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カテゴリー: メディア

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

CM 視聴義務付け記事は読まずに閉じる

CM 視聴義務付け記事は読まずに閉じる

写真ニュースにありがちな、CM を十何秒か見ないと読めない記事は読まずにとばす。興味ある記事が期待できる時は、百回に一度くらいは CM を見ることもあるが、ほぼほぼ毎回読まずに閉じる。CM を入れるのは企業側の自由だし、それを見ずに閉じる私にも選択の自由があるから、以前のように CM なくせとは言わない。場所を貸す方は減っている広告収入を補いたいのかもしれないし、広告を出して欲しい人もなんとかして効果的に(強制的に)視聴者の目に触れる方法を模索しているのだろう。

私が気になってしかたないのは、記事を読まずに飛ばしたというデータがメディが側と広告主に届いているのかどうか、ということ。見るか見ないかは別として、まずは、「見ないとこれ以上進めないよ」というポップアップが出てくるので、これを1ビューとして広告主に報告されていたらそれは嘘だと思う。広告を観ていないから。メディアとしては、こまかな統計は自分の首を絞めることになりかねないので統計を取っていたとしても内部資料で済ませたいだろうし、広告主は実際に広告をみた数を知りたいはず。

私のような行動はどう広告主に報告されているか知りたい。

テレビ・ドラマの世界

テレビ・ドラマの世界

今に始まったことではないけれど、テレビ・ドラマを見ていて思うのは、これって実際の世の中を反映していることなのかどうか、ということ。

自分が知っていることであれば比較はできる。例えば、自分がかつて勤めていた日本の会社では、スーツの上着は出社とともに脱ぐのだけど(入社してから転職するまでの約30年間変わらず)、ドラマでは事務所で仕事中も上着を着たままの人が多い。これって違うんではと思いつつ、自分が勤める会社しか知らないから、自分が知っていることが多数派なのか少数派なのか判らない。

自分の感覚と違うことが一つあると、他も違うんじゃないかと思い始めてしまう。

最初に、今に始まったことではないけれどと書いたが、少し前にそれを再認識したのは、学校の保護者カーストのような人が登場する場面のこと。そういった人間関係から遠いところにいるのでよく判らないけれど、本当にそういった人(カーストの上のほうにいて権力を振りまく人)っているのだろうか、自分の周りで観たことも聞いたこともないので、テレビ・ドラマの世界だけで存在している人なのではないだろうかと思ったりする(あるいはいても、ごくごく希少な人々)。

自分が知っている世界とテレビ・ドラマ内の世界があまりに違い過ぎる時、私はドラマを直視できないほどに恥ずかしい気持ちになる。これは現実世界を反映しているもの?それとも、おとぎ話の世界?

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

警戒感?警告?AI 関連株に株価調整の可能性

株価が上がれば、後付けで上がった理由になりそうな説明を探して報じ、誰かが警戒感と言えば自分の意見でもなさそうなのに急に同調してブレーキをかけるようなことを言い出し、テレビの経済ニュースで話している進行役の人やコメンテーターってなんだかなあと思う。根拠なく、さんざん自分であおっておいた後に警戒感だなんて、マッチポンプそのものといった感じ。広い視点をもってより深く分析し、自分が知らないことは手に負えないと宣言して、もっと淡々と仕事できないものかなあと思う。自分なりの根拠を持って、後付け解説はやめにしてはどうかと思う。

予想を超えた値動きというのも最近聞くコメント。それって、単純にあなたの予想が間違っていたということでは?予想を超えたのではなくて、予想が間違っていたと。

あんまり批判的なことは言いたくはないけれど、自分が正しいとは限らないということを理解して欲しい。

社説の「~せよ」にうんざりする

社説の「~せよ」にうんざりする

以前は感じなかったけれど、「~せよ」と言っている社説にうんざりするようになった。
ひとつの意見として社説を書いている人の意見を尊重はするが、それがあたかも唯一の正義・正解のように「せよ」と主張することに、なんだかなあと感じるようになった。

先輩が脈々と続けてきた書き方がフォーマット化されてしまっているのではないかと想像する。変えるのは難しいのだろうと思う。しかし、「~せよ」調の社説にうんざりしている人は、私以外にも結構いるのではないかなあと思う。

私の個人の感想です。

予想することに意味ない時代になったのかも

予想することに意味ない時代になったのかも

プロ野球などスポーツの順位予想や各種選挙の当落予想、交渉ごとの進展の見込みなど、いろいろな予想が巷にあふれている。業績見通しなど組織内で予想・見通しを作成してその組織内でそれを使うことや、個人がその胸の内で予想するのは構わないのだけれど、予想を対外的に開示するのは、その目的や影響で要否が変わってくると思う。日本の上場企業は業績予想を堂々を開示するが(というか、投資家がそう望んでいるのだと理解しているのだが)、国によっては株価に予断を与えかねないとして業績予想を開示できない市場もあると私は認識している。

少し話がそれたけれど、最近のいくつかの選挙を見ていると、マスコミが当落予想を報じることに意味があるのか疑問に思うようになってきた。どう予想しようが、投開票が済めば結果は判るものだから、その日を待てばよいのではないかと。

世論調査結果に恣意的な要素を加えて投票の動向を操作しようとしているのであれば、マスコミ側は予想をやめるようなことはないかもしれない。ただ、最近は結構予想が外れているという感覚が私にはあって、マスコミは恥ずかしく思ったりしないのかなあと心配してしまう。また、世論調査のサンプルが適正かどうかの問題、質問された人が正直に回答しているかどうかの疑問などもあって、予想する意味がどれだけあるのか、とも思う。

学者や論説委員など、見通しを述べることを仕事の一部としていた人たちがいて、それを有難がって聞いていた人たちもいた。だけれど、複雑にいろいろな要素が絡んだ世の中になって、予想することがとても難しい世の中への変わってきたような気がして、もう予想はやめにしてはどうかと思う。

日経新聞のコラムにびっくり(IFRS関連)

日経新聞のコラムにびっくり(IFRS関連)

先日、日経新聞を読んでいたら、オピニオン・コラムみたいなコーナーで会計規則の IFRS について書いていた人がいた。内容的には、今更そんなこと言っているの?というものだった。少なくても、大手企業は任意適用を何年も前からしていると思っていたのだけれど、日経新聞のコラムを書いた人の書きぶりだと、そうでもない印象を受けた。任意適用していたのは、株主の目や株価を意識しなくてはならな大手企業のみだったのかもしれないけれど、のれんの件に関する記述など、何をいまさらと思った。最近、メディアにいる人との温度差を多くのことで感じる機会が増えているが、IFRS についても、メディアに勤めている人の認識なんてそんなものなのかなあとちょっとびっくりした。

当事者が目の前にいるのに – TVのニュース番組

当事者が目の前にいるのに – TVのニュース番組

私が見ていた、とあるテレビのニュース番組での出来事。そこには、公明党代表が出演していた。タイミング的には、連立解消してすぐ位の時期だった。

ゲスト出演の代表以外には、アナウンサーと解説委員のような立場の人が出演していた。

代表に出てもらっているにも関わらず、テレビ局の二人が長々と話していた。しかも、公明党のことを話していた。当事者がそこにいるにも関わらず、二人は公明党のことをいろいろ推測を交えながら会話を進めている。当事者がそこにいるので聞けばいいのに、推測しながら会話している。

これっておかしくないのだろうか。

センターゴロ・ダブルプレー:ドジャーズvsブリュワーズ

センターゴロ・ダブルプレー:ドジャーズvsブリュワーズ

ナ・リーグ優勝決定シリーズ第一戦のドジャーズの4回の攻撃で、1アウト満塁からセンター・オーバーを放つものの、センター・ゴロでダブルプレーとなり得点なく攻守交替となった。

日本のテレビ局の中継カメラは打球ばかり追うのがつねだけど、YouTubeで探したら引いたカメラの映像があった。審判がちゃんとノーキャッチのジェスチャーをしていた。守る側のブリュワーズは、どんなプレーかまじかで見ているのでノーキャッチ前提で中継プレーが進んでいた(もしかしたら、単にランナーがいたらかバックホームしてただけ?)。ドジャーズの走者やランナーコーチがノーキャッチのジェスチャーを観ていなかったのだろうか。満塁で外野にとんだので1・3塁審のどちらかが打球担当にはなるが、ほぼセンター頭上少し左中間寄りということで、ドジャーズ・ベンチはどちらの審判がジェスチャーするのか一瞬迷って目に入ってこなかったのかもしれない。

しかし、少年野球で最初に教わることのひとつに、アウトやセーフを自分で判断するな、ということがあったはず。あそこでプレーしていた人も、多分ほぼ全員が20年近く前から聞きなじんでいた言葉であると思う(人(年齢)により20年プラス・マイナス数年の誤差はあっても)。

凡事徹底の大切さがここでも実感できる。

連立とか首班指名とか

連立とか首班指名とか

10月4日の自民党総裁決定後からの報道を観ている部外者の私としては、結論が出ていそうなのに何をやっているんだろうという傍観者の気持ち。支持者の顔色をうかがうためか、あるいは支持者の要望を検討しているフリをするためのポーズなのか、やってる感を出すためなのか、可能性を協議してばかりしている印象。

国民民主党は、立憲民主党と可能性の協議を続ければ続けるほど、考えが交わらずに別れた2党なのに、やっぱり近しい考えなのではないかと誤解を有権者に与えそう。早めに結論出したほうがよさそうに見える。

公明党が今回の最大のファインプレーだと思う。連立を離脱すると決めたことが、日本が前向きに進んでいきそうな予感をさせた。自民党がよいとは思わないけれど、高市首相が誕生して日本が変われるとしたら、公明党代表の英断だと思う。

維新のことは良く知らないので何もいえないけれど、報道やその書き込みコメントなどを観ていると、自民と考えが近いらしいので悪くはなさそうだけれど、私が知っている数少ない情報のうちの一つの高校無償化には全く同意はできない。しかし、高市首相誕生をアシストするのであれば、公明党につぐファインプレー。

国民民主だけ割食った感じかなあ。素人だけど。

一番残念なのは報道かなあ。彼らに大事なことは、売上や閲覧数、視聴率だろうからあることないことを言ってみてもらうのが一番大事で、なにが大事だとかは関係のないことが今回のことでもよくわかる。

2026年 WBC の日本独占放映権は NETFLIX

2026年 WBC の日本独占放映権は NETFLIX

来年3月に開催予定の第6回 WBC に関し、日本での放映権を NETFLIX が獲得したと先月に報道された。それについて、いろいろな意見を取り上げるネット記事を見ることができる。

NETFLIX の視聴登録をするかどうか決めるために、私の立場でどうなのか考えてみる。


【 良い点 】

・ネット配信ならば、海外にいる私も視聴できる
 → 海外から NETFLIX 日本に加入・視聴可能であれば = 調べる必要あり
・イニング間の球場の様子も見られる?
 視聴料を取る = スポンサーがいない = CMがない、ですよね?利用したことないから知らないけど
・見逃し配信もある?
・視聴する方法がTV に限定されずにスマホでも見られる?


【 心配する点 】

・野球中継に長けた解説者や実況アナは NETFLIX に在籍しているの?メディア専属でない人が解説?
・映像の大本はどこの誰?(普段、野球中継のカメラワークに不満がある私)
・NETFLIX 登録増加に寄与するかもしれないから、地上波や既存媒体が WBC が取り上げなくなる?
 → 入手できる情報が減ってしまう?



【 悪い点・悪いかもしれない点 】

・会員にならないといけない ← クレジットカード等の個人情報の登録にネガティブな私
・有料であること
・ミニマム会員継続期間はあるのか?閉幕したら退会意向(時がくれば自分で調べるけれど)
・WBC終了後に直ぐ解約できるとしても、解約手続きの容易さがまだ判らない
・解約したら私の登録情報を消去してくれるか判らない



【 世の中的には良いであろう点 】

・YouTubeなどでの違法配信が多分なくなる(たとえ有難くても、違法なものへ加担してはいけない)
・料金が発生するという認識の醸成 ← 料金が企業の利益になり、社員に給与等で還元されるならば

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

高市自民党新総裁の会見待ちの記者の発言がライブ中継に乗ってしまったという記事をみた。
支持率発言についてはもう一つ、「支持率下げるような写真しか出さねえぞ」というのもあったとか。

いままで、なぜこんな写真を使うんだろう、もっといい写真あるはずだろ、と思った記事写真は数多くある。政治家はまだしも、イメージが重要でいつもはきちんとした姿を視聴者に見せている芸能人のぼけた写真や変な角度からの写真、さえない表情をした写真などは悪意のあるものだと想像していた。しかし、今日は、ああ、なんだ、意図持ってやっていたのかということがはっきりしたので、あんな写真を選んで載せたのは納得、という感じになった。メディア社員が代替わりしたら、今と違う会社・業界になっていくのかな。メディアへの就職希望者の倍率って、最近どうなのかなと思ったので調べてみる。

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外国運転免許証の日本への切り替えの要件が 10 月から厳しくなったことを取り上げるネット記事があった。外国人が困惑しているということらしい。

外国人が困惑するのは無理もない。しかし、「厳格化してけしからん、外国人が困惑せぬようにしないといけないではないか」と該当の記事が主張しているような印象を受けた。タイトルのみが目に入ってきた時は特に。
記事は、安全に運転できるように制度変更の効果を期待するという締め方にはなっているものの、外国人が困惑していることを前面に出す必要があるだろうか。これを配信したメディアは、ハードルの低い日本の外免切替を利用してルールをきちんと知らない(あるいは知っていて無視している)運転者が悲惨な事故を起こしても、外免切替の問題点を指摘する資格はない。いろいろな視点を取り上げるのがメディアであるとこの会社が主張するならば、どんな犯罪でも批判的に述べてはいけないと読者に感じさせるような書き方だ。どっちの向きに対してでも、その時に出てきたこと何に対しても批判的に書けばよい時代ではない(今日死刑が執行されたら海外では死刑廃止だといって批判して、翌日には 10人をあやめた犯人に死刑判決が出なかったとしてなぜ死刑ではないのかまた批判するように、同根の事柄について、舌の根も乾かぬうちにどっちにもとにかく批判する姿勢)。

私は、現在の居住地で日本の免許からの切り替えで現地免許を取得しているので、逆方向で外免切替の恩恵を受けている。しかし、当地の人と同じように運転している。また、当地の免許は日本で可能なような旅行者の取得はできない。住所があってビザを取得し、一定期間この国に滞在する人でないと申請できないし、外免切替の制度が停止されたりもする(この場合は、現地の人も外国人も全員が同じ試験を同じ方法で受験して免許を取得というルール)。

外免切替制度に関しては、なぜ、日本のメディが外国人の気持ちを代弁する必要があるのだろうか。

経済観念 – 物価高とは言うけれど

経済観念 – 物価高とは言うけれど

テレビ番組を観ていると、街頭インタビューを目にする。ニュース番組だと頻度が高い印象。

高頻出のインタビュー・テーマの一つに物価高に関するものがある印象。しかし、見ていて違和感があるのは、パックご飯が高いと言っている人とかペットボトルの値上げのニュースとか、ほかに安くあげる選択肢があるのに、それをせずに物価が高くて何とかして欲しいと回答する街の声を聞いた時。そもそも高いものを買っているのに物価が高いと言っている人に対して、そりゃそうだろと思わずにいられない。

米を炊くにも米食頻度が低いので炊飯器を買う先行投資の方が割高になるのかもしれないが、そうであればパックご飯を買う機会なんてそれこそ稀なことなのではないだろうか。そんな稀なケースを引き合いに出して生活が困っているというのはどうなのか。人それぞれにお金をかけてもよいものと、そうでないものがあるだろうから、スマホ通信料に文句を言わずにパックご飯が高いと文句をいうのはその人の価値観によるからいいのだけれど、街角の代表意見のように報じるのはちょっとどうかなと思う。そもそも、街のコメントを使うメディが側が言ってほしいコメントのみを使っていたりするだろうから、私は街頭インタビューを真面目に見えてはいないけれど。

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報を伝えるネット・ニュース記事が出ていた。
私は現在、日本居住ではないけれど、私が暮らす国も日本も「made in China」の共通点多数という共通点があるので、電圧やプラグ形状が異なるけれど、一応、形式の照合をしておこうと思った。

記事から簡単に対象製品を確認することができるかと思いきや、記事ページには型番の確認の仕方があっても型番の記載がなかったり、画像を何枚もめくらないと型番が出てこないページもあり、おもいのほか時間を要した。記事ページから情報にたどり着くことができたものはあるが、私が閲覧したページに限っていえば、ぱっとすぐに行き着けるものはなかった印象。

ニュースには文字数の限度とかあるのかもしれない。そこのところは知らないのだけれど、ニュースを伝えるだけで終わりにしないで、そのメーカーのページに行かなくても確認できるようにしてくれると便利だと思った。ただ、近頃はリンクをクリックするのにアレルギーがあるので、それはやはり自分でメーカーのページに行って確認してくださいというのがメディアのスタンスで、また、ウェブサイトの危険性に関する自分の感覚が正しいかをはかりながら自ら確認するのが身を守る最適解なのだろうか。

ありとあらやるものを信じられなくなってくるので、フィッシングはやめてほしいものだと思った。

アメリカで建設中の工場で不法就労

アメリカで建設中の工場で不法就労

ニュースが報じている。

私がみたニュースでは、トランプ大統領の移民政策をメインキャスターが批判をし、サブ的な人も同じように批判していた。もう一人いて、その人も同様。

そのニュースを見る数時間前に読んだネット・ニュース記事では、必要な査証を取らずに建設工場に従事していたのを摘発されたという主旨のことが書いてあったのに、私がみたニュースは査証がないことには言及せずにトランプが悪い、というばかりだった。

翌朝、その報道ぶりがどうしても気になってAI先生に聞いてみた。まず私の感想を述べて、そのあとに、私の感想と似たようなコメントしている書き込みがないですか?と聞いてみた。リンクで返してくれるのを期待していたが、そうではなかった。だけれど、同様に考える人がいますというコメントがかえってきた。AI先生が適当の話を合わせてくれたのかもしれないが、とりあえず私だけが憤っているわけではなさそうで嬉しかった。

企業側には、投資を呼び込んでおいて査証をなかなか出してくれないとか言い分はあるように伝えていた媒体もあったが、そのような言い分も報じるべきだと思う。取材をしているのに、そういった背景事情に届いていないことはなかろう。

報道のことはこれくらいで、そもそも、査証を取得せずに仕事する・仕事をさせるのはどうしたものかと思う。それと、細かな事業を知らずに言えば、現地雇用をせずに本国から人を連れてゆくのも私としてはなぜにと思うところ(特殊技術者などはその限りではない)。海外案件に必要なことはいくつかあるが、投資国の裨益は事業を成功させる要因のうちの重要な一つだと私は思っている。例えば、工場内に寮を建てて本国から連れてきた人をそこに囲い込んで働かせるケースを聞いたことがあるが、そんなことでは現地に根差した事業はできるまい。また、囚人の強制労働的に海外の現場で働かせるケースもあるようなことを聞いたこともある。

建設している企業にしても、報道する側もなんだかな、の事案だった。

企業業績ニュースのコメントに違和感

企業業績ニュースのコメントに違和感

ここ数週の間に見た企業業績に関するニュースの中で、トランプ関税による業績下振れというものが一定数あった。そのニュースよりは少なかったけれど、それでもそれなりの頻度で為替影響による業績下振れもあった。日米金利差縮小の予測による為替変動で、主に輸出企業の業績が下振れた、または下振れる見通しというもの。

そこでよく聞いたのが、「円高による業績悪化」のような説明ぶり。これに違和感を持たずにいられなかった。

確かに、ちょっと前よりは円高方向に為替は変動したけれど、それをもって「円高」と表現するのはちょっと違うような気がする。「円高」には相対的な意味の円高と、絶対的な評価を意味する場合の二つの使い方がある。最近のニュースで聞いた「円高」が相対的な意味で使われているのは判るけど、相対的評価として「円高」を表現する場合は、その必要条件としてある程度は絶対的に円高な状況にあることが条件だと私は感じる。多少円高方向に振れたとしても、今のように絶対的な円安状況では円高は適切な使い方ではないというのが私の感覚。

あくまで私の感覚だと判っているし、私の感覚はよく間違っているのも知っている。だけど、この円高表現の使い方は、私は少数派ではないのではないかと少し信じている。

CMを見ないと記事を読めない

CMを見ないと記事を読めない

YouTube 番組前に CM が流れることについては、そういうものだという理解ができている。それで成り立っているならば仕方ない。

最近、ネット・ニュースを見ていると、YouTube 同様に CM を見ないと読めない記事に度々でくわすようになった。YouTube ならば少し見た後に CM を Skip できる。CM が始まるのは私の意思でないとしても、自分の意思で CM から番組に戻ることができるからなのか、YouTube CM にあまり嫌悪感はない。それは、YouTube でしか見ることができない番組をみるために必要な儀式みないなものとの理解が私の中で進んだからかも。

一方で、ニュースの前の CM の場合は、CM を見るように言われた時点で閉じるボタンをクリックしてしまっている。それは、そのページでなければ見られない記事ではないので、同じ件のほかの媒体のニュースを探せばいいだけのこと。たまに、写真ニュースで同様のものがあり、この場合は他社記事では同じ写真を見ることができないのは想像がつくものの、そこまでしてみたい写真もない。ニュース前の CM は成功とは言えないのではないかなあと思っている。それとも、私が特殊で、大多数の人は CM を見ているのだろうか。これも、周りの人にアンケートをとってみたい質問の一つです。

クリーンな政治家

クリーンな政治家

仕事ができれば政治家に清廉潔癖さは求めない。この意見は、ネット世論としては珍しいものではない印象。

私も、真っ黒クロスケはさすがにどうかと思うが、完全クリーンで仕事ができないよりは、多少の疑いはあっても仕事ができる人が議員でいてくれた方がよいという意見だった(クリーンな仕事人が一番よいけれど)。

しかし、最近になって、もしかしたら今までの意見を見直すことになるかもしれないと思い始めた。私は、陰謀論を興味を持って聞くけれど、それを信じてはいない(陰謀論と気付かずに信じている説がないとは自信を持って言えないけれど…)。しかし、もしも、脱税を見逃してもらう代わりに誰かの言いなりになっているケース、例えば変な国家予算の使い方であったり徴税を法制化したり、何か弱みを握られることで指示通りに動くような議員が本当にいるとすれば、仕事ができるできないは譲歩して、クリーンな政治家を求めたいと思うようになった。私腹を肥やす程度(本心では程度などという表現を使いたくない)ならば国民には迷惑をかけていないとも言えるが、国を思う政策を曲げるようなことは国民の代表としての信任は得られまい。

クリーンかどうかは実際は判らない。だから、総合的に判断せざるを得ないのが実情だけれど、次回の投票では、この目線を検討項目に入れて投票先の候補者を考えてみようと思っている。
次回の選挙の時にどのような世の中になって、どんな世論が形成されているか判らないが、そろそろ、本当に政治体制が変わる頃になっているかもしれない。自分の年齢的にも、そろそろ自分のことよりも次世代のことにより思いを巡らす時期が来ているかもしれない。

戦争をテーマにしたドラマや映画が苦手

戦争をテーマにしたドラマや映画が苦手

戦争に対する私のポジションは、やるべきではないものという考え。何ら特殊な思想ではなく、主流派というがごくごく一般的な考えだと思っている。

やらないためにどうするか、という点においては、やはり多くの皆さんがいっているように、風化させないことが重要なことの一つで、悲惨さ・残虐さを忘れないために、体験談を伝承していくことが必要と思っている。ただ、戦後の時間が経過するとともに、体験を語れる人々も高齢化していて、体験談を聞いた人がそれを伝えてゆく作業が必要になってくるのだが、そこに少し不安を持っている。

私は、戦争に関するテレビ番組をあまり観ない。戦争をテーマにしたフィクションであれば特に問題はないのだけれど、私が避けているのはドキュメンタリー風に作られている番組のこと。私に実体験がないので検証のしようがないのだけれど、なんとなく脚色されていたり、作成者の意図が紛れ込んでいたりしても判別つかないし、なによりドラマ的に描きすぎているような気がして、そういった番組を素直に観ることができない。

番組が本当に脚色しているかどうかは判らないけれど、実体験を伝承できる人が少なるなるほどに、事実と異なるものが作られる可能性が高まると推測するので、これからもっとこの手の番組を避けることになると思う。ドキュメンタリー風動画にあったように〇〇だから戦争反対、ではなくて、単純に戦争反対を私は今後もスタンスとして持つだろうと思う。毎年8月に入ると、終戦の日に向かって戦争関連の番組が増える。もしも何らかの意図が入っているものに影響を受けてしまう人がいるとすれば、それは非常に残念なこと。