずっと使えていた(標準外アプリも新 PC に移してくださいという依頼を行う必要があったが、それが否認されることはなかった)。今の会社への転職は少し前のことなので、すでに世の中の多くの会社は IT セキュリティにセンシティブになってからなので、転職時に貸与された会社 PC はセキュリティ設定がガチガチで、標準外アプリをユーザーで入れるのは不可能だし申請が認められることも難しく、以前につかっていた辞書アプリは私用 PC でしか使える環境にない(私用タブレットを毎日持って出勤しているが、業務中に取り出してまで調べようとは思わない)。

ネットを辞書替わりに利用するメリットは結果を得るのが早いこと。今やっている作業に必要な言葉を調べているわけなので、ネット検索は作業が中断する時間を短縮できる。手は PC キーボードにおいたままだし、視線をディスプレイから外す必要もない。一方で、ネット検索のデメリットは、新しい語彙が頭に残りずらいなどの副作用が生じやすいのが私の場合だが、これは私だけではないだとうろと思うので、また別の機会に考えてみるとして、最近にイライラが増してきたのは、ネット検索にヒットする上位結果が必ずしも正解とはいえないケースが増えてきたように感じることだ(ヒットする結果が増えたことで、正解でないものを拾ってしまうケースが増えたということだろうか、それとも私の感覚が間違っているのだろうか)。

和訳をネットに尋ねた場合、生まれてから日本語を母国語としてきたので、結果に違和感があっても主旨は何となく理解できることから、自分なりの言葉に置き換えることなどができるので問題は多くない。英訳の場合はちょっと違う。検索結果が間違っているような気がする場合が結構あって、結局、その英単語を調べなければならなくなることが多い。特定分野の用語の場合は仕方ないこととあきらめているが、一般名詞や語句の場合でも調べ直す機会が多くて困っている(自分の語彙の少なさが問題なのと、細かいことを気にしすぎなことが理由であることが判っているが、言葉を定義通りに使わないと間違って相手に言葉が伝わる可能性があると信じている面倒くさいのが私なのです)。いっそのこと、「これは各単語の意味を連結しただけの直訳です」とか、「これはネット上でみつけた用語集から引用したものなので架空のものではありません」とかを検索結果に並べて宣言してほしいと思っている。それくらい、人工知能でできるだろう。

調べ直し自体は製本された辞書を利用していた当時もあったし、調べた目的の意味以外の意味や調べた単語の近くにある別の単語に興味が湧いて、辞書を開いた目的とは関係のないことに時間を費やしてしまうことはよくあった(そのおかげで知識を広げることができたこともあった)。だが、ネット検索は、重要性の低い調べごとをするときに手抜きするためのものだと私は思ってきたので、それを使った結果、余計な時間や手間がかかるのは心情的に許せない部分がある。

そうか、許す心を持てはよいのか(この記事のテーマと違う結論だ)。

就職氷河期世代への支援

就職氷河期世代への支援

氷河期世代への支援をテーマに出演者が話し合う番組を動画でみた。どんな結論だったか忘れてしまったけれど、議論のなかで新卒で失敗してもやりなおせる社会に変えてゆくことが大事という意見を言っていた人がいた。

氷河期時代に新卒で非正規からはじめた人には今でも厳しい社会であると想像するけれど、新卒で正規雇用された人については、転職に対する労使双方の見方が変わってきたことで、以前よりはセカンド・チャンスの機会は創出されていると思う。

以前よりましだからいいじゃないか、というつもりは毛頭ないが、新卒への教育に掛けた決して小さくないコストで自社仕様に育て上げた社員がいるので、なぜセカンド・キャリアで採用するかといえば、多分、専門知識を持っている人があらたに自社に戦力として入ってきてくれることを期待してのことだと思う。

日本の新卒採用で私がよいと思っていることは、大学で学んだことと違う分野で採用・配属が行われること。デメリットもあるけれど、よい点のほうが上回っていると私は思う。大学の専攻と関係ないからこそ、配属後に OJT で徹底的に鍛える必要があるし、一人前になるまでに結構なコストがかかっていると思う。この状況を変え、セカンド・キャリアの流動性をあげようとすると、セカンド・キャリアで入ってくる時は勿論のこと、社員教育にコストをかけないとすれば、新卒の時点でも専門性を身につけた人を採用しようとするだろうし、専攻分野によって就職先が限定されてきて、新卒の門戸や選択肢が狭まる結果になるような気がして、そっちの方が副作用が大きいように思う。これが極々一部の大企業にのみ当てはまることで無視してよい話ならばよいが、私には専攻と関係ない会社に勤める機会があることは結構、重要なことだと思っている。また、何か単一分野の仕事はしてきたが、その分野でのスペシャルな技能がない人の場合、何年経験をつんだとしても職種が高度化することもないだろうから、昇給する機会も少なそう。スキルが上昇しなければ、身に着けたスキルでキャリア・アップ転職の機会もなく、もし転職をするならば、同じ仕事でちょっとだけ待遇がよさそうな会社を見つけた時にしか起こらなそう。

氷河期とかセカンド・チャンスとか関係なく、全ての国民が最低限の生活を送れことができる制度や仕組みのある国にしてくれるのが一番ということになるのだろうか。年代や性別、住む地域などで不公平のない社会、かといって結果を出せた人とそうでない人とが同じ処遇を受けるのではなく、頑張った人はその報酬を得ることを誰にも邪魔されない社会。それと、今ある色々な問題の多くに共通すると思うのだけど、教育が非常に重要だと思っている。

ハーバード大学の留学生受け入れ停止

ハーバード大学の留学生受け入れ停止

トランプ大統領の措置の本質とは異なる副作用的な話ではあるが、この措置は大統領が守りたいと思っている米国の価値観への影響以上に、アメリカ以外の国のダメージの方が大きそうな気がする。

他国から米国へきて、そこで学び、卒業後も米国に留まって、米国に貢献するかもしれないタレントが入ってくる機会を奪うことになる可能性以上に、米国で学んでから母国に帰り、アメリカで学ばせてくれた過去に感謝しつつ、母国のさらなる発展や深化・進化に貢献する人たちの流れが止まる国のダメージは大きいと思う。それは、間接的には米国側にもデメリットとなるし、誰得という気がしてならない。

ちょっと世の中の発展スピードが早すぎてついていけないところもあるので、一旦、進化スピードを落とすにはよいのかもしれないと思ったりする。

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

ニュースを見てまず笑った。その後、何かを実行しようとするときの熱意がすごいなと思った。必死さといえばよいのか、必ず成し遂げる意思の強さというか(ちょっと前の言葉で GTIT ?)。

熱意は見習うところがある。でも、その熱意を生じさせているものは何なのか。一度のチャンスを逃してはなるまいという社会からの切迫感なのか、カンニング手配師(?)に払った費用が安くなくて費用回収が超重要なのか、TOEIC の有無で極端に変わってしまう人生を過ごしている人たちなのか。

乗っている土俵は違うのだと思うけど、多分、彼らのほうがうまくいった時の上振れ度が激しく高いのだろうというのは想像がつく。どっちがよいのかは価値観による。

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ニュースで知った、二人っ子政策をしていることを。しかも、導入されたのが 1998年とのこと。もう四半世期も継続していたことを知らなかった。

ベトナムの人口についての私のイメージは、年間 1百万人ずつ増加する若い国というイメージだったので、その増加数からいって、政策で制限しているなどとは想像もつかなかった。背景には、合計特殊出生率が 2024年に最低を記録したことなどのもよう。ベトナムがそのような状況なんだと思っていると、これはベトナムだけの問題ではなく、少子化が遠くない将来に問題になりそうな国が少なくない模様。

ちょっと話は逸れるが、すでに存在する製品よりも環境面に優れた新商品が出てきた場合、真っ先に投入される市場では、当然、初めての製品が浸透するには時間を要すが、ある程度、新製品が認知されている国・市場があれば、それに続く市場では急激な市場シェアの獲得が期待できる。それと少子化の問題は異なる性質ではあるものの、少子化とは縁遠そうな国が実は先進国市場よりも、タイミングは後だとしても、先に少子化を経験した国々よりももっと急激な少子化へ突き進むことはあり得る展開だと思う。

経済が成長し、生活のコストや教育への投資が高額になるほどに、夫婦ともに働く必要が生じるし、また、社会が高度化すれば社会との関りに男女の別も関係なくなる。結婚するカップルのもとでは出生率はもしかしたら大きくは減らないかもしれないが、結婚しない人もしくは結婚システムに入らないカップルの比率が増えると、それはイコール出生しない選択肢をとる人たちということになるかもしれない。そうすると、どうしても社会の成熟とともに少子化になるのは仕方ないことかもしれない。

私個人でできることはあまりなさそうだけど、今回のベトナムの政策変更に係るニュースに触れたことで、ニュースは偏りなく入手する必要があると再認識した。ニュースを知ってどうする、とは思わない。かりに、直接自分には関係なくても、いろいろなことを知れば知るほど考える機会や感想が増えて自分の引出しが増えると思うし、考えることはボケ防止にもよいかもしれない。

ゲノム編集について専門家発言・・・歯止めはどこ

ゲノム編集について専門家発言・・・歯止めはどこ

ゲノム編集をテーマに人があつまって話している動画を見た。専門家一人と何にでも発言する、その番組のお決まりのコメンテータが出演していた。立場が変われば意見が変わるだろうし、理解度が違えば人によって見方も違ってきて当然の話。しかし、専門家の発言で引っかかるものがあった。普段、私が動画を見る時は、違う意見をいう人であっても一人突っ込みしながら楽しく見解を聞くことができるのだけど、このときだけは違った。

医療分野などではよくある話であるが、倫理との関係についての話題になったときに、悪用される可能性もあるので十分に議論してから技術的な検証に進むべきみないな意見が出てきたときに、その専門家は、「とりあえず作らせろ。それから考えたらいい」と言った。

正直、気持ち悪い意見だと思った。あまりそんな感想を持つことがない私だが、気持ち悪いと思った。同時に、研究してはいけない人ではないかと感じた。「作ったんだから、とりあえず使わせろ」と次に言いそう。実際に要求するようなことはしないにしても、「とりあえず作らせろ」という発言をする人を信用することは私にはできない。私が多数派かどうか判らないけれど、そういう発言をする人がいる以上、私個人としては危険な研究だと思った。

公立高校の併願入試を検討との報道

公立高校の併願入試を検討との報道

メディア報道によると、文部科学省が公立高校の単願制の見直しに向けた検討を開始するとのこと。
併願によってよくなる面もあると思うけれど、私はどうかなあという考え。

高校側としては、入学してくれる学生の票読みが難しくなる。人気校でなければ、合格者を多めに出す学校が多くなると思う。定員以上が入学すれば先生と学生の比率が崩れ、先生ひとりあたりの学生数で不公平が生じうる。また、併願の機会を最大限に生かせるように、各校試験をA/B日程のように実施すると学校側の負担が増える。そうではなく、A日程の学校とB日程の学校に分ける方法だとすれば、それはそれで相当に気を遣う検討作業になるだろう(公立高校を統括しているのは都道府県の教育委員会?)。

公立であれば、入学金の額と納付期限は統一されるであろうから、最近、いくつかのメディアで取り上げられていた私立の入学金ムダ金納付問題(浪人確定を回避するために、第一志望の合否が判明する前にそれ以外の学校の入学金を納付しないといけないこと)は発生しないことは大前提としてほしい。

メディアによると、併願が可能になることで少し無理目の学校にチャレンジすることができるとか、チャレンジを回避した受験生よりも点数の低い受験生が合格する不公平を回避とかのメリットを挙げている。たしかにそれはそうなのだけど、自分の成績から少し背伸びした学校に入学したあとについていくのが大変になる場合もあるので(私は運のよい方なので、高校も大学もうまく合格してしまい、どちらも入学後に苦労した張本人)、何が正解か判らないし、だからこそ面白いなどという受験生でないからこそのお気楽意見。


4月25日の記念日
・世界マラリアデー:2000年にマラリア撲滅国際会議がナイジェリアで開催された。
・世界ペンギンの日:アデリーペンギンが南極大陸から海へ移動する頃らしい。でも、なぜ今日?
・ANZAC Day:第一次大戦時の豪・NZ義勇兵(AUS & NZ Army Corps = ANZAC)の勇気を称える
・ギロチンの日:ギヨタン博士が提案したギロチンがフランスで実用化された日。1792年
・取得物の日:1980年に東京・銀座で 1 億円の落とし物が見つかったことにちなむ

文章を書くハードル

文章を書くハードル

いまさらだけれど、パソコンは便利だ。計算が違えばやり直しは簡単だしどこで間違えたかの見直しも見つけやすいし、文章にしても、一遍に消したりまとめて段落の順序を入れ替えたり、何にしても便利だ。また、必要に応じて、文章を残したファイルにパスワードをかけて内緒にすることもできる。

その便利さのおかげで、手書きの時と比べて文章を書こうとする時のハードルが相対的に下がった。何か文章を書いてみようという気になりやすい。

反面、とりあえず書いてから後で推敲すればよいという気持ちで書き始めることが増えた。よく考えずに取り掛かってしまうので、書きたいことを書き始められるまで時間がかかる時がある。ただし、これは業務のなかで文書を作成する時にはかなり便利で、とりあえず箇条書きも使いながら主旨をかいてから、それにあうように前文を書いたりすることができる。別にパソコンでしかできない書き方ではないが、パソコンの場合は消しゴムでこすりすぎて紙を破ってしまうこともないし、消しカスもでないのでやっぱりパソコンが便利。

ただ、やっぱり私は今でも書くのが好き、なぜならペンが好きだから。社会人になりたての頃は、メモをほとんどとらない不良若手社員だったのだけれど、何をきっかけか忘れたけれど 5年目くらいからはとにかく書くようになった。そうなってしばらくして経ってからのこと、海外で一緒に仕事をしていたドイツ人の人にボールペンをもらったのだが、その書き味がとにかくとても良くて、それまで以上に書くことが好きになった。仕事でノートをとることはもちろん、手書きのスケジュール帳を買ったのもそのころで、20年以上たった今でも、毎年、その時と同じ会社が出している手帳を買い続けている(書くことが好きなので手帳は変えてもよいのだろうけど、結局、毎年その手帳を買い続けている)。
(よくよく考えてみると、高校の時の数学の先生にノートの取り方を教えてもらって目から鱗だったとおもに、成績も上がった経験が記憶の奥深くの普段は無意識の領域に保存されているのかもしれない:あの先生がいなかったら別の人生かも – Journeyman : Blog)。

私の感覚に同意してもらえる人も、理解できない人もいると思うけれど、気に入ったペンで書くという行為はどうしてあんなに気分のよいものだろうか。パソコンで何かを書くハードルは下がったのだけれど、依然として、ペンで何か書きたいという欲求がある。徐々にペン自体の塗りが変化してきて味わい深い見た目のペンもあるし、ペン先と紙のこすれあう音も気分が上がるし、自分なりに今日はうまい字が書けたと思える日は気分が良い。

書くことがデフォルトだるデメリットとしては、書かないと思えづらい脳になってしまうことだろう。例えば、コロナで在宅勤務だったころは、自宅にプリンタがないので印刷した資料に手書きでメモや補足、あとで調べる疑問点などを書き入れることができなかったり記憶が進まないことがあった。無用な印刷をせずに省資源に貢献する世の流れに従おうための訓練として書かずに頑張ってきたが、デジタル教科書から紙の教科書にもとりつつあるいくつかの国の例かれもわかるように、書くことと学習には関連があると思う。

そんなことを考えていたら、最近、郵便の手書きの手紙を出してないな、と。人との連絡には電子メールが便利なのは間違いないけれど、たまには手紙を書いてみようと思った。


4月20日の記念日
・穀雨:田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨が降るころ。二十四節気の第六。2025年は今日。
・郵政記念日:飛脚制度に代わり郵便制度の実施を記念。もとは逓信記念日として1934年に制定。
・青年海外協力隊の日:1965年に発足。
・珈琲牛乳の日:1923年のこの日に初めて販売された。東海道線国府津駅で。守山乳業㈱。

・イースター

ゴルフは紳士のスポーツ

ゴルフは紳士のスポーツ

堅苦しいことを主張するつもりはない。その場がどのような機会なのか、またはどういったメンバーでの機会なのかで紳士のレベルを緩急させてもよいかと個人的には考えている。決して、仲間うちのゴルフが適当でいいわけではないが、正式なコンペほどガチガチにせずに、後ろからくるパーティや進行状況、周りの状況でよい塩梅に対応してよいと思っている。

ただ、それもプレー・マナーが許す範囲内ならばブレさせることもあり、というのが私のスタンス。しかし、ルールを無視してまでも自分を利するようなプレーはマナーに反するし、それをするのを目にすると、一緒に回っている私は興ざめするし、私にも同様にズルしてよいと言われても、その日のスコア自体を否定することになるので、嬉しくも楽しくもないし、誰のボールか確認するのに、私に断りなく私のボールを拾い上げてその辺りに適当に投げ捨てるのもやめてほしい。私はあまりゴルフをしないので、これまでに私が一緒にプレーした数少ない人たちをサンプルにすれば、日本人には個人的ルールを適用させる人はあまりいないし、いわるゆ西洋の人も同様なのだが、アジアの人にはフレキシブルな人が多かった。もちろん、国民性を単純化して正しく表現はできないけれど、ゴルフを楽しむにはやはりルールやマナーを守れる人と回るということも大事な側面の一つだと思う。

あの先生がいなかったら別の人生かも

あの先生がいなかったら別の人生かも

そう思う先生が三人いる。

中学2年の時の英語の先生。
高校2年時の数学の先生。
それと、大学時代の商業英語の先生。

この三人にそのタイミングで教わることがなければ、きっと違う進路に進んでいたであろうし、そうとなれば、私が過ごしてきたこれまでの日々とは全く異なる経緯で今日を迎えていたことだろうと思う。

中学1年の時に英語がちんぷんかんぷんだった私を洋楽で救ってくれた2年の時の先生、中学数学から高校数学に変わって全くついていけなくなった私に、ノートの効果的な取り方や数式等を書くことで理解が進むことに気付かせてくれた数学の先生、商社マンから大学講師に転職した先生から聞いた貿易実務になんだか興味を覚えた大学時代。

卒業シーズンなこの時期、きっと叶わないと思うが、会ってお礼が言いたい。

国際女性デー

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。女性の役割拡大や地位向上を目指すこと、その進捗を確認するために年に一度、記念日を設けることに私は賛成の立場。

男性への逆差別云々という一部世間の声について、個人レベルで利己的に述べると一部には同意できる事柄もあるけど、人類の中の male という性の中の一人の見地から言えば、逆差別のような事象は私の生死に影響を与えるほどの重要問題ではないし、また、これを是正しなければと本気で主張するつもりも私にはないし、女性の日があって男性(割引き)の日がないことに私も文句もない。

とはいえ、ここ数年のありとあらゆる多様性への主張は、ちょっと違うんじゃないかとずっと感じてきた。それは、そういった主張をする人々の表現の仕方に影響されている部分のあると感じている。それはというと、少数こそ正義というメッセージに聞こえる場合があるからだ。いろいろな媒体で出尽くしている表現になるが、少数派こそ多様性を受け入れない人たち、利権団体にすら思えてしまうことがなくもない。

私がジャーニーマンのように働いてきた経歴の中で、どちらかといえば私が仲間に入っている立場になることのほうが多かった。けんか腰で自分の立場だけを主張していても、当然、受け入れてもらえない。受け入れられなければ、たとえ私が良い案を提案しても採用されることはなかっただろうし、事柄がうまく回ってゆくこともなかったかもしれない。受け入れてもらうために自分を偽る必要はないが、まずは受け入れてもらって、やっと何かが動くのだと思う。そういった意味では、本当に世の中を変えてゆこうとするならば、アプローチを変える必要があるし、大声を出さないと変われないと人々に思われる世の中も変えてゆかないといけないと思う。

多様性の進捗を測るために目標を数字で規定することは、それが目的化してしまう問題や目標値の決め方に課題があるのも誰もが気付いていることではあるが、かといって、客観的評価を可能にするには目標と現状を比べる以外の方法を思いつかないのも正直なところ。ただ、多様性のもともとの意義は、多様な人材や視点、アイデアが生まれやすくなることで問題解決の幅が広がって良い成果につながる、ということだったはずなので、こっちの視点からの何らかの評価方法を考える必要がある。もしも私が経営者になったと仮定して、どんな方法があるか考え続けることを止めないようにしたい。

高校無償化

高校無償化

自民党、公明党、日本維新の会の3党が教育支援金の見直しについて合意する文書に署名したことをメディが報じている。

ニュース番組を見れば専門家と呼ばれる人が色々と解説してくれているし、新聞では記者が内容を報じ、ネットニュースのコメント欄には一般の人々が各自の意見を披露しているので、いろいろな人が様々な考えを持っていることを理解する上で参考になった。

私が高校受験生だったのは何十年も前で、また、高校卒業とともに地元を離れたので今の動向はしらないが、私はいわゆる地方で育ち、地元の私立高校は市に一校づつといった感じだった。都会のように、教育方針や校風を理由に私立を選ぶというよりも、第一志望の公立高校に落ちたとか、特定の部活に入ることが目的で私学に進むケースが多かったように思う。公立に落ちて期せずして私立に通う場合には、支援金は有難いはずだと思う。一方で、私立を第一志望に選ぶ受験生が多くない地方の場合においては、成績優秀者には特待生制度を用意して学生を集めようとする私立も多いと思うので、支援金が効いてくる高校生の割合は、地方では都会よりも低いように想像する。支援金は、私学の中でも多くの選択肢が存在する都会において、より価値が出てきそう。

私は、地方で育ったあとに、そこからは距離も生活文化も結構離れた地方都市で大学時代を過ごし、就職で東京に出てきた。お上りさん的に双六の目を進んできたが、私個人はそれがよかったと思っている(ほかの人生を経験していないので、自分の経験がよかったとしか思えない、ということもある)。だけど、この教育支援金のニュースを聞いて考えたのは、都会と地方の教育機会格差を広めたり、それが廻り回って都会への人口集中が収まらない原因になったり、そこから少子化になったりするのかもしれないなとと思ったりした。

自分には高校生の子どもはおらず、また、将来に高校生になる年齢の子どももいないため受益者になる予定はない(今日時点)。さらに言えば、ここ数年は日本で納税していないため、教育支援金の原資を提供する側にもなれていない。だけど、教育は国づくりの基本だと思っているので、どうしても気になる。

3月3日はひな祭り