Browsed by
Month: 2025年9月

西洋的価値観について考える

西洋的価値観について考える

時代が進むにつれ、解決をみる既存の問題の件数は増え、世の中は確実に良い方向に向かっていると思う。個別にみれば、新たな問題が発生しているのも間違いないし、新たな問題はかつてないほどの規模の大きな問題だったりして、もぐらたたきのようにあっちを叩くとこっちから頭を出すことはあるだろうけれど、全体としては良い方向に行っていると思うし、そうでなければ、微力ながら(?)私も改悪に手を貸していることになってしまうので、そうは信じたくない。

とはいえ、私の長くない人生の間におきていることだけをみても、日本は結構変わったという感想を持っている。理由はいくつもあると思うが、その一つは西洋的価値感の取り入れ方によるところがあると思う。もちろん、私は西洋的価値観を否定するつもりはない。ただ、なんでもかんでも西洋的価値感であったり、哲学をもたずに取り入れるのはちょっと違うと思っている。日本には日本の良さがあるんだと考えていた。

最近、ちょっと考えを改めるかもしれないと思い始めている。日本的良さは、今もこれからも大事にすべきところだという考えは変わらないが、現在のように外国や外国人との交流がより深くなってくると、付け入るスキを与えてはいけないと強く感じ、それには残念ながら西洋的価値観で対抗せざるを得ないと思うようになってきた。それが結果的に日本の良さを守ることになってゆくのだと思うようになった。

先輩方が作ってきた日本的良さを壊されるのは堪えられない。それと同時に、壊されるのを見ながら何もアクションをせず、へらへらしているのも堪えられない。攻撃的になってはならないが、攻めないと守れないというスタンスでいる必要があると思う。それは、自分がいさせてもらっている外国にも当てはまり、その国のシステムを尊重していかなくちゃ、ということをあらためて思う。

終活情報登録制度

終活情報登録制度

自治体への登録制度があることをニュースで初めて知った。

できること・できないことはこれから深く掘り下げて調べないといけないが、高い費用を払って法律事務所の弁護士とかを起用するのは躊躇する一方で、自治体へ低コストで登録が可能であって、自分に何かが起きたに自分の意思を着実に伝え、自分の資産が家族に届くような制度があることは、私にとって非常にありがたい。また、私に限らず、この制度によって多くの人が簡易に早く相続できる世の中になればいいと思う。相続問題は、相続する人がその意思を伝える方法が少ないとか意思を伝える方法が面倒だということだと思う。

自治体に登録することで、相続に関わる徴税が完璧に実行されることになるかもしれないが、そもそも後ろめたいことは私にはないので、余計な時間を掛けずに相続手続きを完遂できることが可能になるならば納税は構わない。

しかし、私がここに住所を構える前までいた自治体は、まだこの制度が始まっていないらしい。まあ、そのうち、始まるだろう。

CMを見ないと記事を読めない

CMを見ないと記事を読めない

YouTube 番組前に CM が流れることについては、そういうものだという理解ができている。それで成り立っているならば仕方ない。

最近、ネット・ニュースを見ていると、YouTube 同様に CM を見ないと読めない記事に度々でくわすようになった。YouTube ならば少し見た後に CM を Skip できる。CM が始まるのは私の意思でないとしても、自分の意思で CM から番組に戻ることができるからなのか、YouTube CM にあまり嫌悪感はない。それは、YouTube でしか見ることができない番組をみるために必要な儀式みないなものとの理解が私の中で進んだからかも。

一方で、ニュースの前の CM の場合は、CM を見るように言われた時点で閉じるボタンをクリックしてしまっている。それは、そのページでなければ見られない記事ではないので、同じ件のほかの媒体のニュースを探せばいいだけのこと。たまに、写真ニュースで同様のものがあり、この場合は他社記事では同じ写真を見ることができないのは想像がつくものの、そこまでしてみたい写真もない。ニュース前の CM は成功とは言えないのではないかなあと思っている。それとも、私が特殊で、大多数の人は CM を見ているのだろうか。これも、周りの人にアンケートをとってみたい質問の一つです。

最初にもらった背番号は好きになれなかったけれど...

最初にもらった背番号は好きになれなかったけれど...

結論から言えば、好きになれなかった最初の背番号は、任意で番号を選ぶ機会があれば今では自分で選ぶ番号になった。

生まれて最初の背番号は、たしか小学3年生の時だった。現在は、小学生のスポーツチームといえば学年別チームで運営している競技・チームが多いと思うけれど、私が小学生のころは全員で1チームだった。だから、現在のチームでは背番号1が各学年にいるけれど、私の頃は学年に関わらずに自チーム内に背番号ダブりはなかった。そうなると、小さい数字の背番号は上級生に優先的にあてがわれる。上級生が卒部(これは現代的表現)すると背番号変更もあったりするのだけど、私が入っていた田舎の古いスポーツチームでは、背番号は縫い付け交換式(またはマジックテープ交換式)のものではなくてユニフォーム一体タイプのものだったため、背番号を変えるとなるとユニフォーム上着を買い替えないといけなかった。そんなことを両親にお願いできる家庭環境でもないし、お年玉は毎年1万円もらえるかどうかの収支だったから、それをユニフォーム代に支出もできず、私は小3から小学生チームから卒業するまで同じ番号を使った。

小3でもらった番号はあまりなじみのない番号で、例えばプロ野球選手だったら誰だろうと思ったら、一軍で試合に出ている人だと一人しかいなかった。そんな番号。だから、それ時から 10 年前くらい前までは親しみも馴染みもなにもない番号で、どちらかといえばダサいなあと思っていた。
しかし、あるきっかけで、この 10 年間は好きな番号となっていて、今後もずっと好きな番号であり続けると今日時点では感じている。自分では自分のことをコンサバでいる時間の方が長い人間だと思っているけれど、たまに、こんな感じで好み(背番号の場合は好みではなく考え方の変化なのだが)が急変したりする。だから、年齢がいくつになっても新しいことを試すことで何かが変わったりすることは素敵なことだと思う。

在庫ぐせ

在庫ぐせ

デンタルフロスを使い切ったことを書いた。2025 年の目標である「使い切る」ことに関して、デンタルフロスというもので達成した。

「使い切る」ことを目標に挙げたのは、継続的になにかを実行することがその目的にあった。今回のデンタルフロスは、まさに歯の健康のために継続するのは大事。デンタルフロスを初めて買ってからもう十何年もたっているとおもうけれど、いつも続かなくて結局、歯科でクリーニングを定期的に施してもらっていた。今回は、ほぼ毎晩フロスで処理した。継続は力になっていてほしい。

「使い切る」ことの別の目的は、最初のものと似ているようだが「使うこと」がある。心配性な私は、家で使用するものなどの在庫を持っておかないと落ち着かない。しかし、在庫を買うと在庫を持つことで満足してしまうことがよくある。また、その満足が勿体ないという気持ちとも相まって(勿体ないというよりケチな根性かもしれない)、持っているのに使わないという無駄遣いにちかいことをしてしまうことが少なくない。

だから、「使い切る」ことを目標にした。生活が便利になるだろうと〇〇を買ったのに、もったいなくて使わなかったら生活が便利にならない。なんのために買ったんだ!これを止めたかった。理由があって買ったのだから、家にあるものはバンバン使い倒す。これだ。デンタルフロスを使い切って自信になった。なんかいい感じだ。

使い切った!

使い切った!

2025 年の目標の一つに、「使い切る」がある。シャンプーとか醤油など、毎日もしくは割と短めのインターバルで定期的に消費するものであれば使い切るのは難しい話ではない。しかし、例えば、デンタルフロスのように、使わなくても忽ちに不具合が出ないものに関しては、使い切るまでコンスタントに使う意思を継続して保持するのはなかなか難しい。歯間掃除の所要時間が歯磨き後の2-3分のことだとしても、ブラッシングだけで眠ってしまいたい夜もある。とはいえ、長期的にみれば歯間には気を遣ったほうがよいのは明らかだと思われるので、今年の使い切るものの対象物の一つにデンタルフロスも含まれていた(難しい目標ばかりではなく、達成可能な易しそうな目標も混ぜておかないと目標全滅なんてことが起こりえるし、そうなったら気分的にも落ち込んでしまうから、そうはさせない)。

今日、デンタルフロスを使い切った(そろそろかと思って、先週に在庫を買ったところだった)。何か嬉しい。日本にいたときは、歯医者での定期的な清掃から暫らくの間はフロスを使うモチベーションを維持できたけど、仕事で遅いとか何かの理由で一旦サボってしまうとその後の再開が難しかった。いざとなれば、歯医者に行って仕切り直しすればよい、という考えもあった。しかし、今は保険証がないから帰国時に歯科へ行くと10割負担になることを考えると休暇帰国のたびに通院とはいかないし、かといって場合によっては多少の出血を伴うかもしれない歯科での処理を海外で診てもらうのも心配だし、今年に入ってからは予防第一、ほぼ毎晩フロスで歯磨きの仕上げをしていた。

今は、使い切った達成感がある。こんな小さなことで興奮できてびっくりしているけれど。

クリーンな政治家

クリーンな政治家

仕事ができれば政治家に清廉潔癖さは求めない。この意見は、ネット世論としては珍しいものではない印象。

私も、真っ黒クロスケはさすがにどうかと思うが、完全クリーンで仕事ができないよりは、多少の疑いはあっても仕事ができる人が議員でいてくれた方がよいという意見だった(クリーンな仕事人が一番よいけれど)。

しかし、最近になって、もしかしたら今までの意見を見直すことになるかもしれないと思い始めた。私は、陰謀論を興味を持って聞くけれど、それを信じてはいない(陰謀論と気付かずに信じている説がないとは自信を持って言えないけれど…)。しかし、もしも、脱税を見逃してもらう代わりに誰かの言いなりになっているケース、例えば変な国家予算の使い方であったり徴税を法制化したり、何か弱みを握られることで指示通りに動くような議員が本当にいるとすれば、仕事ができるできないは譲歩して、クリーンな政治家を求めたいと思うようになった。私腹を肥やす程度(本心では程度などという表現を使いたくない)ならば国民には迷惑をかけていないとも言えるが、国を思う政策を曲げるようなことは国民の代表としての信任は得られまい。

クリーンかどうかは実際は判らない。だから、総合的に判断せざるを得ないのが実情だけれど、次回の投票では、この目線を検討項目に入れて投票先の候補者を考えてみようと思っている。
次回の選挙の時にどのような世の中になって、どんな世論が形成されているか判らないが、そろそろ、本当に政治体制が変わる頃になっているかもしれない。自分の年齢的にも、そろそろ自分のことよりも次世代のことにより思いを巡らす時期が来ているかもしれない。

「H」は「ヘイチ」と読むのが多数派だった

「H」は「ヘイチ」と読むのが多数派だった

外国人の人と話していると、自分が主流派なのかそうでないのかに悩むことがある。現在、海外にいる私の環境では、私こそが外国人であるのでマイノリティであるし、世界に 80億人を超える人口がいれば、途方もない数に区分けできるであろうから、分けることに意味があるのか判らないのだが、そうであるかないかの2つに分けることができるケースでは、多数派か少数派かを知るのは面白いと思っている(自分がどちらに属していると嬉しいかは、そのお題によって変わる)。

そんな中、会社の同僚が「ヘイチアー」と言うのを聞いた。はじめは何を言っているのか判らなかったのだが、何度か同じ言葉を聞いた後に文脈から「HR」と言っているらしいのが分かった。なんだ、人事のことかと。今いる国では、いかにも東南アジアっぽい英語を喋る人もまだまだ多い。たまに、アメリカのテレビで見るようなアクセント、イントネーションの人に出会うこともあるが、まだまだ、アジア発音だ。だから、「Hのことをヘイチと発音するのか?」とネットで検索してみると、私の無知ぶりを知ることになる。私が見たページが事実を述べているのか判らないのだけれど、「エイチ」よりも「ヘイチ」と発音する人口の方が地球上では多いという情報が書いてページの方が多かった。ごめんなさい、私が少数派、非主流派でした。

他の例でも、最近になって私(日本の教育内容)が非主流派だと知った発音があったけれど、それが何かは忘れてしまった。まあ、それはよいとして、知らないって怖いなと思い知らされることが多くてたまらない。ありがたや。

年収を更新してください – カード会社から依頼

年収を更新してください – カード会社から依頼

クレジットカード会社からメールが届いた。カード利用枠の引き上げを検討しているので年収などの項目に回答するように、との内容だ。

メールに情報更新のリンクが貼ってある。フィッシング被害の報道や注意喚起をよく見るのに、どうして率先してクリックさせたがるのか理解が難しい。

ウェブサイトの会員ページにログインして、お知らせのようなページにこの依頼が記載されているのか確認してみたが、すぐに探せるところには通知が特にない。なので、本当にカード会社から依頼ができているのかどうか確認ができないので、リンクをクリックしないようにした。特に利用枠の引き上げがなくても困らないので今回の件はよいけれど、本当に必要な手続きだったと思うと、今のカード会社のやり方が心配だ。

第一志望 : 大学受験②

第一志望 : 大学受験②

高校3年夏に部活が終わり、その後しばらくしてから勉強を始めたおかげか成績が改善して、志望校を二度見直した。受験本番の直近までE判定だった大学にめでたく合格して、あこがれの大学で学生生活を送れることになった。

自分でいうのは何だが、私は本番で実力以上の結果が出たり、試験に強い傾向が割とあると思っている。最後の模試までずっとE判定だった大学に合格・入学できたのは、そのおかげ以外のなにものでもないと感じた。

実際に入学すると、その認識が正しいことをすぐに理解した。

入学して最初の授業が始まる前のオリエンテーションのような場で、自己紹介をする機会があった。今でいえばマウント取りと呼ぶ人もいるかもしれないが、当時はそんな言葉がないので概念もなく、私は別に悪い感情もなくただただ同期の人たちに感心したのだが、その大学よりも難関校と呼ばれる大学に受かっていたのに私が入学した大学を選んできた人や帰国子女、高校時代に海外研修に選抜されていたような人とか、たくさんのスゴイ人がいて、これは大変なところに入学してしまったなあと深く思った。同時に、そんな人たちと同じ環境で学べることにとても興奮していた。

これはある種の原体験だった。高校生の当時、自分より勉強のできる人がクラスにいたり、自分より上手な人が部活チームにいたりは勿論あった。だけど、とてつもなく勉学に優秀な学生と交わる機会はなかったし、部活で全国大会に出たわけでもないので超絶な選手と試合で出会う機会がなかったので、スゴイ人に会うことがそれまでの人生にはなかった(人生といっても、田舎で子ども時代を過ごすたかが18 年弱の間の話だけど)。しかし、大学に入学してすぐに会った人たちに対して、すごい人たちだなあと素直に感じた。だからある種の原体験。

成績が伸びる前の段階で第一志望と思っていた大学に行っていたらどうだったのか、と思うことがあると別記事で書いた。それはそれで、今もどうだったのか興味はあるけれど、本番の時の第一志望に入学が許可されて本当によかったと思っている。