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Category: ライフスタイル

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

通勤時に、横断歩道に停車している車をまた今日もみた。実際は違うのかもしれないけれど、印象としては、運転する日には例外なく、毎日見かける光景。

そこに止めれば便利だし歩かなくて済むのは判るけれど、ほかの人の安全を犠牲にしてまでそうしてはいけないと私は思うのだけど、そこに止める人はそうは考えていないのだろうと推測する。それが他人を危険に陥れることを知らない、気づかない、誰にも教えてもらったことがないのだと思う。

横断歩道への駐車が便利としっていてもマナーとしてそうしないことを、なんというのだろうかと疑問が生じた。やせ我慢?ちょっと違うけれど、ほかに言葉が見当たらない。その後、やせ我慢を英訳するとなんというのだろうとネット検索してみると、「プライドが高すぎて」とか「勇敢さを示すために平気なふりをする(関係ないけれど、平気は関西の人が嫌いな言葉の一つだったような記憶)」という感じの意味を汲む英訳の例文が多くヒットして、横断歩道に停車するという「そっちが楽なのは判っているが、それをやるのは正しくないと信じているので我慢してそれはやらない」に合致していないような気がした。もしかしたら、私が考える内容の概念が言葉を作った人々にないとしたら、その訳語は英語にないのかもしれない(プライド云々の英文としては、例えば、アメリカ男性は痛くても痛いと言わないことが男らしさと思っていた人が多かった時代がかつてはあったので、先に紹介した例文は訳文としては適切だと思う。なお、男性とか男らしさという価値観は適切ならば現代でもあってしかるべきと私個人は考えるが、私のような考えは現代の世間では受け入れずらくなっていることを自覚していることも併記する。だけど、アメリカのメジャーリーガーは、今でも死球を受けても痛いそぶりを見せる人はいない)。

いろいろ考えていると、私の日本語での感想の言語化がうまくできていないのだろうという結論に至った。これは珍しいことではなくて、私の言語化能力が低いことに気づくことは頻繁にあるので、今回のことにも何も驚かない。

あー、日本語力を鍛えたい。

人間関係が構築されて断り切れない状況

人間関係が構築されて断り切れない状況

ママ友を闇バイト(そろそろ、犯罪と詐欺とかに表現を変えるか?)に誘い商品を騙し取った罪にとあわれた被告の裁判があったと報道されていた。いろいろなメディアが報じる中で、犯罪ジャーナリストの人からコメントを取って報じるメディがあり、そのコメントして「人間関係が構築されて断り切れない状況で誘うケースもある」というものが引用されていた。

このニュースとは全く関連のない話ではあるが、この記事をみて思ったのは、私も断るのが苦手なことだ。本当は乗り気でないがいいよと言ってしまうことが多い。逆に、酒宴やゴルフのお誘いなどは、特に海外にいると決まりきった日本人の狭い世界のメンバーになりそうなことがあらかじめ想像がつき、また、その狭い世界からのお誘いを時々であっても断ることができないであろうことも予想できるので、私は最初から避けようとしてしまう。

これは、海外にきてからより強い傾向になっている。日本では仕事場、地元、家族関係などのしがらみの種類も多く、その中で必要と思えばお付き合いもしていたが、海外ではほぼしがらみがない分、あまり参加しないことを気にしなくなってきた。それで孤立する人もいればそうでない人もいるし、本当に人それぞれで何があっているが合っていないかは千差万別であるが、どうやら私にはこれがあっているような気がしている。

人との関係が少なくて、果たしてこれで生きているのかってことを疑問に思う瞬間もあるのだが、仕事を通じて世界や社会との関わりはあるので、まったく浮世離れしているわけではないということにしている。

コンクラーベ

コンクラーベ

新しいローマ教皇を決める選挙が 5 月 7 日に始まり、4回の投票の結果、8日に決着したとのことらしい。教皇になるにはいくつかの条件を満たさないといけないようで、また、選挙は密室で行われるとも伝えられている(子どもの頃に聞いた覚えのあるローマ法王って誰の事だっけと思いネット検索すると、1981 年のヨハネ・パウロ二世の来日時にローマ教皇に呼称を統一した由)。

教皇の影響力は、キリスト教世界に限定されているわけではなさそうなので、私は、世界で生きている人びと全員と同じように、完全無欠な部外者というわけでもないが、一方で、世界の多くの人と同様に、私はキリスト教徒ではないので、教皇の決め方に関する発言権は私にはない。

発言権はないのだが、資格や選び方に制限が多いやり方に対して、別件で同じようなことをしたら声高に文句を言う人たちが、不公正だ、開かれていない、前近代的だ、とかの意見を言わないのがよく理解できない。天皇制やジェンダー問題、ダイバーシティ、政教不分離に意見をいう人のコメントが聞こえてこない。自分が当事者ではないから意見を言わないのか、言っているのにメディアが取り上げていないだけなのか判らないが、ニュースを見聞きしても意見を言っているようなことは聞こえてこない。

この差はどこから来ているのか。

結局は、彼・彼女らのいつもの主張が理路整然とした改善要求・提案ではなく、自分が気に入らない単なる文句だからなのだろう。だから、いつもの文句と同じような問題点がある事柄であっても、意見を述べることはないのだろうと推測する。果たして、そういう人たちの意見に耳を傾けて議論する必要があるのだろうかと思ってしまうが、意見は尊重しないといけないとも私は思う。

ところで、今まで興味なかったのだが、カソリックの組織図(?)は下記のようだ。

・教皇/The Pope:全世界のカソリック教徒の精神的指導者
・枢機卿/Cardinal:司教の中から教皇が自由任命、教皇の最高顧問、任期無、教皇選挙権あり
・司教/Bishop:教皇の自由任命、独身制、教区を監督する聖務職、経験・年齢・経験年数問われる
    聖職者の地位は他の司教と同じで権限のみ大きい大司教もいる(Archbishop)
・司祭/Priest:独身制、助祭の中から市況が叙階、神父(⇔プロテスタントの牧師)
・助祭/Deacon:「助」とついているが固有の業務を規定する方向にある由。
    終身助祭で昇叙はできないが妻帯を許可される終身助祭という階級がある。
・信徒

信徒の人にとっては違いが大きいと思うが、乱暴にラベリングするとすれば、
  【カソリック】   ローマ教皇を中心に団結
  【プロテスタント】 聖書を拠り所、教会組織はわりと自由


よく判らないついでにイスラム教について調べてみると、これも信者の方には失礼な乱暴なラベリングかもしれないが、下記のように違いを述べることもできる模様。
  【スンニ派】 コーランやムハンマドの慣行をまとめたハディースが拠り所
        後継者にはコーランやハディースを解釈する権限はない
  【シーア派】 ムハンマドの特別な資質を受け継いだイマームが信仰の拠り所
        現在、隠れているイマームが再臨するまではイスラム法学者が役割を代行

外国暮らしの気分

外国暮らしの気分

東南アジアの国で仕事をしているけれど、ウィークデイは家と会社の往復だけで、ウィークエンドも家事と休息、少しの仕事など家で過ごす時間のほうが長いので、外国暮らしをしている感覚はほとんどない。出社しても日本語を使うことはないし、街でも日本人に会うことはないので、周りは完全に外国なのに外国暮らしを感じることがない。

周りの人と比較すれば、私は海外にいる期間は長い方なので、日本だとか海外だとかという区別をしなくなっているのかもしれないし、本当に自分の生活しかしていないからかもしれない。何かに心を動かされることがあまりない人間だからなのかもしれない。

まあ、その理由はどうでもよくて、本題は外国気分を味わったという話。

今日は、車の中でラジオを聞いた。いつもは自分のデバイスにある音楽とか、YouTube で自分の聞きたいものを選択して聞くのが殆どなのだけど、なにかラジオを聞きたくなる気分になって、実際にラジオを聞いた。日常と違って、自分で選択しない音楽とかニュース番組を聞いていると、突然に外国気分になった。少し前に、次アポまでの時間つぶしがてらに入った普段は行かないスーパーで偶然やら再会やら発見などが重なった日があったときに、いつも同じことをしていてはいけないと思ったのだけど、ラジオもまた、懐かしい曲が突然かかったり、決まりきった生活から一歩離れることができると感じた。

なぜだか、とにかく眠い

なぜだか、とにかく眠い

年齢を重ねると睡眠時間が短くなる話をよく聞くが、そんなことはない、私の場合はとにかく眠いし、ここ 1-2 か月は本当に眠ってしまっている。

日本で働いていたかなりの長い期間では、いつでも眠かった。しかし、それは慢性的な睡眠不足が原因だったと思う。長時間勤務や時差のある国との仕事、また会社から距離のある場所に居住していた長時間通勤のため、朝の出勤は早く、夜の帰宅も遅かった。一番ひどい記憶としては、1対1で打ち合わせしていた際に、自分が案件を口頭で説明しながら意識が飛んだことがある(ほんの一瞬ながら眠りに落ちた)。

自分の適切な睡眠時間を知らないため、睡眠時間が不足しているのか適当なのか判らない。昼間に眠くなることがあれば睡眠不足なのだろうが、その観点でいえば、最近は昼間に睡魔に襲われることはほぼなくなった(それでも、横になったら一瞬で眠りに入れる自信がある)。しかし、帰宅とともに眠くなる。最近は、帰宅後にひと休みと思っていったんソファに身を預けると、もう起き上がることができなくなることが度々起こる。気が付くと夜中の 2 時とかで、それからあらためてベッドで眠ることになる(二度寝して得した気分になる)。ソファで寝落ちしても体は休まっていないだろうということは想像がつくが、それでも結構な時間を睡眠に費やしている。それでも夜は眠い。

眠くなる病気とかってあるのだろうか。まだまだ色々な学びに時間を使いたいし、眠くなるのは困る。

ワークライフバランス:1日のうちの時間の使い方か1年単位の話か?

ワークライフバランス:1日のうちの時間の使い方か1年単位の話か?

前日に続き、ゴールデンウィーク期間中のニュースから感じたことを。

観光地の混雑や、観光地・帰省先への移動中も混雑が発生していたようだ。今年は、お金を使わない、家で過ごすGWだった人が例年より多いという報道もあったけれど、渋滞や混雑は連休中の風物詩。

せっかくの休日を疲れにいくようなものだし、鉄道のように年中価格が同じものばかりでもなく、連休中に出かけることでいつもよりも払うコストが上昇する品目もある。

ここ数年は、ある時間以後の残業を禁じたり、また、パソコンのログ管理で、前日の勤務終了から当日の勤務開始までに一定の時間間隔がない場合は、勤怠管理表に理由を入力しなければならないシステムを使用する企業もある。その意味では、一日の中でのワークライフバランスの意識は以前よりも確実に高まっている(労働時間の実態は別として)。

しかし、休日の混雑などを観ていると、私の意見では一日の中のバランスよりも、もっと連続する有給を取りやすい環境を整えて、一年のうちで働く時と休む時を分けるワークライフバランス、取得する休日を働く人の間で分散するシステムのほうが幸せなのではないかと思うことがある。

子どもも学校を連続して休ませるのかとか、夏季休暇とかでない有給を連続でとるのは私自身も休み明けが心配で気がひけるだろうとか、問題がないわけではないだろうが、こちらも選択できる制度があればよいと思う。人や荷物を運ぶことを仕事とするドライバーなどの職種に対しては、一日の実働時間を管理することが疲労を原因とする事故を最小化するために必要なシステムだと思うけれど、全員に当てはめる必要はないと考える。

中には、混雑の中で出かけることで休日気分を味わえる人もいるかもしれないけれど、空いている休日を実感すればそれは誤解だったことがわかるのではないだろうか。問題はあると思うけれど、選択肢を設けることは悪いことではないと思うけれど、どうだろうか。

カッコ好い車がなくなった(個人的見解)

カッコ好い車がなくなった(個人的見解)

車は嗜好品。好みは人により千差万別、カッコ好いの定義も人それぞれ。

ゆえに、私の感想に留まる話ではあるけれど、カッコ好い車、自分で乗りたい車が以前に比べて減ってきた。あくまで私の基準による分類。

歩行者保護をはじめとした安全基準によるボディ形状、燃費と空気力学を考えた車体の形、製造コストなど、以前よりもデザイン上の制約が増えているだろうとは想像がつくので、仕方ない部分は理解する。理解はするけど、買いたいと思う車は減った。若いころと比べると、車に出せるお金は多少増えたというのに、買いたいと思う車は減った。

私の場合、車を選ぶうえで大事な点は「見た目」。価格によっては検討すらできないモデルもあるので、もちろん、車体価格は最重要。しかし、燃費はよっぽど悪くない限りは気にしない。装備については種類によって、気にするものとそうでないものが混在しているけれど、装備はよいけど外見が好きでない車よりは、外見がよければ装備は我慢できるところはある。

え、このデザイン?という見た目の車を街中で見ること不思議な気がするが、車が嗜好品であるがゆえに消費者の好みの問題だとは思うけれど、一定の台数を売ろうとする自動車会社のそのモデルの責任者がよく決裁したな、と疑問に思わざるを得ない車もある。自動車の歴史が始まって以来、デザインも出尽くして少しでも似たような見た目にしたら真似しただの言われかねないのも想像できる。だけど、私のように見た目重視の人もまだいるだろうから、もうちょっとデザインに気を配ってみてはどうかと思う。車以外にお金を遣う人が車を買ってくれないという前に、買いたいと思うような車を出してくれないことには売れないよ、と思うこともある。



5月3日の記念日
・憲法記念日:1947 年のこの日に日本国憲法が施行されたことを記念

宗教

宗教

自分が信じる宗教に対して厳格な人が多く住む国でも、強盗や殺人など人から何かを奪ったりする個人の犯罪はあるし、信心深いはずの国であっても、軍政をひいて国民を弾圧したりする国がある。

宗教は、本当に人を救っているのだろうか。

もちろん、信じることで救われた人が存在したであろうことは否定はしないけれど、人や国をまとめるのに宗教が好都合だったという過去もあって、むしろそちらの趣旨のほうが強かった期間のほうが長かったんじゃないかと思っていしまう時もある。

政治や宗教の話は争いになるから他人と話すなとよく言うので、私もあまり誰かとこの話をしたことはないが、少し疑問に思うことはある。



5 月 1 日の記念日・出来事
・メーデー/国際労働
・元号が平成から令和に(2019年)
・Gibson Guilar Corporation が 2018 年のこの日に Chapter 11 をファイリング
・1956 年のこの日、新日本窒素水俣工場附属病院が「原因不明の中枢神経疾患多発」と保健所に報告

リビングトラストについて調べてみた件

リビングトラストについて調べてみた件

今月初めに、「銀行口座が凍結されぬようWillを準備 – Journeyman : Blog」ということを書いた。

この記事ののち、実際に遺言の作成・管理などを請け負うサービス会社に相談に行ったのだが、事前情報が全く誤解だったことが分かって、相談に行って本当によかったと思っている。

細かいことは別として、① 遺言作成、② 遺言を作成して管理もお願いする、③ 生前信託といって財産を信託にあらかじめ移しておくことで裁判所が関与する手続きを回避する、以上 3 つの方法で見積もりを取ってみた。万が一がおきてから必要となる費用は、資産額対するパーセンテージで計算されるため、単純化できないが、仮にもしもの時の銀行口座残高が 10 百万円だったとした場合の費用は、おおよそ以下が目安のよう。

私が銀行口座を持っている国では、遺言書を残したとしても相続には裁判所が関与するシステムになっている。この手続きを回避するのが生前信託となるのだが、これを行った場合の銀行口座は、死亡や植物状態、認知症などのトリガーが発動されるまでは、信託しない場合と同様に何ら制限なく使用できると遺言書サービス会社から口頭で説明を受けているが、信託契約書を見るまでは実態は未詳。


日本と法律・制度も違う国で手続きをしなければならないことを考えれば、必ずしも高いとはいえないというのが私の感覚。最悪、いままでの働きを給与として対価で得た資産が理由も判らず口座を保有する国の政府に召し上げらてしまうリスクや、外国人が行わなければならない手続きの煩雑さを考えると、もうちょっと中身について検討するとしても、契約を進めるつもり。



4 月30日の記念日
・年始から 120 日目
・南部解放記念日(ベトナム):1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終結
Day of Liberating the South for National Reunification
・図書館記念日:1950 年に図書館法が発布されたことにちなむ。制定は 1971 年。

日本のコンビニの海外展開

日本のコンビニの海外展開


2025 年 4 月 16 日の日経新聞に、「ローソン、6年で海外店舗2倍 アジア軸に1.4万店規模」という記事があり、2031 年 2 月期をめどに海外店舗数を倍増させるとのこと。現在は海外 5 か国に約 7,400 店舗あり、これを 14,000 店規模に増やすとのこと。この記事を読んだあとに各社のウェブサイトを見てみると、セブンイレブンが海外に 84,541 店(2023 年 12 月末、20 の国と地域)、ファミリーマートが 8,410 店(2025 年 3 月 31 日)とのこと。

私の暮らす街にも日本のコンビニが 2024 年に開店した。

海外での私の生活スタイルからすると、日本のコンビニはあればうれしいけれど、なくてはならないほどのものではない、というニュアンス。とはいっても、寝過ごして朝食を食べずに出社することになった日に、ささっと会社で食べるものを出社途中で買おうとすると、選択肢の最初に来るのが日本風コンビニだ。そのような理由で日本風コンビニを利用する機会が月に 2 回程度ある。その時には、日本風のパリパリ海苔のおにぎりがよい。そのほかの商品でいえば、ポカリスエットなどの日本の飲料を具合が悪くなった時に欲しくなることがある。

東南アジアには〇〇風なものや〇〇に似たものがたくさんある。見た目は同じようなものが低価格でてない入ったりするけれど、つかっているうちに〇〇風であって〇〇ではないことに気付かされることが多くの機会である。私の住む町の日系コンビニも同様で、日本風なのだけど日本のとは違う。名称は忘れたが、キャッシャーにはエキスプレス客が並ぶ場所があるのだが、だいたいはそこは使われていないか、そこに店員がいてもチキンやおでんのような時間を要する人が並んでいる。東南アジアにいれば時間がかかることは当たり前のスタンスではいるのだけれど、せっかくレーンとサイネージがあるのだからと毎回残念に感じてしまう。

店員さんはエキスプレス・レーンの意味を考えたことがあるのか、また、日本でいう本部のような人が店舗を訪れて指導しているのか、あるいは本部の人もある意味現地に合わせてゆるくていいと思っているのか、聞きたくて仕方ない。たまにしか利用しないので、まあどうでもよいといえばよいのだが、私は知りたくて仕方ない人間なので、インタビューしたくてうずうずしている。



4月27日の記念日・出来事
・婦人警官の日:戦後初めて採用された婦人警官が初勤務。1946 年、62 名の警官。
・哲学の日:ソクラテスが毒杯で刑死、紀元前 399 年。妻が悪妻と言われ、「悪妻の日」でもある。
・1810 年にベートーヴェンが「エリーゼのために」を作曲。

外国で担当業務の引継ぎ

外国で担当業務の引継ぎ

日本の企業に勤めていると、業務を引き継ぐときには引継書を作成する。少なくとも、私が以前に勤めた会社では引継書作成規定という社内規定もあって作成が当たり前であったし、一定規模以上の会社では、多くの場合で作成が求められていると思う。

外国の企業につとめていると、引継書が義務になっていない会社がある。それどころか、お願いしないとメモの受け渡しが無い場合すらある。私の場合は異動が少なくなかったため、いつか誰かに業務を渡す日がくることを想定して、引き継ぐ側として説明を聞きながらも、将来の引継書として使えそうな形のメモをつくり始めることも何度かあった。なので、引継書の作成が求めらえていなくても書類を作成してきたのだが、義務がなければ引継ぎを行う側の気が楽なのは間違いない。

決して前任者否定の文化があるわけではないと思うが、たまに心配になるのは、前任者の私に何も尋ねてこない人がたまにいること。当然、私のほうから説明したり、しばらくは新旧担当者が重複して業務を行いながらOJT的に引継ぎもしているのだけれど、限られた引継ぎ期間中に全ての事象が起きて、その対応を共有できるものではないし、何かしらどうしてよいか判らないことが起きていそうなのに過去例やアドバイスを求めてこない。私は、私が居てもいなくてもどうでもよい仕事をしていたのだろうか。決してそうは思えないのだが。

きちんと引継ぎしても、担当者が変わるたびに取引先との関りや業務の深堀さが薄まってゆく面は日本の会社にもあり、それは人が変わる以上は濃淡あって仕方ないことではあるが、引継ぎのない会社の場合は薄まりがもっと急速に進んでいくのだろうと危惧する。もしも私が引継ぎが発生した会社からみて取引先であれば、これをチャンスとしてとらえて、口約束なら破棄できるし、言ってないことも前任からはこう聞いてましたけどね、とか言えてしまうかもしれない。

まあ、それは実際にはしないし、口約束など初めからないも同然だから大した問題にはならないのかもしれないが、私が外国の会社で働いていて感じるのは、ジョブローテーションという概念があまりないことが多く、転職しない限り、一生、同じ仕事を継続する人が多いため、引継ぎという概念も引継書の必要性もピンとこないのではないかとのこと。会社側も出世しない限りは従業員を同じ仕事領域に置いておきがちで異動がほぼない印象。ある分野のプロフェッショナル育成といえば響きがよいが、あまり業務知識が蓄積していっている感じもしないし、業務への閉じ込めを感じる。それを心地よいと感じる従業員がいることも事実だとは思う(アグレッシブにならなくても生活を維持できる給与を得ることができる労働条件が確保されている国では特に)。ただ、上司はずっと変わらないし、上にいきたい人にとっては自分は上がれないしということで、少なくとも私の勤める会社では組織が硬直化していて、健全な環境ではないと感じている。まあ、それが普通の海外の会社なのであって、社外取締役は「社外取締役グループ」を作ってその中で椅子を互いにパスしあって自分の居場所を確保するので、つかう側になるか使われる側になるかのどちらになるかが若いうちに非常に重要となってくる社会なのだろうと想像する。


4月23日の記念日
・サン・ジョルディの日:キリスト教の聖名祝日だが現在は書物を贈り合う日として知られる
・ビールの日(ドイツ):1516 年に「ビール純粋令」を発布。原料を規定。世界最古の食品関連法律
・地ビールの日(日本):1999 年に制定
・しじみの日:語呂合わせ。有限会社日本シジミ研究所(島根県松江市)が 2007 年に制定

外国の会社での社内イベント

外国の会社での社内イベント

現在勤めている会社には、社内イベントがそれなりにある。完全に社内のものと、外部の組織をゲストに招くものと両方ある。例えば、消防や警察などいざという時のために日頃からの関係が重要な組織や、周囲のコミュニティというようなそれこそ毎日なにがしかの関係のある人々とともにイベントを行うこともある。そのイベントの様式でいえば、フォーマルなものもくだけたものもある。

フォーマルなイベントの時にいつも思うことは、年に1回あるかないかのイベントに着ていくことがでできる服をみんなよく持っているな、ということ。日本人の場合は、そんな服を持っていない人の割合のほうがまず間違いなく多数派だろうという恰好で出席する人が殆どで感心してしまう。

そんな人たちだから、パーティの席で記念品をもらったりする所作も慣れている人が殆ど。壇にあがり記念品を受け取り、プレゼンターと握手して、もらった記念品をよく見えるようにしてプレゼンターと笑顔で記念写真に納まり、次の人がきて…という一連の流れが何のよどみもなく進んでいく。とにかく、皆、慣れている。学校に通っているいる時からこういう経験があるのだろうか。こちらも感心する。

多くの日本人とは違ってすごいと思うことが多い反面で、パーティ前の気合の入れ方がすごくて、業務時間中にするその準備への熱量も高いのに困惑するというか、なんというべきか。会社のイベントなので準備の前に業務だろと言ったらパワハラと言われかねない。多くの人が集まって準備し、その会議室からは時折、楽しそうな笑い声がきこえたり。みんなで集まって準備しているので、後ろめたさが薄まるのだろうか。イベント前は目をつむるが、それと同じくらいの熱量を短時間集中型でもよいので仕事に向けられないものか。

これは一つの例だけれど、私がいまいる国では、やる人とやらない人の差がますます開いていく一方のような気がするが、以前に私がいた国とちがって、今の国ではやる人・やらない人の待遇差があまり顕著ではなく、生活ができる水準は維持できているようだ。これは、生活がしやすくて悪いことではないと思うのだが、ほかの国に抜かれてしまうのはそう遠くでない危機感はあるが、やる人が稼いでくれて国や会社としてはうまく回っていくのだろうと想像する。そうすると、やっぱりよい国なのだろう。

初めの趣旨とだいぶかわってしまったが、私もここぞの時に着て行ける服の一着くらい持っていたほうがよさそうだとは思っている。


4月22日の記念日
・よい夫婦の日:語呂合わせ。ほかに、毎月22日、2月2日、11月22日、11月23日(=いいふさい)
・カーペンターズの日:1969年に米 A&M Records と最初の契約に署名
・地球の日(アース・デイ):環境保護への支援イベントが毎年行われる(最初は1970年)

文章を書くハードル

文章を書くハードル

いまさらだけれど、パソコンは便利だ。計算が違えばやり直しは簡単だしどこで間違えたかの見直しも見つけやすいし、文章にしても、一遍に消したりまとめて段落の順序を入れ替えたり、何にしても便利だ。また、必要に応じて、文章を残したファイルにパスワードをかけて内緒にすることもできる。

その便利さのおかげで、手書きの時と比べて文章を書こうとする時のハードルが相対的に下がった。何か文章を書いてみようという気になりやすい。

反面、とりあえず書いてから後で推敲すればよいという気持ちで書き始めることが増えた。よく考えずに取り掛かってしまうので、書きたいことを書き始められるまで時間がかかる時がある。ただし、これは業務のなかで文書を作成する時にはかなり便利で、とりあえず箇条書きも使いながら主旨をかいてから、それにあうように前文を書いたりすることができる。別にパソコンでしかできない書き方ではないが、パソコンの場合は消しゴムでこすりすぎて紙を破ってしまうこともないし、消しカスもでないのでやっぱりパソコンが便利。

ただ、やっぱり私は今でも書くのが好き、なぜならペンが好きだから。社会人になりたての頃は、メモをほとんどとらない不良若手社員だったのだけれど、何をきっかけか忘れたけれど 5年目くらいからはとにかく書くようになった。そうなってしばらくして経ってからのこと、海外で一緒に仕事をしていたドイツ人の人にボールペンをもらったのだが、その書き味がとにかくとても良くて、それまで以上に書くことが好きになった。仕事でノートをとることはもちろん、手書きのスケジュール帳を買ったのもそのころで、20年以上たった今でも、毎年、その時と同じ会社が出している手帳を買い続けている(書くことが好きなので手帳は変えてもよいのだろうけど、結局、毎年その手帳を買い続けている)。
(よくよく考えてみると、高校の時の数学の先生にノートの取り方を教えてもらって目から鱗だったとおもに、成績も上がった経験が記憶の奥深くの普段は無意識の領域に保存されているのかもしれない:あの先生がいなかったら別の人生かも – Journeyman : Blog)。

私の感覚に同意してもらえる人も、理解できない人もいると思うけれど、気に入ったペンで書くという行為はどうしてあんなに気分のよいものだろうか。パソコンで何かを書くハードルは下がったのだけれど、依然として、ペンで何か書きたいという欲求がある。徐々にペン自体の塗りが変化してきて味わい深い見た目のペンもあるし、ペン先と紙のこすれあう音も気分が上がるし、自分なりに今日はうまい字が書けたと思える日は気分が良い。

書くことがデフォルトだるデメリットとしては、書かないと思えづらい脳になってしまうことだろう。例えば、コロナで在宅勤務だったころは、自宅にプリンタがないので印刷した資料に手書きでメモや補足、あとで調べる疑問点などを書き入れることができなかったり記憶が進まないことがあった。無用な印刷をせずに省資源に貢献する世の流れに従おうための訓練として書かずに頑張ってきたが、デジタル教科書から紙の教科書にもとりつつあるいくつかの国の例かれもわかるように、書くことと学習には関連があると思う。

そんなことを考えていたら、最近、郵便の手書きの手紙を出してないな、と。人との連絡には電子メールが便利なのは間違いないけれど、たまには手紙を書いてみようと思った。


4月20日の記念日
・穀雨:田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨が降るころ。二十四節気の第六。2025年は今日。
・郵政記念日:飛脚制度に代わり郵便制度の実施を記念。もとは逓信記念日として1934年に制定。
・青年海外協力隊の日:1965年に発足。
・珈琲牛乳の日:1923年のこの日に初めて販売された。東海道線国府津駅で。守山乳業㈱。

・イースター

コロナ当時はフォークダンスもなかったのだろう

コロナ当時はフォークダンスもなかったのだろう

そういえば、コロナ当時はソーシャル・ディスタンスを維持するように強く言われていたので、小中学校の運動会でのフォークダンスはなかったんだろう。そもそも、イベント自体が縮小・短縮されていたから、フォークダンスの有無というより、フォークダンスがプログラムがある運動会自体がなかったりしてたのだろう。私が思春期を過ごした何十年も前の田舎では、授業中に先生から強制される男女の交わりはあっても、それ以外のところでは、学校での休み時間や放課後も含めて男女交流もその発想もなく、運動会でのフォークダンスはそれこそ、一大イベントだった(ただし、一大イベントといいつつも、一大イベントは数多く存在した)。

人は生きていくなかで、有意義なこともあれば、直接的には意味なさそうなこともあるし、今、価値があることや、今は価値が見いだせないけど後で価値が出てくるかもしれないことなど、様々な出来事に出会い翻弄されながら経験値をあげて時を過ごしてゆく。コロナ自粛は誰にも共通の出来事ではあったものの、その自粛期間を過ごした年代、たとえば、それが学生生活と重なってしまった人々は、ほかの年代の人が学生時代に経験したであろうことの経験や思い出(良いことも悪いことも)が、おそらく少なかった分、これからの人生でいろいろなことが起きて欲しい。

なんで、突然、フォークダンスのことが頭に思い浮かんだのかが、もう思い出せない。


4月19日の記念日
・地図の日:伊能忠敬が蝦夷地の測量を行うために江戸を出発、寛政12年。
・飼育の日:語呂合わせ、419=しいく。日本動物園水族館協会が2009年に制定。

『中国にも「働き方改革」の兆し』という記事

『中国にも「働き方改革」の兆し』という記事

数日前に、ロイター配信の記事に「アングル:中国にも「働き方改革」の兆し、長時間労働改める企業も」(英文記事:”In China, whispers of change as some companies tell staff to work less”)があった。

すでにこのステージを超えた国もあれば、まさにこのステージを迎えつつある国、まだまだモーレツ時代は少し先で今後に働き方改革を迎えるであろう国というように、時期にこそ違いはあれど、ほぼほぼすべての国がいつかはこの段階に到達し、生産性などに副作用を生じさせながらも生活の質をあげていってこの段階を乗り越え成熟するステップを踏んでいくのだと思う。

働き方改革で輸出の伸びの傾きの角度がゆるやかになる一方で、余裕のある生活を送るにつれて内需が増加し、多少の時差はあっても経済への影響をうまく最小限にして軟着陸できるとよい。良いか悪いか論はさておき、日本でもゆとりを獲得する中で、乱暴に一般化すると国際貿易での競争力は他国との相対的な見方では落ちているような感じのところ、中国のモーレツぶりが少し落ち着くかもしれない中で日本にも頑張って欲しいと思う。

一方、どの国にあっても、一律に働き方改革を強制することなく、働きたい人や各人それぞれが今こそ働いてスキルを得たいとか考える時期には、自由にモーレツになれる余地を残してくれるのも多様性の尊重と言えると思うのだけれどどうだろうか。働く権利もあると思う。


4月17日の記念日
・徳川家康忌:1616年(元和 2 年)
・アポロ 13 号が地球に帰還:1970 年
・なすび記念日:417=ヨイナス語呂合せ。この日が命日の徳川家康はなすが好物で献上されたのが4月



電球の色味 – リビングルーム

電球の色味 – リビングルーム

不動産エージェントに、部屋を探している日本人の知り合いを紹介した。

エージェント側にも事情があって、入居者を早く決めないといけない部屋とかあるのだとは想像するけれども、事前にこちら側の好みを伝えても、全く彼・彼女たちに響かず興味のない部屋を紹介されるのはどういうことか。もちろん好みの個人差や言葉の定義の個人差がある。例えば、眺めの良い部屋の定義がすれ違っていたりする(実際に起きていることは、おそらく、こちらの希望に応えようとする姿勢がそもそもないのだと想像するが)。

それはそうと、エージェントからリビング・ルームの電気(ライト)の色は白か黄色かどちらが日本人の好みか聞かれた。これは、日本人の間でも個人差があるので非常に答えづらい質問だ。「リビング、ライト、白、黄色、好み」などといったキーワードでネット検索しても一般化した答えにはヒットせず。

私の好みは断然、黄色。しかも、あまり明るすぎない黄色(むしろ、暗くてよい)。もしも今、夜に本を読んだり紙やノートに書き込む必要のある受験生なら話は異なるが、読むのも書くのもパソコンが相手になってくるので部屋が明るくなくてはいけない必要性がないと思っているし、もともと、私は薄暗いくらいがちょうどよい。

なんとエージェントに回答しようか。


4月16日の記念日
・チャップリン・デイ:チャールズ・チャップリン誕生日(1889年)
・Boys be ambitious Day:クラーク博士が北海道を去る時に発言(1877年(明治10年))

美容院の倒産件数増加

美容院の倒産件数増加

3月初めに美容院倒産件数が急増しているとの記事があったのを覚えている。その後も、コンサルタントといった業種別のデータに焦点をあてて報じる倒産報道をいくつか見たのと、従業員の退職による倒産といった経緯・背景側面からのニュースもあった。

原料やユーティリティなどのコスト上昇が言われてからすでに長い時間がたっていて、その高いコストの下で、もともと業種毎の企業数が多すぎることでの過当競争がさらにコスト面で圧迫している背景もあると思う。

たしかにコストを積み上げて計算してゆけば、採算が年々厳しくなっているであろうことは、異業種にいる私でも想像できるのだけれど、価格を決めるのは市場側だとすれば、お金をかけなくなったことの方が影響としては大きいと思う。

ニュースを見ていると、給与・賃金が増えていないので生活が厳しいために節約しているとかいう街頭インタビュー・コメントをよく見かけるが、その割には、価格が高そうな商品が並んでいる店は客入りもよい上に実際にキャッシャーで支払いしている人も多く見かけるし、価格が高そうな車に乗っていたりしている。車については残価設定ローンとか費用負担の新しい選択肢が出てきたこともあるだろうし、お金を遣う対象が変わってきているのもあるとは思う。そういう意味では、自分の見た目に遣うお金の世の中での総額は確実に減っているように感じている。

個々人でみれば、たくさんお金をかけている人は今でもいると思うけれど、見た目への出費を以前より抑えている人の方が多数派になって、世の中総額では減少していそう。たとえば、一昔前であればTシャツでは出かけなかった場所にも、今はそれで出かけている人が多い(Tシャツもびっくりするような値段のものもあるが)。選択肢が増えてよい流れにはなっていると思うし、他人の目を気にする必要が薄れてきた世の中もよい方向。掛けられるお金に上限がある以上は、自分が掛けたい分野にお金を掛けるように優先順位を設定する必要があるのは仕方ない。ただ、もう少し見た目にお金をかけて TPO を考えてもいいのかなあとは思ったりする。私はバルブを知らない世代ではあるけれど、就職氷河期に巻き込まれていないから、そんな考えを持っているのだろうとの自覚はある。モノが売れない時代に変化しているのに、趣味嗜好が細分化されてきて大ヒット商品が生まれずらくてますますコストも上がってしまい、本当に大変な世の中になってきた。

仕事を早く終えて帰る動機、〇〇しよう

仕事を早く終えて帰る動機、〇〇しよう

担当業務によって、物理的に事務所にいる方が効率がよい仕事もあれば、自宅でも特にクオリティの落ちない仕事もある。また、自分が業務に精通していて、所属チームや社内の関係部署の誰に何を話すべきかを知っていれば、使用する業務システムで不都合なければどこでも仕事は可能だと思う。

私の場合、現在の職務内容から言えば、必ずしも事務所で仕事を毎日する必要はない。逆に、全く出社する必要ないかと言えば、そうではない。外でもできる仕事の方が多くて、一部には事務所の方がやりやすい仕事もある、という感じ。

私の勤務先の場合、会社的には出社して業務を行うことになっているので、体調不良の時くらいしか在宅勤務はしないのだけど、一日、事務所で業務したあとに早めに帰宅して家で仕事を続けることがある。場所をかえて気分転換とか、同僚のアクション待ちの時に事務所にいると帰宅が遅くなりそうなときに、まず家に帰ってしまってからアクションを待つときなど。ただ、別の意味で気分転換になってしまって、帰宅後にだらっとしてしまう時がないとも限らないのがあぶないところ。

今のところ、帰宅しても会社のOutlookを開いたりデータ処理をすることが多いので、帰宅という行動は所在地を変えるための行動になっていて、それ以上の意味は付与されていない。今年は、これを変えたいと思っている。帰宅後に仕事以外で夢中になれることを見つけることと、それを実行するために早く仕事を終えたいとワクワクしながらも退社予定時刻と闘いながら仕事をするような日々に変えたいということ。メリハリある生活を送ることで、副次的な効果もえられるだろうと思う。一生涯続けられる趣味につながる何かを見つけられるかもしれないし、それが新たな交友関係につながったり、視野が広がるかもしれない。効果を期待して何かを始める意図はないけれど、何かを始めればほかの何かが起こるだろうし、そのほかの何かが判らないからこそ、それが何なのか楽しみに感じられる気持ちを持っていたい。

専門性がない領域だとクリエイティブになれるのか

専門性がない領域だとクリエイティブになれるのか

私には仕事の専門性がないと感じている。多くの会社員の人よりは、数多くの業界や分野で様々な立場・役職での経験をしてきたとは思っているが、逆にいえばどれも薄くて、もしも転職するとしたら、何も売りがないと感じている。専門性がある人が非常にうらやましく思っている。

こんな私だが、クリエイティビティがあるように感じる時がある。そして、その由来は数多くの経験ではないかと思っている。つまり、専門性がないからこそのクリエイティビティではないかとの推測だ。専門的な人の場合、知らず知らずにその分野にある何らかのフォーマットに収まったりすることもあるかと思うが、素人の場合はそういうこともない。

ただ、クリエイティビティはそれが発揮できた時だけ有効であり、毎日、クリエイティビティを出せるような業務はまずない。だから、ある意味で有効期限がある。それ以外の期間はだましだましなのだが、その一方で、ある時、組織として新規のことへ対応する必要が生じたときに、私の経験が使えることが突如として出てくることもある。野球でいうと代打要員といったところか。
野球と違うところは、代打の切り札は一つの球団でその地位を築く人がそのほとんどだと思うが(トレードやFAでは取ってもらえるほど、代打の切り札はコスパに合わない)、私の場合は私の経験が活きそうな場所を渡り歩きながらやっていくことの方が、もしかしたらうまくいくのかもしれないと思うこと。ただし、専門性がない分、アピールできる機会は多くないので、一打席で確実に仕留める必要があるとも思っている。これが簡単でないところ。

4月1日、新年度

4月1日、新年度

4月1日は新年度のスタート。

大学新卒で働き始めたのが4月1日だったので、今となっては日本の会社に勤めてはいないけれど、やっぱり4月1日になると働き始めて〇〇周年の節目にはなるし、キリのよいタイミングが好きな私には気持ちを新たにできる大事な日。

何十年も働いてきているのにまだまだ知らないことだらけで毎日勉強の日々だけど、新鮮な気持ちでスタートするぞ。