感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」
通勤時に、横断歩道に停車している車をまた今日もみた。実際は違うのかもしれないけれど、印象としては、運転する日には例外なく、毎日見かける光景。
そこに止めれば便利だし歩かなくて済むのは判るけれど、ほかの人の安全を犠牲にしてまでそうしてはいけないと私は思うのだけど、そこに止める人はそうは考えていないのだろうと推測する。それが他人を危険に陥れることを知らない、気づかない、誰にも教えてもらったことがないのだと思う。
横断歩道への駐車が便利としっていてもマナーとしてそうしないことを、なんというのだろうかと疑問が生じた。やせ我慢?ちょっと違うけれど、ほかに言葉が見当たらない。その後、やせ我慢を英訳するとなんというのだろうとネット検索してみると、「プライドが高すぎて」とか「勇敢さを示すために平気なふりをする(関係ないけれど、平気は関西の人が嫌いな言葉の一つだったような記憶)」という感じの意味を汲む英訳の例文が多くヒットして、横断歩道に停車するという「そっちが楽なのは判っているが、それをやるのは正しくないと信じているので我慢してそれはやらない」に合致していないような気がした。もしかしたら、私が考える内容の概念が言葉を作った人々にないとしたら、その訳語は英語にないのかもしれない(プライド云々の英文としては、例えば、アメリカ男性は痛くても痛いと言わないことが男らしさと思っていた人が多かった時代がかつてはあったので、先に紹介した例文は訳文としては適切だと思う。なお、男性とか男らしさという価値観は適切ならば現代でもあってしかるべきと私個人は考えるが、私のような考えは現代の世間では受け入れずらくなっていることを自覚していることも併記する。だけど、アメリカのメジャーリーガーは、今でも死球を受けても痛いそぶりを見せる人はいない)。
いろいろ考えていると、私の日本語での感想の言語化がうまくできていないのだろうという結論に至った。これは珍しいことではなくて、私の言語化能力が低いことに気づくことは頻繁にあるので、今回のことにも何も驚かない。
あー、日本語力を鍛えたい。