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Category: 教育

第一志望 : 大学受験②

第一志望 : 大学受験②

高校3年夏に部活が終わり、その後しばらくしてから勉強を始めたおかげか成績が改善して、志望校を二度見直した。受験本番の直近までE判定だった大学にめでたく合格して、あこがれの大学で学生生活を送れることになった。

自分でいうのは何だが、私は本番で実力以上の結果が出たり、試験に強い傾向が割とあると思っている。最後の模試までずっとE判定だった大学に合格・入学できたのは、そのおかげ以外のなにものでもないと感じた。

実際に入学すると、その認識が正しいことをすぐに理解した。

入学して最初の授業が始まる前のオリエンテーションのような場で、自己紹介をする機会があった。今でいえばマウント取りと呼ぶ人もいるかもしれないが、当時はそんな言葉がないので概念もなく、私は別に悪い感情もなくただただ同期の人たちに感心したのだが、その大学よりも難関校と呼ばれる大学に受かっていたのに私が入学した大学を選んできた人や帰国子女、高校時代に海外研修に選抜されていたような人とか、たくさんのスゴイ人がいて、これは大変なところに入学してしまったなあと深く思った。同時に、そんな人たちと同じ環境で学べることにとても興奮していた。

これはある種の原体験だった。高校生の当時、自分より勉強のできる人がクラスにいたり、自分より上手な人が部活チームにいたりは勿論あった。だけど、とてつもなく勉学に優秀な学生と交わる機会はなかったし、部活で全国大会に出たわけでもないので超絶な選手と試合で出会う機会がなかったので、スゴイ人に会うことがそれまでの人生にはなかった(人生といっても、田舎で子ども時代を過ごすたかが18 年弱の間の話だけど)。しかし、大学に入学してすぐに会った人たちに対して、すごい人たちだなあと素直に感じた。だからある種の原体験。

成績が伸びる前の段階で第一志望と思っていた大学に行っていたらどうだったのか、と思うことがあると別記事で書いた。それはそれで、今もどうだったのか興味はあるけれど、本番の時の第一志望に入学が許可されて本当によかったと思っている。

年間 1,617 時間(2024年)

年間 1,617 時間(2024年)

新聞記事によると、OECD 統計では日本の年間労働時間は 1,617時間とのこと。
私が目にしたこの数字は、韓国で「週 4.5 時間勤務導入論がある」というメディア記事のなかで引用されていたデータなのだけど、同じ 2024 年の世界平均は 1,736 時間とも記載されていた。世界平均よりも 119 時間少ない。

職種によって働き方は違うために平均では詳細は語れないものの、この統計データをポジティブにとってよいのかネガティブ面を心配する必要があるのかわからない。事務職の場合、強制退社のようなものもあったりするので、サービス残業が入っているかもしれないし、単純に労働時間が短くなって競争力も落ちているのか、そんな心配をすること自体が時代遅れと考えないといけないのか、どう解釈してよいか判らない。そんなデータなので、便利といえば便利。自分の主義主張に都合よく解釈してこのデータをコメンテータ・解説者・いわゆる専門家が利用することができるだろう。何が正解かは、どの立場や物差しで物事を観るかで変わってくる。絶対的な正解はない。

定義が判らないので OECD のサイトで確認してみたら、「年間の実労働時間の合計を、年間平均就業人数で割ったもの」らしい。実労働時間には、フルタイム、パートタイム、パートイヤー(季節労働者?)が対象になっていて、有給・無給の残業、副業時間が含まれている由。無給の残業ってどのように統計を取るか判らないけれど、こういっている時点で統計の正当性が少し怪しまれるかもしれない。

この定義からいくと、週休2日のオフィス仕事の国よりも、週1日休みの店とかレストランとかの職が多い国だと労働時間が長くなりそうな気がする。そう思って、労働時間と一人当たりGDP金額を比べてみたら、長時間労働の国の方が一人当たりGDP額が小さく、短い国は高かった。だから、どういう職業についている人が多いか、ということが労働時間統計に影響されそうなことを理解した。(たぶん)

戦争をテーマにしたドラマや映画が苦手

戦争をテーマにしたドラマや映画が苦手

戦争に対する私のポジションは、やるべきではないものという考え。何ら特殊な思想ではなく、主流派というがごくごく一般的な考えだと思っている。

やらないためにどうするか、という点においては、やはり多くの皆さんがいっているように、風化させないことが重要なことの一つで、悲惨さ・残虐さを忘れないために、体験談を伝承していくことが必要と思っている。ただ、戦後の時間が経過するとともに、体験を語れる人々も高齢化していて、体験談を聞いた人がそれを伝えてゆく作業が必要になってくるのだが、そこに少し不安を持っている。

私は、戦争に関するテレビ番組をあまり観ない。戦争をテーマにしたフィクションであれば特に問題はないのだけれど、私が避けているのはドキュメンタリー風に作られている番組のこと。私に実体験がないので検証のしようがないのだけれど、なんとなく脚色されていたり、作成者の意図が紛れ込んでいたりしても判別つかないし、なによりドラマ的に描きすぎているような気がして、そういった番組を素直に観ることができない。

番組が本当に脚色しているかどうかは判らないけれど、実体験を伝承できる人が少なるなるほどに、事実と異なるものが作られる可能性が高まると推測するので、これからもっとこの手の番組を避けることになると思う。ドキュメンタリー風動画にあったように〇〇だから戦争反対、ではなくて、単純に戦争反対を私は今後もスタンスとして持つだろうと思う。毎年8月に入ると、終戦の日に向かって戦争関連の番組が増える。もしも何らかの意図が入っているものに影響を受けてしまう人がいるとすれば、それは非常に残念なこと。



AI に相談する

AI に相談する

日経新聞に、「ChatGPT の新モデルに「冷たくてつらい」の声 共感力低下に失望」という見出しの記事があり読んでみた。

ChatGPT に精神的なサポートを求め、依存してしまう人もいるらしい。また、AI と心理学に詳しい米国大学の教授のコメントが記事で紹介されていて、メンタルヘルスの悪化とセラピストの不足で、ChatGPT が安上がりなセラピストになっているらしい。

言われてみれば、最近みた動画のいくつかのものでも AI に悩みを相談していると言っている出演者がいたのを思い出した。たしかに、実存する人物への SNS メッセージとは違い、AI ならば既読が付かずに待たされることなく返事をくれるし(普通のインターネット検索でもそれは言えるが)、多分、自分が聞きたい返事や悩みの吐露への回答の方向性を誘導することも可能なのだろう。そうすることで、24時間7日間慰めを得られそうだ。そのようなことが必要な局面はあると思う。しかし、いつでもそれだとどうなんだろうとも思う。私にはそのような存在の友人はいないのだが、時には厳しいことを言ってくれる友達が必要だということも、たぶん、そうなのだろうと思うから。また、ネットの弊害とかでも指摘されることが多いように、アルゴリズムによって、聞きたいこと・知りたいこと・見たいことばかりが表示されると、考えや思想が偏ってしまって自分の考え方がそのまま世間の主流派と思い込んでしまうこともあるだろう。

心配なのは、誰よりも寄り添ってくれる AI が急にそうでない対応をするように修正された時に、こんなはずではないと感じたり、強く寄り添ってもらっていただけに裏切られた気分になったりして、他人を巻き込む形で何かをやらかしてしまう人が出てこないかということ。仮想世界が現実世界の方に徐々にせせり出てきているけれど、あまりやりすぎるとちょっと怖い世の中になりそう。やっぱり最後は使う方である人間がしっかりしないといけないと思う。ますます人間の悩みは深くなるかも。

おまけ目当てで食品を投棄

おまけ目当てで食品を投棄

マクドナルドのハッピーセットのおまけの話題がしばしばニュースに登場する。あまけ目当てでセットを購入し、メインの食品のほうを食べずに投棄する人がいるとか、おまけが売買ネットに出品されている、本来であれば商品の対象となるべき子どもに行き渡らないほどの買い占めが行われているとか。

以前であれば、地理的に遠くても即座に簡単に売買ができるオンライン上で売買できる環境になかったとか、何かプレミアム的なものにとびつく余裕がなかった時代であったとか(私が育った家庭だけ?)、今は堅苦しい話題のニュースよりも街中の出来事をネット警察的に報じる方が視聴者の関心を引きそうだとか、その事象や報道の背景は種々あると思うけれど、商品の主体である食品が無駄にされることは、何も最近になって始まったことではない。程度の差こそあれ、プロ野球チップスについているカードで欲しい選手のものが出るまで買ってチップスを捨てる人や、好きな模型目当てで本体が捨てられるビッグワンガムなどについて、学校の先生から注意喚起されたりしたことがあったと記憶する。チップスもガムも保存がきくのに捨ててしまうのは、現代よりも質が悪かったのかもしれない。

私は、どうしても欲しかったおまけは特にこれまでの人生で記憶がないので、高いお金を出して売買サイトで個人から買おうとしたことはないし、おそらく、今後も買おうとすることは起きないと予測する。ゆえに、自分個人の都合だけで考えれば、人の弱みに付け込むような転売に対して悪い感情しかないのだけれど、極端な話をすれば、買う人がいるから売る人が出てくるのであって仕方ないという気がしなくもない。しかし、食品廃棄はそんな感じで割り切れる話にはならない。作り置きのファストフード自体に時間制による廃棄ルールがあったりして、便利さや出来立てのおいしさの裏にはもともと無駄は存在するので、転売屋のムダのみを取り上げるのはフェアではない部分もある。しかし、それでも無駄の性質は同じではない。買い占めについては、ちょっと意見が難しい。震災時の生活必需品の買い占めはもってのほかだが、かといって、なんでもかんでも買い占めけしからん、とは言い難いところもあると思う。むしろ、買い占める人を管理するよりも、買い占めに歯止めをかけるルールを売り手が採用した方がうまくいく確率が上がると思う。ただ、代金が何百円といった商品の場合に、誰が幾つかったか逐次トレースができるようにするには売り手側のコストが見合わないと思うので、誰かが何かうまい方法を考えてほしいのだけれど、誰もかれも儲けさえすればよいという発想になってしまっているように感じる現代では、難しいのかもしれない。利己的になりすぎないように教育から見直す必要がありそう。

今回の件では、カード発行枚数がそれなりにあるため、プレミアムにはならないとコメントしたマクドナルドには、今後は何か考えてほしい。こうなることは判っていたはずだから。そうまでして集客しなければならないような企業ではないだろうにと思う。

何してもうまくいかない難しい世の中になったものだと感じる。このようなことが起こるのは、選択肢が増えたり余裕があったり、より良い世の中になってきている証拠なのだと思うけれど、不具合もまた多くなっている(でも、報道を見ていると景気は悪いはずなのでは?)。

終戦の日

終戦の日

日本では、今日は終戦の日。実際の終戦をいつと認識するかは何に重きをおくかで異なってくるが、日本で最も認識されている終戦といえば8月15日だと思う。当時の人々がいたから今があるのだとあらためて認識する日。

青い車に気をつけろ

青い車に気をつけろ

非常に乱暴に言うと、「青い車をみたら気をつけろ」は運転中の私の座右の銘の一つだ。

流れに乗れていない車や突然に私の走行車線の前に出てくる車が少なくない。率でいえば、私が路上で見かける青い車の中では、そのような動きをする車両がとても多い。その動きをするのは青だけではないが、青の車がその動きをする確率は高い。

色でいえば、青のこの現象以外には顕著なものは他に今のところ見当たらない。
一方、車種でいえば、ピックアップの人は運転が上手でない確率が高いような気がする。これも、下手な人が皆、ピックアップを運転しているわけではないが、ピックアップの人は下手な確率が高いというのが私の観察結果。実際は、下手というとちょっと実際は違うかもしれず、ただしくは運転という行動をするときに、運転にあまり注意を払うことができない人の確率が高いというか。例えば、片側2車線の車線をまたいで走行しているとか(これも、またいでいるのは皆ピックアップということではなくてほかの車種もあるが、ピックアップがまたいでいる確率が高いという主旨。車幅感覚ないのかな?)。

ドイツのアウトバーンでは、オランダ・ナンバーと帽子をかぶった老紳士が運転しているのが後続から見えたら気をつけろ、ということを言うのを聞いた。どちらも後続車両との距離感や速度差を気にせずに車線変更をして追い越し車線に出てくる人、という趣旨だった。印象的にはその通りだったような記憶はあるものの、実際に危険運転をする確率が高かったかどうかは覚えていない。しかし、運転中に両者を発見したときは、いつも以上に慎重になっていた。これは主観としての事実。

日本では、赤い車は警察に目を付けられやすい、という説を唱える人がいたような気がする(黄色だったかな?)。実際に統計をとったら実際には相関はないかもしれないし、運転が下手という定義の設定の仕方によっても結果が左右されるので単純な話ではないが、ある人がどういう選択をするとか好みがあるとかをもっと極めていったら結構面白い研究になるかもしれない。レッテル貼りや先入観につかってはいけないけれど、研究としては面白いのではないか。

バケット・リスト : 死ぬまでにやりたいことリスト

バケット・リスト : 死ぬまでにやりたいことリスト

ネット記事を見ていたら死ぬまでにやりたいことリストについて述べているページがあった。そのリストのことをバケット・リストと呼ぶということを初めて知った(使ってみよう)。いつもの調子で、バケット・リストの語源を知りたくなった。死ぬまでにやりたいことリストをトピックにしているページは、個人のブログのようなものにしても、完全には個人っぽくないものにも共通して、「死ぬの意味の kick the bucket から来ている」という説明ばかりで、語源を説明するサイトにたどり着くことができない。しばらくして、やっと、bucket が首つり時の踏み台のことで(物騒!)、踏み台を自分で蹴っ飛ばすと死んでしまうことだという説明にたどりついた(初めて知った言葉を使ってみようと思ったが、そうすることに躊躇が生まれた)。また、牛や豚の家畜を食用とする際の血抜きをするために脚を上にして逆さにつるす見た目が、梁(bucket)を蹴っているように見えるのが由来、という説明もあった。

人それぞれに言葉の定義があるのは理解するが、私が語源だと思って知りたいのはこの手の説明であって、kick the bucket が死ぬという意味から bucket list という言葉が生まれた、というのは私の定義では理由とは言えず、人によって知りたいことが違うのだということを痛感させられることが多い。

そう、私は面倒くさい人なのだ。(言葉の定義にうるさい親だと子どもの成績がよい、という説を唱えるYouTuberがいるようだ。うんうん。が、しかし、言葉の定義がうるさいのは内なる私だけであって、それを対外的に質問したり誰かとの会話で言及することはしない人でもある)

トイレを示すピクトグラムの色・形

トイレを示すピクトグラムの色・形

ネット・ニュースをみていたら、Yahoo のニュースに、読売新聞オンラインから引用した「トイレのピクトグラムが分かりにくい…青と赤の色分けはもうダメ?」という記事があったので、元記事を見に行った。判りずらいという意見には同意するし、間違って私が入って捕まるのも嫌だし、色や形を男女で決めつけるのはよくないという意見を持っている人のことも承知はしている。しかし、本件について、私は良い案はないし、全員が納得する案が出ることは地球が滅亡する日までないのではないかと思っている。

なので、記事については、また言ってんな、程度の感想しか思わなかったのだけれど、私には失敗談がある。

チェコのレストランで食事をしていた時のこと。用があってトイレに行ったのだが、そこはチェコ語の文字のみがドアに記されていた。一方は忘れてしまったが、もう一方には Pani と書いている。私は男性で、Mr の意味で苗字に Pan をつけて呼ばれることもあったので、Pan の意味のうちの一つは知っていた。なので、Pani は Pan の複数形だろうと勝手に推測をして Pani のドアを開けて入って済ませた。ドアを出てしばらくすると、私が出たドアに女性が入っていった。あれ、と思った(私が Pani の扉の中にいた時には幸いにも誰の出入りもなかった)。

私が男女を間違えて入ったとしたら、男女の設備の違いに用をすますときに気づいてもおかしくないが、ドアから出るまで気づかなかったのがまず不思議。あと、今となってネットで調べてみると、Pani が男性トイレと紹介しているウェブサイトがある。これは個人ブログなのだが、だからって嘘は書いていないだろう。なお、この人の解説では、対になる女性トイレは dámy のようだ。

ほかにネット検索していると、Pani を Mrs と解説するものも見つかった。これも個人ブログ。Mr が Pan で、Mrs が Pani と。

おや、ここで、気づいた。
  Mrs = PANÍ (ある人のブログ)
  男性トイレ = páni (別のある人のブログ)
チャールカ(だっけ?)の位置が違うけど、それ以外は同じスペルだ。これは判りずらい。

「はけ」と「はげ」のように似ていて反対の意味の言葉に近くもあり、「きんかくじ(金閣寺)」と「きんかくし(キン隠し)のように似ているだけで全く違う意味の言葉のようでもある。まあ、それは別の機会にするとして、今度、チェコの人に会うことがあれば、何が正解か聞いてみよう。



今の世の中に文句を言うが、作ってきたのは私たち

今の世の中に文句を言うが、作ってきたのは私たち

最近になってニュースによく登場するようになった元議員は、今年7月の参院選後の政局のゴタゴタに関するコメントを求められたときに、自分たちの時代はもっとあーだとかこーだったとか、自分たちはもっと国民のために政治を行う熱意があって、そのために党の中で喧々諤々があったけれど、今の議員は自分たちよりも劣っているといったようなことを言っている。

以前は本当にそうだったかもしれないし、昔はよかった的な美化された過去の記憶の話かもしれない。私は見てきたわけではないので何が真実かは判らないけれど、確かなことは、今の世の中を作ったのはあなた達でもあるし、私たちであることは間違いないと思う。もちろん、政治家のような影響力は私にはないが、今の世の中をつくった流れには私のような庶民にも責任があると思っている。

そのような認識を持っているので、前段のような元議員の発言は聞いていて堪えられない。議員一人で何ができるかというのはあるが、その元議員は党の主要なポジションにもいたこともあり、影響力は別としても発言力はあったはずだと推測する。私自身に言い聞かせる側面もあるのだが、人のせいにしてばかりではダメだと思う。ちょっと例は違うかもしれないが、海外で仕事して生活をしていると、そこで触れ合う人々が持つ日本人に対するイメージを作ることに私の影響も少しはある、というのと似ていると思う。二十年後に日本人の評判やイメージを聞いたときに、そこには私の行いが多少は反映されているかもしれないということを肝に銘じて生活している。

ちなみに、元議員に関して言えば、ニュースでの発言を見ると冷静な分析というより私怨のような感じだし、自分が目上のような話し方だし、父親に信望があったのかもしれないが、彼自身が議員仲間からどうみられていたのか心配してしまうような印象で、それが面白くて、ついついその人が出ていると面白がって見てしまう。ああ、これこそ、時間の無駄遣いだ。

数字は合計をしてください

数字は合計をしてください

私が入社したウン十年前と比較して、今では、事務所を主な仕事場としている人の殆どは、ほぼ例外なく数字に向き合う時間がとても長くなっていると思う。パソコンが会社で一人一台になって30年近くが経つ(私の場合)。パソコンの性能はよくなり、個人のテクニックや技も増えたので、数字に費やす時間の増分以上に、見ている数字の量はもっと増えていると思う。

私の業務は、どちらかといえば数字に向き合うのがメインと言ってよい。自分で数字を扱う場合もあれば、誰かがまとめた数字を読み解く場合もある。今、私が勤務する会社で結構な頻度で気になるのが、桁数の多い数字を扱っている時の小数点や、右揃えでない数字など。人それぞれなのは承知しているし、その数字の意味するものにもよるけれど、100を超える数字には小数点以下は不要じゃないかというのが私の感覚。また、エクセルの数字を中央揃えで資料を作る人が私の周りに結構いるが、全てのデータの桁数が一致していればまだよいものの、そうでなければ、数字の大小(桁数)を一目見てぱっとイメージするのがとても難しいので右揃えにして欲しい。

以上は趣味の問題かもしれないので他人には強要はしないが、合計していない数字を出してくるのはやめて欲しい。例えば4月の売上が 15,5月は 10,6月は 20 というのがあったとしたら、誰もが4-6月で 45 と計算するのではないかと思うが、合計を書かない人がいる。このケースで、例えば計算機で合計するのに10秒かかるだけの項数があるとしたら、合計を書かないことによって、その資料を6人に展開するなら合計60秒の時間を奪うことになる。誰も合計しないだろうと発信者が思っているのか、足し算は必要な人が勝手にやってくれと思っているのか知らないが(きっと全員が必要)、もっと丁寧に数字を扱って欲しい。

私が新卒で入社した会社の配属先部署では、一番若い社員が部の月例会議の資料の定量情報をまとめることになっていて、「数字は合計しろ」と上司や先輩に教えてもらったことを覚えているし、提出する相手に足し算をするための無駄な時間を使って欲しくないと思っていた。今、こんなことを言うと、おおらかな国の会社だったりすると、細かいことを気にしてマイクロ・マネジメントだとか言われたりする。

それでもやっぱり、作成者が足し算しておけば、(さっきの例でいれば)6人が同じ足し算をする必要はなくなるので、そちらの方が断然よいと思うのだが。まあ、このような計算の例で引き合いに出すには少々大げさではあるが、合計しない人は、私が大学時代に商業英語を学んだときに習った you attitude が少し欠けていそうな気がする。相手を慮りすぎる悲しき日本人かもしれないが。

批判ばかりで、いやになる

批判ばかりで、いやになる

動画とかネット・ニュースなどを見ていると、批判が多いと感じる。前からそうだったっけ、と思うくらい批判が多いと感じている。メディアも個人チャンネルも批判が多い。海外でも同様なのだろうか。

少し前の記事で書いたけれど、上の年代の人たちの中には、批判が格好良いと思われていたであろう時代に青年時代を過ごした人がいて、その記憶・体験のままに批判的スタンスの人がいるように想像する。ただ、今の批判調は上の年代の人たちだけがリードしているものではないと思う。なぜなら、どこから何をみても批判が多いように見えるから。

批判のほうが簡単なのは、その人の主張や意見を理解しなくても批判は出来てしまうから、というのもあるように思う。支持したり、代弁するには理解がなくてはできないので、時間も労力も必要になるが、批判は勝手にできるから簡単なのではないだろうか。

ちゃんと話を聞いて、理解して、そのうえで反対するなら反対し、自分と異なる意見も尊重できる人間になりたい。

自己流の方が得たものは定着しやすい

自己流の方が得たものは定着しやすい

少し前の日経新聞の記事に、「「自己流落ちる」就活不安あおる情報商材、焦る学生狙う」というのがあった。就活に限らず、うまく行っていない時には何かに頼ってみたり、うまくいってそうな人が紹介する方法やモノに飛びついてみたりしがちではある。

そこにつけ込んで詐欺的な方法で金儲けするのは許せない。のだが、この記事で私の目がいったのは自己流という言葉だった。これまで、私は自己流で物事と向き合うことが多かったような気がする。それは、前任者のいない仕事をする機会が多かったので、どうしても自己流でやらざるを得ない場合が多かったからだと思う。しかし、実のところ、そのような状況になる前から、もともと私は自己流が好きだったのだとも思う。なぜなら、スポーツをやる時も自己流が多いから。スポーツは、参考にしてもよい実例がたくさんの種類あるから、自己流でやらずに一番よさそうなものを選択して見習えばよいはずだから。それなのに、自己流でやり方やそのやり方にたどり着く方法を探ろうとする。

自己流は時間がかかる。トライ・アンド・エラーを延々と続けながら最適解を探す作業になることが高い頻度で起こりえるから。だけれど、自己流で身につけたことや得たことは、定着加減が非常に高いことも多い。しばらくそれに関わることから離れていると、一見、自己流で得たことも忘れてしまったように感じるが、何かのワードなどをきっかけに記憶の引出しがガガーっと開く。最後にそれを言ってから20年たっていても、きっかけがあれが淀みなくスラスラ言うことができたりする。

いろいろあるが、私には自己流にこだわりがある。

Al の学習元によっては …

Al の学習元によっては …

今更な話ではあるけれど、AI がどこから学習をしているか心配。自分が学習した時も、ガセネタが情報源だと間違えたまま成長してしまい、一度間違えて覚えてしまうと後から修正が大変だったりする。

だから AI がどこから学習しているのかは心配。なんてことを思っていたが、もしも、AI が間違いを教えたとしても、5億人が同じ間違いから学んだとしたら、もしかしたらそれが正解になってしまうことがあるのだろうか、という疑問が生じた。客観事実がある物事であれば、例え大勢が一つの意見を表したとしても正誤を確認する術があるし、大勢が言ったからって間違いが正解になることはない。しかし、正解のないこと、例えば評判とか実際は誰も正解を持ち得ていないこと(宇宙や歴史など)については、嘘を大量に不徳的多数に拡散する能力のある AI が間違った学習成果によって流布するような時代になると怖い。意図的なもの、バグ、AI の暴走、確認作業不足など、理由は様々かもしれないが、手っ取り早く何かを知ろうと思って利用する AI のはずだったのに、ほかの検索結果とのクロスチェックが必要になると、いったい何のため?という気持ちになるかもしれない。

数式 = (a*b)/x – (a*b)/y

数式 = (a*b)/x – (a*b)/y

仕事で何かのデータを変換しようとしているときに、タイトルのような計算をすることになった。
(a*b) が共通しているので、(x-y) で計算を簡単にできると思ったのだけど、割り算のまま計算してしまって変な計算結果になってしまった。あまりにおかしい数字なのですぐに間違いと判ったのだけど、割り算だからって割ってはだめで、(1/x – 1/y)を掛けることに気付くまで時間がかかった。

単なる感想であり、衰えの実感であり、以前に出来たことが出来なくなった残念な気持ちがぐるぐるぐる。

野菜が食べられるようになった

野菜が食べられるようになった

小さい頃は野菜を食べられなかった。自分が育った家の例しか判らないので、それが一般的かどうか判らないが、私が育った家では、おかずは大皿で出されていたので、好きなおかずだけ取って食べるということができたため、野菜嫌いで特に不都合はなかった。唐揚げの周りにブロッコリがあったとしても、唐揚げだけをとることができた。これが、もしもひとりひとりの皿に盛りつけされていて、そこに野菜を盛られていたら、どうなっていたことだろう(給食で困った記憶がないのだが、それがどうしてかの記憶がない。誰かに食べてもらっていたのかも)。

野菜嫌いのパターンとしては、たしか、何度かチャレンジしたけれど克服できなかった、というケースだったと記憶する。

そんな私が中学生の時に、母親以外にお弁当を作ってもらう初の機会があった。修学旅行の初日の昼の弁当を同級生が作ってくれた(自分が持ってきたであろう弁当をどうしたのか覚えていない。事前通知があった記憶もないので、自分の分を持っていたはず)。単純、簡単な話ではあるが、私はその日を境に野菜を食べるようになった。まあ、よくありがちな話ではあるし、この出来事がなかったとしてもいつかは自発的に野菜を食べるようになっていただろうとは思うけれど、中学生で食べられるようになったこの出来事には感謝の気持ちをもっている、ということをふと思い出した。今日のスーパーでの買い物かごには、自分でも信じられないくらいの野菜が入っていた。当時に比べたら成長したなー。

ネット検索結果にもバッヂを

ネット検索結果にもバッヂを

辞書を使わなくなった。厳密にいえば、製本された辞書を使う頻度が下がってからは十年以上経つと思うけれど、ここ数年は、PC にいれている辞書アプリも使わなくなった。どうしているかといえば、多くの人もそうだと想像するけれどネット検索をしている。

辞書アプリの不使用は、勤務先の IT セキュリティも一因。転職前は、セキュリティが厳しくなる前の時代から使っていた辞書アプリがあった。それを使い始めてから PC は何度かの代替わりを経たが、IT の部署がユーザーのデータやファイルをすべて移植してくれていたおかげでずっと使えていた(標準外アプリも新 PC に移してくださいという依頼を行う必要があったが、それが否認されることはなかった)。今の会社への転職は少し前のことなので、すでに世の中の多くの会社は IT セキュリティにセンシティブになってからなので、転職時に貸与された会社 PC はセキュリティ設定がガチガチで、標準外アプリをユーザーで入れるのは不可能だし申請が認められることも難しく、以前につかっていた辞書アプリは私用 PC でしか使える環境にない(私用タブレットを毎日持って出勤しているが、業務中に取り出してまで調べようとは思わない)。

ネットを辞書替わりに利用するメリットは結果を得るのが早いこと。今やっている作業に必要な言葉を調べているわけなので、ネット検索は作業が中断する時間を短縮できる。手は PC キーボードにおいたままだし、視線をディスプレイから外す必要もない。一方で、ネット検索のデメリットは、新しい語彙が頭に残りずらいなどの副作用が生じやすいのが私の場合だが、これは私だけではないだとうろと思うので、また別の機会に考えてみるとして、最近にイライラが増してきたのは、ネット検索にヒットする上位結果が必ずしも正解とはいえないケースが増えてきたように感じることだ(ヒットする結果が増えたことで、正解でないものを拾ってしまうケースが増えたということだろうか、それとも私の感覚が間違っているのだろうか)。

和訳をネットに尋ねた場合、生まれてから日本語を母国語としてきたので、結果に違和感があっても主旨は何となく理解できることから、自分なりの言葉に置き換えることなどができるので問題は多くない。英訳の場合はちょっと違う。検索結果が間違っているような気がする場合が結構あって、結局、その英単語を調べなければならなくなることが多い。特定分野の用語の場合は仕方ないこととあきらめているが、一般名詞や語句の場合でも調べ直す機会が多くて困っている(自分の語彙の少なさが問題なのと、細かいことを気にしすぎなことが理由であることが判っているが、言葉を定義通りに使わないと間違って相手に言葉が伝わる可能性があると信じている面倒くさいのが私なのです)。いっそのこと、「これは各単語の意味を連結しただけの直訳です」とか、「これはネット上でみつけた用語集から引用したものなので架空のものではありません」とかを検索結果に並べて宣言してほしいと思っている。それくらい、人工知能でできるだろう。

調べ直し自体は製本された辞書を利用していた当時もあったし、調べた目的の意味以外の意味や調べた単語の近くにある別の単語に興味が湧いて、辞書を開いた目的とは関係のないことに時間を費やしてしまうことはよくあった(そのおかげで知識を広げることができたこともあった)。だが、ネット検索は、重要性の低い調べごとをするときに手抜きするためのものだと私は思ってきたので、それを使った結果、余計な時間や手間がかかるのは心情的に許せない部分がある。

そうか、許す心を持てはよいのか(この記事のテーマと違う結論だ)。

就職氷河期世代への支援

就職氷河期世代への支援

氷河期世代への支援をテーマに出演者が話し合う番組を動画でみた。どんな結論だったか忘れてしまったけれど、議論のなかで新卒で失敗してもやりなおせる社会に変えてゆくことが大事という意見を言っていた人がいた。

氷河期時代に新卒で非正規からはじめた人には今でも厳しい社会であると想像するけれど、新卒で正規雇用された人については、転職に対する労使双方の見方が変わってきたことで、以前よりはセカンド・チャンスの機会は創出されていると思う。

以前よりましだからいいじゃないか、というつもりは毛頭ないが、新卒への教育に掛けた決して小さくないコストで自社仕様に育て上げた社員がいるので、なぜセカンド・キャリアで採用するかといえば、多分、専門知識を持っている人があらたに自社に戦力として入ってきてくれることを期待してのことだと思う。

日本の新卒採用で私がよいと思っていることは、大学で学んだことと違う分野で採用・配属が行われること。デメリットもあるけれど、よい点のほうが上回っていると私は思う。大学の専攻と関係ないからこそ、配属後に OJT で徹底的に鍛える必要があるし、一人前になるまでに結構なコストがかかっていると思う。この状況を変え、セカンド・キャリアの流動性をあげようとすると、セカンド・キャリアで入ってくる時は勿論のこと、社員教育にコストをかけないとすれば、新卒の時点でも専門性を身につけた人を採用しようとするだろうし、専攻分野によって就職先が限定されてきて、新卒の門戸や選択肢が狭まる結果になるような気がして、そっちの方が副作用が大きいように思う。これが極々一部の大企業にのみ当てはまることで無視してよい話ならばよいが、私には専攻と関係ない会社に勤める機会があることは結構、重要なことだと思っている。また、何か単一分野の仕事はしてきたが、その分野でのスペシャルな技能がない人の場合、何年経験をつんだとしても職種が高度化することもないだろうから、昇給する機会も少なそう。スキルが上昇しなければ、身に着けたスキルでキャリア・アップ転職の機会もなく、もし転職をするならば、同じ仕事でちょっとだけ待遇がよさそうな会社を見つけた時にしか起こらなそう。

氷河期とかセカンド・チャンスとか関係なく、全ての国民が最低限の生活を送れことができる制度や仕組みのある国にしてくれるのが一番ということになるのだろうか。年代や性別、住む地域などで不公平のない社会、かといって結果を出せた人とそうでない人とが同じ処遇を受けるのではなく、頑張った人はその報酬を得ることを誰にも邪魔されない社会。それと、今ある色々な問題の多くに共通すると思うのだけど、教育が非常に重要だと思っている。

ハーバード大学の留学生受け入れ停止

ハーバード大学の留学生受け入れ停止

トランプ大統領の措置の本質とは異なる副作用的な話ではあるが、この措置は大統領が守りたいと思っている米国の価値観への影響以上に、アメリカ以外の国のダメージの方が大きそうな気がする。

他国から米国へきて、そこで学び、卒業後も米国に留まって、米国に貢献するかもしれないタレントが入ってくる機会を奪うことになる可能性以上に、米国で学んでから母国に帰り、アメリカで学ばせてくれた過去に感謝しつつ、母国のさらなる発展や深化・進化に貢献する人たちの流れが止まる国のダメージは大きいと思う。それは、間接的には米国側にもデメリットとなるし、誰得という気がしてならない。

ちょっと世の中の発展スピードが早すぎてついていけないところもあるので、一旦、進化スピードを落とすにはよいのかもしれないと思ったりする。

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

ニュースを見てまず笑った。その後、何かを実行しようとするときの熱意がすごいなと思った。必死さといえばよいのか、必ず成し遂げる意思の強さというか(ちょっと前の言葉で GTIT ?)。

熱意は見習うところがある。でも、その熱意を生じさせているものは何なのか。一度のチャンスを逃してはなるまいという社会からの切迫感なのか、カンニング手配師(?)に払った費用が安くなくて費用回収が超重要なのか、TOEIC の有無で極端に変わってしまう人生を過ごしている人たちなのか。

乗っている土俵は違うのだと思うけど、多分、彼らのほうがうまくいった時の上振れ度が激しく高いのだろうというのは想像がつく。どっちがよいのかは価値観による。