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来年のセンバツ高校野球でDH採用を検討中

来年のセンバツ高校野球でDH採用を検討中

ニュース報道によると、来年春のセンバツ大会で DH を採用することの検討が進んでいる由。あらたな取り組みに対する、ここ数年の動きはとても盛んに感じる。ちょっと昔までは、何があっても変えないようなイメージがあったのと比べると、雲泥の差だ。

ところで、DH が採用されると疲労度の緩和や、それを背景とする故障件数の低減に資することはあまり想像に難しくない。疲労度の緩和というと、まず最初に思い浮かぶのは投手だけれど、高校野球では投打の要というケースは昔ほどではないにしても、まだまだ多いと思う。DHを採用するチーム、しないチームがどれくらいの割合になるのか興味がある。しかし、投手でないのに守備専門だったりするのは、ちょっと辛いかもしれない。

10人の選手が先発で試合に出られるとなると、レベルの高くて選手層の厚い学校に有利になりそうだということも想像できる。それで勝負が決まらないのが高校野球のよいところではあるけれど、有利なことには違いないと思う。

ひとつ興味があるのは、どんな選手が DH に入るのだろうか、ということ。打てる選手であれば有力選手だろう。しかし、高校で DH をやっていた選手をドラフトするプロ野球球団はないような気がする。学生野球で終わりと割り切っている選手であれば DH で長所を生かすことができるとは思うけれど、プロを目指せるような選手であれば、DH専門になる必要がないくらいにそこそこは守れると思うので、そうすると、打力によって DH に採用される選手はあまり多くなく、そこそこの打力の選手が選ばれそうな気がする。となると、DH を採用しない学校が多くなるか、投手を休ませる意味で DH を採用することになるのではないだろうか。

勝手に想像しても仕方ないので、来年の春にどういうことになっているか楽しみにしている。

プロ野球・オールスター戦の選手マイク

プロ野球・オールスター戦の選手マイク

オールスター第一戦を YouTube で観戦した。CM中(多分)の映像も映っていたので公式映像を YouTube で流しているのだと思ったのでネットで観ていた。しかし、公式チャンネルではないことに途中で気付いた。よくありがちな、東南アジアの名前でやっているものだった。勝手に流しているもので、あ、これ観てはいけないものだ、違法者に協力してる、と思った。

途中まで観ていた中継だったけれど、出場中の選手の試合マイクのシーンを見た。後日、ネットニュースで選手マイクに批判的な芸能人発言を取り上げた記事や、その記事での批判的な投稿をみた。

私は、この企画は面白いと思った。ただ、せっかくのマイクなので、違う使い方したらよかったのにという感想を持った。コメント欄で多くの人が言っていた通り、投手が投げる瞬間にマイクをつけた野手との会話するのはちょっとどうかなと思った(でも、ネットコメントほど、否定的なスタンスではない)。また、会話の内容についても、私だったらどういう意図でどういう守備位置にいるとか、この打者だとどいうことを考えてその守備ポジショニングをとっているとか、そういったことを放送席から聞いて欲しかった。実況していたアナウンサーと私は興味が違うから仕方ない。でも、プレーに関することを聞く機会がもっとあれば、子どもたちプレイヤーにも有意義な中継になるのにな、と思った。子どもで視聴率は取れないので仕方ないけど。あと、プロ野球選手のレベルになれば、逐一周りの選手と会話して確認する作業もあまりないだろうし、また、真剣勝負でもないということもあるのだと想像するけれど、選手間会話をもっと聞ければよかったと思った。

新たな取り組みなので、今年は意見様々なのはよく理解できるので、来年以後も続けて欲しい企画だと思った。その時は、私の聞きたいようなことを聞いてくれたらうれしいのだけど。

タイヤ交換の副次的効果

タイヤ交換の副次的効果

車のタイヤ交換して約2週間。これまで快適。

まず、空気の抜けを気にしなくてよくなったので、気分的に楽。交換前は、週に一回は空気圧のチェックをしていた。実際のところでは、1本だけは抜けているのが確実だったので、空気チェックというよりも充填を週イチでやっていたという方が正しい表現となる。毎週給油するので、空気充填のためだけにガス・ステーションに行っていたわけではないものの、充填機がちゃんと機能するのは当地にいくつかあるガソリン・スタンド・ブランドのうちの1つの系列だけなので、給油のタイミングによってはその系列のスタンドを毎回利用できるわけでもなく、その結果、空気充填だけにスタンドに立ち寄ることもあった。よって、週に二回スタンドにいくこともよくあり、本来は費やさなくてよい時間をそのために使っているという認識があった。

次に、タイヤの慣らし運転ということで、運転が優しくなったのがタイヤ交換の2つ目の副次的効果。加えて、せっかく無傷のタイヤを履いているのに無理をさせたくないというのも優しい運転になっている。ある程度、タイヤ表面が擦れてきても、今の気持ちを忘れずに優しい運転を維持したいと思っている。

タイヤは命を守る大事な機能性部品。安全に運転できるように今日も点検・優しい運転に気を配る。

ちなみに、タイヤは4本で15千円くらいだった。アラインメントの労賃で1千円弱、交換したバルブ代が3千円くらいで、合計 20千円弱といった感じ(ダンロップのタイヤ)。

日本のスマホ・ケースは黄ばみやすい?

日本のスマホ・ケースは黄ばみやすい?

現在に使用中のスマホケースは、半年くらい前から使い始めたもので、日本で買ってきたもの。その前は、現在の居住地で購入したもので、それは、今のスマホを買った時から使っていたので2年間ほど使っていた。

日本で買ったのをもってきたのは、最初のケースがだめになったら交換しようとおもい、それだったら日本のものでと思ったから。海外で買うスマホケースはストラップの紐部分を通す穴がなかったりするので、日本のほうが機能性が高い場合がある。半年前にケースを交換したのも同じ理由からで、当地で購入した最初のケースはまだ使用可能だったのだけど、日本で買ったケースについている機能を使いたくなって半年前に交換した。

その時点で元のケースは2年使っても黄ばみがなかったのだけど、日本から持ってきたものは半年で既に黄ばみが発生している。なぜなのだろう。当地で買えるものは、体や環境に悪い原料や成分によって黄ばみを防止できるけれど、日本では使用が認められていないから黄ばんでしまうとかなのだろうか。パブリックな情報ソースでどこまで調べられるか判らないけれど、ちょっと調査してみよう。

掃除機の展示品でデモできない

掃除機の展示品でデモできない

掃除機が壊れた。多分、機能としてはまだ使えるのだろうと推測するけれど、スイッチが壊れた。二ヶ月位前に使おうと思ったときに、スイッチのパーツが突然外れた。パーツが外れて剥き出しになったスイッチ内部を見たところ、単純な構造であることがわかり、また、通電させるパーツはまだ内部にとどまっていたため、爪楊枝を使って絶えず通電できる形にしたうえで、コンセントにプラグを差す・抜くでスイッチ代わりにして、掃除機としてはなんとか使えていた(剥き出しになったところから小さな火花がパチっとでてくることがあり、安全上も機能上も、早めに買い替えが必要と思いながらも、まだ使用できていたこともあってずるずる使っていた。

それが先日に、突然、通電させる部品がどこかへ飛んでいってしまった。ああ、ついにと思った瞬間、ゴミがたまるパーツの蓋が開き、吸い取ったゴミが床にこぼれた。掃除機が使えなくなった瞬間、いままにないくらいの超高い掃除機需要が発生した。

ゴミさえこぼれなければ、翌週末に電気店にゆけばよいと思っただろうが、ワタゴミや固形ゴミが床に散乱した状態には耐えられず、日本ならばサザエさん症候群がぐったりしている時間帯に電気店にいかなければならなくなった。

買うと決めたらすぐ買わないと気がすまないくなりがちな私は、電気店にこれといった掃除機がないことにがっかりした(別に、素晴らしい掃除機を買うつもりはないのに、普通のすらなかった)。いつものわたしならば、それでも最初にいった店で買ってしまってあとから後悔するのだけれど、この日は違った。道を挟んだ向こう側にも店があり、そこもみてみる気になった。素晴らしい。普段ならばそんなことはありえないことだ。その道は、一方通行の片側5車線くらいの道のなので、車がこないときを見計らって渡るのは結構、単純なことではないのだが、その日の私は別人のようだった。

結局、二店目は品揃えも結構あって、買い物には満足していないながらも、まあまあ、普通の掃除機を買うことができた。ただ、そこに至る過程として、デモができない問題に出くわした。私が掃除機に期待するのは吸引力のみ。いろんなタイプのノズルがアタッチメントでついていたり、水拭きみたいなことまでしてくれるヘッドがついているものがあったり、そういったことには私は興味がない。何年か前にコードレスを買ったことがあるが、2年経つかどうかというタイミングで充電ができなくなったことがあったので、コードレスに対しても拒否感がある(コードレス=吸引力が弱い、というイメージもある。スチーム・アイロンについても同じ先入観をもっており、アイロンも有線だし、屁理屈はちょっと違うがヘッドフォンも有線)。

そんな吸引力至上主義の私にとってはもちろん、大勢の買い物客にも同じだと思うのだが、掃除機は実際に電源を入れずに買うことなんかできない。が、しかし、コードレス機は充電されていなし、プラグイン式のものも電力が得られるコンセントが展示場に見当たらないし、これは一体どういうことなのだろうか。店員さんに聞くも、電源ないよ、とのこと。この店員さんは、自分が客のときにもデモしないで買ってしまうのだろうか(そんなことはないだろうが、もしかして、デモせずに買うのかなと思わせる国ではある)。以前に電化製品を買っていた店では、レジで通電チェックもしたのに、ここではデモも通電チェックもない。まあ、最終的にこの店で買ったのは、デモをできるようにしてもらったからなのだが、本当は、展示品全てのスイッチを入れて吸引力を確認してから買いたかった、というのが正直な気持ち。

壊れてしまったほうの掃除機は、部屋の大家さんが買って備品としておいてくれたものだった。私はテレビをみないのだけれど、大家さんが買ってくれた家電にはテレビもあって、そのテレビは今回の掃除機よりももっと前に壊れた。ある日、突然にシューっという音とともに壊れた。安いけれど、壊れやすいものが多い。

黒猫が目の前を横切った

黒猫が目の前を横切った

朝の通勤時に、自宅を出てすぐのところで黒猫が進行方向の車の前を横切った。
ちょうど、悪い話を報告しなければならない予定があった日だったので、何か不吉なことでもあるのかと憂鬱な気分で出勤した(黒猫に出会ったこともあったので運転には注意して出勤)。

あまりネガティブな気持ちでいるのもどうかと思い、なぜ前を横切る黒猫が不吉なのか調べてみようと考えた。曲解できそうな理由であれば、不吉であることを忘れる口実にしようと思った。逆に出る、つまり、逃げようのない確定的な理由があったら気分撃沈になるかも、とはなぜか考えなかった。

ネットで調べたところ、日本では幸運の前兆という受け取り方だというのを見つけた。いままで何十年も生きてきて、私が知っていたのは黒猫が前を横切るのは不吉なサイン、ということだけだったことを知った。つまり、自分では調べたことがなくて、テレビかラジオか書籍なのか判らないけれど、不吉だという海外での受け取り方を誰かに吹き込まれて、それのみを知ったまま今に至ったということだ。

とりあえず、悪い報告を前に少し気が晴れた。それと同時に、自分で確認するのも必要だなあと再認識した。どうでもよいことであれば自分で調べる必要がないかもしれないし、誰がそれを言っているのかによってもあらためて調べてみるというアクションは不要だとは思う。だから、多分、何の疑いもなく不吉だと思ったのだと思う。推測するところ、海外の生活様式やしきたりなどに興味があって、いろいろ調べていた大学生時代にこの認識が刷り込まれたのだろうと思う。それ以来、調べたことがなかったということだろう。

今後は黒猫が横切っても、自分の向きをかえて後ろ歩きをしながら前を横切っていない、という強弁をする必要もなくなったので、コケてケガするリスクが低減したことになる。めでたし、めでたし。

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

何日か前に Nintendo Switch 2 の転売対策を伝えるニュースがネットに流れていた。私はゲームをしないし、ゲームに限らず転売という行為で売りも買いもしないので、このニュースは私にとっては社会問題とその対応をする企業、という第三者的な立場として読んだ。

ニュースをみたときはそれだけだったのだけれど、店頭販売の追加発表があったとか、実際に在庫をみたとか続報があり、人気のあるゲームであることを理解した。ゲームをするのが子どもであるとは限らないので、私の子どもの頃と比べることはできないし、また、私の子ども時代はうん十年も前のことだから時代的な比較もできない。とはいえ、ゲームってこんなに話題になるんだ、という感想を持った。小学生のとき、雨の日だけはゲームを学校にもってきてよいという「雨の日ルール」というのがあった。そんなときに友達がもってきたゲーム(2画面折り畳みが出始めた頃のゲームウォッチやパックマンなど)を借りてやるくらいがこれまでの私のゲーム人生(今後、ゲーマー・デビュするかもしれないので、「これまで」としておく)だったので、ゲームに対する感覚の世間とのズレを感じた。

これはゲームに限った話ではなくて、ほかの話題であっても報道やネットニュースで自分のズレを知ることが定期的にある。報道を含めた発信情報は、見てもらうことが目的であって、正しいことを報じることは目的でないことは判るので、そこと私がズレていることにはいちいち気にしていないのだが、モノによっては、「あー違うな、そうなんだ」と思うこともある。そのズレから生じる感情は、自分の中だけで処理できることもおおいのだが、人付き合いのなかでも感じることがある。そういうときに、ひとによってはとてつもない同調圧力を感じることがある。ちょっと主旨は違うけれど、ダイバーシティでよいじゃないか。

かえるの鳴き声、虫の音

かえるの鳴き声、虫の音

外国に住んでいると、日本で聞こえる音とは違うと感じることがある。日本の中であっても、都会に住むか田舎か、地面に接している戸建てなのか集合住宅なのかで違いがあるけれど、国が違うと根本的な違いがあるように感じる。

今住んでいる国は、音があまりないイメージがあった。住む物件は変わっているけれど、今の町での数年の居住歴をふまえてのイメージ。ところが、先週あたりに日本で聞き覚えのある音に気が付くようになった。田んぼ近くでよくきくカエルの鳴き声だ。季節要因はあるかもしれないけれど、今の物件に住んでから暦が一周しているので、前年同期比はできるはず。仕事からのストレスフルな生活が続いているのは確かだけれど、カエルの鳴き声に気付かないほど耳がふさがっているわけではないとは思う(そうであったら、健康状態が心配)。なんだろう。

そんなことを考えていたら、日本の音の記憶がよみがえった。いろいろな音の記憶があるけれど、日本であって(一部のヨーロッパでもある)今居る東南アジアにないものの一つが無音の世界。冬の日にしばらく音がしてないなと思って窓の外を見ると、雪が降っていたというようなことがある。そのとき、感触としては無音というよりも、「しーん」という音がしている感じ(マンガの吹き出しに「しーん」と空気中に書いてある感じ)。あと、冬の空気がはりつめた朝も、「ピーン」(ちょっと違うけれど表現できない)という音がしているイメージ。

匂いもちょっと日本と違う感じ。子どもの頃から馴染みのある雨の日の匂いはここでは感じない。最近になって、雨の匂いはアスファルト説だったり植物の油説だったり解明に近づいている感じがするが、東南アジアで雨の匂いを感じないのがコンクリート道路が多いせいだとすると、アスファルト由来説が有利か(植物が違うからかもしれない)。

音にしても匂いにしても、情緒に訴えかけるものは日本の方が多い感覚がある。日本のものは子どもの時からの長い時間を経た記憶だったり、大人になってからも思い出と匂いがリンクして感傷的だからそう感じるだけかもしれないが、過去の記憶と思い出は消せないものなので仕方ない。日本のほうにアドバンテージがある。

今は違く目的があって出稼ぎみないな状態になっているけれど、いずれは日本に帰るつもりなので、しーんという音や雨の匂いを感じるのを楽しみにしている。

トランプ大統領とイーロン・マスク

トランプ大統領とイーロン・マスク

批判して罵り合いになったと思ったら謝罪の投稿をしたという報道。

あれだけがっぷりよつな関係性だったのに、急に批判したり、謝罪したり、私の感覚からするとちょっと理解を超える。法案の中身を聞いてなかったとか、もしそうだったらどうして、それまで手を組むことができたのか、全体最適というより部分最適で是々非々だったのかもしれないが、でも、それまでの報道を見ているとそのようには見えなかった。

両社に意図や下心、打算とかいろいろあったろうが、それでも、あんなに豹変できるのはすごい。君子豹変するから、大統領だったり事業を起こしたりできるのだろうか。それに引き換え、一般人の私。

運転免許を更新した

運転免許を更新した

来月に有効期限が到来する運転免許の更新をしてきた。今、仕事をしにきている国の運転免許の話。外国人の私は、道路交通局へ出向かないと免許の更新ができないのだが、免許が電子化されて更新手続きがアプリでできるようになったこの国の人が窓口で並ぶことがなくなったため、前回の更新時よりも待ち時間少なく更新ができた。窓口待ちの番号札をもらってから手続きを終えるまで、10分くらいだったと思う(前回はコロナで一回目のロックダウンが明けた直後くらいだったような気がするので、それよりも待ち人が少なかったというのは、よっぽどのことだろう)。

この国の免許を最初に取得したのはコロナのさらに前なのだけど、日本風にいえば外免切替での取得だった。日本の免許の現地語訳を大使館の領事部で作成してもらい、あといくつかの書類を揃えれば現地免許を取得できるシステムだった。今はどうか判らないが、以前、ドイツでも外免切替ができたのだけど、日本の免許との引き換えが条件だった(と、いっても、日本では免許書が ID 代わりなため、日本への一時帰国時は持ち歩く必要があるという上申書で、引き続き日本の免許書を預ける必要がない場合もあり)。今いる国では、ドイツのように日本免許を預ける必要がなく、そのまま本人保持。

私は、外免切替のメリットを享受した側なのだが、他方、日本では外免切替で免許を取得した外国人が起こした複数の事故が報道で取り上げられている。事故が撲滅すべきものであるのは誰もが一致する意見だと思う。外免切替にはついては、意見がいろいろあるだろう。通常の免許取得方法でなく、母国のものを切り替えただけだから事故が起こるかといえばそうではないと思う。しかし、母国で運転するかのごとく、ルールやマナーのことなる日本でも運転するような人をみると、これが事故を誘発することもあるように見えるので、日本のルールの周知は最低限のこととして必要になると思う。ただ、事故を起こす人のほとんどは何をやっても事故を起こすと思う。これは、日本人にも日本にいる外国人にも、外国にいる日本人にも誰にも当てはまることかと思うので、これといった方法がないといえばない。人にはいろいろなタイプがいるが、多様化すればするほど予想がつかない動きをする人の数も増えるので、その分、事故が増加する可能性も高まる。車の運転が簡単になりすぎたのも運転に集中しない人を増やしているとも思う。いろいろな要素がありすぎて何が効果あるのか判らない。安全教育や人をおもいやる教育など、基礎固めが時間がかかるが一番早いんじゃないかとも思う。

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

東南アジアに来たことのある人にとったはあるあるだと思うけれど、とにかく室内が寒い。会議室があまりに寒いため、会議室以外でジャケットを着用することがないのに東南アジア出張には必須アイテムといってよいと私個人は思っている(ほかで着用しないので荷物が増えるだけなので、個人的には迷惑な環境)。寒い国・地方の人が、家のなかでは暖房をガンガンにたいて、室内では Tシャツで過ごせるような温度にしているのと同じ発想だと思う。寒いことや暑いことへの抵抗だと思う。

現在私が暮らす国で、駐在員や転職して数年単位でここに暮らしている外国人の知り合いの個人宅にお邪魔したことはあるけれど、ここで生まれ育った人の家を訪問したことはないので判らないのだけど、自宅でもガンガンに冷房をかけているのか知りたい。今私が払う自宅の電気代は、大家の名義で契約しているものなので、仮に基本料金と外国人料金があったとしても、多分、私は基本料金を払っているのだと思う。そうであっても、ほかの物価に比べて電気代は安くないと思っているので、ここに生まれ育った人々にとっても安いものではないと思う。私が子どもの頃は、エアコンがある家庭はほぼなく、また私の家にも扇風機しかなかったので、いまだにエアコンに電気代を払ってまでも使用することに抵抗があるということも、私のものの見方に影響を及ぼしているとは思う。

私は、事務所ではほぼほぼ出社一番乗りなので、事務所内の照明をつけることが多い。その際に、自分の部屋へたどり着くまでの間に通り過ぎる幾つかの個室からエアコンの音が聞こえてくることが多い。ああ、昨日つけっぱなしで帰ったなとか、こいつ毎日つけっぱなしで帰っているなとか、ひどい時には事務所大部屋のエアコンさえつけぱなしのこともある(前日に最後に帰る人が普通は消すのだけれど、最後になる人によっては消して帰るという概念すらない人がいるように思う。知らなければ仕方ない)。こういったつけっぱなしは家庭でもそうなのか、というのが私の以前からの疑問である。多分、家では無駄な電気は使わないようにしているのだと思うけれど、どうだろう。東南アジアは灯りが派手であるのは街中や車の装飾を見ていればわかるので、電気代より派手さが大事なのかもしれないけれど、それってコストなのに...と思う。ケチケチしなくても何とか生きて行ける国なのだとしたらうらやましいけれど、そうはいっても無駄なのに。

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

ニュースを見てまず笑った。その後、何かを実行しようとするときの熱意がすごいなと思った。必死さといえばよいのか、必ず成し遂げる意思の強さというか(ちょっと前の言葉で GTIT ?)。

熱意は見習うところがある。でも、その熱意を生じさせているものは何なのか。一度のチャンスを逃してはなるまいという社会からの切迫感なのか、カンニング手配師(?)に払った費用が安くなくて費用回収が超重要なのか、TOEIC の有無で極端に変わってしまう人生を過ごしている人たちなのか。

乗っている土俵は違うのだと思うけど、多分、彼らのほうがうまくいった時の上振れ度が激しく高いのだろうというのは想像がつく。どっちがよいのかは価値観による。

国際電話の掛け方をどう説明するか

国際電話の掛け方をどう説明するか

先頭のゼロを含めて電話番号だと思っていたが、そうではなかった。今日まで知らなかった。

業務で必要なSMSが届かない。対外的な取引にあたって、契約書の署名をオンラインですることになった。「契約書の内容を確認しました・受諾します」のボックスにネット上でチェックを入れると、それをトリガーとして SMS で認証コードが送られてきて、そのコードを入力することで契約書の締結が完了する、というプロセスを初めて経験した。

ところが、いくら待っても SMS が送られてこない。相手は欧州の会社で、私から質問して、回答があって、それでも解決しないから再度メールという感じになって、時差もあるため一日 1.5 往復くらいしかできなくて、なかなか解決しなかった。待ちきれなくて電話で問い合わせてしても、IT チームに確認するとかいって、結局、解決しない。

先方との会話の中で、電話番号の登録が正しいかどうかという話になったときに、国コードと電話番号を入力するボックスが別々にあったため、もしかしたら電話に0(ゼロ)をつけたまま登録したら、システムが勝手に0をとる仕組みになっていて、0を含めた登録を求められているかもしれない可能性も疑い、あえて0を入れて登録してみたりもした。

こうした入力方法の違いを試したけどうまくいかないとか、私のいる国の電話会社側の都合で SMS が届かない可能性を疑って、日本の番号である私の私用携帯で国番号 81 で登録してもだめだ、などと相手に説明した。その際に、0をとってみたとか入れたとかいうときに、「国際電話番号だから最初の0をとった登録してあります」という表現をしたのだが、相手からは「電話番号を正しく入力したか?」と聞かれた。なにかうまく意思疎通できていないような感覚がしてきた。私の説明と相手の感覚がすれ違っているような気がしたので、電話番号の定義を調べてみたところ、最初の0は国内通話を示す番号であって、電話番号ではないという事実を知った。もしも誰かが私へ電話するときは、0123-456-789 とダイアルするものの、厳密に言えば、私の電話番号は 123-456-789 ということらしい。固定電話だとすると、東京の市外局番は 3 であると。03 ではないと。はじめて知った。

「国際電話には0をとる」よりも、「国際電話には国番号のあとに電話番号を」という表現の方が過不足のない効率の良い表現であることを知った。何十年も生きてきても、初めて知ることは尽きない。


※ SMS が届かない理由はまだ不明なのだが、どうやら、発信側の欧州の国(スペイン)の SMS は 4 桁のショートコードを使って送信するようだが、私のいる国の携帯電話会社は、5 桁もしくは 6 桁のショートコードからのみ SMS を受信できるようで、4 桁コードから送られてきてもダメっぽい模様。

ただ、欧州側の送信先企業名と「SMS が届かない」をキーワードにネット検索してみたら、SMS が届かないとの苦情の書き込みがスレッドになっているサイトを見つけた。桁数の問題でもない、よく判らない原因でありそうな感じだった。向こうの問題じゃないかと。先方のヘルプデスクに電話しても解決する意欲を感じさせないオペレータさんが殆どだったのは、彼・彼女たちも、解決が不可能な同じ質問にうんざりしていたんだろうなと思った(二人だけ、熱心に話を聞いてくれるオペレータがいたのは助かった、解決はしてないけど)。

ビギナーズ・ラックは実は必然か?

ビギナーズ・ラックは実は必然か?

賭け事にはまっていた人が、はまっていた当時の話をする動画を見た。その中で、ビギナーズ・ラックで勝ったことが忘れられなかったことが、ハマってしまったことの一つの背景のようなことを言っていた人がいた。

私の場合は、競馬や競艇、競輪に行ったことはないが、パチンコは片手の指で足りる回数ながら経験者。私にもビギナーズ・ラックがあった。それもあって、その後に1,2回はやってみた記憶はあるが、ラックが忘れられないということがなく、今日現在では、それ以来、パチンコ店に足を踏み入れていない。

よくビギナーズ・ラックというが、そんなラックがあるとも思えない。もしかして、ビギナーっぽい人を店内カメラで見つけたら、バックヤードで調整して玉を出しているんじゃないかとふと思った。店としては一旦出費となるものの、ビギナーズ・ラックが忘れられなくて通ってくれる優良顧客になるかもしれず、長期的にみれば店の勝ちとなるから、なんてことを思ったりするけど、そんな面倒なことはしなくてもハマってくれる人は勝手にそうなるだろう。

疑い深い性格はよくないね。

センサーが水を流してくれるトイレ

センサーが水を流してくれるトイレ

トイレは人生で非常に重要な施設だと心底思う。心地よく使えるか、使えないか、漏らしてもよいから使いたくないとまで思う施設か。

困っていることの一つに、自動水洗がある。これが便利だと思ったことが人生で思ったことがない。誰が触れたか判らないボタンを押して流すのには抵抗あるが、ちぎったトイレット・ペーパーを使ってボタンを押すこともできるので回避策がある。

しかし、まだ座っている時や、姿勢を少し変えただけで反応して流されるのは好きでない。そういう場所に限って水流が強く、背中やお尻にしぶきが飛んでくるようで怖い。

たまに都会に買い出しに行く時に、決まって利用するトイレがある。そこは、清掃のレベルが安定しているので、特にきれいというわけではないが、使いたくないほどひどいときもないので、家からの長距離ドライブから目的地に到着したら、必ず使用している場所。ここも例外なく、自動水洗なのだけど、この前に気づいたのは、センサー部分にシールで目隠ししてボタンを押さない限り水が流れないように細工してあった。そうか、これかと思ったが、そのために、いつ使うか判らないシールを持ち歩くわけにもいくまい。しかし、目隠ししてあるということは、私と同様に自動が迷惑だと思っている人の人数がそこそこいて、意見としてそのトイレの管理者が取り入れたということは、エポック・メイキングなことだ。

今はそうでもないが、以前に仕事をしていた国では車で移動することが多く、トイレも死活問題だったことがある。例えば、扉をあけた瞬間に便意が吹っ飛んだトイレに出くわしたことも一度あるが、トイレについて心配することを長期間続けていると、長距離でトイレを使いたくないと思う決意が強すぎるためか、目的地や知っているトイレにつくまでの間は、なぜか便意を感じなくなる条件反射のような体質になったりする。水分を控えていたわけではないのにだ。

人体は神秘だ。

英語キーボードでアンダースコアが出ない

英語キーボードでアンダースコアが出ない

もしも同じことで悩んでいる人がいて、これが助けになれば幸い。

英語キーボードがついていて、もとともの英語の言語設定に日本語を追加して使用しているデバイスがある。このデバイスでアンダースコア(アンダーバー)を入力したくても、なぜか「0」のとなりのキーを使っても打てなくて困っていた。しかたないのでアンダースコアを入力する時のみ、スクリーンキーボードを立ちあげて使っていた。

そこそこな頻度でこうしているうちに、やっぱり根本的に直さないといけないと思うようになった。直すというよりは、現在の私の設定を正しく理解して、あるべき設定に戻してあげないといけない、が正しい表現となる。

仕組みは判らないけれど、いろいろ適当に PC 内をいじっていたところ、「設定」→「時刻と言語」→「入力」→「キーボードの詳細設定」にある「規定の入力方式の上書き」を変えたらアンダースコアの入力ができた。何か理由があって日本語設定に私自身がしたのだと思うけれど、英語に設定しなおしたら解決した。そりゃそうだ、とも思ったけれど、「言語リストを使用します」でもだめだった。

これで一つ悩み解消。

自分の好みのコーヒーの味

自分の好みのコーヒーの味

ここ数年の間に好んで飲んできたコーヒーがあるのだけど、もう1年くらい、住んでいる町の店では豆の入荷が滞っている。それでも、2~3か月に一度の頻度で買い出しにゆく都会の店舗では見つけることができていた時もあったのだけど、直近の二度の買い出しでは都会でも買うことができなかった。

コーヒーは嗜好品なので、好みに合うかどうかは非常に重要。飲めればよいという話にはならない。今後も入荷が滞ることを前提に、どうしたらよいか考えてみたところ、簡単な話だけれど似た味の豆を探して買えばよいだろうということに落ち着いた。

そうなると、私の好みを言語化する必要がある。今まで買っていた豆のパッケージには産地とか焙煎の深さとかの記載はあるので、それが他の豆を買う客観的な尺度になるのだろうとは思うけれど、客観的に表すことができない好みを知りたくなって、いままでに代替で買った豆とその味の印象、好き嫌いからいろいろと探るきっかけになって、とても有意義な調査(?)となった。言語化する努力はためになるし、他人に伝えるためにも言語化できた方がよい。

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

通勤時に、横断歩道に停車している車をまた今日もみた。実際は違うのかもしれないけれど、印象としては、運転する日には例外なく、毎日見かける光景。

そこに止めれば便利だし歩かなくて済むのは判るけれど、ほかの人の安全を犠牲にしてまでそうしてはいけないと私は思うのだけど、そこに止める人はそうは考えていないのだろうと推測する。それが他人を危険に陥れることを知らない、気づかない、誰にも教えてもらったことがないのだと思う。

横断歩道への駐車が便利としっていてもマナーとしてそうしないことを、なんというのだろうかと疑問が生じた。やせ我慢?ちょっと違うけれど、ほかに言葉が見当たらない。その後、やせ我慢を英訳するとなんというのだろうとネット検索してみると、「プライドが高すぎて」とか「勇敢さを示すために平気なふりをする(関係ないけれど、平気は関西の人が嫌いな言葉の一つだったような記憶)」という感じの意味を汲む英訳の例文が多くヒットして、横断歩道に停車するという「そっちが楽なのは判っているが、それをやるのは正しくないと信じているので我慢してそれはやらない」に合致していないような気がした。もしかしたら、私が考える内容の概念が言葉を作った人々にないとしたら、その訳語は英語にないのかもしれない(プライド云々の英文としては、例えば、アメリカ男性は痛くても痛いと言わないことが男らしさと思っていた人が多かった時代がかつてはあったので、先に紹介した例文は訳文としては適切だと思う。なお、男性とか男らしさという価値観は適切ならば現代でもあってしかるべきと私個人は考えるが、私のような考えは現代の世間では受け入れずらくなっていることを自覚していることも併記する。だけど、アメリカのメジャーリーガーは、今でも死球を受けても痛いそぶりを見せる人はいない)。

いろいろ考えていると、私の日本語での感想の言語化がうまくできていないのだろうという結論に至った。これは珍しいことではなくて、私の言語化能力が低いことに気づくことは頻繁にあるので、今回のことにも何も驚かない。

あー、日本語力を鍛えたい。

音をたてて歩く人のことが苦手

音をたてて歩く人のことが苦手

オフィスで仕事をしていると、誰が歩いて来るかが靴音で判る人がいる。

今、私が勤務する事務所はカーペット床ではなくてタイル床の事務所(モップで拭き掃除のほうが掃除機より簡単なのかな、まあ、いいけど)。社員の足元を見ているわけではないのであくまでイメージではあるものの、スニーカー率が最高で、東南アジアで気温が高いということもあってかサンダル履きで仕事に来る人もそれなりの比率でいる。日本の男性の革靴のイメージの靴や女性のパンプスのような人はいない。

履物によって音は違うけれど、音を立てて歩く人が一定数いて、その中でどうしても気になる音をたてている人がいる。引きづり足でサンダルがクチャクチャ鳴っている人、普段は聞かないブーツみたいな靴の金具音がするので「あ、出張で〇〇が来てる」なとすぐわかる人、ごく少人数だけどどうしても気になる音をさせる人がいる。その人は、自分の音を判っているはずで、それでも音をさせる歩き方をしているということは、本人たちはそれを気に入っているのではないかと推測する。だから、余計に聞きなすことができない。

会社以外の場所で知らない誰かが、通りすがりのその時だけのわずかな時間、音をさせて通り過ぎる分には何ら気にならないのだけど、同じ人が同じ音をさせて会社を歩き回るのをきいていると、その音が好きでわざと音をさせているように思えて聞きたくなくなる(と、いう今日の感想)。

コンクラーベ

コンクラーベ

新しいローマ教皇を決める選挙が 5 月 7 日に始まり、4回の投票の結果、8日に決着したとのことらしい。教皇になるにはいくつかの条件を満たさないといけないようで、また、選挙は密室で行われるとも伝えられている(子どもの頃に聞いた覚えのあるローマ法王って誰の事だっけと思いネット検索すると、1981 年のヨハネ・パウロ二世の来日時にローマ教皇に呼称を統一した由)。

教皇の影響力は、キリスト教世界に限定されているわけではなさそうなので、私は、世界で生きている人びと全員と同じように、完全無欠な部外者というわけでもないが、一方で、世界の多くの人と同様に、私はキリスト教徒ではないので、教皇の決め方に関する発言権は私にはない。

発言権はないのだが、資格や選び方に制限が多いやり方に対して、別件で同じようなことをしたら声高に文句を言う人たちが、不公正だ、開かれていない、前近代的だ、とかの意見を言わないのがよく理解できない。天皇制やジェンダー問題、ダイバーシティ、政教不分離に意見をいう人のコメントが聞こえてこない。自分が当事者ではないから意見を言わないのか、言っているのにメディアが取り上げていないだけなのか判らないが、ニュースを見聞きしても意見を言っているようなことは聞こえてこない。

この差はどこから来ているのか。

結局は、彼・彼女らのいつもの主張が理路整然とした改善要求・提案ではなく、自分が気に入らない単なる文句だからなのだろう。だから、いつもの文句と同じような問題点がある事柄であっても、意見を述べることはないのだろうと推測する。果たして、そういう人たちの意見に耳を傾けて議論する必要があるのだろうかと思ってしまうが、意見は尊重しないといけないとも私は思う。

ところで、今まで興味なかったのだが、カソリックの組織図(?)は下記のようだ。

・教皇/The Pope:全世界のカソリック教徒の精神的指導者
・枢機卿/Cardinal:司教の中から教皇が自由任命、教皇の最高顧問、任期無、教皇選挙権あり
・司教/Bishop:教皇の自由任命、独身制、教区を監督する聖務職、経験・年齢・経験年数問われる
    聖職者の地位は他の司教と同じで権限のみ大きい大司教もいる(Archbishop)
・司祭/Priest:独身制、助祭の中から市況が叙階、神父(⇔プロテスタントの牧師)
・助祭/Deacon:「助」とついているが固有の業務を規定する方向にある由。
    終身助祭で昇叙はできないが妻帯を許可される終身助祭という階級がある。
・信徒

信徒の人にとっては違いが大きいと思うが、乱暴にラベリングするとすれば、
  【カソリック】   ローマ教皇を中心に団結
  【プロテスタント】 聖書を拠り所、教会組織はわりと自由


よく判らないついでにイスラム教について調べてみると、これも信者の方には失礼な乱暴なラベリングかもしれないが、下記のように違いを述べることもできる模様。
  【スンニ派】 コーランやムハンマドの慣行をまとめたハディースが拠り所
        後継者にはコーランやハディースを解釈する権限はない
  【シーア派】 ムハンマドの特別な資質を受け継いだイマームが信仰の拠り所
        現在、隠れているイマームが再臨するまではイスラム法学者が役割を代行