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Category: ライフスタイル

オレンジジュースは胸焼けするのに…

オレンジジュースは胸焼けするのに…

年に一度の検診で上部内視鏡をしてもらうようになってからの3年間は、毎年、逆流性食道炎と食道裂孔ヘルニアとの結果。それより以前では、検診結果で心配になったことで、検診とは別に個人で申し込んで上部内視鏡を10年くらい前に一度だけ受けた。たしか、その時も食道裂孔ヘルニアとの診断だったので、少ないサンプル数ながら打率は10割と言える。

オレンジ・ジュースを飲むと胸やけがする。以前から、出張時の楽しみの一つは宿泊先の朝食なのだけど、今日こそは思いつつも毎回、オレンジ・ジュースで胸やけする。酸味の影響なのだろう。だけど、オレンジを食べても胸やけしない。これはなぜか。絞ってあると濃縮されているのか。ネット検索を少ししてみたけれど、回答らしいものに出会えない。ちょっとしか検索してないけれど。なぜだろう。

週末には空腹感をあまり感じない

週末には空腹感をあまり感じない

脳みそもカロリーを使うのだろうか。運動でカロリーを消費するのはイメージがわく。物理的な動作が伴うので、動けばカロリーを消費するだろう。しかし、動きのない脳みそがカロリーを使うことはイマージしずらい。

ところが、脳みそが何かを燃やして活動している感覚はある。平日はじっとしているのにまず間違いなく空腹を覚えるのに、週末は動いてもじっとしていても、空腹感のないことがあるから(本当のところ、私の場合は、体を動かす程度が高くなると顎が疲れて空腹感がなくなる傾向があるので、動く・動かないという観点では、動かない方が空腹を感じることがある)。就職してすぐの頃は、土曜日は朝から何も食べずに日曜を迎えることも度々あった。その間、寝ていただけとかではなくて、普通に活動しながら、決して我慢していたわけではないけれど、何も食べずに 36 時間以上過ごすことがあった。だけど、平日に無意識のまま食事を抜くことはまずありえない感覚があったし、忙しくて時間がなくても何かを買ってくるとかして空腹を紛らわしていた。

実際のところ、カロリーを使うことと空腹を感じることが直結するのかはわからない。脳がカロリーを必要としているとしても、決して痩せてはいない私なので使っているカロリーは大きくない筈。そうであれば、空腹を感じるまでの消費量でもないはずなので、感覚と人体は一致していないと思う。あるとすれば、脳を使うと血糖値が下がって、それが脳(だけではないけれど)には危険な状態になりうるから空腹感を生じさせて注意信号を発する、とかなのかなあ。専門家ではないので、メカニズムは判らないけれど。

定年退職したら、空腹感から毎日、解放されるのかなあ。そうすると、体重コントロールしやすくなるのかなあ、などと思いながら今日は何を料理するか考える。

有線デバイス信仰

有線デバイス信仰

パソコンをネット環境に接続するために wifi を使うことを除けば、マウスの Bluetooth 接続以外は私には有線接続信仰がある。職場でネット会議につかうヘッドセット、私用で音楽を聴く時に使うノイズキャンセリング・イヤホン、車中でスマホから音楽等を聴く場合の車体とデバイスの接続、それとスマホの充電が、とりあえず思いつく。

ワイヤレスには時差があるとか、有線での電力供給がないので充電切れの心配がある、掛かってきた音声通信にとっさに対応できないことがあるかもしれないといった私の勝手なイメージ先行な部分だったり、食わず嫌いな背景が有線接続信仰につながっていた。

ところが、最近になって考えが変わった。これまでは、動画や音楽、ニュース配信を自宅で見聞きしているときに、例えばトイレに行くにもデバイスを持っていっていたのだが、無線ヘッドフォンがあればデバイスを持っていく必要がないと気付いた。このトイレの例をとると、スマホを手放せない依存症のような面が心配になることはそうなのだけれど、いちいちニュース番組を一時停止するのも面倒だし、トイレとニュース番組は両立できる行動なので時短にもつながるのでできれば聞いていたい(ニュース番組の動画を見ているときは、実際は聞いているだけで画面は観ていないことが多いので)。それと、もっと効果的だと気付いたのは、家で掃除している時など、掃除機を使っている間にヘッドフォンを使うこともためしたが、ポケットにデバイスを入れながら掃除をするとデバイスが意図しない作動をするし、画面を消すと音楽や動画も消えてしまうのだが、Bluetooth 接続にしてデバイスをテーブル等に置いておけば、掃除中もニュースを聞いていることができる。そういった利便性を感じることができる場面が一週間に何時間あるんだ、という疑問がないことはないが、中断する必要がないことには価値があると私は思う。最近の私は、中断するとそのまま忘れてしまうことがあるから。

と、いうことで、自宅用に Bluetooth ヘッドフォンを買ってみようと思う。音を出すことができる自宅でヘッドフォンを使う、というのが意味不明ではあるが、骨伝導タイプのいかにもヘッドフォン、イヤフォンをしていますといった見た目でない Bluetooth イヤフォンであれば、もしかしたら会社で仕事しながら音楽を聴いたりすることもできそうという不純な動機もある。職場の Teams や Zoom 用には掛かってきた通話に直ぐにトラブルなく対応できるようには、有線ヘッドセットを継続使用するつもりだけれど、これまでの先入観を変えるキャンペーンを絶賛実行中の私は、無線デバイスもまた、このキャンペーンの対象にしようと思う。

タイヤ交換 – Michelin はミチェリン

タイヤ交換 – Michelin はミチェリン

先週までのタイヤは 2023年初めから履いているもので、55千kmくらい走ったところ。前輪タイヤにスリップサインが見えそうになってきているのに加えて、多分、道路上の金属製の落とし物を拾ってしまったのだと思うけれど、後輪の片側だけ空気が抜けるようになったこともあって、タイヤ交換をした。

タイヤに特化したガラージは、スーパーに買い物にいく10分ほどの間だけでも10件近く目に入るくらい沢山あって自分で全部みて決めるのは難しそうなため、同じ会社の地元の人にお薦め店があるか聞いてみることにしてみた。

その人の知り合いがやっているという店を紹介されて、とりあえず見積りをとってくれることになった。私の車のタイヤ・サイズは少し特殊で、Michelin と Dunlop の 2ブランドしか見積りは出てこなかった(タイヤは命を守ってくれるものなので、激安メーカーは候補から外すことをあらかじめ伝えていた)。その見積は、店の人から同僚に届いた Whatsapp を私に転送してもらったのだけれど、判らないこともあったので直接その人のところにいって話を聞くことにした。

話をしていると、ミチェリンという単語を何度か聞いた。Whatsapp で文字として Michelin を先に見ていたので、ミチェリンが Michelin で指すことはすぐに理解した。私が今いる東南アジアの国の言葉のルールを適用させるとミチェリンになるものだと、深くは考えずに一旦受け取った。だけど、少し気になったのでネットで Michelin の発音を調べてみようと思った。

まずは、フランス語。やはり原語の確認から。私はあまり耳のセンスがよくない自覚があるので細かなニュアンスを表現できないけれど、ほぼほぼ「ミシュラン」。ああ、よかった。ミシュランが正解だと思い過ごしていたらどうしようと少し恐れる自分がいたので。次は、ロマンス語よしみでスペイン語。ミチェリンだ。「リン」にアクセントのあるミチェリン。ではイタリア語はどうだ。ミシュランだ。仏・西・伊は同じ源流だと思っていたが発音ルールは異なるようだ。ピレネーの壁は高い。次は、英語。米語はミシュラン、英語はミチェリン。ドーバーの向こうがミチェリンで、それより広い大西洋の向こう側がミシュランだ。

発音にルールはあるのか。奥が深い。

ボージョレー・ヌーボーの販売から撤退

ボージョレー・ヌーボーの販売から撤退

メルシャンが、販売から撤退することを報道で知った。それとともに、メルシャンがキリンホールディング傘下なことも、その報道で知った。キリンといえば、何十年か前にニュージーランドのライオン・レッドを買収した。キリンがライオンを買ったのだ。

動物シリーズは横におき、ネット・ニュースによれば、昨年にはアサヒビールがすでにボージョレー・ヌーボーから撤退し、サントリーも休止していたそうな。私はボージョレー・ヌーボーを飲んだことはないが、その年の最初のものを楽しむイベントは別にあってもよいだろうとは思っている。以前にあまりにも騒ぎすぎた反動で、最近になって下火になったイメージがより鮮明になってしまっての撤退だと思う。流行るものはいつか廃れる。日付変更線のおかげもあって世界でも早くにボージョレー・ヌーボーが解禁になる日本は、2000年にはそのおかげで世界で早めに Y2K チップ問題が顕在化するとかも言われたり、その翌年には割と早くに 21世紀を迎えるとかで喜んでいた(確か、太平洋にある島国で、世界で最初に 21世紀を迎えるために 2001年だけ夏時間か何かで時間を調整とかあったような記憶)。

世界で最初、についても横におき、その年の最初には喜びもあるし、ボージョレー・ヌーボーとは違って、実際においしいものもある。代表的なものは、フェダーバイサーだろう。これは美味しい。毎年興奮する。本当に待ち遠しい。これぞ、一番搾りという感じ。瓶に栓をすることができないので(ラップと輪ゴムを栓と言わなければ)、早くに飲まないといけないし、早くに飲んでしまう。
あと、シュパーゲルも、その年の最初は特に美味しい。多分、その年の2回目も3回目も同じように味としては美味しいとは思うけれど、感覚的にはやはり最初が一番美味しい(5月、6月に出されるものは、実際に味が落ちてると思う)。
シュパーゲルは、解禁日は特に決まっていなかったと思うが、最後の日は決まっていたと思う。4月上旬になると、いつからメニューに載るのかワクワクする。最初のものは、早ければどのレストランでもよいわけではなく、好みのレストランで最初に出してくれる日がいつになるのかが重要な情報。終了日が気になって調べたところ、ネット情報によると聖ヨセフの日(6月24日)のもよう。なんでも、この日は初霜の100日前ということで、この時期から畑を休ませる必要があるとの説明を読んだ。収穫されるまでずっと土の中で過ごすホワイト・アスパラ。ついでに聖ヨセフが気になって調べたところ、英語では John とのことだった。フランス人の知り合いで Jean がいるが、彼もヨセフ。チェコ人の Jan もヨセフ。ドイツ人の Johannes は、割とわかりやすいが、本当にアメリカ人は外国のものを全て変えてしまうと再確認(ミュンヘン vs ミューニック、ウィーン vs ヴィエナ等)。

ちょっと話がちらかってしまったが、元の話題に戻るとすれば、キリの良さ(新年とか初日とか)が好きな日本人には、ボージョレー・ヌーボーはイベントとして継続する売主がいてもいいような気がする。

街中での募金に躊躇する私

街中での募金に躊躇する私

私は冷たい人なのか?

街中での募金に躊躇してしまう。どうしてもうさん臭く思ってしまう。募金をしている団体を自分で調べて、正規な団体かどうか調べる方法もあるかもしれないが、そこまでせずに募金もしない私は冷たい人間なのか自問自答する時がある。仮にその団体を調べたとしても、出てきた結果が事実かどうかきっと悩むことだろう。

疑い深い自分が嫌になるときと、それはそれでよかったと思う時がある。適度が一番よいのは明らかだけど、こうなってしまった自分を受け入れる以外にはないので、それはそれで認めている。

だけど、募金を疑い深いことと認識させた人々は罪深い。

黒猫が目の前を横切った

黒猫が目の前を横切った

朝の通勤時に、自宅を出てすぐのところで黒猫が進行方向の車の前を横切った。
ちょうど、悪い話を報告しなければならない予定があった日だったので、何か不吉なことでもあるのかと憂鬱な気分で出勤した(黒猫に出会ったこともあったので運転には注意して出勤)。

あまりネガティブな気持ちでいるのもどうかと思い、なぜ前を横切る黒猫が不吉なのか調べてみようと考えた。曲解できそうな理由であれば、不吉であることを忘れる口実にしようと思った。逆に出る、つまり、逃げようのない確定的な理由があったら気分撃沈になるかも、とはなぜか考えなかった。

ネットで調べたところ、日本では幸運の前兆という受け取り方だというのを見つけた。いままで何十年も生きてきて、私が知っていたのは黒猫が前を横切るのは不吉なサイン、ということだけだったことを知った。つまり、自分では調べたことがなくて、テレビかラジオか書籍なのか判らないけれど、不吉だという海外での受け取り方を誰かに吹き込まれて、それのみを知ったまま今に至ったということだ。

とりあえず、悪い報告を前に少し気が晴れた。それと同時に、自分で確認するのも必要だなあと再認識した。どうでもよいことであれば自分で調べる必要がないかもしれないし、誰がそれを言っているのかによってもあらためて調べてみるというアクションは不要だとは思う。だから、多分、何の疑いもなく不吉だと思ったのだと思う。推測するところ、海外の生活様式やしきたりなどに興味があって、いろいろ調べていた大学生時代にこの認識が刷り込まれたのだろうと思う。それ以来、調べたことがなかったということだろう。

今後は黒猫が横切っても、自分の向きをかえて後ろ歩きをしながら前を横切っていない、という強弁をする必要もなくなったので、コケてケガするリスクが低減したことになる。めでたし、めでたし。

オールブランは何処へ行った?

オールブランは何処へ行った?

ケロッグ・オールブランが店から消えて結構な時間が経つ。

地元のスーパーから消えてから1年くらいが経つだろうか。私が毎週通うスーパーは、ある時は大量に同じ製品が陳列棚にある一方で、在庫がない時期はしばらく棚で目にすることがないことが続く。仕入れの問題なのか納入の問題なのか判らないが、要は安定していない。オールブランもそのうち入荷するだろうと期待しながらの1年である。定期的に買い出しに行く大きな町でも全く見かけない。たまに、いつもと違う系列のスーパーに行くこともあるのだけれど、そこでもない。多分、オールブランが私の住む国から消えてしまったのだろうと疑っている。

しかし理由が判らない。ケロッグ製品はある。オールブランだけがない(ほかの商品は探していないので、本当にオールブランだけないのか実際は不明)。これが余計に謎を深めている。味のないオールブランは本当は好みとは違うのだけど、ほかのシリアルとプレーンヨーグルトにはちみつを掛けて食べる時にトッピングとしてオールブランを振りかけるのが好きだったのに。

天下一品

天下一品

ここ数週の間、天下一品の大量閉店に関するニュースを何度か見た。学生時代にお世話になったラーメン店といえば、神座、横綱、金龍、王将、そしてこの天下一品だった。店舗数の多い天下一品と王将は学生寮から気軽に行く感じで、横綱・金龍・神座は、だいたい道が空いてる夜中にいくのが相場だった。

一緒に行っていた人たちの中では、金龍派と神座派みたいな感じで好みが分かれていたけれど、結局、みんなとどっちにも行った(ミナミに行って行列具合を見てからどっちに行くか選ぶことが多かった)。ただ、神座に関しては、木の長椅子に座って食べる店に行っていた記憶があるのだけど、ネットで店舗を検索するとどれも四角い壁と天井のある店舗しかないようで、現在の何店なのか判らない。

横綱は、ネットの店舗情報を今見ると、当時に住んでいた場所にもっと近い店舗があるようだが、京都の本店に行っていた。大阪の店は新しいのだろうか。たしか、近くにボーリング場があって夜空に向かってレーザーが光っていて、それが近づくともうじき店という感じだったのを覚えている。もう廃止なのだろうけれど、私の中では、横綱=ご飯お代わり自由、横綱=夜中のドライブ、のイメージ。お代わり自由は、学生にはとても有難かった。

天下一品のニュースをみたら、ラーメンの記憶がいろいろと蘇った。

赤ちゃん・ワンちゃん動画

赤ちゃん・ワンちゃん動画

赤ちゃんを見守るワンちゃんの動画は、好きな動画ジャンルの一つ。たまたま開いたネットニュースのページなどにその手の記事を見つければ、その後、いくつか立て続けに観たりする。

いつも思うのは、数多くのほっこり動画の裏に、突然に犬が噛んだりする事案がないものかと心配だということ。多分ないのだろうと思うけれど(ないと願うけれど)、そうなると、どうしてそうなのだろう。ワンちゃんと共通するある匂いを人間の赤ちゃんも発していて、ワンちゃんは見守る対象として認識するのか、家族が大事にする赤ちゃんであることをワンちゃんも理解するのか。でも、後者だとすると、だからこそ逆に嫉妬心から攻撃的になることがないか心配になる。

もし必ずしもほっこり事案だけでないとしたら、よくない事案を誘発するこの手の動画の影響力を心配するけれど、こういった動画は作ろうとしてそうしているのではなくて、日常生活での一コマを撮影しているだけだろうから、多分、そうでないタイプのワンちゃんの場合は距離感のある生活をしているのだろうと想像する。

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

何日か前に Nintendo Switch 2 の転売対策を伝えるニュースがネットに流れていた。私はゲームをしないし、ゲームに限らず転売という行為で売りも買いもしないので、このニュースは私にとっては社会問題とその対応をする企業、という第三者的な立場として読んだ。

ニュースをみたときはそれだけだったのだけれど、店頭販売の追加発表があったとか、実際に在庫をみたとか続報があり、人気のあるゲームであることを理解した。ゲームをするのが子どもであるとは限らないので、私の子どもの頃と比べることはできないし、また、私の子ども時代はうん十年も前のことだから時代的な比較もできない。とはいえ、ゲームってこんなに話題になるんだ、という感想を持った。小学生のとき、雨の日だけはゲームを学校にもってきてよいという「雨の日ルール」というのがあった。そんなときに友達がもってきたゲーム(2画面折り畳みが出始めた頃のゲームウォッチやパックマンなど)を借りてやるくらいがこれまでの私のゲーム人生(今後、ゲーマー・デビュするかもしれないので、「これまで」としておく)だったので、ゲームに対する感覚の世間とのズレを感じた。

これはゲームに限った話ではなくて、ほかの話題であっても報道やネットニュースで自分のズレを知ることが定期的にある。報道を含めた発信情報は、見てもらうことが目的であって、正しいことを報じることは目的でないことは判るので、そこと私がズレていることにはいちいち気にしていないのだが、モノによっては、「あー違うな、そうなんだ」と思うこともある。そのズレから生じる感情は、自分の中だけで処理できることもおおいのだが、人付き合いのなかでも感じることがある。そういうときに、ひとによってはとてつもない同調圧力を感じることがある。ちょっと主旨は違うけれど、ダイバーシティでよいじゃないか。

仕事の場において他者と共通の記憶・経験

仕事の場において他者と共通の記憶・経験

転職を考えた理由のひとつが、他社と共有できる経験がないことだった。異動や他者の転職などで共有できる人が減ってきたわけではなくて、転職を実行に移す前の15年近くはこの感覚をもちながら仕事をしていた。転職を考えるようになってからも、実行する・しないをあっちいったりこっち来たりしていたのだけれど、共有できる経験や共通の記憶、思い入れがある仕事を分かち合えないことが、最終的に転職を決断する背中を押したような気がする。

会社の規模(社員数)も様々なうえ、入社から一貫して同じ分野の仕事をすることが多い会社もあれば、定期的な転勤・異動が当たり前な会社もあるので、他社と共有できないのが当たり前な感覚を持っている人もいるかと思う。しかし、共有する対象は、必ずしも業務や案件のような具体的事項である必要はなく、例えば、仕事の仕方や携わっている業界の考え方などもっとざっくりした価値観のような場合、人数が多かったり人の出入りがあったとしても、割と他社と共有できる何かがあると私は思っている。実際、入社してから何年かは、そのような阿吽というかツーと言えばカーというか、共有できるものをもって仕事をしていた記憶がある。業界や仕事あるあるもその類。

共有感の有無によって仕事の成果が変わってはいけないし、仕事はドライにやる時代でもある。共有感を押しつけと感じる人もいるだろう。適応していかないといけないな。

かえるの鳴き声、虫の音

かえるの鳴き声、虫の音

外国に住んでいると、日本で聞こえる音とは違うと感じることがある。日本の中であっても、都会に住むか田舎か、地面に接している戸建てなのか集合住宅なのかで違いがあるけれど、国が違うと根本的な違いがあるように感じる。

今住んでいる国は、音があまりないイメージがあった。住む物件は変わっているけれど、今の町での数年の居住歴をふまえてのイメージ。ところが、先週あたりに日本で聞き覚えのある音に気が付くようになった。田んぼ近くでよくきくカエルの鳴き声だ。季節要因はあるかもしれないけれど、今の物件に住んでから暦が一周しているので、前年同期比はできるはず。仕事からのストレスフルな生活が続いているのは確かだけれど、カエルの鳴き声に気付かないほど耳がふさがっているわけではないとは思う(そうであったら、健康状態が心配)。なんだろう。

そんなことを考えていたら、日本の音の記憶がよみがえった。いろいろな音の記憶があるけれど、日本であって(一部のヨーロッパでもある)今居る東南アジアにないものの一つが無音の世界。冬の日にしばらく音がしてないなと思って窓の外を見ると、雪が降っていたというようなことがある。そのとき、感触としては無音というよりも、「しーん」という音がしている感じ(マンガの吹き出しに「しーん」と空気中に書いてある感じ)。あと、冬の空気がはりつめた朝も、「ピーン」(ちょっと違うけれど表現できない)という音がしているイメージ。

匂いもちょっと日本と違う感じ。子どもの頃から馴染みのある雨の日の匂いはここでは感じない。最近になって、雨の匂いはアスファルト説だったり植物の油説だったり解明に近づいている感じがするが、東南アジアで雨の匂いを感じないのがコンクリート道路が多いせいだとすると、アスファルト由来説が有利か(植物が違うからかもしれない)。

音にしても匂いにしても、情緒に訴えかけるものは日本の方が多い感覚がある。日本のものは子どもの時からの長い時間を経た記憶だったり、大人になってからも思い出と匂いがリンクして感傷的だからそう感じるだけかもしれないが、過去の記憶と思い出は消せないものなので仕方ない。日本のほうにアドバンテージがある。

今は違く目的があって出稼ぎみないな状態になっているけれど、いずれは日本に帰るつもりなので、しーんという音や雨の匂いを感じるのを楽しみにしている。

野菜が食べられるようになった

野菜が食べられるようになった

小さい頃は野菜を食べられなかった。自分が育った家の例しか判らないので、それが一般的かどうか判らないが、私が育った家では、おかずは大皿で出されていたので、好きなおかずだけ取って食べるということができたため、野菜嫌いで特に不都合はなかった。唐揚げの周りにブロッコリがあったとしても、唐揚げだけをとることができた。これが、もしもひとりひとりの皿に盛りつけされていて、そこに野菜を盛られていたら、どうなっていたことだろう(給食で困った記憶がないのだが、それがどうしてかの記憶がない。誰かに食べてもらっていたのかも)。

野菜嫌いのパターンとしては、たしか、何度かチャレンジしたけれど克服できなかった、というケースだったと記憶する。

そんな私が中学生の時に、母親以外にお弁当を作ってもらう初の機会があった。修学旅行の初日の昼の弁当を同級生が作ってくれた(自分が持ってきたであろう弁当をどうしたのか覚えていない。事前通知があった記憶もないので、自分の分を持っていたはず)。単純、簡単な話ではあるが、私はその日を境に野菜を食べるようになった。まあ、よくありがちな話ではあるし、この出来事がなかったとしてもいつかは自発的に野菜を食べるようになっていただろうとは思うけれど、中学生で食べられるようになったこの出来事には感謝の気持ちをもっている、ということをふと思い出した。今日のスーパーでの買い物かごには、自分でも信じられないくらいの野菜が入っていた。当時に比べたら成長したなー。

ネット検索結果にもバッヂを

ネット検索結果にもバッヂを

辞書を使わなくなった。厳密にいえば、製本された辞書を使う頻度が下がってからは十年以上経つと思うけれど、ここ数年は、PC にいれている辞書アプリも使わなくなった。どうしているかといえば、多くの人もそうだと想像するけれどネット検索をしている。

辞書アプリの不使用は、勤務先の IT セキュリティも一因。転職前は、セキュリティが厳しくなる前の時代から使っていた辞書アプリがあった。それを使い始めてから PC は何度かの代替わりを経たが、IT の部署がユーザーのデータやファイルをすべて移植してくれていたおかげでずっと使えていた(標準外アプリも新 PC に移してくださいという依頼を行う必要があったが、それが否認されることはなかった)。今の会社への転職は少し前のことなので、すでに世の中の多くの会社は IT セキュリティにセンシティブになってからなので、転職時に貸与された会社 PC はセキュリティ設定がガチガチで、標準外アプリをユーザーで入れるのは不可能だし申請が認められることも難しく、以前につかっていた辞書アプリは私用 PC でしか使える環境にない(私用タブレットを毎日持って出勤しているが、業務中に取り出してまで調べようとは思わない)。

ネットを辞書替わりに利用するメリットは結果を得るのが早いこと。今やっている作業に必要な言葉を調べているわけなので、ネット検索は作業が中断する時間を短縮できる。手は PC キーボードにおいたままだし、視線をディスプレイから外す必要もない。一方で、ネット検索のデメリットは、新しい語彙が頭に残りずらいなどの副作用が生じやすいのが私の場合だが、これは私だけではないだとうろと思うので、また別の機会に考えてみるとして、最近にイライラが増してきたのは、ネット検索にヒットする上位結果が必ずしも正解とはいえないケースが増えてきたように感じることだ(ヒットする結果が増えたことで、正解でないものを拾ってしまうケースが増えたということだろうか、それとも私の感覚が間違っているのだろうか)。

和訳をネットに尋ねた場合、生まれてから日本語を母国語としてきたので、結果に違和感があっても主旨は何となく理解できることから、自分なりの言葉に置き換えることなどができるので問題は多くない。英訳の場合はちょっと違う。検索結果が間違っているような気がする場合が結構あって、結局、その英単語を調べなければならなくなることが多い。特定分野の用語の場合は仕方ないこととあきらめているが、一般名詞や語句の場合でも調べ直す機会が多くて困っている(自分の語彙の少なさが問題なのと、細かいことを気にしすぎなことが理由であることが判っているが、言葉を定義通りに使わないと間違って相手に言葉が伝わる可能性があると信じている面倒くさいのが私なのです)。いっそのこと、「これは各単語の意味を連結しただけの直訳です」とか、「これはネット上でみつけた用語集から引用したものなので架空のものではありません」とかを検索結果に並べて宣言してほしいと思っている。それくらい、人工知能でできるだろう。

調べ直し自体は製本された辞書を利用していた当時もあったし、調べた目的の意味以外の意味や調べた単語の近くにある別の単語に興味が湧いて、辞書を開いた目的とは関係のないことに時間を費やしてしまうことはよくあった(そのおかげで知識を広げることができたこともあった)。だが、ネット検索は、重要性の低い調べごとをするときに手抜きするためのものだと私は思ってきたので、それを使った結果、余計な時間や手間がかかるのは心情的に許せない部分がある。

そうか、許す心を持てはよいのか(この記事のテーマと違う結論だ)。

就職氷河期世代への支援

就職氷河期世代への支援

氷河期世代への支援をテーマに出演者が話し合う番組を動画でみた。どんな結論だったか忘れてしまったけれど、議論のなかで新卒で失敗してもやりなおせる社会に変えてゆくことが大事という意見を言っていた人がいた。

氷河期時代に新卒で非正規からはじめた人には今でも厳しい社会であると想像するけれど、新卒で正規雇用された人については、転職に対する労使双方の見方が変わってきたことで、以前よりはセカンド・チャンスの機会は創出されていると思う。

以前よりましだからいいじゃないか、というつもりは毛頭ないが、新卒への教育に掛けた決して小さくないコストで自社仕様に育て上げた社員がいるので、なぜセカンド・キャリアで採用するかといえば、多分、専門知識を持っている人があらたに自社に戦力として入ってきてくれることを期待してのことだと思う。

日本の新卒採用で私がよいと思っていることは、大学で学んだことと違う分野で採用・配属が行われること。デメリットもあるけれど、よい点のほうが上回っていると私は思う。大学の専攻と関係ないからこそ、配属後に OJT で徹底的に鍛える必要があるし、一人前になるまでに結構なコストがかかっていると思う。この状況を変え、セカンド・キャリアの流動性をあげようとすると、セカンド・キャリアで入ってくる時は勿論のこと、社員教育にコストをかけないとすれば、新卒の時点でも専門性を身につけた人を採用しようとするだろうし、専攻分野によって就職先が限定されてきて、新卒の門戸や選択肢が狭まる結果になるような気がして、そっちの方が副作用が大きいように思う。これが極々一部の大企業にのみ当てはまることで無視してよい話ならばよいが、私には専攻と関係ない会社に勤める機会があることは結構、重要なことだと思っている。また、何か単一分野の仕事はしてきたが、その分野でのスペシャルな技能がない人の場合、何年経験をつんだとしても職種が高度化することもないだろうから、昇給する機会も少なそう。スキルが上昇しなければ、身に着けたスキルでキャリア・アップ転職の機会もなく、もし転職をするならば、同じ仕事でちょっとだけ待遇がよさそうな会社を見つけた時にしか起こらなそう。

氷河期とかセカンド・チャンスとか関係なく、全ての国民が最低限の生活を送れことができる制度や仕組みのある国にしてくれるのが一番ということになるのだろうか。年代や性別、住む地域などで不公平のない社会、かといって結果を出せた人とそうでない人とが同じ処遇を受けるのではなく、頑張った人はその報酬を得ることを誰にも邪魔されない社会。それと、今ある色々な問題の多くに共通すると思うのだけど、教育が非常に重要だと思っている。

メールアドレスを決める時に思ったこと

メールアドレスを決める時に思ったこと

フリーメールでメールアドレスを新しく決める時に、ユーザー名をできる限り簡単にしようとすると、まず間違いなく、既に使用者がいると思う。例えば、mail@ドメインというアドレスは誰もが考えるもので、誰かが使っていると思う、調べるまでもないと思って調べたことないけれど。

そんなこともあって、独自ドメインなら簡単なユーザー名でも重複しないだろうということでドメインを取得して簡単なユーザー名のアドレスを作ってから、既に何年かが経つ。ところが想定外というか、約1年くらい前からスパム・メールが来るようになって、その後、増加している。毎日届くわけではなくて、受信数に波があって、届く時は毎日届くけれど、しばらく届かない時期もある。プログラムされているならある一定の法則で送られてきそうだけれど、受信する方から見えるのは一定ではない感じ。

ウェブサイトの登録などからアドレスが漏れたのが原因かと思ったのだが、調べてみたら、そうでもなさそうなことを知った。独自ドメインの登録情報は開示されることになっているので、その存在は誰でも知ることができるため、そのドメインに簡単な単語を適当に組み合わせることでスパムを送る対象になりえるらしい。よかれと思って簡単なユーザー名でアドレスを作ったのだが、それが仇となった模様。基本的に知らないアドレスから来たメールは開かないため、本文テキストにあるであろうリンクを誤ってクリックすることもないのだけれど、スパムが送られてくるだけでも気分が悪い。

そこで、ちょっと複雑な日本語を含むユーザー名を考えたときに、ことわざとか四字熟語はどうだろうと思い浮かんだ。座右の銘のような言葉だったり、示唆のある熟語や歴史にちなんだものなどの候補とともに、身近な話題として私の性格を表す言葉なんかはどうだろうとも思った。このくくりでいくと、私は、結構、淡々としていると自分では思っているので、その方面で「淡々」をネット辞書検索すると、淡々関連のことばには執着がないという意味が含まれる率が高かった。私は淡々とはしているものの執着は結構ある方だと思っているので、どの言葉の候補も「これだ」というものが見当たらない。

自分が思っているほど実際は執着していないのか、あるいは逆に実は淡々としていないのか、何が自分の姿か判らなくなった。ああ、大変だ。メールアドレスを作るだけだったのに、意識が別のところに移ってしまって、面倒なことになった。やっぱり淡々としていると思っていたのが間違いだったのか。

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

東南アジアに来たことのある人にとったはあるあるだと思うけれど、とにかく室内が寒い。会議室があまりに寒いため、会議室以外でジャケットを着用することがないのに東南アジア出張には必須アイテムといってよいと私個人は思っている(ほかで着用しないので荷物が増えるだけなので、個人的には迷惑な環境)。寒い国・地方の人が、家のなかでは暖房をガンガンにたいて、室内では Tシャツで過ごせるような温度にしているのと同じ発想だと思う。寒いことや暑いことへの抵抗だと思う。

現在私が暮らす国で、駐在員や転職して数年単位でここに暮らしている外国人の知り合いの個人宅にお邪魔したことはあるけれど、ここで生まれ育った人の家を訪問したことはないので判らないのだけど、自宅でもガンガンに冷房をかけているのか知りたい。今私が払う自宅の電気代は、大家の名義で契約しているものなので、仮に基本料金と外国人料金があったとしても、多分、私は基本料金を払っているのだと思う。そうであっても、ほかの物価に比べて電気代は安くないと思っているので、ここに生まれ育った人々にとっても安いものではないと思う。私が子どもの頃は、エアコンがある家庭はほぼなく、また私の家にも扇風機しかなかったので、いまだにエアコンに電気代を払ってまでも使用することに抵抗があるということも、私のものの見方に影響を及ぼしているとは思う。

私は、事務所ではほぼほぼ出社一番乗りなので、事務所内の照明をつけることが多い。その際に、自分の部屋へたどり着くまでの間に通り過ぎる幾つかの個室からエアコンの音が聞こえてくることが多い。ああ、昨日つけっぱなしで帰ったなとか、こいつ毎日つけっぱなしで帰っているなとか、ひどい時には事務所大部屋のエアコンさえつけぱなしのこともある(前日に最後に帰る人が普通は消すのだけれど、最後になる人によっては消して帰るという概念すらない人がいるように思う。知らなければ仕方ない)。こういったつけっぱなしは家庭でもそうなのか、というのが私の以前からの疑問である。多分、家では無駄な電気は使わないようにしているのだと思うけれど、どうだろう。東南アジアは灯りが派手であるのは街中や車の装飾を見ていればわかるので、電気代より派手さが大事なのかもしれないけれど、それってコストなのに...と思う。ケチケチしなくても何とか生きて行ける国なのだとしたらうらやましいけれど、そうはいっても無駄なのに。

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

ニュースを見てまず笑った。その後、何かを実行しようとするときの熱意がすごいなと思った。必死さといえばよいのか、必ず成し遂げる意思の強さというか(ちょっと前の言葉で GTIT ?)。

熱意は見習うところがある。でも、その熱意を生じさせているものは何なのか。一度のチャンスを逃してはなるまいという社会からの切迫感なのか、カンニング手配師(?)に払った費用が安くなくて費用回収が超重要なのか、TOEIC の有無で極端に変わってしまう人生を過ごしている人たちなのか。

乗っている土俵は違うのだと思うけど、多分、彼らのほうがうまくいった時の上振れ度が激しく高いのだろうというのは想像がつく。どっちがよいのかは価値観による。

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ニュースで知った、二人っ子政策をしていることを。しかも、導入されたのが 1998年とのこと。もう四半世期も継続していたことを知らなかった。

ベトナムの人口についての私のイメージは、年間 1百万人ずつ増加する若い国というイメージだったので、その増加数からいって、政策で制限しているなどとは想像もつかなかった。背景には、合計特殊出生率が 2024年に最低を記録したことなどのもよう。ベトナムがそのような状況なんだと思っていると、これはベトナムだけの問題ではなく、少子化が遠くない将来に問題になりそうな国が少なくない模様。

ちょっと話は逸れるが、すでに存在する製品よりも環境面に優れた新商品が出てきた場合、真っ先に投入される市場では、当然、初めての製品が浸透するには時間を要すが、ある程度、新製品が認知されている国・市場があれば、それに続く市場では急激な市場シェアの獲得が期待できる。それと少子化の問題は異なる性質ではあるものの、少子化とは縁遠そうな国が実は先進国市場よりも、タイミングは後だとしても、先に少子化を経験した国々よりももっと急激な少子化へ突き進むことはあり得る展開だと思う。

経済が成長し、生活のコストや教育への投資が高額になるほどに、夫婦ともに働く必要が生じるし、また、社会が高度化すれば社会との関りに男女の別も関係なくなる。結婚するカップルのもとでは出生率はもしかしたら大きくは減らないかもしれないが、結婚しない人もしくは結婚システムに入らないカップルの比率が増えると、それはイコール出生しない選択肢をとる人たちということになるかもしれない。そうすると、どうしても社会の成熟とともに少子化になるのは仕方ないことかもしれない。

私個人でできることはあまりなさそうだけど、今回のベトナムの政策変更に係るニュースに触れたことで、ニュースは偏りなく入手する必要があると再認識した。ニュースを知ってどうする、とは思わない。かりに、直接自分には関係なくても、いろいろなことを知れば知るほど考える機会や感想が増えて自分の引出しが増えると思うし、考えることはボケ防止にもよいかもしれない。