閲覧者
カテゴリー: ライフスタイル

常夏なので、いま8月であることを忘れてしまう

常夏なので、いま8月であることを忘れてしまう

8月になると、第二次世界大戦や日航機事故を取り上げるニュースを目にする機会が増える。

日本にいたときは、ニュースになっていようがなかろうが、夏が来ると戦争について考える機会がそれ以外の時期よりも増える。季節が出来事を思い出させるという感じ。まさに、「夏が来れば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空」という歌そのものだ。

一方、現在居住している東南アジアは常夏ということもあって、意識しないと今、何月なのかが判らない状況になったりする。何月かの意識が薄くなる、もしくは持てなくなると、日本であれば想起されることがある記憶が出てこないことがある。

必要のない記憶であれば、わざわざ引出の奥から取り出す必要はないといえばそうなのかもしれないが、ふとしたことで思い出す、直接に日々の生活に関連のない事側は意味のない事ではないような気もしている。そこから記憶が展開していって何かの記憶がよみがえることもあるだろうし、脳トレーニングになるかもしれないし、そこで思い出すということがもしかしたら虫の知らせ的に何か意味をもたらす可能性もあるかもしれない(私はオカルト系ではないけれど)。

生まれてからずっと常夏の土地で暮らしている人は、どうやって季節的イベントを記憶しているのだろう。

週末に具合が悪くなって残念

週末に具合が悪くなって残念

週末に体調が悪くなることが多い。これは、今に始まったわけではなくて、就職してしばらくたった頃から、こんな感じだったりする。金曜の昼か午後から具合が悪くなり、日曜夜には翌日に出社できるか心配するのだけれど、なぜか月曜朝には治っているケースが多い。

仕事を休む必要なくていいといえばそうなのだが、週末を有効に使えずに残念に思うことが結構な頻度で発生する。平日は、仕事に追われて具合の悪さに気づかないのか、本当に週末に体調が悪くなるのか判らないが、とにかく、残念。一時、週末になると雨になる時があって、月曜から金曜までの経済活動で排出された大気中のチリが週末に雨となり、月曜日は大気がきれいになってまた晴れる、というようなことを誰かが言っていたような記憶もあるが、私も週末とウィークデイで何か代謝が異なるのだろうか。

もしも週末に体調が悪くなるのであれば、退職後の生活はどうなるのだろうか。まあ、実際は、体調悪い時は曜日に限らず休息をとることができることになるので、多分、現在の週末のような体調の悪いは頻発しないとは思うけれど、人生のうちの動ける間の週末を具合悪く過ごす今の状況を打破できる方法はないだろうか。普段の生活を見直すのが一番なのだろうけども。

青い車に気をつけろ

青い車に気をつけろ

非常に乱暴に言うと、「青い車をみたら気をつけろ」は運転中の私の座右の銘の一つだ。

流れに乗れていない車や突然に私の走行車線の前に出てくる車が少なくない。率でいえば、私が路上で見かける青い車の中では、そのような動きをする車両がとても多い。その動きをするのは青だけではないが、青の車がその動きをする確率は高い。

色でいえば、青のこの現象以外には顕著なものは他に今のところ見当たらない。
一方、車種でいえば、ピックアップの人は運転が上手でない確率が高いような気がする。これも、下手な人が皆、ピックアップを運転しているわけではないが、ピックアップの人は下手な確率が高いというのが私の観察結果。実際は、下手というとちょっと実際は違うかもしれず、ただしくは運転という行動をするときに、運転にあまり注意を払うことができない人の確率が高いというか。例えば、片側2車線の車線をまたいで走行しているとか(これも、またいでいるのは皆ピックアップということではなくてほかの車種もあるが、ピックアップがまたいでいる確率が高いという主旨。車幅感覚ないのかな?)。

ドイツのアウトバーンでは、オランダ・ナンバーと帽子をかぶった老紳士が運転しているのが後続から見えたら気をつけろ、ということを言うのを聞いた。どちらも後続車両との距離感や速度差を気にせずに車線変更をして追い越し車線に出てくる人、という趣旨だった。印象的にはその通りだったような記憶はあるものの、実際に危険運転をする確率が高かったかどうかは覚えていない。しかし、運転中に両者を発見したときは、いつも以上に慎重になっていた。これは主観としての事実。

日本では、赤い車は警察に目を付けられやすい、という説を唱える人がいたような気がする(黄色だったかな?)。実際に統計をとったら実際には相関はないかもしれないし、運転が下手という定義の設定の仕方によっても結果が左右されるので単純な話ではないが、ある人がどういう選択をするとか好みがあるとかをもっと極めていったら結構面白い研究になるかもしれない。レッテル貼りや先入観につかってはいけないけれど、研究としては面白いのではないか。

バケット・リスト : 死ぬまでにやりたいことリスト

バケット・リスト : 死ぬまでにやりたいことリスト

ネット記事を見ていたら死ぬまでにやりたいことリストについて述べているページがあった。そのリストのことをバケット・リストと呼ぶということを初めて知った(使ってみよう)。いつもの調子で、バケット・リストの語源を知りたくなった。死ぬまでにやりたいことリストをトピックにしているページは、個人のブログのようなものにしても、完全には個人っぽくないものにも共通して、「死ぬの意味の kick the bucket から来ている」という説明ばかりで、語源を説明するサイトにたどり着くことができない。しばらくして、やっと、bucket が首つり時の踏み台のことで(物騒!)、踏み台を自分で蹴っ飛ばすと死んでしまうことだという説明にたどりついた(初めて知った言葉を使ってみようと思ったが、そうすることに躊躇が生まれた)。また、牛や豚の家畜を食用とする際の血抜きをするために脚を上にして逆さにつるす見た目が、梁(bucket)を蹴っているように見えるのが由来、という説明もあった。

人それぞれに言葉の定義があるのは理解するが、私が語源だと思って知りたいのはこの手の説明であって、kick the bucket が死ぬという意味から bucket list という言葉が生まれた、というのは私の定義では理由とは言えず、人によって知りたいことが違うのだということを痛感させられることが多い。

そう、私は面倒くさい人なのだ。(言葉の定義にうるさい親だと子どもの成績がよい、という説を唱えるYouTuberがいるようだ。うんうん。が、しかし、言葉の定義がうるさいのは内なる私だけであって、それを対外的に質問したり誰かとの会話で言及することはしない人でもある)

トイレを示すピクトグラムの色・形

トイレを示すピクトグラムの色・形

ネット・ニュースをみていたら、Yahoo のニュースに、読売新聞オンラインから引用した「トイレのピクトグラムが分かりにくい…青と赤の色分けはもうダメ?」という記事があったので、元記事を見に行った。判りずらいという意見には同意するし、間違って私が入って捕まるのも嫌だし、色や形を男女で決めつけるのはよくないという意見を持っている人のことも承知はしている。しかし、本件について、私は良い案はないし、全員が納得する案が出ることは地球が滅亡する日までないのではないかと思っている。

なので、記事については、また言ってんな、程度の感想しか思わなかったのだけれど、私には失敗談がある。

チェコのレストランで食事をしていた時のこと。用があってトイレに行ったのだが、そこはチェコ語の文字のみがドアに記されていた。一方は忘れてしまったが、もう一方には Pani と書いている。私は男性で、Mr の意味で苗字に Pan をつけて呼ばれることもあったので、Pan の意味のうちの一つは知っていた。なので、Pani は Pan の複数形だろうと勝手に推測をして Pani のドアを開けて入って済ませた。ドアを出てしばらくすると、私が出たドアに女性が入っていった。あれ、と思った(私が Pani の扉の中にいた時には幸いにも誰の出入りもなかった)。

私が男女を間違えて入ったとしたら、男女の設備の違いに用をすますときに気づいてもおかしくないが、ドアから出るまで気づかなかったのがまず不思議。あと、今となってネットで調べてみると、Pani が男性トイレと紹介しているウェブサイトがある。これは個人ブログなのだが、だからって嘘は書いていないだろう。なお、この人の解説では、対になる女性トイレは dámy のようだ。

ほかにネット検索していると、Pani を Mrs と解説するものも見つかった。これも個人ブログ。Mr が Pan で、Mrs が Pani と。

おや、ここで、気づいた。
  Mrs = PANÍ (ある人のブログ)
  男性トイレ = páni (別のある人のブログ)
チャールカ(だっけ?)の位置が違うけど、それ以外は同じスペルだ。これは判りずらい。

「はけ」と「はげ」のように似ていて反対の意味の言葉に近くもあり、「きんかくじ(金閣寺)」と「きんかくし(キン隠し)のように似ているだけで全く違う意味の言葉のようでもある。まあ、それは別の機会にするとして、今度、チェコの人に会うことがあれば、何が正解か聞いてみよう。



東西南北の感覚。山がある方が南。

東西南北の感覚。山がある方が南。

テレビ番組のトーク内容を取り上げたネット記事、所謂こたつ記事で最近に見たもので、東西南北がわからない人の話が引用されていた。

初めて訪問する土地の場合、山があるほうを北と思うのは太平洋側出身の人で、山がある方を南だと思う人は日本海側の出身の人なのだろうか。もしもそうだとすると、ドイツは、東西南北の感覚の観点においては日本海側の出身者に優しい国かもしれない。平均気温的にも、数℃ レベルとそんなに大きな差異はないものの、北部(例:ハンブルグ)は南部(例:ミュンヘン)より温度が高いと認識(ネットで探したら実際に高い)。

育った土地で培われた感覚は、なかなか忘れない。方角の感覚以外にも、自分の中では当たり前だと思い込んでしまっていることでも、それが育った土地や家族、通った学校や入社した会社など狭い世界の中でしか通用しない事柄は、結構多いのだろうと思う。誰でも何かに属しているため、その背景を除外するのはなかなか難しいと想像する。私は、割とその変は文化的に流暢だと思っているのだけれど、それは、引っ越し経験の多さが多少は影響しているのではないかと思う。一か所に留まることができていないことを、私自身は私の残念な一面だと思っている(同時に、それが良い事であったとも思っている)。長い付き合いの友達とか、昔からの馴染みの店とか場所もないのが残念な一面と思っている理由。だけれど、文化的に流暢であることが身についたのが実際に引っ越し歴からくるものであるとすれば、それはそれでよかったと思っている。

ナイキが調子悪いというメディア記事

ナイキが調子悪いというメディア記事

ナイキが苦戦しているという記事を読んだ。私は、高校生活のほとんどを昭和で過ごした年代といえばおおよその年齢の察しがつくと思うが、加えて、田舎で育ったこともあって、私がナイキを初めて知ったのは確か中学生の時だったと思う。アディダスがデサントで売られていたころだった。ナイキに話を戻すと、最初に買ったのがTシャツと靴下のどっちだったのか覚えていないが、買った商品のタグに「勝利の女神ニケが名前の由来」という説明が書いてあったことは今でも覚えている。

高校生になって、野球部の友達がナイキのスパイクが格好いいんだよな、と言っていたのを覚えている。当時は、ナイキの野球用品はまだ私の住む田舎では売っていなかったらしい(都会では売っていたのか、都会でも手に入らなかったかは不明)。

どのメーカーの製品を使うかは個人の好みによるし、その好みが商品性能からくるのか見た目の理由なのか、それともまた別の理由があるからなのかも人それぞれ。私ならば、自分がプレーするのに使っていたブランドには思い入れが生じて、引退後も使い続ける動機付けになったりする。そうなると、ナイキの道具をプレーに使ったことのない私にとってのナイキは、ファッション・アイテムという位置づけであってスポーツ用品ではないので、どうしても買いたい商品というものがない限り、ナイキが選択肢に上がってくることはない感じ。私がスニーカーに興味があったりバスケット経験者だったりすると違うイメージを持っていたのかもしれないが、もしかしたら、その考え自体も勘違いからくるものかもしれない。バスケットの人もナイキには思い入れがある人もいれば、ない人もいるだろう。

私は投資家ではないので、ナイキが不調なことにたいして特に影響を受けたりしないし、特定の競技というよりもジェネラルなブランドだからそういう時もあるよね、という感想以上のものはない。

自己流の方が得たものは定着しやすい

自己流の方が得たものは定着しやすい

少し前の日経新聞の記事に、「「自己流落ちる」就活不安あおる情報商材、焦る学生狙う」というのがあった。就活に限らず、うまく行っていない時には何かに頼ってみたり、うまくいってそうな人が紹介する方法やモノに飛びついてみたりしがちではある。

そこにつけ込んで詐欺的な方法で金儲けするのは許せない。のだが、この記事で私の目がいったのは自己流という言葉だった。これまで、私は自己流で物事と向き合うことが多かったような気がする。それは、前任者のいない仕事をする機会が多かったので、どうしても自己流でやらざるを得ない場合が多かったからだと思う。しかし、実のところ、そのような状況になる前から、もともと私は自己流が好きだったのだとも思う。なぜなら、スポーツをやる時も自己流が多いから。スポーツは、参考にしてもよい実例がたくさんの種類あるから、自己流でやらずに一番よさそうなものを選択して見習えばよいはずだから。それなのに、自己流でやり方やそのやり方にたどり着く方法を探ろうとする。

自己流は時間がかかる。トライ・アンド・エラーを延々と続けながら最適解を探す作業になることが高い頻度で起こりえるから。だけれど、自己流で身につけたことや得たことは、定着加減が非常に高いことも多い。しばらくそれに関わることから離れていると、一見、自己流で得たことも忘れてしまったように感じるが、何かのワードなどをきっかけに記憶の引出しがガガーっと開く。最後にそれを言ってから20年たっていても、きっかけがあれが淀みなくスラスラ言うことができたりする。

いろいろあるが、私には自己流にこだわりがある。

よくない兆候?

よくない兆候?

最近は、生活をしていて感想をもつ機会が減ったような感覚がしている。

日常が忙しいということはないので、仕事のストレスとか仕事からの時間的制約くらいしか原因は思い浮かばないけれど、もしかしたらほかにも背景があるかもしれない。2025 年の目標として、「何ごとに対しても感想を持つ」ことを挙げているのに、最近はそれができていない。そう感じるだけ、まだ状況はましなのかもしれない。感想を持っていないことにさえ気付かない状況よりはいいだろう。意識して感想を持つようにしているとすれば、それはそれで目標達成にはならないが、今は、少し意識を強めてみようと思う。

オレンジジュースは胸焼けするのに…

オレンジジュースは胸焼けするのに…

年に一度の検診で上部内視鏡をしてもらうようになってからの3年間は、毎年、逆流性食道炎と食道裂孔ヘルニアとの結果。それより以前では、検診結果で心配になったことで、検診とは別に個人で申し込んで上部内視鏡を10年くらい前に一度だけ受けた。たしか、その時も食道裂孔ヘルニアとの診断だったので、少ないサンプル数ながら打率は10割と言える。

オレンジ・ジュースを飲むと胸やけがする。以前から、出張時の楽しみの一つは宿泊先の朝食なのだけど、今日こそは思いつつも毎回、オレンジ・ジュースで胸やけする。酸味の影響なのだろう。だけど、オレンジを食べても胸やけしない。これはなぜか。絞ってあると濃縮されているのか。ネット検索を少ししてみたけれど、回答らしいものに出会えない。ちょっとしか検索してないけれど。なぜだろう。

週末には空腹感をあまり感じない

週末には空腹感をあまり感じない

脳みそもカロリーを使うのだろうか。運動でカロリーを消費するのはイメージがわく。物理的な動作が伴うので、動けばカロリーを消費するだろう。しかし、動きのない脳みそがカロリーを使うことはイマージしずらい。

ところが、脳みそが何かを燃やして活動している感覚はある。平日はじっとしているのにまず間違いなく空腹を覚えるのに、週末は動いてもじっとしていても、空腹感のないことがあるから(本当のところ、私の場合は、体を動かす程度が高くなると顎が疲れて空腹感がなくなる傾向があるので、動く・動かないという観点では、動かない方が空腹を感じることがある)。就職してすぐの頃は、土曜日は朝から何も食べずに日曜を迎えることも度々あった。その間、寝ていただけとかではなくて、普通に活動しながら、決して我慢していたわけではないけれど、何も食べずに 36 時間以上過ごすことがあった。だけど、平日に無意識のまま食事を抜くことはまずありえない感覚があったし、忙しくて時間がなくても何かを買ってくるとかして空腹を紛らわしていた。

実際のところ、カロリーを使うことと空腹を感じることが直結するのかはわからない。脳がカロリーを必要としているとしても、決して痩せてはいない私なので使っているカロリーは大きくない筈。そうであれば、空腹を感じるまでの消費量でもないはずなので、感覚と人体は一致していないと思う。あるとすれば、脳を使うと血糖値が下がって、それが脳(だけではないけれど)には危険な状態になりうるから空腹感を生じさせて注意信号を発する、とかなのかなあ。専門家ではないので、メカニズムは判らないけれど。

定年退職したら、空腹感から毎日、解放されるのかなあ。そうすると、体重コントロールしやすくなるのかなあ、などと思いながら今日は何を料理するか考える。

有線デバイス信仰

有線デバイス信仰

パソコンをネット環境に接続するために wifi を使うことを除けば、マウスの Bluetooth 接続以外は私には有線接続信仰がある。職場でネット会議につかうヘッドセット、私用で音楽を聴く時に使うノイズキャンセリング・イヤホン、車中でスマホから音楽等を聴く場合の車体とデバイスの接続、それとスマホの充電が、とりあえず思いつく。

ワイヤレスには時差があるとか、有線での電力供給がないので充電切れの心配がある、掛かってきた音声通信にとっさに対応できないことがあるかもしれないといった私の勝手なイメージ先行な部分だったり、食わず嫌いな背景が有線接続信仰につながっていた。

ところが、最近になって考えが変わった。これまでは、動画や音楽、ニュース配信を自宅で見聞きしているときに、例えばトイレに行くにもデバイスを持っていっていたのだが、無線ヘッドフォンがあればデバイスを持っていく必要がないと気付いた。このトイレの例をとると、スマホを手放せない依存症のような面が心配になることはそうなのだけれど、いちいちニュース番組を一時停止するのも面倒だし、トイレとニュース番組は両立できる行動なので時短にもつながるのでできれば聞いていたい(ニュース番組の動画を見ているときは、実際は聞いているだけで画面は観ていないことが多いので)。それと、もっと効果的だと気付いたのは、家で掃除している時など、掃除機を使っている間にヘッドフォンを使うこともためしたが、ポケットにデバイスを入れながら掃除をするとデバイスが意図しない作動をするし、画面を消すと音楽や動画も消えてしまうのだが、Bluetooth 接続にしてデバイスをテーブル等に置いておけば、掃除中もニュースを聞いていることができる。そういった利便性を感じることができる場面が一週間に何時間あるんだ、という疑問がないことはないが、中断する必要がないことには価値があると私は思う。最近の私は、中断するとそのまま忘れてしまうことがあるから。

と、いうことで、自宅用に Bluetooth ヘッドフォンを買ってみようと思う。音を出すことができる自宅でヘッドフォンを使う、というのが意味不明ではあるが、骨伝導タイプのいかにもヘッドフォン、イヤフォンをしていますといった見た目でない Bluetooth イヤフォンであれば、もしかしたら会社で仕事しながら音楽を聴いたりすることもできそうという不純な動機もある。職場の Teams や Zoom 用には掛かってきた通話に直ぐにトラブルなく対応できるようには、有線ヘッドセットを継続使用するつもりだけれど、これまでの先入観を変えるキャンペーンを絶賛実行中の私は、無線デバイスもまた、このキャンペーンの対象にしようと思う。

タイヤ交換 – Michelin はミチェリン

タイヤ交換 – Michelin はミチェリン

先週までのタイヤは 2023年初めから履いているもので、55千kmくらい走ったところ。前輪タイヤにスリップサインが見えそうになってきているのに加えて、多分、道路上の金属製の落とし物を拾ってしまったのだと思うけれど、後輪の片側だけ空気が抜けるようになったこともあって、タイヤ交換をした。

タイヤに特化したガラージは、スーパーに買い物にいく10分ほどの間だけでも10件近く目に入るくらい沢山あって自分で全部みて決めるのは難しそうなため、同じ会社の地元の人にお薦め店があるか聞いてみることにしてみた。

その人の知り合いがやっているという店を紹介されて、とりあえず見積りをとってくれることになった。私の車のタイヤ・サイズは少し特殊で、Michelin と Dunlop の 2ブランドしか見積りは出てこなかった(タイヤは命を守ってくれるものなので、激安メーカーは候補から外すことをあらかじめ伝えていた)。その見積は、店の人から同僚に届いた Whatsapp を私に転送してもらったのだけれど、判らないこともあったので直接その人のところにいって話を聞くことにした。

話をしていると、ミチェリンという単語を何度か聞いた。Whatsapp で文字として Michelin を先に見ていたので、ミチェリンが Michelin で指すことはすぐに理解した。私が今いる東南アジアの国の言葉のルールを適用させるとミチェリンになるものだと、深くは考えずに一旦受け取った。だけど、少し気になったのでネットで Michelin の発音を調べてみようと思った。

まずは、フランス語。やはり原語の確認から。私はあまり耳のセンスがよくない自覚があるので細かなニュアンスを表現できないけれど、ほぼほぼ「ミシュラン」。ああ、よかった。ミシュランが正解だと思い過ごしていたらどうしようと少し恐れる自分がいたので。次は、ロマンス語よしみでスペイン語。ミチェリンだ。「リン」にアクセントのあるミチェリン。ではイタリア語はどうだ。ミシュランだ。仏・西・伊は同じ源流だと思っていたが発音ルールは異なるようだ。ピレネーの壁は高い。次は、英語。米語はミシュラン、英語はミチェリン。ドーバーの向こうがミチェリンで、それより広い大西洋の向こう側がミシュランだ。

発音にルールはあるのか。奥が深い。

ボージョレー・ヌーボーの販売から撤退

ボージョレー・ヌーボーの販売から撤退

メルシャンが、販売から撤退することを報道で知った。それとともに、メルシャンがキリンホールディング傘下なことも、その報道で知った。キリンといえば、何十年か前にニュージーランドのライオン・レッドを買収した。キリンがライオンを買ったのだ。

動物シリーズは横におき、ネット・ニュースによれば、昨年にはアサヒビールがすでにボージョレー・ヌーボーから撤退し、サントリーも休止していたそうな。私はボージョレー・ヌーボーを飲んだことはないが、その年の最初のものを楽しむイベントは別にあってもよいだろうとは思っている。以前にあまりにも騒ぎすぎた反動で、最近になって下火になったイメージがより鮮明になってしまっての撤退だと思う。流行るものはいつか廃れる。日付変更線のおかげもあって世界でも早くにボージョレー・ヌーボーが解禁になる日本は、2000年にはそのおかげで世界で早めに Y2K チップ問題が顕在化するとかも言われたり、その翌年には割と早くに 21世紀を迎えるとかで喜んでいた(確か、太平洋にある島国で、世界で最初に 21世紀を迎えるために 2001年だけ夏時間か何かで時間を調整とかあったような記憶)。

世界で最初、についても横におき、その年の最初には喜びもあるし、ボージョレー・ヌーボーとは違って、実際においしいものもある。代表的なものは、フェダーバイサーだろう。これは美味しい。毎年興奮する。本当に待ち遠しい。これぞ、一番搾りという感じ。瓶に栓をすることができないので(ラップと輪ゴムを栓と言わなければ)、早くに飲まないといけないし、早くに飲んでしまう。
あと、シュパーゲルも、その年の最初は特に美味しい。多分、その年の2回目も3回目も同じように味としては美味しいとは思うけれど、感覚的にはやはり最初が一番美味しい(5月、6月に出されるものは、実際に味が落ちてると思う)。
シュパーゲルは、解禁日は特に決まっていなかったと思うが、最後の日は決まっていたと思う。4月上旬になると、いつからメニューに載るのかワクワクする。最初のものは、早ければどのレストランでもよいわけではなく、好みのレストランで最初に出してくれる日がいつになるのかが重要な情報。終了日が気になって調べたところ、ネット情報によると聖ヨセフの日(6月24日)のもよう。なんでも、この日は初霜の100日前ということで、この時期から畑を休ませる必要があるとの説明を読んだ。収穫されるまでずっと土の中で過ごすホワイト・アスパラ。ついでに聖ヨセフが気になって調べたところ、英語では John とのことだった。フランス人の知り合いで Jean がいるが、彼もヨセフ。チェコ人の Jan もヨセフ。ドイツ人の Johannes は、割とわかりやすいが、本当にアメリカ人は外国のものを全て変えてしまうと再確認(ミュンヘン vs ミューニック、ウィーン vs ヴィエナ等)。

ちょっと話がちらかってしまったが、元の話題に戻るとすれば、キリの良さ(新年とか初日とか)が好きな日本人には、ボージョレー・ヌーボーはイベントとして継続する売主がいてもいいような気がする。

街中での募金に躊躇する私

街中での募金に躊躇する私

私は冷たい人なのか?

街中での募金に躊躇してしまう。どうしてもうさん臭く思ってしまう。募金をしている団体を自分で調べて、正規な団体かどうか調べる方法もあるかもしれないが、そこまでせずに募金もしない私は冷たい人間なのか自問自答する時がある。仮にその団体を調べたとしても、出てきた結果が事実かどうかきっと悩むことだろう。

疑い深い自分が嫌になるときと、それはそれでよかったと思う時がある。適度が一番よいのは明らかだけど、こうなってしまった自分を受け入れる以外にはないので、それはそれで認めている。

だけど、募金を疑い深いことと認識させた人々は罪深い。

黒猫が目の前を横切った

黒猫が目の前を横切った

朝の通勤時に、自宅を出てすぐのところで黒猫が進行方向の車の前を横切った。
ちょうど、悪い話を報告しなければならない予定があった日だったので、何か不吉なことでもあるのかと憂鬱な気分で出勤した(黒猫に出会ったこともあったので運転には注意して出勤)。

あまりネガティブな気持ちでいるのもどうかと思い、なぜ前を横切る黒猫が不吉なのか調べてみようと考えた。曲解できそうな理由であれば、不吉であることを忘れる口実にしようと思った。逆に出る、つまり、逃げようのない確定的な理由があったら気分撃沈になるかも、とはなぜか考えなかった。

ネットで調べたところ、日本では幸運の前兆という受け取り方だというのを見つけた。いままで何十年も生きてきて、私が知っていたのは黒猫が前を横切るのは不吉なサイン、ということだけだったことを知った。つまり、自分では調べたことがなくて、テレビかラジオか書籍なのか判らないけれど、不吉だという海外での受け取り方を誰かに吹き込まれて、それのみを知ったまま今に至ったということだ。

とりあえず、悪い報告を前に少し気が晴れた。それと同時に、自分で確認するのも必要だなあと再認識した。どうでもよいことであれば自分で調べる必要がないかもしれないし、誰がそれを言っているのかによってもあらためて調べてみるというアクションは不要だとは思う。だから、多分、何の疑いもなく不吉だと思ったのだと思う。推測するところ、海外の生活様式やしきたりなどに興味があって、いろいろ調べていた大学生時代にこの認識が刷り込まれたのだろうと思う。それ以来、調べたことがなかったということだろう。

今後は黒猫が横切っても、自分の向きをかえて後ろ歩きをしながら前を横切っていない、という強弁をする必要もなくなったので、コケてケガするリスクが低減したことになる。めでたし、めでたし。

オールブランは何処へ行った?

オールブランは何処へ行った?

ケロッグ・オールブランが店から消えて結構な時間が経つ。

地元のスーパーから消えてから1年くらいが経つだろうか。私が毎週通うスーパーは、ある時は大量に同じ製品が陳列棚にある一方で、在庫がない時期はしばらく棚で目にすることがないことが続く。仕入れの問題なのか納入の問題なのか判らないが、要は安定していない。オールブランもそのうち入荷するだろうと期待しながらの1年である。定期的に買い出しに行く大きな町でも全く見かけない。たまに、いつもと違う系列のスーパーに行くこともあるのだけれど、そこでもない。多分、オールブランが私の住む国から消えてしまったのだろうと疑っている。

しかし理由が判らない。ケロッグ製品はある。オールブランだけがない(ほかの商品は探していないので、本当にオールブランだけないのか実際は不明)。これが余計に謎を深めている。味のないオールブランは本当は好みとは違うのだけど、ほかのシリアルとプレーンヨーグルトにはちみつを掛けて食べる時にトッピングとしてオールブランを振りかけるのが好きだったのに。

天下一品

天下一品

ここ数週の間、天下一品の大量閉店に関するニュースを何度か見た。学生時代にお世話になったラーメン店といえば、神座、横綱、金龍、王将、そしてこの天下一品だった。店舗数の多い天下一品と王将は学生寮から気軽に行く感じで、横綱・金龍・神座は、だいたい道が空いてる夜中にいくのが相場だった。

一緒に行っていた人たちの中では、金龍派と神座派みたいな感じで好みが分かれていたけれど、結局、みんなとどっちにも行った(ミナミに行って行列具合を見てからどっちに行くか選ぶことが多かった)。ただ、神座に関しては、木の長椅子に座って食べる店に行っていた記憶があるのだけど、ネットで店舗を検索するとどれも四角い壁と天井のある店舗しかないようで、現在の何店なのか判らない。

横綱は、ネットの店舗情報を今見ると、当時に住んでいた場所にもっと近い店舗があるようだが、京都の本店に行っていた。大阪の店は新しいのだろうか。たしか、近くにボーリング場があって夜空に向かってレーザーが光っていて、それが近づくともうじき店という感じだったのを覚えている。もう廃止なのだろうけれど、私の中では、横綱=ご飯お代わり自由、横綱=夜中のドライブ、のイメージ。お代わり自由は、学生にはとても有難かった。

天下一品のニュースをみたら、ラーメンの記憶がいろいろと蘇った。

赤ちゃん・ワンちゃん動画

赤ちゃん・ワンちゃん動画

赤ちゃんを見守るワンちゃんの動画は、好きな動画ジャンルの一つ。たまたま開いたネットニュースのページなどにその手の記事を見つければ、その後、いくつか立て続けに観たりする。

いつも思うのは、数多くのほっこり動画の裏に、突然に犬が噛んだりする事案がないものかと心配だということ。多分ないのだろうと思うけれど(ないと願うけれど)、そうなると、どうしてそうなのだろう。ワンちゃんと共通するある匂いを人間の赤ちゃんも発していて、ワンちゃんは見守る対象として認識するのか、家族が大事にする赤ちゃんであることをワンちゃんも理解するのか。でも、後者だとすると、だからこそ逆に嫉妬心から攻撃的になることがないか心配になる。

もし必ずしもほっこり事案だけでないとしたら、よくない事案を誘発するこの手の動画の影響力を心配するけれど、こういった動画は作ろうとしてそうしているのではなくて、日常生活での一コマを撮影しているだけだろうから、多分、そうでないタイプのワンちゃんの場合は距離感のある生活をしているのだろうと想像する。

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

ニュースや動画をみて思う世間とのズレ

何日か前に Nintendo Switch 2 の転売対策を伝えるニュースがネットに流れていた。私はゲームをしないし、ゲームに限らず転売という行為で売りも買いもしないので、このニュースは私にとっては社会問題とその対応をする企業、という第三者的な立場として読んだ。

ニュースをみたときはそれだけだったのだけれど、店頭販売の追加発表があったとか、実際に在庫をみたとか続報があり、人気のあるゲームであることを理解した。ゲームをするのが子どもであるとは限らないので、私の子どもの頃と比べることはできないし、また、私の子ども時代はうん十年も前のことだから時代的な比較もできない。とはいえ、ゲームってこんなに話題になるんだ、という感想を持った。小学生のとき、雨の日だけはゲームを学校にもってきてよいという「雨の日ルール」というのがあった。そんなときに友達がもってきたゲーム(2画面折り畳みが出始めた頃のゲームウォッチやパックマンなど)を借りてやるくらいがこれまでの私のゲーム人生(今後、ゲーマー・デビュするかもしれないので、「これまで」としておく)だったので、ゲームに対する感覚の世間とのズレを感じた。

これはゲームに限った話ではなくて、ほかの話題であっても報道やネットニュースで自分のズレを知ることが定期的にある。報道を含めた発信情報は、見てもらうことが目的であって、正しいことを報じることは目的でないことは判るので、そこと私がズレていることにはいちいち気にしていないのだが、モノによっては、「あー違うな、そうなんだ」と思うこともある。そのズレから生じる感情は、自分の中だけで処理できることもおおいのだが、人付き合いのなかでも感じることがある。そういうときに、ひとによってはとてつもない同調圧力を感じることがある。ちょっと主旨は違うけれど、ダイバーシティでよいじゃないか。