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Category: 私は私

スマホの大きさ

スマホの大きさ

少し前のことだけど、Apple iPhone SE が 16e に世代交代して、その件に関する記事や、記事に関連する読者の書き込みコメントを多数目にした。

私は小さい携帯を好む人々のうちの一人だ。

読者書き込みをみていると、大きさではなく SE の価格が安いからという理由を隠して SE を推しているといって SE ファンにかみついている意見も散見された。

私は本当に小さい携帯を好む。

最近、2台目持ちとしてアンドロイドを買ったのだけれど、買ってすぐに小さいスマホがよいことを心底実感した。私は左手でスマホを持つので、ブラウザを前のページに戻す時には、スマホの右下になる戻るボタンを左手親指でタッチすることになる(機種によってボタンの位置が異なるのかもしれないが)。その時、スマホ本体の幅が広いと親指をおもいきり伸ばさないといけないのだが、どうしても母指球(親指の付け根にあるふくらみ)がメニューボタンにタッチしてしまい、戻るどころか開いてるウィンドウ一覧が表示されてしまい、結局、右手を使わざるをえなくなる。左手で操作することになれてしまっているため、上記の間違いをさけるために右手一本で操作してみようとするとぎこちなくてできない(慣れるまでやってみるほどの気の長い人間ではない)。

ホームボタンがいいとか価格メリットだとか色々と言われているが、私にとって小さいモデルというのは本当に有用な機能なのだけれど、iPhone、アンドロイドに限らず小さいモデルの選択肢がないということは、私のような需要は本当にマイノリティなのだろう。16e で一つ評価できるとすれば、それはやっぱり USB C-type が使えるようになったことだろう。これは、全く疑う余地がない。

お葬式とお墓の話

お葬式とお墓の話

少し前に葬式に係るネット記事があった。どんな内容だったかは覚えていないので、一般的な話だったのだろうと思うけれど、その記事をきっかけに、葬儀と墓に関する自分の考えはどうだろうと考えてみた。自分の葬儀を死後に自分で設計できないため、もしも自分の希望を一部でも反映してもらえるならば事前に伝えておくしかないと思い、何が自分の希望が整理しておこうと感じた。

まずは、大きく費用を掛けて見栄えをよくしてもらう必要はない。人を呼ぼうとすれば、それだけ変動費が総額として増えるし、普通は葬儀は突然のことなので、多くの人に日程調整してもらうほどのことは申し訳ないので希望しない。また、固定費的なコストについても特に見栄えをよくしてもらうのは無駄遣いのような気がして、これも希望しない。

都合をつけてまで葬儀にきてもらいたいとは思わないのは既述の通りだが、私がこの世から去ったことはできるだけ多くの人々にお知らせしたい。どうやったらそれができるか考えているところだけど、生前のお礼と死亡の通知を兼ねた短いメッセージを準備しておいて、送ってほしい人たちのメールアドレスをリスト化しておくのはどうかと思っている。家族には、葬儀の手配よりも面倒になるだろうけれど、葬儀に費用を掛けない分は迷惑料してお金を遣ってもらうことで勘弁してほしい。最新のメールアドレスを知らない人の多くは海外にいたときにお世話になっていた人なので、その会社の総務・人事関係の部署に案内を出したら、そこからある程度の範囲の人には連絡を展開してもらえるじゃないかと期待する。

ちょっと面倒なのは、お墓の話。誰が一緒に入ってくれるか、自分が建てる必要があるかなどの視点もあるが、私の心配はメンテをどうするかということ。そういう意味では、都心の納骨堂がいいと思っている。メンテの心配が少ないし、都心の納骨堂であれば、何かのついでに寄ってみようという気持ちになってくれるかもしれない。本当は、いくつかの思い出の地に散骨してもらいのだが、知り合いに黙って死んでいって、葬儀にも呼ばず、眠っている場所を固定化させた墓もないと、あまりに身勝手なような気がしなくもないので、もしも、会いにきてくれる人がいるとすれば、納骨堂のような場所があるとよいと思っている。一部は散骨(そのための旅費は葬儀代を節約してもらって全く構わない)、残りを納骨堂を希望。

年齢がそれなりになってきたので、有効な形で意思を伝える意味で遺言の準備を考え始めている。相続できるような金銭や資産はそれほどないので、その意味では遺言に意味はあまりないのだけれど、葬儀にお金をかけるのはやめて、ということは私の希望として残しておきたい。そうでないと、こんな地味な葬儀では私がかわいそう、とか言ってくる人がいないとも限らないので、そこは私の意志だったことを証明するためにも正規の書類が少しは役に立つのではないかと思っている。

面接で待たされた

面接で待たされた

面接で待たされた挙句、受付から内線で電話したら担当者が帰宅していた、というネット記事をみた。

面接で待たされた経験は私もある。何十年も前の新卒就職活動の時。
当時の就活システムに則って、数人のOB訪問(といっても、私より上の6年間、私の在籍していた大学からその会社への入社実績がなかったので、大学OBではない若手社員との面接)を経て、人事担当と同課長の面接を終え、人事部長との面接という日のことだった。

一時間以上待った。あまり賢くない大学四年生だったので、受付にどうなっているか途中で確認してもらうこともせずに、ただただ、待っていた。記憶にはないが、多分、私とのお約束はどうなってますかと最終的には受付から聞いてもらったのだと思うけれど、部長に会って面接することができた。

その人事部長には重役面接(当時はそう呼んでいた)へ上げてもらい、最終的にその企業に入社したので、待たずに帰ったりしていたら今頃どんな人生だったのだろうかと思う。

まあ、結局は、実際ではない方の人生がどんなだったかに思いをめぐらせることには何も意味がないのでそれはどうでもいいことなのだが、自分がもっと臨機応変な奴だったらよかったなと思うことは数多くある。でも、よくわからないのは臨機応変にできる時もあって、できる時・できない時の違いがどこから来ているのか、ということ。場面なのか、相手なのか、自分の機嫌とかなのか。それが判ればうまく対応できる機会の可能性もあがるだろうに。判らないことがまだまだたくさんある。

終始ついてくる店員が苦手 東南アジアにて

終始ついてくる店員が苦手 東南アジアにて

買い物しているときに苦手に感じることは、店員さんが終始ついてくること。訪問したことのない国のことは判らないが、これまでの私の経験では、東南アジアの国で店員さんがついてくる率が高い。

万引き防止のための見張りなのだろうか。

キャッシャーに入力者の記録が残るので、ほかの店員に販売実績の横取りされたくないがための尾行だろうか。いや、さっきの店には、尾行していた人以外には、店員さんはいなかったから違うだろう。

では、いつ質問されてもいいようにサービスの一環なのだろうか。いや、それも違うだろう。なぜなら、監視はするが決して私に近づいてくることはしない。私のことが見える位置に移動しながらも遠くから私を見守ってくれている。

飲食店では逆に、私と目を合わさない選手権をしているかのような店員さんが多い。きっとこれは、注文取るのが面倒なのだろうと推測している。同じ時給をもらえるならば、誰でも仕事は少ないほうがよいに決まっている。また、道路上でも同選手権は開催されている。路上のケースでは、誰か周囲の人に気付いた方が相手に進路を譲らないといけないというローカル・ルールがあるようで、相手のことが目に入っていないかのように振る舞う必要があると聞いたことがある。だから絶対に目を合わさないらしい。車と車、バイクと車、歩行者とバイク間で対戦が繰り広げられている模様。

尾行されたり無視されたり。ツンデレか。

ついてこられるのが嫌なのは、一つには、私がそうされることに慣れていないからだと思う。そうであれば、嫌と感じるのは私の都合であって、相手は悪くないことになる。別の理由は、万引き防止の尾行であるとすると、私が警戒されていることに不快感を覚えて嫌だと感じる。しかし、これも私の都合であって、店員さんは私の時だけ尾行しているわけではないはずだ。そう考えると、明日からは尾行する店員さんを寛大な気持ちで受け入れたいと心を入れ替えつつも、なぜ尾行しているのか、いつかは聞いてみたいとも思っている。


誘惑に打ち勝った

誘惑に打ち勝った

久方ぶりに都会へ買い出しに行ってきた。買い出しに行く時の目的はだいたい食料品。

ひと通り食料を調達した後は、弁当や総菜、パンを買って買い出しを終え帰宅。帰ってから2-3日は、その弁当、パン類で過ごす。新しい店もできているとは思うけれど、その街へ行くときは、だいたい同じ店に行ってしまうので、同じような弁当や総菜、パンを買ってしまう。今回の買い出し旅も途中までは同じ流れで好きな総菜を入手した。

いつもの買い出しでは、日本酒やワインも調達して、その日だけはと自分を甘やかして総菜や弁当とともに自宅で一杯ひっかけるのが流れ。ただし、今はアルコール類を少し控えているので、今回は買い物リストに酒はもともと入れておらず、総菜を買うまではその流れの通りに買い物を進めていた。

ところが、だ。

総菜を買っていると、出来上がりの品物が陳列棚にならんだ。それは、食べたいものだった。いつもは買っているものなのだが、最初は陳列棚になかったので、あやうく買い忘れるところだった。それで、それを入手した瞬間、あ、日本酒があるといいと思ってしまった。

今回は酒を買わないという計画で買い物にきて、その後、酒が欲しくなり、そして、その誘惑を押し返した。そのやり取りを自分の心の中で何往復かして、そのたびに誘惑と強い意志の振幅が大きくなっていった。その間、酒売り場とそのほかの商品の売り場の間を何往復もした。

結局、今回は酒を買わなかった。今回の心の動きを誘惑と呼んでよいものかどうかわからないが、その言葉を使うとすると誘惑に打ち勝ったと言える。いくら途中で考えが変わりそうになったといっても、もともと買わない計画だったので、計画通りに実行しただけといえばそうなので、打ち勝ったといって誇るほどのものではないかもしれない。

しかし、一度決めたことからなびかなかったことは事実なので、私の身の回りのことで、何かが少し好転するような期待がある。何かを求めて何かを我慢するような交換条件の結果ではないのだが、自然と期待が湧いてきている。

テレビのニュース番組が好き

テレビのニュース番組が好き

テレビやYouTubeなどの映像でのニュース番組が好きだ。新聞やネットニュースも読むが、出演者が話し言葉で意見を付け加えたり、新聞のような記者一人の切り口とは違って、進行役や専門家、ゲストやコメンテータなど複数の出演者間のインタラクティブなやり取りを観るのが楽しいので、ニュースといえばどちらかと言えば映像系が好きだ。

客観的な報道内容ではない出演者の意見・解説的なところでいえば、おそらく、テレビの人が言っていることの半分以上に同意できていないか納得できていない。それでも観るのが好きなのは、私の性格が、自分とは相容れない見解を聞くことが好きだからなのかもしれない。そんな考え方もあるのかと発見したり、これはこの人の本当の意見なんだろうかと心配してみたり、自分が詳しい分野の話題であれば、間違ったことを視聴者の前でよくそんなに流暢に喋れるもんだと感心したり、普段の生活であまり感想を持つことがない私が、こと映像系ニュース番組が相手となると、毎分毎秒、感想を持ててしまうくらいに好き(ちなみに、今までよりも多くのことに対して感想を持つことを、私は2025年の目標にしている)。

好きではあるが納得していない部分もある。そのうちの一つとしては、コメントや解説が目の前にあるニュースに対してのみ行われ、別の機会に別の切り口で同じ案件を報じる時には、それ以前のコメントと矛盾する発言をしても、何の疑問も感じずに報じているように見えることだ。もちろん、テレビの人たちに聞き取り調査したことはないので、矛盾を感じつつも台本に合わせて不本意ながら発言しているかもしれない。とはいえ、ウクライナ・ロシア戦争の件の場合、両国兵士の戦死者に関する痛ましい状況を説明し、攻撃を止めさせない限りこの状況は止まらないようなことを言ったそばから、本戦争に対するトランプ大統領の対応はけしからん、のようなことをコメントする。国際関係の裏で何がおきているか一般人の私には知る由もないが、戦争を止めたいと本気で望んでいるのは、ほかの誰よりトランプ大統領のように私には思える(日本での選挙権を持つ日本国民である私は、トランプ大統領を支持・不支持する権利はないので、報道を通じて見えている部分だけからの個人の感じ方)。戦争を止めさせたいということは、ごく一部の例外を除いては殆どの人たちの共通の望みなのではないかと思う。しかし、テレビの人たちはトランプ大統領のすべてを否定することを述べるか、または同意できそうなところには触れないようにしながら大統領批判を展開しているように見える。

これは一例であるが、全体に対して思考をめぐらすことなく、目の前のことに対してのみ反応している人を見ると、私の場合は見ているこちら側がつらくなる。テレビのニュース番組は、「ニュース・ショー」だと思ってみればいいのだけれど。

頻繁に手を動かしながら話す

頻繁に手を動かしながら話す

YouTubeを観ていたら、そこで話をしてくれる人が、始終、手を動かしながらしゃべっていた。大きさを説明したり、形を表すために手を使っているわけではなく、発言と手の動きが連動していない形で手を使っていた。

大学生の頃(何十年も前)、外国人と日本人の違いについて書いた本を多く読んでいた時がある。その時の記憶では、話すときに手を頻繁に動かす人は、海外では(その時はアメリカでの例だった記憶)知性的に見てもらえないという解説があった。YouTubeでこのことを思い出して、ネット検索してみたところ、手ぶり身振りを交えたほうがよいという説明が検索ページの上位の方に多かった(エネルギッシュとか、よいイメージを与えるという意見)。

昔の情報が嘘だったのか、時代が変わったのかわからないけれど、日本語で検索する限りは上位は手を動かした方がよいということだった。
でも、私は、人前で立ってプレゼンテーションをしたりするような時などのいくつからのケースを除いては、今後も手を無為に動かさないよう自分は話したいと思っている(他人が手を動かそうが構わない)。