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カテゴリー: 教育

教育について – 国政選挙の候補者に聞きたいこと

教育について – 国政選挙の候補者に聞きたいこと

衆院選の投開票まであと1週間と少し。ネットやテレビで党首討論会も放送されているし、ネット・ニュースで各党の主張などが出そろってきている。消費税については、対象や税率、期間の違いはあるが、ほぼすべての党が減税について述べている(やってくれるか判らないけど)。

しかし、こういった全体的な番組では教育についての発言を聞かない。私が視聴した番組以外では議論がなされているのかもしれないが、私がみた番組ではまだ聞いたことがない。でも、私は政治家には教育について語ってもらいたいと思っている。実際に教育に携わる先生がたが大切なのはそうなのだけれど、教育をどうしていくかを国レベルで話してもらいたいと思っている。

教育は非常にタッチーな話であるとは思う。少し前のとある国会議員の発言のように「国民感情をしっかりコントロールしていかないと」は何をかいわんやであるし、国が教育で洗脳することもダメ。私がやってほしいと思っているのは、考える癖をつけることや基準を置くことの重要性や(基準から離れるのは各人の思うままだが、どこからどれくらい離れているかを測ったり知ったりすること)価値観とはどういったことか、人ととの違いがあるのは当たり前であることとそれを尊重することなど。正しい・正しくないという判断は個人やケースによるので教えるのはコントロールすることになりかねないが、犯罪かそうでないかの価値判断は教えても差し支えないと私は考える。

教育って国づくりのとても重要な課題で、時間をかけて世代を超えてじっくりやる必要があると思うのだけれど、こう考える私は少数派なのだろうか。

学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校を休んでディズニーランドや家族で行楽に出かけることの是非みたいなことがネット・ニュースになる時代だから、もう学校の皆勤賞の価値を見出さない時代になっていることだろうと思う。しかし、私が小学生だった昭和の時代は、皆勤賞という言葉がそんなに低くない頻度で使われていた。では、私自身はどうだったかと言えば、体力に自信のある小学生だったわりに、学年を通じて皆勤賞で過ごせたのは一度だけだったんじゃないのかなあ。

何かのネット・ニュースを読んでいて、学生時代に皆勤賞という概念を持ってしまうことで、有給休暇を消化できない日本人サラリーマンを生む結果になっているようなことを書いている人がいた。その人以外にも同じようなことをネット上に書いている人が結構いて、たしかにそうかもしれないなあと感じた。

そういう意味で、学校休んでディズニーランドに行くことにポジティブな側面があるなと思った。休みは休みとして取得することに後ろめたさを感じさせない人が増えるのはよいこと。休みにお金を遣えば経済も循環するだろう。休んでリフレッシュもできるし、趣味に時間を使うこともできる。あとは休みを取るタイミングを考慮できればもっとよい話。どうしても突発的な出来事は避けられないので、確実に休める日が事前に分かるはずはないのだけれど、ちょっとそれだけはなんとかなったでしょ、という話を聞くこともある。判っている季節要因と同僚・周囲との調整のこと。あー、でも、こんなことを思ってしまうことすらいけない時代になってきたのだろう。

オバマ(元)大統領の英語

オバマ(元)大統領の英語

オバマ氏が大統領に当選後か、もしかしたら就任してすぐの頃かもしれないが、オバマのスピーチを使った英語学習が流行っていたという記憶がある。今思えば、日本はマスコミも教材提供会社も、米・民主党推しだったのかもしれない(今も?)。

でも、当時から私にはオバマ氏の英語の何がよいのか理解が難しかった。今の時代は、持って生まれたものについて批評するのはよくないことは理解しているが(ルッキズムと言われる見た目など、当人の努力でどうしようもないことには触れてはいけない時代)、オバマ氏のスピーチは声がはっきりしていないように私には思えていて、教材としてはどうなんだろうと感じていた。当時と今では比較できないけれど、オバマ元大統領よりもトランプ現大統領の方が聞き取りやすい声やイントネーション、抑揚だと私は思っている。もちろん、人生でどんな英語を聞いてきていたかで、聞き取りやすいかどうかの判定基準は各人で異なるのは理解の上で(私は日本人なので、米・共和党の支持者ではない、念のため)。

私の物差しでみた場合、世論が意図して作られていた時代があるんだなあと思う。

学習塾の倒産が過去最多だった 2025年

学習塾の倒産が過去最多だった 2025年

高校生当時の補習について、特に結論もなく、つらつらと前日に書いた。そうしたら、学習塾の倒産が2025年に過去最多になった、という記事が目に入ってきた。記事を読むと、この件数は負債金額で足切りしたものみたい。小規模倒産とか入れると統計が収拾つかなくなるだろうから、統計に足切りを設定するのは仕方ないでしょう。

記事を書いた人によれば、物価高と授業料の値上げ難に苦しんだとのこと。タイパ重視の大学生の講師が負担の大きな塾講師を敬遠する動きが目立って、人件費や求人費が高騰したという一面もあったらしい。大学生を雇う塾は町の小さな塾だと勝手に想像していのだけれど、どうやらそうでもないということか。

私がよく判らなくて、記事を見ても解決しなかったのは、塾は優秀者がさらに成績を伸ばすために通うものか、追い付くためにゆくためのものか、というところ。私が子どもの頃は地方ということもあって、塾はほぼなかった。その後、塾は補習的に行く場所という認識を多少持つようになった。今は、どうなのだろうか。

東大を目指す人が多い塾の存在は知っている。そういった塾は、さらなる高みを目指す場所であり、また、特定の学校の入試を突破するための傾向をつかむ・テクニックを積むための場所と理解している。でも、塾に通わずに東大に入るひともたくさんいると思うし、塾の目的はなんだろう。(まあ、十人十色なので、定義づけ自体が無意味なのだけれど)。私は塾通いをしたことがないので、月謝を通じた経済貢献には無縁で申し訳ない気持ち。

私は、この件でも大好物の投稿コメントが非常に参考になった。AI 学習が普及すると、経済格差と教育格差の相関が薄くなるかもという意見の人がいたり、真っ向から異なる意見の人もいたり。それは、私の未解決課題であるなぜ塾に行くのか、ということにも大きく関係すると思う。やる人はやる、やらない人はやらない。でも、人それぞれに合う・合わないがあるので、AI なら続く人がいてもおかしくない気はする。私は割と気合勝負だけれど、いろいろ試してみて合うのを見つけられたら、これまでの価値観をつくがえされて、よいことが起きるかもしれないと思ったのが、この記事からの takeaway。

2026年に達成したいこと

2026年に達成したいこと

元日なので、ありきたりではあるけれど、今年に達成したいことを記しておいて年末にはレビューできるようにしておく。

・旧い友人と会う=そろそろそんな年齢:対象の人々が住んでない国にいるので機会設定が必要がある
・使い切る:2025年からの継続案件 = 2025年にできたものあったけれど継続
・人の話は先ず最後まで聞く:私が想定する展開が話し手の着地点でないかもしれないと知る
・余計な発言を慎む
・先入観をできるだけ排除する
・買い置きできる体質に(あったらあっただけ使ったりしない)
・体調と体重を管理
・年齢を重ねても新しい思い出を作れると信じて生きる

ごまかしカタカナと疑ったら取り残されの証拠?

ごまかしカタカナと疑ったら取り残されの証拠?

日本企業のウェビナーに参加することがある。日本語で受けられるし、日本でよしとされる考え方に触れることができる機会にもなる。経営や製造業の工場管理などの手法や概念、それからを表すビジネス用語には流行り廃りがあるので、何が正しいとか何が今風とかは入れ替えが激しくてついていけない部分もあるけれど、日本で流行っていることを知っておくのは悪いことではないと思っている。

ウェビナー案内のメール・リストに登録している。いくつかの会社に登録しているのだけれど、そのうちの一社のものは、いつも聞きなれない用語が登場して、いつもその定義が記載されていない。あたかも全員が知っていておかしくない言葉であるかのように定義がないので、毎回、ネット検索しないといけなくなる。

しばらく前からカタカナ用語の氾濫が指摘されている。その話が出た頃の私のスタンスは、「言っていることは判る、しかし、この言葉の中にはカタカナであらわされる用語のほうがしっくりするものもある」だった。

しかし、最近の私には初めてみる言葉が氾濫してきているように見えている。とうとう、私もあっち側の会社員になってしまったか、と思い始めている。時代のアップデートに追い付いていないのかも…

その一部は私の認識が正しいと思うけれど、全てがそうだと思えない時がある。新しい表現を使うことで、あたかも考え方や論理も新しいものであるかのように装って差別化を図っているように疑ってしまうことがある。そもそも、はじめから一般に流通している言葉でないとか。

最新情報に取り残されることがないように、自分がものごとを知らないという自覚を持ち続けることは必要だと思うので、このスタンスを堅持しつつも余計な不安に悩まされて変なものに手を出さないように気を付けようと思う。

正しく名前を呼ばれない

正しく名前を呼ばれない

大学に入学したてのオリエンテーションで、英語で自己紹介する場面があった。私には特別に強い思想はないのだけれど、私は日本人なのでと説明したのちに姓・名の順序で名乗った。これより以前に英語で自己紹介をしたのは、県内の学校を期間限定で回って英語指導するネイティブ先生がいた高校生の時以来、人生二度目くらいだったと思う。姓→名にしたのは、固有の名前だから私がいつも名乗るのと同じように言ってみたという軽い気持ちで、しかもその場で頭に浮かんだままに言っただけだった。

何年か前に、ローマ字表記の場合は姓・名の順序で記載が望ましいという国語審議会の答申があったが、私は先をいっていたのかもしれない(ただのあまのじゃく)。ただ、パスポートや航空券となると、不具合を防ぐことが第一なので、名・姓で書くことになんら躊躇も抵抗もないし、姓・名で名乗ったのは、今でもそのオリエンテーションの時だけ。

なぜこんなことを思い出したかといえば、私が勤める会社には、エスニック的に様々な人がいる。そうはいっても、名前の構成でいえば名・姓の順序の国のほうが多数派かと思うけれど、東アジアの人もいれば、名前の構成要素が4つ以上の人もいる。そういった私の同僚と、「名・姓」地域の社外の取引先がメールでやりとりするときに、社外の相手はファースト・ネームで呼んでいると思い込んでいるのに、全然そうでないというのが時折発生する。東アジアの人の名前であれば、基本は姓・名で違いは構成要素が2つ(日本人)か3つ(中国・韓国にルーツを持つ人)ということくらいだから順番の勘違いでシンプルだけれど、東南アジアやアフリカ(それとたまに欧州の人)の人には、いくつもの塊から名前が構成されている人がが殆どなので、どれで呼ぶのか正解なのかクイズ状態になることがある。そんなメールのやりとりの CC に私が入っている時には、そりゃ、間違えるよな、と思ったりする。私の場合は、社内の人であっても、初めてやりとりする場合には、近くのネイティブの人にどれで呼んだらよいかをこっそり訊いてからメールを出したりするくらいだから。

名前に限らず、自分の国・民族が名・姓だからといって、全員がそうだと決めつけるはよくないのにと思う。どうしても仕方無い時の私の解決法は、メールで改行しないといけないくらいに長い場合を除いて、名前を全て書くようにしている。

語源を理解しないと新しい英単語が入ってこない

語源を理解しないと新しい英単語が入ってこない

もし、日本人全員を対象者として調査した場合には、私の英語力は高いレベルにあるとは思う。だけど、できる人の中に入ると、あまりできる方ではないと思っていて、その理由はヒアリングが私には非常に難しい。仕事に関連する会話であれば、関連知識がヒアリング力を補うことができるので実力以上の聞き取りが可能なのだけれど、映画やテレビはちんぷんかんぷんだ。

そのヒアリング力のなさは、実は、単語力のなさだと思っている。聞き取れないのもあるけれど、そもそも単語を知らないという事実。だから、話すのは知っている単語だけでなんとかなっても、知らない単語を聞いても判らない。

大学受験で英語を勉強している時から私が感じていたのは、語源が判らないと単語を覚えるのが難しいこと。だから、単語が苦手。

最近、「デジタル・エコシステム」という言葉が含まれる文書を読んでいて、この言葉の定義を知らないと文書の先に進めなそうなので調べてみた。その後、そもそもエコってなんだっけ?というちょっと種類の違う別の疑問が頭に浮かんだ。どうやら、「家」という意味のギリシャ語 oikos が由来とのこと。ecology, economy も同じ由来の由。最終的にはこの答がヒットして、これが正解なのだろうと理解したのだけれど、この答に至る前にヒットしたウェブサイトにあったのが、「エコはエコロジーを語源としています」という説明。「語源」の定義を各個人がどう持っているのかによって知りたいこと・伝えたいことが違うのは判るのだけれど、

      「これじゃなーい」

“Woman” の発音は “魚万” と教えてくれた先生

“Woman” の発音は “魚万” と教えてくれた先生

Forbes が The World’s most powerful women を発表して、高市首相が 3位に入ったというネット・ニュース記事をみて、早速、Forbes のウェブサイトに行ってみた。首相就任が 10月だから、今年の women というよりはスナップショット的な現時点での women ということと咀嚼した。あくまで Forbes のランキングではあるが、発表より少し前のちょうどよいタイミングでの首相就任だったので、印象度が高い状態でのランキングというのは首相が持っている証拠なのかもしれない(ランキングづけの根拠等まではウェブサイトで確認していないが、客観的なランキングというわけではないのは想像するし、理解もする)。

Forbes のウェブサイトを見ていたら、突然に大学の時の英語の先生の言葉を思い出した。

「 Woman を 魚万(うおまん) と読むと正しい発音に近くなる」と。
「 魚屋の商号(または屋号。どっちでもいいけど)」で覚えるのだと。

頻度こそ高くないけれど、私は時折この言葉を思い出すことがあって、魚万と発音している。

先生に言われて覚えている「この言葉」というのはあまりないのだけれど、魚万は私にはインパクトがあって、これは覚えている。具体的な言葉を除くと、大きく影響を与えてくれた先生は、大学生時代に限らず数名思い出せる。

職場のノリ、またはテンション、同調圧力

職場のノリ、またはテンション、同調圧力

10年くらい前のバラエティ番組を見ていたら、視聴者の手紙からMCの会話が合コンの話題になって、そこで、合コンといってもその日の目的によってノリが違ってそのノリに合わせる、というようなことを言っていた。

私は新卒入社してから所謂モーレツ・サラリーマンというのに近い生活を送って合コンには遠いところにいたので、番組内の会話に登場した合コンのノリというフレーズには何も反応もなかったのだけれど、「ノリが合わなかった」というのが私の転職理由を短いフレーズで表現するならこれなかあと感じた。

ノリが合わずに退職したというと、入社して数年で辞めたように聞こえるかもしれないけれど、私の場合は 20 年以上勤めた会社をノリが合わずに辞めることになった。しかも、突然にノリが合わなくなったわけではなく、割とずっとノリの合わなさを感じていた。

例えば、忘年会や誰かの駐在や退職での壮行会などといった部署内での飲み会。飲むのに掛け声があったり、大騒ぎしたり、そのノリが体質に合わないのだけれど、そのノリに合わせないといけない雰囲気が必ずある。業種的に、なんかそんな雰囲気がある。社内でもそういう人が多数派であるという雰囲気がある。演じている人も実態としてはいたのかもしれないけれど、勢いがないとだめなような雰囲気がある。所謂、金太郎あめのような会社で、そこに馴染めない感覚を持ち続けていた。

転職をした理由は、言葉にするといろいろと説明できるのだけれど、一言でいうとノリが合わなかった、という表現ができるかも、とふと思った。

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

競合他社の四半期報告が開示され、同日に投資家コールが開催された。

競合他社ということもあって、勤務先のメールアドレスで出席者登録は控えて、私用メールアドレスで出席するか少しだけ考えたが、結局、会社のもので登録して出席した。

その競合他社はアメリカの企業なのだけれど、正直、投資家コールを聞いても米国人の英語が判らずに時間の無駄になるかもしれないと思っていた。ところがだ。まあ、投資家コールという場だから万人に分かりやすい発音やイントネーションで話すことを心がけていたのだろうとは思うけれど、とても分かりやすかった。さすが、社長やその近くのマネージメントの人は、わかって貰うことを大事にしているのだと感じた。

私が勤める会社の社長もとても分かりやすい話し方をする人だけれど、それは、私のボスだけではなかったことを理解した。一方で、日本の社長とかという大雑把な仕分け・レッテル貼りはよくないとは思うけれど、日本の社長はわかって貰おうとする努力が足りない人が多いように思う。社長は、社員や株主、投資家、取引先などありとあらゆる人に誤解なく理解してもらうのが大事な仕事なのに、口下手だけど仕事ができるような論調は全部が全部正しいとは言えないと思う。

特にアメリカ人に対して思うことだけど(大雑把なレッテル貼りには私は大反対だが)、なんだ、やればできるじゃんとも思った。普段はあんなに分りづらく、もしかしたら、いやがらせ的にわざと分りづらくしゃべているのでないかと私は密かに疑っている米国人が、あんなに分りやすくしゃべるじゃないかと。

必要は発明の母

必要は発明の母

先達は、簡潔に本質的なことをうまいことよく言ったものだ。

必要は発明の母、ということを最近になってあらためて思う。もちろん、発明などはしていないのだけれど、例えば、業務面で言えば、手抜きをするための自働化ファイルの作成は、何かどうにかしたいという需要があることによって、世の中では新しいことではないけれど、私の歴史の中ではある操作・機能を初めて活用するので発明のようなものと言える。

私は、半世紀以上を生きてきた年齢なのだけれど、新しいことを試すのはチャレンジングで楽しくもあれば、初めてで理解が追い付かなかったり飲み込むのに時間が掛かったりはするが、何歳になっても刺激的なものである。人生、最後の瞬間まで学び続けていくことになるのだと思うし、それが楽しいとか苦しいとか感じなくなるのは少し怖いことかもしれない。

小学生の頃は、決まったお小遣いがなかったこともあって、何かやろうと思った時には創意工夫や何かを手作りしたり、代用品を活かしたりしていたことを思い出した。その後、働きだすと忙しいこともあって、自分で何かつくる機会もなかったけれど、最近にその気持ちを思い出したことは大きなヒットだと感じている。この気持ちを忘れずにいれば、楽しみをひとつ余計に保持しておくことが出来そう。

海外から来日の要人が無事に離日してよかった

海外から来日の要人が無事に離日してよかった

アメリカ・トランプ大統領が無事に離日して何より。

誰であろうが、海外から来日した要人が狙われたり、来日期間中にテロがおきたり、または要人を対象にしたデモが起きたりせずに来日日程を終えることができるのは、ほっとする。海外からの訪問者に限らず、誰にとってもそのようなことは起きて欲しくないが、せっかく海外から来てくれた要人ならなおさら。

ひとまず、ほっとした。

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

ニュースなどの動画をみていて最近よくあるなあと感じているのが、他人の考えや感情を想像して別の誰かがコメントする時に断定調なのに、公知の事実だったり誰かの発言を引用する時には逆に、「〇〇だったと思うんですけど」のような表現の仕方をする人が多いということ(例:「日本は太平洋に面していると思うんですけど」→ 間違いなく面しているのであなたが「思う」必要はない)。

事実や引用だから「思う」とかつけなくて良いし、人の感情や考えでほかの誰も知りもしないのに断定調で発言する人に対して、どうしても違和感を感じる。前者は、大本の発言者に迷惑はあまり掛からなそうだし、受け手の私も「変だな」くらいの感覚だから良いとして、後者は刷り込みを意図するとか虚偽を含んだものだと私は考えるので大いに問題ありという立場にいる。

日本語を厳格に使えと私は言いたいわけではない。だけど、私の受け取り方がおかしいのかなあ。おかしくないとして、では、私自身が普段の会話で同じようなことをしていないかを気を付けたい。

日経新聞のコラムにびっくり(IFRS関連)

日経新聞のコラムにびっくり(IFRS関連)

先日、日経新聞を読んでいたら、オピニオン・コラムみたいなコーナーで会計規則の IFRS について書いていた人がいた。内容的には、今更そんなこと言っているの?というものだった。少なくても、大手企業は任意適用を何年も前からしていると思っていたのだけれど、日経新聞のコラムを書いた人の書きぶりだと、そうでもない印象を受けた。任意適用していたのは、株主の目や株価を意識しなくてはならな大手企業のみだったのかもしれないけれど、のれんの件に関する記述など、何をいまさらと思った。最近、メディアにいる人との温度差を多くのことで感じる機会が増えているが、IFRS についても、メディアに勤めている人の認識なんてそんなものなのかなあとちょっとびっくりした。

休暇明けの初出勤時の運転は慎重に

休暇明けの初出勤時の運転は慎重に

休暇明けで久々に出社する時は、いつもよりも慎重に運転する必要がある。道の真ん中に突然に大きな穴があくことは珍しくない。そんなことが一晩の大雨でおきたりするので、10日も出勤しないことがあれば、何がどこにあるかをきょろきょりしながら慎重に運転する必要がある。

赤道に近いところに住んでいるため、1年を通して日の出の時間は30分くらいの差しかない。だいたい朝はまだ暗いうちに家を出て、季節によってはまだ暗いうちに会社につくこともあれば、ほぼ明るくなっていることもある。だけど、出るのは暗いうちなので、余計に道路の穴が見えずらい。

そんなこんなで、久々の出勤には優しい運転で出かけようと思っていたのだが、思いのほか、自然体で優しい運転ができた。優しく運転を心がける、というよりも自然に優しい運転ができた。

今回の休暇では体調を崩したりもしたのだけれど、全般的にはよい休暇だった。きっと、それもあって優しく運転ができたのだと思う。休み前に蓄積したイライラがかなり解消されて模様。さあ、いつまでこの優しい運転が湧き出つづけるだろうか。

自民党総裁選 ~ 連立 ~ 首班指名選挙

自民党総裁選 ~ 連立 ~ 首班指名選挙

10月初めからの一連の流れの中で、いくつかのファインプレーがあったと私個人は感じているのだけれど、その中のひとつが自民党総裁選をフルスペックで実施すると決めた人だと思う。

総裁選がスタートしたころの報道では、たしか、現首相を支持するメンバーが選挙管理委員会に名を連ねているという報道内容だったと記憶する。もしそうであるならば、国会議員のみにはかるというやり方があってもおかしくないところ、フルスペック選挙の実施を決めたのは、高市候補が勝利する方向性の最初のステップを大きく踏み出すことになったと思う。もしかしたら、自民党に危機感を感じる議員が少なからずいて、党員の声を聴くべきと思っていたひとが案外多かったのかもしれないと思った(2024年の総裁選同様に、フルスペックで実施しても議員側が恣意的に議員票を活用できるとおもっていたのかもしれないが…)。

これがなければ、今頃は期待感もない政治ニュースになっていたかもしれないし、自民党政治の終焉を迎えるきっかけになっていたかもしれない。

実際に高市氏が何を実行できるかはまだわからないものの、期待感はあると思っている有権者の一人です。

ポリコレ

ポリコレ

しばらく日本に休暇帰国せずにいたら、日本の道路上でポリコレ的な印象をうけた。
少ないないケースでそう感じたのだけど、その一つとして、追越し車線をずっと制限速度で走る車。

速度制限は守る対象ではあるのだけれど、走行車線の車と長い間平行して走っていて、かつ、追い越し車線の後ろに長い車列がある場合は、追い越すのに必要な最短時間の間だけスピードを上げ、その後、すみやかに走行車線に戻るのが正しい運転方法ではないのかとわたしは思うけれど。
ほかにも、正しいけれどそればベストではないのではないの?というケースが増えたような気がする。秩序のない道路も危ないが、ポリコレ過ぎるのもどうかと感じた。

センターゴロ・ダブルプレー:ドジャーズvsブリュワーズ

センターゴロ・ダブルプレー:ドジャーズvsブリュワーズ

ナ・リーグ優勝決定シリーズ第一戦のドジャーズの4回の攻撃で、1アウト満塁からセンター・オーバーを放つものの、センター・ゴロでダブルプレーとなり得点なく攻守交替となった。

日本のテレビ局の中継カメラは打球ばかり追うのがつねだけど、YouTubeで探したら引いたカメラの映像があった。審判がちゃんとノーキャッチのジェスチャーをしていた。守る側のブリュワーズは、どんなプレーかまじかで見ているのでノーキャッチ前提で中継プレーが進んでいた(もしかしたら、単にランナーがいたらかバックホームしてただけ?)。ドジャーズの走者やランナーコーチがノーキャッチのジェスチャーを観ていなかったのだろうか。満塁で外野にとんだので1・3塁審のどちらかが打球担当にはなるが、ほぼセンター頭上少し左中間寄りということで、ドジャーズ・ベンチはどちらの審判がジェスチャーするのか一瞬迷って目に入ってこなかったのかもしれない。

しかし、少年野球で最初に教わることのひとつに、アウトやセーフを自分で判断するな、ということがあったはず。あそこでプレーしていた人も、多分ほぼ全員が20年近く前から聞きなじんでいた言葉であると思う(人(年齢)により20年プラス・マイナス数年の誤差はあっても)。

凡事徹底の大切さがここでも実感できる。