閲覧者
カテゴリー: 教育

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

競合他社の四半期報告が開示され、同日に投資家コールが開催された。

競合他社ということもあって、勤務先のメールアドレスで出席者登録は控えて、私用メールアドレスで出席するか少しだけ考えたが、結局、会社のもので登録して出席した。

その競合他社はアメリカの企業なのだけれど、正直、投資家コールを聞いても米国人の英語が判らずに時間の無駄になるかもしれないと思っていた。ところがだ。まあ、投資家コールという場だから万人に分かりやすい発音やイントネーションで話すことを心がけていたのだろうとは思うけれど、とても分かりやすかった。さすが、社長やその近くのマネージメントの人は、わかって貰うことを大事にしているのだと感じた。

私が勤める会社の社長もとても分かりやすい話し方をする人だけれど、それは、私のボスだけではなかったことを理解した。一方で、日本の社長とかという大雑把な仕分け・レッテル貼りはよくないとは思うけれど、日本の社長はわかって貰おうとする努力が足りない人が多いように思う。社長は、社員や株主、投資家、取引先などありとあらゆる人に誤解なく理解してもらうのが大事な仕事なのに、口下手だけど仕事ができるような論調は全部が全部正しいとは言えないと思う。

特にアメリカ人に対して思うことだけど(大雑把なレッテル貼りには私は大反対だが)、なんだ、やればできるじゃんとも思った。普段はあんなに分りづらく、もしかしたら、いやがらせ的にわざと分りづらくしゃべているのでないかと私は密かに疑っている米国人が、あんなに分りやすくしゃべるじゃないかと。

必要は発明の母

必要は発明の母

先達は、簡潔に本質的なことをうまいことよく言ったものだ。

必要は発明の母、ということを最近になってあらためて思う。もちろん、発明などはしていないのだけれど、例えば、業務面で言えば、手抜きをするための自働化ファイルの作成は、何かどうにかしたいという需要があることによって、世の中では新しいことではないけれど、私の歴史の中ではある操作・機能を初めて活用するので発明のようなものと言える。

私は、半世紀以上を生きてきた年齢なのだけれど、新しいことを試すのはチャレンジングで楽しくもあれば、初めてで理解が追い付かなかったり飲み込むのに時間が掛かったりはするが、何歳になっても刺激的なものである。人生、最後の瞬間まで学び続けていくことになるのだと思うし、それが楽しいとか苦しいとか感じなくなるのは少し怖いことかもしれない。

小学生の頃は、決まったお小遣いがなかったこともあって、何かやろうと思った時には創意工夫や何かを手作りしたり、代用品を活かしたりしていたことを思い出した。その後、働きだすと忙しいこともあって、自分で何かつくる機会もなかったけれど、最近にその気持ちを思い出したことは大きなヒットだと感じている。この気持ちを忘れずにいれば、楽しみをひとつ余計に保持しておくことが出来そう。

海外から来日の要人が無事に離日してよかった

海外から来日の要人が無事に離日してよかった

アメリカ・トランプ大統領が無事に離日して何より。

誰であろうが、海外から来日した要人が狙われたり、来日期間中にテロがおきたり、または要人を対象にしたデモが起きたりせずに来日日程を終えることができるのは、ほっとする。海外からの訪問者に限らず、誰にとってもそのようなことは起きて欲しくないが、せっかく海外から来てくれた要人ならなおさら。

ひとまず、ほっとした。

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

事実や引用なのに推測調、知らないことに断定調

ニュースなどの動画をみていて最近よくあるなあと感じているのが、他人の考えや感情を想像して別の誰かがコメントする時に断定調なのに、公知の事実だったり誰かの発言を引用する時には逆に、「〇〇だったと思うんですけど」のような表現の仕方をする人が多いということ(例:「日本は太平洋に面していると思うんですけど」→ 間違いなく面しているのであなたが「思う」必要はない)。

事実や引用だから「思う」とかつけなくて良いし、人の感情や考えでほかの誰も知りもしないのに断定調で発言する人に対して、どうしても違和感を感じる。前者は、大本の発言者に迷惑はあまり掛からなそうだし、受け手の私も「変だな」くらいの感覚だから良いとして、後者は刷り込みを意図するとか虚偽を含んだものだと私は考えるので大いに問題ありという立場にいる。

日本語を厳格に使えと私は言いたいわけではない。だけど、私の受け取り方がおかしいのかなあ。おかしくないとして、では、私自身が普段の会話で同じようなことをしていないかを気を付けたい。

日経新聞のコラムにびっくり(IFRS関連)

日経新聞のコラムにびっくり(IFRS関連)

先日、日経新聞を読んでいたら、オピニオン・コラムみたいなコーナーで会計規則の IFRS について書いていた人がいた。内容的には、今更そんなこと言っているの?というものだった。少なくても、大手企業は任意適用を何年も前からしていると思っていたのだけれど、日経新聞のコラムを書いた人の書きぶりだと、そうでもない印象を受けた。任意適用していたのは、株主の目や株価を意識しなくてはならな大手企業のみだったのかもしれないけれど、のれんの件に関する記述など、何をいまさらと思った。最近、メディアにいる人との温度差を多くのことで感じる機会が増えているが、IFRS についても、メディアに勤めている人の認識なんてそんなものなのかなあとちょっとびっくりした。

休暇明けの初出勤時の運転は慎重に

休暇明けの初出勤時の運転は慎重に

休暇明けで久々に出社する時は、いつもよりも慎重に運転する必要がある。道の真ん中に突然に大きな穴があくことは珍しくない。そんなことが一晩の大雨でおきたりするので、10日も出勤しないことがあれば、何がどこにあるかをきょろきょりしながら慎重に運転する必要がある。

赤道に近いところに住んでいるため、1年を通して日の出の時間は30分くらいの差しかない。だいたい朝はまだ暗いうちに家を出て、季節によってはまだ暗いうちに会社につくこともあれば、ほぼ明るくなっていることもある。だけど、出るのは暗いうちなので、余計に道路の穴が見えずらい。

そんなこんなで、久々の出勤には優しい運転で出かけようと思っていたのだが、思いのほか、自然体で優しい運転ができた。優しく運転を心がける、というよりも自然に優しい運転ができた。

今回の休暇では体調を崩したりもしたのだけれど、全般的にはよい休暇だった。きっと、それもあって優しく運転ができたのだと思う。休み前に蓄積したイライラがかなり解消されて模様。さあ、いつまでこの優しい運転が湧き出つづけるだろうか。

自民党総裁選 ~ 連立 ~ 首班指名選挙

自民党総裁選 ~ 連立 ~ 首班指名選挙

10月初めからの一連の流れの中で、いくつかのファインプレーがあったと私個人は感じているのだけれど、その中のひとつが自民党総裁選をフルスペックで実施すると決めた人だと思う。

総裁選がスタートしたころの報道では、たしか、現首相を支持するメンバーが選挙管理委員会に名を連ねているという報道内容だったと記憶する。もしそうであるならば、国会議員のみにはかるというやり方があってもおかしくないところ、フルスペック選挙の実施を決めたのは、高市候補が勝利する方向性の最初のステップを大きく踏み出すことになったと思う。もしかしたら、自民党に危機感を感じる議員が少なからずいて、党員の声を聴くべきと思っていたひとが案外多かったのかもしれないと思った(2024年の総裁選同様に、フルスペックで実施しても議員側が恣意的に議員票を活用できるとおもっていたのかもしれないが…)。

これがなければ、今頃は期待感もない政治ニュースになっていたかもしれないし、自民党政治の終焉を迎えるきっかけになっていたかもしれない。

実際に高市氏が何を実行できるかはまだわからないものの、期待感はあると思っている有権者の一人です。

ポリコレ

ポリコレ

しばらく日本に休暇帰国せずにいたら、日本の道路上でポリコレ的な印象をうけた。
少ないないケースでそう感じたのだけど、その一つとして、追越し車線をずっと制限速度で走る車。

速度制限は守る対象ではあるのだけれど、走行車線の車と長い間平行して走っていて、かつ、追い越し車線の後ろに長い車列がある場合は、追い越すのに必要な最短時間の間だけスピードを上げ、その後、すみやかに走行車線に戻るのが正しい運転方法ではないのかとわたしは思うけれど。
ほかにも、正しいけれどそればベストではないのではないの?というケースが増えたような気がする。秩序のない道路も危ないが、ポリコレ過ぎるのもどうかと感じた。

センターゴロ・ダブルプレー:ドジャーズvsブリュワーズ

センターゴロ・ダブルプレー:ドジャーズvsブリュワーズ

ナ・リーグ優勝決定シリーズ第一戦のドジャーズの4回の攻撃で、1アウト満塁からセンター・オーバーを放つものの、センター・ゴロでダブルプレーとなり得点なく攻守交替となった。

日本のテレビ局の中継カメラは打球ばかり追うのがつねだけど、YouTubeで探したら引いたカメラの映像があった。審判がちゃんとノーキャッチのジェスチャーをしていた。守る側のブリュワーズは、どんなプレーかまじかで見ているのでノーキャッチ前提で中継プレーが進んでいた(もしかしたら、単にランナーがいたらかバックホームしてただけ?)。ドジャーズの走者やランナーコーチがノーキャッチのジェスチャーを観ていなかったのだろうか。満塁で外野にとんだので1・3塁審のどちらかが打球担当にはなるが、ほぼセンター頭上少し左中間寄りということで、ドジャーズ・ベンチはどちらの審判がジェスチャーするのか一瞬迷って目に入ってこなかったのかもしれない。

しかし、少年野球で最初に教わることのひとつに、アウトやセーフを自分で判断するな、ということがあったはず。あそこでプレーしていた人も、多分ほぼ全員が20年近く前から聞きなじんでいた言葉であると思う(人(年齢)により20年プラス・マイナス数年の誤差はあっても)。

凡事徹底の大切さがここでも実感できる。

連立とか首班指名とか

連立とか首班指名とか

10月4日の自民党総裁決定後からの報道を観ている部外者の私としては、結論が出ていそうなのに何をやっているんだろうという傍観者の気持ち。支持者の顔色をうかがうためか、あるいは支持者の要望を検討しているフリをするためのポーズなのか、やってる感を出すためなのか、可能性を協議してばかりしている印象。

国民民主党は、立憲民主党と可能性の協議を続ければ続けるほど、考えが交わらずに別れた2党なのに、やっぱり近しい考えなのではないかと誤解を有権者に与えそう。早めに結論出したほうがよさそうに見える。

公明党が今回の最大のファインプレーだと思う。連立を離脱すると決めたことが、日本が前向きに進んでいきそうな予感をさせた。自民党がよいとは思わないけれど、高市首相が誕生して日本が変われるとしたら、公明党代表の英断だと思う。

維新のことは良く知らないので何もいえないけれど、報道やその書き込みコメントなどを観ていると、自民と考えが近いらしいので悪くはなさそうだけれど、私が知っている数少ない情報のうちの一つの高校無償化には全く同意はできない。しかし、高市首相誕生をアシストするのであれば、公明党につぐファインプレー。

国民民主だけ割食った感じかなあ。素人だけど。

一番残念なのは報道かなあ。彼らに大事なことは、売上や閲覧数、視聴率だろうからあることないことを言ってみてもらうのが一番大事で、なにが大事だとかは関係のないことが今回のことでもよくわかる。

喋っていないと死んでしまうのか

喋っていないと死んでしまうのか

口数の多い人とそうでない人がいる。人それぞれ。しかし、静かな環境の方がよい場所では、静かにしていてほしいと思う。

それを特に感じたのが病院での出来事。その人は、人間ドックのために通訳とともに病院にきていた。検査なので別に具合が悪くて来院していたわけではないし、通訳という話相手がいる状況だから話したいのだろうけど、周りの人(みなさん単独で来ているので話し相手がいないので静かにしているのが当たり前といえば当たり前)が皆静かにしていて、その場の空気感も静かな環境であるにも関わらず、その人はいつまでも通訳としゃべっている。病院の人が注意しないので、病院としての許容範囲内なのかもしれないので私も特に指摘をせずに、遠く離れた場所にいた(はじめは、看護師さんの指示でうるさい人の隣の座席に座るように言われたのだが、耐えられなくて離れた場所に移った)。多分、病院は静かにしているという価値観とは異なる環境で育ったのであれば、うるさいのは仕方ないのだと思う。だけど、名前を呼ばれてもその場の人に聞こえないようなうるささで会話するのはやめてほしい。

田舎育ち

田舎育ち

大学に入るまで田舎で育った。びっくりするほどの田舎というほどの土地ではなく、よくある中途半端ないなか町。

・電車は一時間に一本
・だから、電車の時間に遅れないことに必死(とはいえ、基本の移動手段はどんなに遠くても自転車)
・バスは小学生の頃に廃止
・畑が多くて冬は出窓に砂がたまる(田舎だからではなくて私の育った家の建付け?)
・夏はほぼ毎日、夕方に雷雨
・学校帰りは畑をつっきって最短距離で家に向かったりできる
・トウモロコシ畑をつっきる時はいろいろなものが服にくっつく
・登下校の道には小学生が寄れる店がない(まあ、小遣いもないから寄れないが)
・マクドナルドが町にない(ほかのファストフード店もない。今でも)
・電車が単線
・警察署や交番がなく、派出所が町に一つだった
・建物が少ないので風の強い日にはダイレクトに風を浴びるので自転車が進まない
・時間帯にもよるが、だいたい電車は一両編成
・小学校まで片道歩いて40分(いくら小学生でも2kmを40分って、遊びながら通学してたのかな?)

小学生なんて(中学生のときも)自分の町しか知らないから、ほかにどんな世界があるかもしれず、別に不平・不満もなかった。今考えると田舎生活していたなとなるが、当時は別に何とも思っていなかった。

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報を伝えるネット・ニュース記事が出ていた。
私は現在、日本居住ではないけれど、私が暮らす国も日本も「made in China」の共通点多数という共通点があるので、電圧やプラグ形状が異なるけれど、一応、形式の照合をしておこうと思った。

記事から簡単に対象製品を確認することができるかと思いきや、記事ページには型番の確認の仕方があっても型番の記載がなかったり、画像を何枚もめくらないと型番が出てこないページもあり、おもいのほか時間を要した。記事ページから情報にたどり着くことができたものはあるが、私が閲覧したページに限っていえば、ぱっとすぐに行き着けるものはなかった印象。

ニュースには文字数の限度とかあるのかもしれない。そこのところは知らないのだけれど、ニュースを伝えるだけで終わりにしないで、そのメーカーのページに行かなくても確認できるようにしてくれると便利だと思った。ただ、近頃はリンクをクリックするのにアレルギーがあるので、それはやはり自分でメーカーのページに行って確認してくださいというのがメディアのスタンスで、また、ウェブサイトの危険性に関する自分の感覚が正しいかをはかりながら自ら確認するのが身を守る最適解なのだろうか。

ありとあらやるものを信じられなくなってくるので、フィッシングはやめてほしいものだと思った。

水たまりに突っ込んでゆく車

水たまりに突っ込んでゆく車

今いる国では、私の前を走る車が水たまりをよけることなく突っ込んでゆく場面を見ることが多い。ほかの東南アジアの国同様に、車と平行して走ったり車と車の間をすり抜けるバイクが多いため、直線で走らないと危ないという事情はあると思う。そこは理解する。とはいえ、必要以上にまっすぐに走る印象。意地でもまっすぐに走るんだ、というコミットメント的なものを感じる。また、水たまりに入ったり路面の落下物をわざと踏んずけて走ってゆく車が多い印象。好んでそうしているような感じ。

一例としては、速度の遅いバイクが自動車の前を走っている時。対向車がいない時でも、ずっとバイクの後ろを遅いスピードでついていっている。対向車線へ少しだけ膨らめばすぐに追い越せるのに、辛抱強く追走する。この国にいる人は乱暴な運転をする人も多いのに、車線のことになるとまっすぐ走ることにこだわっているように見える人ばかりである。横と後ろを見ながら前をみたり、周りの車・バイクとの距離感・速度感を把握するのが苦手な人が多そうな感覚はある(まあ、急ぐ気持ちがないというのが最大の要因かもしれないが)。

洗車した後にわざわざ水たまりに入りたくはないけれど、雨が季節はほぼ毎日雨降りなので、水たまりに入ろうが何しようが車が汚れるのは一緒というはそうだ。だけど、前を走る車がスプラッシュさせるのは、後ろを走るバイクにとっては迷惑なのではないかと、水しぶきを見るたびに思う。




根拠のないルールを守る人はいない

根拠のないルールを守る人はいない

秩序を維持して社会生活を送るにはためにはルールが必要。そして、それを守らないと、自分や周りの人を危険な状況においてしまったり、争いがおきたりする。だから関係者全員がルールを守る必要があるが、設定したルールの理由があいまいだと、ルールを守らない人が出てくることがある。

ドイツの道路は快適だ。アウトバーンでは、路面は走行しやすいところが多いし、一般道もラフな道はあまりない。だからスピードを出しがちにはなるが、制限のある区画に入る標識にしたがって減速すると、ああ、なるほどね、ということになる。工事をしている、路面が荒れている、前方で車線が減少している、町の入り口など、なぜ減速が求められたかの理由が明白だ。一方、欧州の別の国を走っていると、工事が終わっているのに減速や車線減少の標識が出しっぱなしになっているなどの理由で、これ意味ないじゃんということが少なくない。標識通りの状況ではないじゃないかと思っているのは私だけではないのか、減速指示を守っていない車が周りに多かったりする。そりゃそうだ、と思う部分もある。だから、本当に危険な場所であるにも関わらず、注意喚起の効果が薄れて危ない場合がある。

この例からは、ルールを守らせるには納得性が必要だということがよく分かる。このことは、いろいろなことに適用ができる。自分がルールを作る側になる時には忘れてはいけない。

怖い話

怖い話

私は、怖い話が嫌い。

なぜ怖がりになったのか、おそらくきっかけになったものがあったと思うけれど、それが何だったか覚えていない。もしかしたら、生まれながらにしての怖がりだったのだろうか。でも、怖がりは先天的なもの?それとも後天的なもの?どっちなのだろう。

自分が怖がりなことを知っているので、怖いテレビ番組は見ない。合宿のように集団で同じ場所に泊まる時の夜の余興など、どうしてもその場に参加しないといけない場合は嫌々ながら参加はするが、原則は、君子危うきに近寄らずでこれまでやってきた。

怖い話をする人にお願いがある。今見えたとか、そこにいる、という現在進行形な話はやめて欲しい。

企業業績ニュースのコメントに違和感

企業業績ニュースのコメントに違和感

ここ数週の間に見た企業業績に関するニュースの中で、トランプ関税による業績下振れというものが一定数あった。そのニュースよりは少なかったけれど、それでもそれなりの頻度で為替影響による業績下振れもあった。日米金利差縮小の予測による為替変動で、主に輸出企業の業績が下振れた、または下振れる見通しというもの。

そこでよく聞いたのが、「円高による業績悪化」のような説明ぶり。これに違和感を持たずにいられなかった。

確かに、ちょっと前よりは円高方向に為替は変動したけれど、それをもって「円高」と表現するのはちょっと違うような気がする。「円高」には相対的な意味の円高と、絶対的な評価を意味する場合の二つの使い方がある。最近のニュースで聞いた「円高」が相対的な意味で使われているのは判るけど、相対的評価として「円高」を表現する場合は、その必要条件としてある程度は絶対的に円高な状況にあることが条件だと私は感じる。多少円高方向に振れたとしても、今のように絶対的な円安状況では円高は適切な使い方ではないというのが私の感覚。

あくまで私の感覚だと判っているし、私の感覚はよく間違っているのも知っている。だけど、この円高表現の使い方は、私は少数派ではないのではないかと少し信じている。

クリーンな政治家

クリーンな政治家

仕事ができれば政治家に清廉潔癖さは求めない。この意見は、ネット世論としては珍しいものではない印象。

私も、真っ黒クロスケはさすがにどうかと思うが、完全クリーンで仕事ができないよりは、多少の疑いはあっても仕事ができる人が議員でいてくれた方がよいという意見だった(クリーンな仕事人が一番よいけれど)。

しかし、最近になって、もしかしたら今までの意見を見直すことになるかもしれないと思い始めた。私は、陰謀論を興味を持って聞くけれど、それを信じてはいない(陰謀論と気付かずに信じている説がないとは自信を持って言えないけれど…)。しかし、もしも、脱税を見逃してもらう代わりに誰かの言いなりになっているケース、例えば変な国家予算の使い方であったり徴税を法制化したり、何か弱みを握られることで指示通りに動くような議員が本当にいるとすれば、仕事ができるできないは譲歩して、クリーンな政治家を求めたいと思うようになった。私腹を肥やす程度(本心では程度などという表現を使いたくない)ならば国民には迷惑をかけていないとも言えるが、国を思う政策を曲げるようなことは国民の代表としての信任は得られまい。

クリーンかどうかは実際は判らない。だから、総合的に判断せざるを得ないのが実情だけれど、次回の投票では、この目線を検討項目に入れて投票先の候補者を考えてみようと思っている。
次回の選挙の時にどのような世の中になって、どんな世論が形成されているか判らないが、そろそろ、本当に政治体制が変わる頃になっているかもしれない。自分の年齢的にも、そろそろ自分のことよりも次世代のことにより思いを巡らす時期が来ているかもしれない。

年収を更新してください – カード会社から依頼

年収を更新してください – カード会社から依頼

クレジットカード会社からメールが届いた。カード利用枠の引き上げを検討しているので年収などの項目に回答するように、との内容だ。

メールに情報更新のリンクが貼ってある。フィッシング被害の報道や注意喚起をよく見るのに、どうして率先してクリックさせたがるのか理解が難しい。

ウェブサイトの会員ページにログインして、お知らせのようなページにこの依頼が記載されているのか確認してみたが、すぐに探せるところには通知が特にない。なので、本当にカード会社から依頼ができているのかどうか確認ができないので、リンクをクリックしないようにした。特に利用枠の引き上げがなくても困らないので今回の件はよいけれど、本当に必要な手続きだったと思うと、今のカード会社のやり方が心配だ。