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Month: 2025年8月

青い車に気をつけろ

青い車に気をつけろ

非常に乱暴に言うと、「青い車をみたら気をつけろ」は運転中の私の座右の銘の一つだ。

流れに乗れていない車や突然に私の走行車線の前に出てくる車が少なくない。率でいえば、私が路上で見かける青い車の中では、そのような動きをする車両がとても多い。その動きをするのは青だけではないが、青の車がその動きをする確率は高い。

色でいえば、青のこの現象以外には顕著なものは他に今のところ見当たらない。
一方、車種でいえば、ピックアップの人は運転が上手でない確率が高いような気がする。これも、下手な人が皆、ピックアップを運転しているわけではないが、ピックアップの人は下手な確率が高いというのが私の観察結果。実際は、下手というとちょっと実際は違うかもしれず、ただしくは運転という行動をするときに、運転にあまり注意を払うことができない人の確率が高いというか。例えば、片側2車線の車線をまたいで走行しているとか(これも、またいでいるのは皆ピックアップということではなくてほかの車種もあるが、ピックアップがまたいでいる確率が高いという主旨。車幅感覚ないのかな?)。

ドイツのアウトバーンでは、オランダ・ナンバーと帽子をかぶった老紳士が運転しているのが後続から見えたら気をつけろ、ということを言うのを聞いた。どちらも後続車両との距離感や速度差を気にせずに車線変更をして追い越し車線に出てくる人、という趣旨だった。印象的にはその通りだったような記憶はあるものの、実際に危険運転をする確率が高かったかどうかは覚えていない。しかし、運転中に両者を発見したときは、いつも以上に慎重になっていた。これは主観としての事実。

日本では、赤い車は警察に目を付けられやすい、という説を唱える人がいたような気がする(黄色だったかな?)。実際に統計をとったら実際には相関はないかもしれないし、運転が下手という定義の設定の仕方によっても結果が左右されるので単純な話ではないが、ある人がどういう選択をするとか好みがあるとかをもっと極めていったら結構面白い研究になるかもしれない。レッテル貼りや先入観につかってはいけないけれど、研究としては面白いのではないか。

バケット・リスト : 死ぬまでにやりたいことリスト

バケット・リスト : 死ぬまでにやりたいことリスト

ネット記事を見ていたら死ぬまでにやりたいことリストについて述べているページがあった。そのリストのことをバケット・リストと呼ぶということを初めて知った(使ってみよう)。いつもの調子で、バケット・リストの語源を知りたくなった。死ぬまでにやりたいことリストをトピックにしているページは、個人のブログのようなものにしても、完全には個人っぽくないものにも共通して、「死ぬの意味の kick the bucket から来ている」という説明ばかりで、語源を説明するサイトにたどり着くことができない。しばらくして、やっと、bucket が首つり時の踏み台のことで(物騒!)、踏み台を自分で蹴っ飛ばすと死んでしまうことだという説明にたどりついた(初めて知った言葉を使ってみようと思ったが、そうすることに躊躇が生まれた)。また、牛や豚の家畜を食用とする際の血抜きをするために脚を上にして逆さにつるす見た目が、梁(bucket)を蹴っているように見えるのが由来、という説明もあった。

人それぞれに言葉の定義があるのは理解するが、私が語源だと思って知りたいのはこの手の説明であって、kick the bucket が死ぬという意味から bucket list という言葉が生まれた、というのは私の定義では理由とは言えず、人によって知りたいことが違うのだということを痛感させられることが多い。

そう、私は面倒くさい人なのだ。(言葉の定義にうるさい親だと子どもの成績がよい、という説を唱えるYouTuberがいるようだ。うんうん。が、しかし、言葉の定義がうるさいのは内なる私だけであって、それを対外的に質問したり誰かとの会話で言及することはしない人でもある)

トイレを示すピクトグラムの色・形

トイレを示すピクトグラムの色・形

ネット・ニュースをみていたら、Yahoo のニュースに、読売新聞オンラインから引用した「トイレのピクトグラムが分かりにくい…青と赤の色分けはもうダメ?」という記事があったので、元記事を見に行った。判りずらいという意見には同意するし、間違って私が入って捕まるのも嫌だし、色や形を男女で決めつけるのはよくないという意見を持っている人のことも承知はしている。しかし、本件について、私は良い案はないし、全員が納得する案が出ることは地球が滅亡する日までないのではないかと思っている。

なので、記事については、また言ってんな、程度の感想しか思わなかったのだけれど、私には失敗談がある。

チェコのレストランで食事をしていた時のこと。用があってトイレに行ったのだが、そこはチェコ語の文字のみがドアに記されていた。一方は忘れてしまったが、もう一方には Pani と書いている。私は男性で、Mr の意味で苗字に Pan をつけて呼ばれることもあったので、Pan の意味のうちの一つは知っていた。なので、Pani は Pan の複数形だろうと勝手に推測をして Pani のドアを開けて入って済ませた。ドアを出てしばらくすると、私が出たドアに女性が入っていった。あれ、と思った(私が Pani の扉の中にいた時には幸いにも誰の出入りもなかった)。

私が男女を間違えて入ったとしたら、男女の設備の違いに用をすますときに気づいてもおかしくないが、ドアから出るまで気づかなかったのがまず不思議。あと、今となってネットで調べてみると、Pani が男性トイレと紹介しているウェブサイトがある。これは個人ブログなのだが、だからって嘘は書いていないだろう。なお、この人の解説では、対になる女性トイレは dámy のようだ。

ほかにネット検索していると、Pani を Mrs と解説するものも見つかった。これも個人ブログ。Mr が Pan で、Mrs が Pani と。

おや、ここで、気づいた。
  Mrs = PANÍ (ある人のブログ)
  男性トイレ = páni (別のある人のブログ)
チャールカ(だっけ?)の位置が違うけど、それ以外は同じスペルだ。これは判りずらい。

「はけ」と「はげ」のように似ていて反対の意味の言葉に近くもあり、「きんかくじ(金閣寺)」と「きんかくし(キン隠し)のように似ているだけで全く違う意味の言葉のようでもある。まあ、それは別の機会にするとして、今度、チェコの人に会うことがあれば、何が正解か聞いてみよう。



当たり前に略語を使われても

当たり前に略語を使われても

日本にいる時からテレビはあまり観なかった。というか、テレビを観なかった期間はもっと遡って、子どもの頃からそうだった。テレビ受信機が一家に一台が普通の時代に育ったので、末っ子の私にはチャンネル権はなかったし、中学を卒業するまでは夜9時には寝ていたので、皆が寝静まってからテレビを観るようこともしなかった。といっても、全く見なかったわけではなくて、夕方に学校から帰宅してから皆が家に帰ってくるまでの短い時間だけは、テレビを観る日もあった。当時、夕方はドラマの再放送が多かったので、人生のテレビ総視聴時間の割には、古い日本テレビのドラマには結構、詳しいかもしれない(TBSでは時代劇の再放送が夕方のお決まりだった)。

そんな感じでもともとテレビを観る時間は多い方ではないが、現在は海外なので日本のテレビを観ることができない。となると、動画を見る場合は YouTube の割合が高いのだけれど、私の好きなジャンルは、スポーツ、ニュース、政治系のチャンネルなど。たまには自己啓発っぽいものを見ることもあるのだけれど、意識高い系のチャンネルになればなるほど知らない略語が登場する。その略語を知っている人のみが当該チャンネルを見に来る資格があるということなのかもしれないが、初めて見に来てくれた人をリピーターにしたいという気持ちがあれば、字幕で何の略かくらいは示して欲しい。あまり一般的でない言葉でも定義や説明なく登場することがとても不満で、その用語を知らない私がおかしいのか、番組の取り上げ方がおかしいのか、そのどちなのかの判断基準すら持ち合わせていないことに少し私は焦りを感じている。

私の読解力を心配している

私の読解力を心配している

最近の話ではなく、もう、ここ数年のことになるのだけれど、自分で読解力が落ちたことを思う機会が多い。

最近の例を挙げると、夏の高校野球甲子園大会の記事で、二つの意味にとれそうな文で、どちらの意味なのか分からない表現があった。

出典①:デイリー 「夏の甲子園 小松大谷は2年連続初戦突破ならず」
出典②:スポニチ 「 【甲子園】 小松大谷は2年連続の初戦突破ならず」

最初にネット記事で①が目に入った。2年続けて初戦を突破できなかった(2年とも初戦で敗戦)のか、昨年は突破したが今年は突破できず、2年続けての突破ができなかったのか、タイトルだけではどちらの意味か判らなかった。内容を読めばわかったのだと思うけれど、そうするまえに②のタイトルが目に入ったので、去年はいけたけど今年は負けてしまったことと理解した。

もしも2年連続で初戦を突破できなかったのであれば、「2年連続初戦敗退」というような表記になるか、あるいはわざわざ2年連続ということを強調するタイトルにしないであろうことは、冷静に考えれば想像できそうなものではあるのだけれど、私がその時に思ったのは、私のように読むのは文法上ありえないのか、あるいは、私の誤解は起こりえることで書き手側に丁寧さが欠けていたのか、一体どっちなのかということだった。私のように理解するのがありえないのであれば、私が日本語を正しく使ってこなかったと反省して済ませることができるが、他方のケースであれば、なんでそんな書き方をするのだろうという単純な疑問である。タイトルは文字数も限られていて簡単ではないことは素人でも想像できるが、スポニチは読者に判るようにタイトルをつけているのだから、むしろこれは、本文を読ませるためにわざと変なタイトルをつけているのではないかとの疑いすら生じる(本当は、そんな疑いは持っていない。書こうとすることが判っている書き手が、読者も判っているだろうというバイアスを抱いてつけた不注意タイトルだと推測)。書き手の実力不足なのか、はたまた、別の理由なのか。周りに日本人がいないので、私と同じように意味に悩んだ人がいるかどうかのアンケートを取ることができないのが残念だ。

過ぎたるは猶及ばざるが如し?

過ぎたるは猶及ばざるが如し?

参院選前の政党の CM で、ボーナスが支給されたのに家族旅行を取りやめたり、昇格後の昇給をあてに部下と約束したおごり呑みをキャンセルする上司など、社会保険料を下げる改革をすると訴えるものがあった。
主旨は判るのだけど、配偶者や部下をあそこまで怒らせる演出って現実離れしていて、なんであんな感じで作ったのかなと思ったという個人の感想。

そうそう、って思った YouTube 動画

そうそう、って思った YouTube 動画

お薦めに出てきた時には毎回のように観てしまう YouTube 動画に、『 謎解き統計学|サトマイ 』がある。結構好きな番組だ。サトマイさんの思考に毎回同意するというわけではないけれど、そんな回であっても気付きは得られるしトークのペースも心地よい。

最近にお薦めでできたものに、『 【話し方】ちょっと何言ってるか分からな過ぎて傾聴どころじゃない 』というのがあった。2年前の動画のようだ。『 「ちょっと何言っているかわからない」話し方になってしまう謎を解説 』ということで、3つの例を挙げている。

最初に取り上げた例が、『 いきなり!固有名詞 』。最初の例で既にそうそうって思った。職場にそういうことが多い人がいる。その人とは、いつもなんとなく喋ることに安心感を持てないでいる。ちなみに、この動画で例に挙げられていた芋煮会については、私は聞いた方、つまりキョトンとした方の人間としての経験がある。

この動画の固有名詞の例で思い出したことがあった。それは、動画の例とはちょっと違うタイプの話なのだけど、固有名詞を知っている単語と誤認したまま話を聞いていた話。いつだったか、日本への旅行期間中に刀博物館に行たいという上司と話をしていた時に、「クリスチャンは刀が大好きなんだ」という話をされた。そんな漠然にキリスト教徒が刀好きだなんて、ざっくりし過ぎで乱暴なラベリングだなあと思っていたら、話の展開からその人の息子の名前がクリスチャンであることが分かった。なあんだ、そういうことか。私の感覚としては、相手が知らないかもしれないのに固有名詞を言及するケースは海外の人に多いように思う(海外なんて言い方も非常に乱暴なラベリングだが)。聞いているほうは、きっと固有名詞なんだろうなと判るので別にいいのだが、会話に置いてけぼりを喰わらせられている意識にはなる。

以前に、「社長は判りやすい話し方をする」(2025年3月18日)という記事で書いたことがあるのだが、私は判りやすい話し方をしないと判って貰いずらいことを認識しながら話さないとだめなくらいの話者レベルなので、判ってもらえるように話したい。このブログも、考えを整理して書き出す練習のために始めたもの。

今の世の中に文句を言うが、作ってきたのは私たち

今の世の中に文句を言うが、作ってきたのは私たち

最近になってニュースによく登場するようになった元議員は、今年7月の参院選後の政局のゴタゴタに関するコメントを求められたときに、自分たちの時代はもっとあーだとかこーだったとか、自分たちはもっと国民のために政治を行う熱意があって、そのために党の中で喧々諤々があったけれど、今の議員は自分たちよりも劣っているといったようなことを言っている。

以前は本当にそうだったかもしれないし、昔はよかった的な美化された過去の記憶の話かもしれない。私は見てきたわけではないので何が真実かは判らないけれど、確かなことは、今の世の中を作ったのはあなた達でもあるし、私たちであることは間違いないと思う。もちろん、政治家のような影響力は私にはないが、今の世の中をつくった流れには私のような庶民にも責任があると思っている。

そのような認識を持っているので、前段のような元議員の発言は聞いていて堪えられない。議員一人で何ができるかというのはあるが、その元議員は党の主要なポジションにもいたこともあり、影響力は別としても発言力はあったはずだと推測する。私自身に言い聞かせる側面もあるのだが、人のせいにしてばかりではダメだと思う。ちょっと例は違うかもしれないが、海外で仕事して生活をしていると、そこで触れ合う人々が持つ日本人に対するイメージを作ることに私の影響も少しはある、というのと似ていると思う。二十年後に日本人の評判やイメージを聞いたときに、そこには私の行いが多少は反映されているかもしれないということを肝に銘じて生活している。

ちなみに、元議員に関して言えば、ニュースでの発言を見ると冷静な分析というより私怨のような感じだし、自分が目上のような話し方だし、父親に信望があったのかもしれないが、彼自身が議員仲間からどうみられていたのか心配してしまうような印象で、それが面白くて、ついついその人が出ていると面白がって見てしまう。ああ、これこそ、時間の無駄遣いだ。

東西南北の感覚。山がある方が南。

東西南北の感覚。山がある方が南。

テレビ番組のトーク内容を取り上げたネット記事、所謂こたつ記事で最近に見たもので、東西南北がわからない人の話が引用されていた。

初めて訪問する土地の場合、山があるほうを北と思うのは太平洋側出身の人で、山がある方を南だと思う人は日本海側の出身の人なのだろうか。もしもそうだとすると、ドイツは、東西南北の感覚の観点においては日本海側の出身者に優しい国かもしれない。平均気温的にも、数℃ レベルとそんなに大きな差異はないものの、北部(例:ハンブルグ)は南部(例:ミュンヘン)より温度が高いと認識(ネットで探したら実際に高い)。

育った土地で培われた感覚は、なかなか忘れない。方角の感覚以外にも、自分の中では当たり前だと思い込んでしまっていることでも、それが育った土地や家族、通った学校や入社した会社など狭い世界の中でしか通用しない事柄は、結構多いのだろうと思う。誰でも何かに属しているため、その背景を除外するのはなかなか難しいと想像する。私は、割とその変は文化的に流暢だと思っているのだけれど、それは、引っ越し経験の多さが多少は影響しているのではないかと思う。一か所に留まることができていないことを、私自身は私の残念な一面だと思っている(同時に、それが良い事であったとも思っている)。長い付き合いの友達とか、昔からの馴染みの店とか場所もないのが残念な一面と思っている理由。だけれど、文化的に流暢であることが身についたのが実際に引っ越し歴からくるものであるとすれば、それはそれでよかったと思っている。

数字は合計をしてください

数字は合計をしてください

私が入社したウン十年前と比較して、今では、事務所を主な仕事場としている人の殆どは、ほぼ例外なく数字に向き合う時間がとても長くなっていると思う。パソコンが会社で一人一台になって30年近くが経つ(私の場合)。パソコンの性能はよくなり、個人のテクニックや技も増えたので、数字に費やす時間の増分以上に、見ている数字の量はもっと増えていると思う。

私の業務は、どちらかといえば数字に向き合うのがメインと言ってよい。自分で数字を扱う場合もあれば、誰かがまとめた数字を読み解く場合もある。今、私が勤務する会社で結構な頻度で気になるのが、桁数の多い数字を扱っている時の小数点や、右揃えでない数字など。人それぞれなのは承知しているし、その数字の意味するものにもよるけれど、100を超える数字には小数点以下は不要じゃないかというのが私の感覚。また、エクセルの数字を中央揃えで資料を作る人が私の周りに結構いるが、全てのデータの桁数が一致していればまだよいものの、そうでなければ、数字の大小(桁数)を一目見てぱっとイメージするのがとても難しいので右揃えにして欲しい。

以上は趣味の問題かもしれないので他人には強要はしないが、合計していない数字を出してくるのはやめて欲しい。例えば4月の売上が 15,5月は 10,6月は 20 というのがあったとしたら、誰もが4-6月で 45 と計算するのではないかと思うが、合計を書かない人がいる。このケースで、例えば計算機で合計するのに10秒かかるだけの項数があるとしたら、合計を書かないことによって、その資料を6人に展開するなら合計60秒の時間を奪うことになる。誰も合計しないだろうと発信者が思っているのか、足し算は必要な人が勝手にやってくれと思っているのか知らないが(きっと全員が必要)、もっと丁寧に数字を扱って欲しい。

私が新卒で入社した会社の配属先部署では、一番若い社員が部の月例会議の資料の定量情報をまとめることになっていて、「数字は合計しろ」と上司や先輩に教えてもらったことを覚えているし、提出する相手に足し算をするための無駄な時間を使って欲しくないと思っていた。今、こんなことを言うと、おおらかな国の会社だったりすると、細かいことを気にしてマイクロ・マネジメントだとか言われたりする。

それでもやっぱり、作成者が足し算しておけば、(さっきの例でいれば)6人が同じ足し算をする必要はなくなるので、そちらの方が断然よいと思うのだが。まあ、このような計算の例で引き合いに出すには少々大げさではあるが、合計しない人は、私が大学時代に商業英語を学んだときに習った you attitude が少し欠けていそうな気がする。相手を慮りすぎる悲しき日本人かもしれないが。

批判ばかりで、いやになる

批判ばかりで、いやになる

動画とかネット・ニュースなどを見ていると、批判が多いと感じる。前からそうだったっけ、と思うくらい批判が多いと感じている。メディアも個人チャンネルも批判が多い。海外でも同様なのだろうか。

少し前の記事で書いたけれど、上の年代の人たちの中には、批判が格好良いと思われていたであろう時代に青年時代を過ごした人がいて、その記憶・体験のままに批判的スタンスの人がいるように想像する。ただ、今の批判調は上の年代の人たちだけがリードしているものではないと思う。なぜなら、どこから何をみても批判が多いように見えるから。

批判のほうが簡単なのは、その人の主張や意見を理解しなくても批判は出来てしまうから、というのもあるように思う。支持したり、代弁するには理解がなくてはできないので、時間も労力も必要になるが、批判は勝手にできるから簡単なのではないだろうか。

ちゃんと話を聞いて、理解して、そのうえで反対するなら反対し、自分と異なる意見も尊重できる人間になりたい。