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カテゴリー: ライフスタイル

外免切替 ー 厳格化後の合格率低下

外免切替 ー 厳格化後の合格率低下

合格率が低下したことを報じるニュース記事を目にした。事故を起こすのは外国人もいれば日本人もいる。飛び込みで受験する人もいるだろうけども、日本人の場合は、基本的に教習所に通ってから免許を取得するケースがほとんどであろうから、一応、ルールを学んだ実績はあるはず。よって、ルールを知っているにも関わらず、それから逸脱する運転をして事故を起こすのだろうと想像する。一方、外国人の場合は、無謀な運転・身勝手な運転に起因する事故と、ルール無知により起きてしまった事故のどちらが多いのだろうか。取得要件や試験レベルを厳しくすることが事故減少につながると思うので、引き続き、そうしてもらいたいというのが私の意見。

私はいくつかの国で仕事をするために居住したことがあるが、国際免許で運転していた国が1例、現地免許保有が2例、現地免許もどきを保有していたのが1例、駐在元の会社から運転を禁じられていた国が1例というところ。国際免許だったのは初めての任地で、基本は、居住国の免許を取るべきだと思っている。万一事故を起こした時の警察側の対応は、国際免許と地元免許では変わるかもしれないし、自動車保険の付保についても、国際免許の場合は不利に扱われるかもしれない。

現地免許2例は、ともに日本の免許との交換により取得した。日本の免許の翻訳を準備したりは必要ながら、基本的には無試験で交換。厳格化する前の日本の外免切替では、通常の免許試験の問題レベルより易しいとはいえ試験があったと聞くが、私の2例(2か国)では試験は求められなかったので、私のケースのほうが罪つくりかもしれない。とはいえ、日本のマナーを考えながらも現地のルールにのっとった運転をしているので事故は起こしたことがない(日本のマナーは、外国では迷惑であったり危険であったりするものがあるので、大丈夫そうなマナーしか使わない)。

ちなみに、コロナ当時にしばらく帰国できないうちに免許が失効したことがあった。免許の有効期限が到来したのはコロナ直後というわけではなかったものの、それでも駐在地からの出国も日本の帰国も両方向で手続きがまだまだ大変だった頃で、やっと帰国できたのは免許が失効してから6か月以上が経過してしまっていた。ただし、やむを得ない理由(私の場合は海外勤務とコロナの出入国制限)があれば、有効期間が過ぎてから6か月を超えて3年以内の場合且つ、やむを得ない理由がやんだ日(私の場合は帰国日)から1か月以内であれば、技能試験と学科試験の免許で免許を取得(更新ではない)できる措置が提供されていて、私はその恩恵にあずかったことがある。

話をもとに戻すと、ルールを知らない外国人の事故を減らすことが厳格化の目的の一つとは理解するが、これにより、外国が日本人に求める外免切替の条件がどうなるかについては気になるところ。代表的な例ではビザ・査証になると思うが、外国人の取扱いは双方向で同じ対処になると理解している。一方がビザを要求するのに、相手方がビザを要求しないということは多分ないと理解している(調べたわけではない)。そうなると、免許に関しても単純切替から試験を経ての交付へと変更するといった公平な扱いになったりするのか気になるところ。免許の場合は「自国民と外国人」という分け方で、日本人のみに適用するルールとかパスポートで分けるような非効率なことをするとは思えないので、すぐにどうこうという問題ではないかと推測する。

ただ、そういうことへの心の準備をしておく必要があるかもしれない。それはそれで大変だが、日本で外国人が関与する交通事故の抑止になるのであれば、それは受け入れるしかないと思っている。

焼肉は肉が旨いのかタレが美味いのか

焼肉は肉が旨いのかタレが美味いのか

焼肉店でおいしそうに焼肉を食べている場面をドラマで観た。私も焼肉は好き。ただ、焼肉に限らず、子どもの頃に外食をした経験がなかったからか、大人になっても外食をしようという発想にならずに今に至る。だから、焼肉も基本的には家で食べるそれなのだけれど、焼肉は、自宅で食べるものと焼肉屋で食べるものには違いがあるように感じている。場の雰囲気の違いというか、焼きながら食べるか、台所で焼いたものを食べるのかの違いなのか。肉じゃがの場合、外食でも内食でも肉じゃがは肉じゃがなのだが、焼肉は外食・内食の違いが大きい食事の代表例の一つだと私は思っている(外で食べる焼肉の特別感がそう思わせているのか?)。

ところで、焼肉は肉が旨いのかタレが美味いのか、という問いを私は持っていて、これが解決していない。ステーキの場合は、肉が旨いという感覚を持ったことが何度かある。厚みがあるからなのか、溶けるような噛み応えがおいしさに変換されたりもするのか。一方、厚みのない焼肉は、肉そのものの味で勝負というわけにはいきづらいのか、タレの味だったり焼肉の香りが味わいを彩る感じ。

しかし、実のところ、タレが美味いとうすうすは感じている。あくまで主観として。お金のない大学生のころは、うなぎのタレだけで白米3合を食べたことは一度ならずあった。あと、ハンバーグを茶碗のなかの白米に一度バウンスさせたあとのタレ付きごはんもうまい。それから、やきとり単体は塩もタレも好きだけれど、ご飯と食べるときには焼き鳥のタレをまとった白米も美味い。

タレは万能、最強かもしれない。ただ、タレが美味ければ肉の状態が不問になるかといえばそうでもない。やはりどちらも大事。

海外で仕事、イチロー選手 励み

海外で仕事、イチロー選手 励み

今、私が仕事をしている国に限れば、何年か前に比べて日本にいるのと同じような生活ができるようになった。YouTubeを見ることもできるし、電子書籍であれば日本の本も不自由なく購入することもできる(電子化されている書籍には限るが)。居住地ならではのこともできるし、日本のような癒し方法もある。違いが少ない世の中になった。

私が初めて海外で働くことになった時には既にインターネットや e-mail は存在していた。しかし、ネットで動画を見るという発想はなく、そもそも、動画がアップされていたかもわからない。だから、日本の動画をみようとすれば、海外放送の会員になってデコーダを購入(貸与)してテレビ受信機でみることになるのだけれど、1つのチャンネルでいくつかの日本のテレビ局の番組を放送するシステムなので番組の選択肢がなかった。どうしても見たい番組がある場合は、賞味期限切れ食品を販売する店に何時間かかけて車でゆき、その店で売っている日本のテレビを録画した VHSビデオを購入することになる。または、TV番組雑誌を購入して、めぼしい番組を日本に住む親族にお願いして録画して国際郵便で送ってもらっていた。

二度目の海外勤務の時代までにはインターネットがかなり進んでいて、ニュースを見ることができた。最初の海外の時は、日本の情報から寸断されていた認識があったので、見たいとも思わなかったけれど、見ることができると見たくなるのが人の心情。当時の私の支えは、イチロー選手の活躍を知ることで、その日の成績によって自分の一日もよくなりそうな気持になった。特にイチロー選手のファンではなかったのだけれど、海外で活躍する選手の動向に私の気分もかなり左右された。今は日本人メジャー・リーガーも増えたから環境が改善されていると想像するけれど、イチロー選手の時代は差別的なことも今より顕著だっただろうし、そんな中で成績を出すイチロー選手の活躍に勇気づけられた。

今は選択肢が増えた分、何かにすがる必要がなくなった。 何かがうまくいかなくても、ほかの何かでよいことがあればいいかと思えるのは、よいことだと思う。

太陽暦でも太陰暦でも正月前はジングルベルか?

太陽暦でも太陰暦でも正月前はジングルベルか?

用事があって久々にショッピング・モールを歩いていた。旧正月前の飾りつけが毎年恒例でスゴイ。

歩いていると馴染みのある音楽が聞こえてきた。あれ、なんだろうこの曲、と思いながらよく耳をすますと、ジングルベルをベースに編曲したものだった。

日本もそうだけれど太陽暦の場所では、クリスマスがくると次は正月という気分の高揚感があるのはたしかだけれど、太陰暦の正月前もクリスマスなのだろうか。まあ、購買意欲を上げる音楽ということでジングルベルなのだろうとは思うけれど。

共通テスト- 特定科目の平均点が低いから得点調整

共通テスト- 特定科目の平均点が低いから得点調整

2026 年の共通テストの得点調整を行わない旨を大学入試センターが発表したという報道を見た。詳しくは調べていないが平均点に差があったようで、それでも調整しないことに怒っている受験生がいるらしい。

私にも経験がある。私の第一志望校に課されたのは5教科5科目だった。その年の理科は、最低平均点の科目と最高平均点のものの乖離が大きかったため、下位2科目に対して得点調整が行われた。私が理科で受験した科目は、この下位2科目でなければ最も平均点が高かった(易しかった?)ものでもなく、手当も特殊事情もなかった科目だった。得点調整で利を得た人が私の第一志望校受験においてどれくらいの人数のライバルになったか判らないが、とても憤慨した記憶がある。当時の文部大臣の名前は今でも覚えているくらい。

結局、第一志望校には合格できたのでことなきを得たが、もしも不合格になっていたりしたら逆恨みしていたかもしれない。そうなっていたら、いま、どこでどんな人生を送っていたのだろうか。怖い怖い。ちゃんと問題作ってほしい。

上手なマッサージの人を探すのは遠い道のり

上手なマッサージの人を探すのは遠い道のり

以前は、定期的にマッサージに通っていた。以前といっても、それはコロナ前の話なので、もうかなり前。たまたま担当してもらった人がとても上手だったので、それからは、その人に担当してもらっていたのだけれど、田舎に帰るとかでその人が退店してしまった。その後もしばらくはそのマッサージ店に行ったのだけれど、これだっと思える人になかなかあたらず、そうこうしているうちにマッサージ自体に足が向かわなくなって今に至っているところ。

パラレル・ワールドでもない限り、マッサージをしてもらう私とマッサージをしてもらっていない現在の私の体調の違いが判らない。たまにマッサージを受けたい気分になることもあるけれど、今、しばらく通っていなくても何とかなっているし、マッサージは担当による当たり外れも小さくなくお金の無駄遣いになることも少なくないので、しばらくはマッサージは休止でいいかなあと思ってる。

高度経済成長の体験

高度経済成長の体験

今の場所に暮らし始めて結構な月日が経った今では、設営関係の買い物をすることがなくなったため、その類の店に用事ができることがほぼなくなった。買い物と言えばスーパーに食材を買いに行くくらい。行きつけのスーパーは何店かあって用途によって場所を変えることはあっても、ほぼほぼルーティン化してしまっている。

そんな中、貯まったマイレージの有効期限が近いことが分かった。通常は、日本の航空会社のマイレージをためているのだけれど、いつの間にか無意識のうちに貯まっていた居住国のナショナル・フラッグの航空会社のものが期限切れすることが分かった。期限が切れる前に分かったのは、虫の知らせということだろうか。ありがとう。今まで、どれだけのマイレージが自動失効していたのだろうか。

今回、マイレージの使い道について初めて調べたところ、店のクーポンに変えることくらいしか私の場合にはつかえなさそうなことが分かった。都会に住んでいればレストラン・クーポンとかが魅力的だったけれど、都会から離れた町にもあるのは物品のチェイン店で、その航空会社のマイレージで使えそうなチェイン店レストランはない。

結果、物品店のクーポンに換え、その店があるモールに久々に行った。

しばらく行かないうちの進化がすばらしかった。驚いたし、よくやったという感想をもった。
日本の高度経済成長は、それこそ何もない状況からの成長だから今の東南アジアの状況とは比較にはならないと思うけれど、なんとなく、町の成長を間近に見ながら生活しているのが何となく喜ばしい感触がある。

お金の使い方 – 日本企業 vs 外国企業

お金の使い方 – 日本企業 vs 外国企業

日本企業と外国企業という分け方は乱暴すぎる。でも、ちょっと単純化してみたいので、乱暴さは許容してほしいところ。

最近、会社の会議室に超大型ディスプレイが導入された。非常に画像が鮮やかで解像度も大きいし、会議室を暗くしなくても画面がよく見える。

もともと会議室には天井据え付けタイプのプロジェクタがあった。今もある。無線も優先も使える。部屋は暗くしないといけないけれど、複数拠点をつなぐTeams会議であれば自分のパソコンを持ち込んでその画面を見ているので、会議室のプロジェクタをずっと見ているわけではないので、特に不具合はない(暗くするのはノートをとる時に少しだけ不具合だけれど、スクリーンに近い照明を消して、自分の手元は暗くする必要はない)。

日本の会社と乱暴な言い方をすれば、日本企業は使えるものがあるうちは、もっときれいなディスプレイがあっても買い替えすることはないだろう。それは、企業のみならず、個人ベースも似たようなものだと思う。もったいない精神に似たようなところだと思う。

再度、乱暴な言い方をすると、外国の会社はお金の使い方がダイナミックというのが私の認識。

どっちが良いとか悪いとかではないが、日本のような感覚だと経済の低成長は仕方ないことなのではないかと思う。失われた30年は、政治家や官僚だけに非があっただけではなくて、日本人の精神として避けられなかったことなんじゃなかと思う。製品寿命を長くし、そうすると新しいテクノロジーを試す機会を逃すことにもなり、買い替えもできないから企業も商売で潤わず、サラリーマン社長は内部留保に必死になる。そんなことではないかと私は思う。良い悪いではなく、単純な「違い」。

30年はあまりにも長かったけれど、いつか、外国が大変なのに日本が潤うような時が来ないとも限らない。全世界でハッピーなのが一番よいのは間違いないが、特殊な日本だけが世界と同調せずに潤う時代が来るかもしれない。日本人の良さも悪さも抱えながら、状況が上向くようにもがきたい。

水平線からの日の出

水平線からの日の出

また大雑把な括りをしてしまえば、日本人には区切り好きが多いと私は思っている。そうでなければ、元日を祝ったり新年に誓いを立てたりもしないだろう。そういうと、元日(太陽暦・太陰暦関わらず)を祝うのは何も日本だけではないだろうと反論を受けそうだけれど、4月1日、10月1日などに上司から組織への一斉メールが届くのは日本だけだと思う。

私は区切りがとても好き。区切りの印となるものも好きで、そのことから日の出も好き。

日本にいたときは、住んでいた場所の東側の住宅街からの日の出が見えた。初日の出に限らず、日の出の時間帯に家にいる場合には見た。特に、まだ暗いうちの紫色にかわりつつあるところからオレンジになって、その後に太陽が出てくるところまでの一連の変化を見るのが特に好きだった。

東南アジアにきてから、水平線が東側にある場所にいく機会が出来た。そうなってから、初日の出に限らず海からの日の出を何度かトライした。住宅街から登る太陽もいいのだけれど、やはり水平線や地平線(これはかなり難易度が高そう)は美しいだろう。しかし、水平線には雲があることが多いようで、水平線からの日の出を何年たっても見ることができなかった。

ところがだ。旅行先で初めて海から登る太陽を見ることができた。期せずして、という状況だったのでその分感動が少し減ってしまったのが残念というか人間ってわがままだなあと思った。それはさておき、初めての日の出はうれしかった。

痛みはやる気をなくさせる

痛みはやる気をなくさせる

少し前に、体のどこかが絶えず調子悪いと書いた。希望的観測も多少は入るが、おそらく、年齢からくるものが直接的な原因ではなく、ちょっとした注意不足とか寝不足に起因する出来事とかだと思う。その証拠に、何かで傷めたりするけれど、時間がたてばそれは治るからだ。年齢からくるものだと、一度傷めたものはずっとくすぶり続けたり、一か所がコンスタントに痛むという表れ方をするだろうけども、私の場合は、絶え間ないのだけれど短期的にどこか痛い場所を変えながら続いている。だから、年齢からくるものではないと思っている。

とはいえ、痛みはやる気をなくさせるのに十分だ。寝ていていも痛いものもあれば、何か特定のことが痛みを感じさせるものもあるのだけれど、痛いと何もやる気がおきない。寒いとか暑いとか、空腹だとか眠気とか、それらに比べると痛みはやる気を奪うのに長けているし、解決すると思って取る策が必ずしも有効であるとは限らないが多い。

痛みに弱いという認識を私は持っている。いろいろと耐えられる方の人間だとは思っているけれど、まわりの人と比較して、痛みには弱いのではないかと疑っている。だから痛いのは勘弁してもらいたい。これから病気になることもあるかもしれないが、ぜひ、痛い病気は勘弁してほしい。もしも痛む病気になってしまったら、痛みを取ることを優先して欲しいと思っているが、いざ、そういう状況になるまでは確定依頼はできない。

ドイツ:年間のビール販売量が最低を記録 2025年

ドイツ:年間のビール販売量が最低を記録 2025年

いくつかのメディアで記事を見た。2025年のビール販売数量が最低を記録したらしい。

20年くらい前の私の古い記憶では、販売量は知らないけれど、国民一人あたりの消費量をチェコと首位を争っていたのがドイツ。消費量には旅行者が飲んでいた量も含んでいただろうから、本当の国民一人あたりの量はわかないけれど、「ドイツと言えばビール」は私以外の人も認めることだと思う(「ドイツと言えばポルシェ」、「ドイツと言えばアウディ」、「ドイツと言えばメルセデス」、「ドイツと言えばフランケンワイン」、「ドイツと言えばモンブランのペン」、「ドイツと言えば、アディダス/プーマ(兄弟)」などなどいっぱいあると思うけれど)。

記事にあった販売数量と私が調べた人口(および勝手に想像した飲酒可能人口)から計算すると、一人当たり100リットルくらいになりそう。旅行者を入れるとさらに減る。前段のチェコとドイツが一人あたり消費量を争っていた時は、たしか 160リットル/人 くらいだったと思う(20年くらいまえの記憶)。

健康志向だったり、酒を飲まないムスリム系国民だったりの影響もあるのかもしれないけれど、結構、驚愕のデータ。ビール・メーカーも大変だろうと思う。ビール物価高もあるかもしれない。

もう、前のような世界は帰ってこないのだろうか。

特定の国の人々に人気の旅行先 – 行ってびっくり

特定の国の人々に人気の旅行先 – 行ってびっくり

海外旅行にいくと、団体旅行ではないのに特定の言語ばかりが聞こえてくる旅行先に出くわすことが少なくない。例えば、ドイツ語ばかり聞こえるスペインの島。何十年か遡ると、もしかしたらハワイやグアムは日本語ばかり聞こえるアメリカの島と外国人から認識されていたかもしれない。

そうなる前の時点では、地理的に近いとか航空便が多いとかの理由があったのかもしれないが、一旦、その観光地が特定の国からの旅行者にとって便利となったり知られたりすると、一気にその国の旅行者が増えることになったのだろうと思う。

少し前に旅行でいった場所ではよくロシア語を聞いた。その場所は、ロシアからくるには遠いし、今はロシアから出国ってできるの?って思った。ロシア国外にいるロシア人が多いのだろうとは想像するけれど、在外ロシア人が一箇所で密度が高くなるのも不思議。同時にたくさんの人がいるのはツアーであれば判る。だから、ロシアからのツアー客であればありえなくもないけれど、在外ロシア人がどこかの国からたまたまロシア人だらけのツアーが開催されるのもありえなそうだし、リゾートっぽいところへのツアーというのも聞いたことがない(聞いたことがないだけであるのかもしれないけれど)。

判らないけれど、まあいっか。

TV スクランブル - 懐かしのテレビ番組

TV スクランブル - 懐かしのテレビ番組

久米宏さんが亡くなられたニュースが少し前に流れていた。

ニュース・ステーションが報道番組を変えた、というような報じられ方が多かったように思う。あくまでも、海外にいて情報ソースが少ない私が触れることができた範囲では。

私にとっての久米さんは、ぴったしカンカンとザ・ベストテン、TVスクランブルだ。ニュース・ステーションが始まったころにはわたしは多分高校生にはなっていて、部活で学校を出るのが遅い上に長距離・長時間通学で帰宅も遅いためにニュース・ステーションに限らずテレビ番組を全くみていなかったし、その流れで大学生の時もテレビを観ない人だった。だから、私がまだ小さかった頃の久米さんが私の久米さん。

最初に挙げた3つの番組のなかで、私のダントツはTVスクランブル。番組最後の日本の海岸線の空撮や動物の赤ちゃんコーナー(のあとの横山やすしさんとの対比)、「兆しコーナー」、「この道はどこへ行く道」などのコーナーを興味深く見聞きしていたのをよく覚えている。あと、もしかしたら記憶違いかもしれないけれど、日曜夜8時の日本テレビのこの枠はノエビア化粧品のCM(後番組の元気が出るテレビだったかもしれない)のことがとても好きだった。私は、中学1年の三学期が始まる頃から洋楽を聞き始めていたのだけれど、ノエビアのCMで流れる女性パイロットの飛行映像をバックに流れる洋楽の選曲がとても好きだった。

なぜに横山やすしさんなのかが判らなかったが、横山さんだからよかったのではないかとも思っている。強烈な印象が記憶を強くしている。当時、この番組が終わると私の寝る時刻だった(ザ・ベストテンも観ていたのみあまり強い記憶がないのは、放送時間が遅くて毎週は観ていなかったからかもしれない)。

ひどくはないけど、たえず何処かが痛んでる

ひどくはないけど、たえず何処かが痛んでる

あまり表明したくないのだけれど、いつもどこかが痛んでる。調子がよい時があまりない。

こんなことを書くと、年齢とかなんだとかという話の展開になりそうだけれど、全てが一過性の不具合なので、年齢による衰えではないというように前向きに言うこともできそうだ。腰が痛いとか、朝起きたときに指を伸ばせるようになるまでしばらく時間が掛かるとか、一見、衰えのような症状なのだけれど、それが長くは続かない。でも、いつも、どこかが代わる代わる痛い。

悲観的になる必要がないというのか、いざとなったらすべてが同時に痛くなるリスクがあるというべきなのか。

事務所が寒い

事務所が寒い

東南アジアがそうだと理解してはいるものの、我慢できないほどに寒い時がある。
日本にいる時は私は暑がりだった。就職して初めてクーラーに出会った私としては、冷房は非常にありがたいデバイスであり、電気代を気にしなくてよいくらいの大富豪であれば、24時間つけっぱなしにしておきたいくらいだった。

東南アジアにきてから、クーラーが苦痛に感じる場面が結構ある。なぜなのか。

今まで気付かなかったけれど、ローカルの同僚も様々な出身国からの同僚も、汗をかかない人が多いようだ。だから、体温調整が苦手で熱が体にこもるのでガンガン冷房をたいているのかなあというように思うようになった。

それが正解かどうかは判らないけれど、そう思うようになってから、彼・彼女たちの気持ちを判ってあげられそうになった。

休暇を境に好みや欲求が変わった?

休暇を境に好みや欲求が変わった?

仕事中と寝ている時以外は動画を流していることが多かった。もちろん、通勤時の車の中で画面を見ることはないが、それでもニュースなどの動画を流してラジオのように音声を聞いている。また、自宅にいる時は、起きている限り何か動画を流していることが多い。

ニュースや時事系トーク番組、音楽ビデオやドラマ、バラエティ、勉強系などいろいろなジャンルを見るし、時折、全く興味のない分野のものであってもリストに出てくる映像をクリックすることもある。そういう意味では、私は偏りの少ない方ではないかと自分では思っている(アルゴリズムによるリストっぽくない、それまでに見た映像と何の脈絡もないものがリストの中にあるものでも)。

日々、動画にあふれているそんな私なのだけれど、ここ数か月間は、サムネイルを見ていても面白そうに感じる動画があまりない。どうしてだろう。もともと、動画を真剣に見ているわけではなく、何かやる時にながら掛けというか BGM の代わりという感じではあったのだけれど、なぜだろう。思い浮かぶのは、昨年の後半に取得した休暇後に動画に対する欲求が減った感じ。これも、休暇でイライラが解消した効果なのだろうか。あるいは、逆に、好奇心とか興味が減ってしまったあまりよろしくない状況なのだろうか。

今だけのことかもしれないけれど、見たい欲求がなければその気持ちに従おうと思う。静かな自宅もまた良いかもしれない。ちょっと試してみたいけれど、物事に関心を失くしてしまったのでないと良いのだけど。

学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校を休んでディズニーランドや家族で行楽に出かけることの是非みたいなことがネット・ニュースになる時代だから、もう学校の皆勤賞の価値を見出さない時代になっていることだろうと思う。しかし、私が小学生だった昭和の時代は、皆勤賞という言葉がそんなに低くない頻度で使われていた。では、私自身はどうだったかと言えば、体力に自信のある小学生だったわりに、学年を通じて皆勤賞で過ごせたのは一度だけだったんじゃないのかなあ。

何かのネット・ニュースを読んでいて、学生時代に皆勤賞という概念を持ってしまうことで、有給休暇を消化できない日本人サラリーマンを生む結果になっているようなことを書いている人がいた。その人以外にも同じようなことをネット上に書いている人が結構いて、たしかにそうかもしれないなあと感じた。

そういう意味で、学校休んでディズニーランドに行くことにポジティブな側面があるなと思った。休みは休みとして取得することに後ろめたさを感じさせない人が増えるのはよいこと。休みにお金を遣えば経済も循環するだろう。休んでリフレッシュもできるし、趣味に時間を使うこともできる。あとは休みを取るタイミングを考慮できればもっとよい話。どうしても突発的な出来事は避けられないので、確実に休める日が事前に分かるはずはないのだけれど、ちょっとそれだけはなんとかなったでしょ、という話を聞くこともある。判っている季節要因と同僚・周囲との調整のこと。あー、でも、こんなことを思ってしまうことすらいけない時代になってきたのだろう。

便利さの裏で楽しみが一つ減っていた

便利さの裏で楽しみが一つ減っていた

今いる町にずっと住み続けていたわけではないのだけど、最初にここに住み始めてから10年くらいが経つ。住み始めて当初のころは、地元のスーパーで買える日本調味料はあまりなく、食材も少なかった。だから、大きな街へ片道3時間くらいかけて買い出しにいっていた。それでも、また別の国で最初に働き始めた 30年くらい前に比べれば地元で買えるものはある程度あった(その 30年前の生活では、都会にいっても賞味期限切れ食品くらいしか買えなかった)。

当時は、それが楽しくてしかたなかった。同時に、いろいろなものを買うことができるこんな街に住めたらいいなあと残念に思うばかりだった。

その後、新しいショッピングモールに大きなスーパーが入って、日本食材コーナーが充実してきた。棚の幅5メートルを超える品揃えにまでなった。地元で買えないものはまだまだたくさんあるけれど、それでも都会に行く頻度は減り、一回あたりに買い出しをする量も減った。片道3時間とは言え、道中に交通事故にあうリスクも減ったし、疲労も時間も節約できてよいことばかり。

そうなんだけれど、街に出かけるワクワク感が減ってしまった気分でもある。
便利になった分、何かを失った感じ。
生活しやすくなることは良い事。進化の証。それを止めて不便な暮らしを続けてまでもワクワク感を優先させるのは世の流れに反するのだけれど、それでも何か寂しい感じ。

だから別のワクワクすることが見つかるといいなあと思う。

先を走るより追い抜かす方が易しい

先を走るより追い抜かす方が易しい

仕事での話。

先輩が築いてきた売買取引を更に大きくしたり広げたりするのを私はうまくできないようで、新しい仕事が私に割り当てられることが多かった。例えば、既存の売買取引に付加価値をつけようとして、事業投資を検討する時にメンバーに呼ばれたりするようなこと。

私は「気にしぃ」なので、前任者が存在する仕事をやる時は、たえず前任者のやり方や成果を気にしてしまう。しかし、新規の事業投資案件のようにゼロから始められる仕事に対して、私は邪念を捨てて非常に前向きに取り組むことができる。ほかの社員よりは、その分野の知識が多少先行していたこともあるので、自分のやり方で進めることができるのも前向きになれる要因。

ただ、知識や経験が先行していたのも昔の話。今はノウハウ的なものなど実地でなくても事前に学べる環境があるので、効率よく最新の情報に触れる機会があるため、あっという間に抜かされる。私には経験がある、ということが常に私に気持ちの中にあるのだけれど、それは第三者からの目には見えないし、実際のケースがあって初めて引き出しの中から色々と出せるもの。携帯電話が進化してきて今スマホを使っている日本人の私を、以前は携帯がなかった国の人がいきなり最新機種を使って私を一気に抜き去っていくのと同じような感じ。最新のものを労せず手に入れることができる効率の良さが一気抜きを可能にしている。

逆手にとって私が一気抜きできる分野もあるはず。実際のところ、一気抜きまでは考えていないけれど、周囲の人のレベルに並ぶ・追いつくくらいのことはしたいと思う事柄もある。果たして、一夜漬けがどれだけ私の中に浸透するか判らないけれど、現代では判らなければ都度調べるということでもいいのなかあと思ったりもする。調べたものを記録して、それを効率よく引き出すことができるデバイスもある。

と、前向きなことを書いてみたけど、やっぱり経験値は貴重なものだと思うのだけれど。
それが時代遅れなのかな。
結果でも見るし、プロセスでも見たいし。両立したほうがよいものができると思っている。

運が良い日はかえって心配、貧乏性な私

運が良い日はかえって心配、貧乏性な私

渋滞がなければ車で 30 分の通勤路に信号機が6機ある。そのうち3機は押しボタン式に近いので、運の良いことが残りの信号で3回続くとノンスップで出社可能。これは往路のケース。復路は信号が3つで、押しボタン式が一つ。

私が住む町のスーパーでは、目的の商品の品切れが起こると数週間にわたってその状況が解消されないことがまま起こる。何かがないことが多いのだけど、その日に買おうと思ったもの全てが揃うことが極まれにある。

これらは運の良い日の例なのだけど、そんな日は少し心配になる。そのあとに、何か良くないことが起こるかも、と。

貧乏性の意味とは違うけれど、貧乏性という側面があると運が良いことが少し心配になることがある。