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カテゴリー: ライフスタイル

仕事の場において他者と共通の記憶・経験

仕事の場において他者と共通の記憶・経験

転職を考えた理由のひとつが、他社と共有できる経験がないことだった。異動や他者の転職などで共有できる人が減ってきたわけではなくて、転職を実行に移す前の15年近くはこの感覚をもちながら仕事をしていた。転職を考えるようになってからも、実行する・しないをあっちいったりこっち来たりしていたのだけれど、共有できる経験や共通の記憶、思い入れがある仕事を分かち合えないことが、最終的に転職を決断する背中を押したような気がする。

会社の規模(社員数)も様々なうえ、入社から一貫して同じ分野の仕事をすることが多い会社もあれば、定期的な転勤・異動が当たり前な会社もあるので、他社と共有できないのが当たり前な感覚を持っている人もいるかと思う。しかし、共有する対象は、必ずしも業務や案件のような具体的事項である必要はなく、例えば、仕事の仕方や携わっている業界の考え方などもっとざっくりした価値観のような場合、人数が多かったり人の出入りがあったとしても、割と他社と共有できる何かがあると私は思っている。実際、入社してから何年かは、そのような阿吽というかツーと言えばカーというか、共有できるものをもって仕事をしていた記憶がある。業界や仕事あるあるもその類。

共有感の有無によって仕事の成果が変わってはいけないし、仕事はドライにやる時代でもある。共有感を押しつけと感じる人もいるだろう。適応していかないといけないな。

かえるの鳴き声、虫の音

かえるの鳴き声、虫の音

外国に住んでいると、日本で聞こえる音とは違うと感じることがある。日本の中であっても、都会に住むか田舎か、地面に接している戸建てなのか集合住宅なのかで違いがあるけれど、国が違うと根本的な違いがあるように感じる。

今住んでいる国は、音があまりないイメージがあった。住む物件は変わっているけれど、今の町での数年の居住歴をふまえてのイメージ。ところが、先週あたりに日本で聞き覚えのある音に気が付くようになった。田んぼ近くでよくきくカエルの鳴き声だ。季節要因はあるかもしれないけれど、今の物件に住んでから暦が一周しているので、前年同期比はできるはず。仕事からのストレスフルな生活が続いているのは確かだけれど、カエルの鳴き声に気付かないほど耳がふさがっているわけではないとは思う(そうであったら、健康状態が心配)。なんだろう。

そんなことを考えていたら、日本の音の記憶がよみがえった。いろいろな音の記憶があるけれど、日本であって(一部のヨーロッパでもある)今居る東南アジアにないものの一つが無音の世界。冬の日にしばらく音がしてないなと思って窓の外を見ると、雪が降っていたというようなことがある。そのとき、感触としては無音というよりも、「しーん」という音がしている感じ(マンガの吹き出しに「しーん」と空気中に書いてある感じ)。あと、冬の空気がはりつめた朝も、「ピーン」(ちょっと違うけれど表現できない)という音がしているイメージ。

匂いもちょっと日本と違う感じ。子どもの頃から馴染みのある雨の日の匂いはここでは感じない。最近になって、雨の匂いはアスファルト説だったり植物の油説だったり解明に近づいている感じがするが、東南アジアで雨の匂いを感じないのがコンクリート道路が多いせいだとすると、アスファルト由来説が有利か(植物が違うからかもしれない)。

音にしても匂いにしても、情緒に訴えかけるものは日本の方が多い感覚がある。日本のものは子どもの時からの長い時間を経た記憶だったり、大人になってからも思い出と匂いがリンクして感傷的だからそう感じるだけかもしれないが、過去の記憶と思い出は消せないものなので仕方ない。日本のほうにアドバンテージがある。

今は違く目的があって出稼ぎみないな状態になっているけれど、いずれは日本に帰るつもりなので、しーんという音や雨の匂いを感じるのを楽しみにしている。

野菜が食べられるようになった

野菜が食べられるようになった

小さい頃は野菜を食べられなかった。自分が育った家の例しか判らないので、それが一般的かどうか判らないが、私が育った家では、おかずは大皿で出されていたので、好きなおかずだけ取って食べるということができたため、野菜嫌いで特に不都合はなかった。唐揚げの周りにブロッコリがあったとしても、唐揚げだけをとることができた。これが、もしもひとりひとりの皿に盛りつけされていて、そこに野菜を盛られていたら、どうなっていたことだろう(給食で困った記憶がないのだが、それがどうしてかの記憶がない。誰かに食べてもらっていたのかも)。

野菜嫌いのパターンとしては、たしか、何度かチャレンジしたけれど克服できなかった、というケースだったと記憶する。

そんな私が中学生の時に、母親以外にお弁当を作ってもらう初の機会があった。修学旅行の初日の昼の弁当を同級生が作ってくれた(自分が持ってきたであろう弁当をどうしたのか覚えていない。事前通知があった記憶もないので、自分の分を持っていたはず)。単純、簡単な話ではあるが、私はその日を境に野菜を食べるようになった。まあ、よくありがちな話ではあるし、この出来事がなかったとしてもいつかは自発的に野菜を食べるようになっていただろうとは思うけれど、中学生で食べられるようになったこの出来事には感謝の気持ちをもっている、ということをふと思い出した。今日のスーパーでの買い物かごには、自分でも信じられないくらいの野菜が入っていた。当時に比べたら成長したなー。

ネット検索結果にもバッヂを

ネット検索結果にもバッヂを

辞書を使わなくなった。厳密にいえば、製本された辞書を使う頻度が下がってからは十年以上経つと思うけれど、ここ数年は、PC にいれている辞書アプリも使わなくなった。どうしているかといえば、多くの人もそうだと想像するけれどネット検索をしている。

辞書アプリの不使用は、勤務先の IT セキュリティも一因。転職前は、セキュリティが厳しくなる前の時代から使っていた辞書アプリがあった。それを使い始めてから PC は何度かの代替わりを経たが、IT の部署がユーザーのデータやファイルをすべて移植してくれていたおかげでずっと使えていた(標準外アプリも新 PC に移してくださいという依頼を行う必要があったが、それが否認されることはなかった)。今の会社への転職は少し前のことなので、すでに世の中の多くの会社は IT セキュリティにセンシティブになってからなので、転職時に貸与された会社 PC はセキュリティ設定がガチガチで、標準外アプリをユーザーで入れるのは不可能だし申請が認められることも難しく、以前につかっていた辞書アプリは私用 PC でしか使える環境にない(私用タブレットを毎日持って出勤しているが、業務中に取り出してまで調べようとは思わない)。

ネットを辞書替わりに利用するメリットは結果を得るのが早いこと。今やっている作業に必要な言葉を調べているわけなので、ネット検索は作業が中断する時間を短縮できる。手は PC キーボードにおいたままだし、視線をディスプレイから外す必要もない。一方で、ネット検索のデメリットは、新しい語彙が頭に残りずらいなどの副作用が生じやすいのが私の場合だが、これは私だけではないだとうろと思うので、また別の機会に考えてみるとして、最近にイライラが増してきたのは、ネット検索にヒットする上位結果が必ずしも正解とはいえないケースが増えてきたように感じることだ(ヒットする結果が増えたことで、正解でないものを拾ってしまうケースが増えたということだろうか、それとも私の感覚が間違っているのだろうか)。

和訳をネットに尋ねた場合、生まれてから日本語を母国語としてきたので、結果に違和感があっても主旨は何となく理解できることから、自分なりの言葉に置き換えることなどができるので問題は多くない。英訳の場合はちょっと違う。検索結果が間違っているような気がする場合が結構あって、結局、その英単語を調べなければならなくなることが多い。特定分野の用語の場合は仕方ないこととあきらめているが、一般名詞や語句の場合でも調べ直す機会が多くて困っている(自分の語彙の少なさが問題なのと、細かいことを気にしすぎなことが理由であることが判っているが、言葉を定義通りに使わないと間違って相手に言葉が伝わる可能性があると信じている面倒くさいのが私なのです)。いっそのこと、「これは各単語の意味を連結しただけの直訳です」とか、「これはネット上でみつけた用語集から引用したものなので架空のものではありません」とかを検索結果に並べて宣言してほしいと思っている。それくらい、人工知能でできるだろう。

調べ直し自体は製本された辞書を利用していた当時もあったし、調べた目的の意味以外の意味や調べた単語の近くにある別の単語に興味が湧いて、辞書を開いた目的とは関係のないことに時間を費やしてしまうことはよくあった(そのおかげで知識を広げることができたこともあった)。だが、ネット検索は、重要性の低い調べごとをするときに手抜きするためのものだと私は思ってきたので、それを使った結果、余計な時間や手間がかかるのは心情的に許せない部分がある。

そうか、許す心を持てはよいのか(この記事のテーマと違う結論だ)。

就職氷河期世代への支援

就職氷河期世代への支援

氷河期世代への支援をテーマに出演者が話し合う番組を動画でみた。どんな結論だったか忘れてしまったけれど、議論のなかで新卒で失敗してもやりなおせる社会に変えてゆくことが大事という意見を言っていた人がいた。

氷河期時代に新卒で非正規からはじめた人には今でも厳しい社会であると想像するけれど、新卒で正規雇用された人については、転職に対する労使双方の見方が変わってきたことで、以前よりはセカンド・チャンスの機会は創出されていると思う。

以前よりましだからいいじゃないか、というつもりは毛頭ないが、新卒への教育に掛けた決して小さくないコストで自社仕様に育て上げた社員がいるので、なぜセカンド・キャリアで採用するかといえば、多分、専門知識を持っている人があらたに自社に戦力として入ってきてくれることを期待してのことだと思う。

日本の新卒採用で私がよいと思っていることは、大学で学んだことと違う分野で採用・配属が行われること。デメリットもあるけれど、よい点のほうが上回っていると私は思う。大学の専攻と関係ないからこそ、配属後に OJT で徹底的に鍛える必要があるし、一人前になるまでに結構なコストがかかっていると思う。この状況を変え、セカンド・キャリアの流動性をあげようとすると、セカンド・キャリアで入ってくる時は勿論のこと、社員教育にコストをかけないとすれば、新卒の時点でも専門性を身につけた人を採用しようとするだろうし、専攻分野によって就職先が限定されてきて、新卒の門戸や選択肢が狭まる結果になるような気がして、そっちの方が副作用が大きいように思う。これが極々一部の大企業にのみ当てはまることで無視してよい話ならばよいが、私には専攻と関係ない会社に勤める機会があることは結構、重要なことだと思っている。また、何か単一分野の仕事はしてきたが、その分野でのスペシャルな技能がない人の場合、何年経験をつんだとしても職種が高度化することもないだろうから、昇給する機会も少なそう。スキルが上昇しなければ、身に着けたスキルでキャリア・アップ転職の機会もなく、もし転職をするならば、同じ仕事でちょっとだけ待遇がよさそうな会社を見つけた時にしか起こらなそう。

氷河期とかセカンド・チャンスとか関係なく、全ての国民が最低限の生活を送れことができる制度や仕組みのある国にしてくれるのが一番ということになるのだろうか。年代や性別、住む地域などで不公平のない社会、かといって結果を出せた人とそうでない人とが同じ処遇を受けるのではなく、頑張った人はその報酬を得ることを誰にも邪魔されない社会。それと、今ある色々な問題の多くに共通すると思うのだけど、教育が非常に重要だと思っている。

メールアドレスを決める時に思ったこと

メールアドレスを決める時に思ったこと

フリーメールでメールアドレスを新しく決める時に、ユーザー名をできる限り簡単にしようとすると、まず間違いなく、既に使用者がいると思う。例えば、mail@ドメインというアドレスは誰もが考えるもので、誰かが使っていると思う、調べるまでもないと思って調べたことないけれど。

そんなこともあって、独自ドメインなら簡単なユーザー名でも重複しないだろうということでドメインを取得して簡単なユーザー名のアドレスを作ってから、既に何年かが経つ。ところが想定外というか、約1年くらい前からスパム・メールが来るようになって、その後、増加している。毎日届くわけではなくて、受信数に波があって、届く時は毎日届くけれど、しばらく届かない時期もある。プログラムされているならある一定の法則で送られてきそうだけれど、受信する方から見えるのは一定ではない感じ。

ウェブサイトの登録などからアドレスが漏れたのが原因かと思ったのだが、調べてみたら、そうでもなさそうなことを知った。独自ドメインの登録情報は開示されることになっているので、その存在は誰でも知ることができるため、そのドメインに簡単な単語を適当に組み合わせることでスパムを送る対象になりえるらしい。よかれと思って簡単なユーザー名でアドレスを作ったのだが、それが仇となった模様。基本的に知らないアドレスから来たメールは開かないため、本文テキストにあるであろうリンクを誤ってクリックすることもないのだけれど、スパムが送られてくるだけでも気分が悪い。

そこで、ちょっと複雑な日本語を含むユーザー名を考えたときに、ことわざとか四字熟語はどうだろうと思い浮かんだ。座右の銘のような言葉だったり、示唆のある熟語や歴史にちなんだものなどの候補とともに、身近な話題として私の性格を表す言葉なんかはどうだろうとも思った。このくくりでいくと、私は、結構、淡々としていると自分では思っているので、その方面で「淡々」をネット辞書検索すると、淡々関連のことばには執着がないという意味が含まれる率が高かった。私は淡々とはしているものの執着は結構ある方だと思っているので、どの言葉の候補も「これだ」というものが見当たらない。

自分が思っているほど実際は執着していないのか、あるいは逆に実は淡々としていないのか、何が自分の姿か判らなくなった。ああ、大変だ。メールアドレスを作るだけだったのに、意識が別のところに移ってしまって、面倒なことになった。やっぱり淡々としていると思っていたのが間違いだったのか。

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

東南アジアに来たことのある人にとったはあるあるだと思うけれど、とにかく室内が寒い。会議室があまりに寒いため、会議室以外でジャケットを着用することがないのに東南アジア出張には必須アイテムといってよいと私個人は思っている(ほかで着用しないので荷物が増えるだけなので、個人的には迷惑な環境)。寒い国・地方の人が、家のなかでは暖房をガンガンにたいて、室内では Tシャツで過ごせるような温度にしているのと同じ発想だと思う。寒いことや暑いことへの抵抗だと思う。

現在私が暮らす国で、駐在員や転職して数年単位でここに暮らしている外国人の知り合いの個人宅にお邪魔したことはあるけれど、ここで生まれ育った人の家を訪問したことはないので判らないのだけど、自宅でもガンガンに冷房をかけているのか知りたい。今私が払う自宅の電気代は、大家の名義で契約しているものなので、仮に基本料金と外国人料金があったとしても、多分、私は基本料金を払っているのだと思う。そうであっても、ほかの物価に比べて電気代は安くないと思っているので、ここに生まれ育った人々にとっても安いものではないと思う。私が子どもの頃は、エアコンがある家庭はほぼなく、また私の家にも扇風機しかなかったので、いまだにエアコンに電気代を払ってまでも使用することに抵抗があるということも、私のものの見方に影響を及ぼしているとは思う。

私は、事務所ではほぼほぼ出社一番乗りなので、事務所内の照明をつけることが多い。その際に、自分の部屋へたどり着くまでの間に通り過ぎる幾つかの個室からエアコンの音が聞こえてくることが多い。ああ、昨日つけっぱなしで帰ったなとか、こいつ毎日つけっぱなしで帰っているなとか、ひどい時には事務所大部屋のエアコンさえつけぱなしのこともある(前日に最後に帰る人が普通は消すのだけれど、最後になる人によっては消して帰るという概念すらない人がいるように思う。知らなければ仕方ない)。こういったつけっぱなしは家庭でもそうなのか、というのが私の以前からの疑問である。多分、家では無駄な電気は使わないようにしているのだと思うけれど、どうだろう。東南アジアは灯りが派手であるのは街中や車の装飾を見ていればわかるので、電気代より派手さが大事なのかもしれないけれど、それってコストなのに...と思う。ケチケチしなくても何とか生きて行ける国なのだとしたらうらやましいけれど、そうはいっても無駄なのに。

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

TOEIC 不正受験にスマートグラスまで使うか?

ニュースを見てまず笑った。その後、何かを実行しようとするときの熱意がすごいなと思った。必死さといえばよいのか、必ず成し遂げる意思の強さというか(ちょっと前の言葉で GTIT ?)。

熱意は見習うところがある。でも、その熱意を生じさせているものは何なのか。一度のチャンスを逃してはなるまいという社会からの切迫感なのか、カンニング手配師(?)に払った費用が安くなくて費用回収が超重要なのか、TOEIC の有無で極端に変わってしまう人生を過ごしている人たちなのか。

乗っている土俵は違うのだと思うけど、多分、彼らのほうがうまくいった時の上振れ度が激しく高いのだろうというのは想像がつく。どっちがよいのかは価値観による。

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ニュースで知った、二人っ子政策をしていることを。しかも、導入されたのが 1998年とのこと。もう四半世期も継続していたことを知らなかった。

ベトナムの人口についての私のイメージは、年間 1百万人ずつ増加する若い国というイメージだったので、その増加数からいって、政策で制限しているなどとは想像もつかなかった。背景には、合計特殊出生率が 2024年に最低を記録したことなどのもよう。ベトナムがそのような状況なんだと思っていると、これはベトナムだけの問題ではなく、少子化が遠くない将来に問題になりそうな国が少なくない模様。

ちょっと話は逸れるが、すでに存在する製品よりも環境面に優れた新商品が出てきた場合、真っ先に投入される市場では、当然、初めての製品が浸透するには時間を要すが、ある程度、新製品が認知されている国・市場があれば、それに続く市場では急激な市場シェアの獲得が期待できる。それと少子化の問題は異なる性質ではあるものの、少子化とは縁遠そうな国が実は先進国市場よりも、タイミングは後だとしても、先に少子化を経験した国々よりももっと急激な少子化へ突き進むことはあり得る展開だと思う。

経済が成長し、生活のコストや教育への投資が高額になるほどに、夫婦ともに働く必要が生じるし、また、社会が高度化すれば社会との関りに男女の別も関係なくなる。結婚するカップルのもとでは出生率はもしかしたら大きくは減らないかもしれないが、結婚しない人もしくは結婚システムに入らないカップルの比率が増えると、それはイコール出生しない選択肢をとる人たちということになるかもしれない。そうすると、どうしても社会の成熟とともに少子化になるのは仕方ないことかもしれない。

私個人でできることはあまりなさそうだけど、今回のベトナムの政策変更に係るニュースに触れたことで、ニュースは偏りなく入手する必要があると再認識した。ニュースを知ってどうする、とは思わない。かりに、直接自分には関係なくても、いろいろなことを知れば知るほど考える機会や感想が増えて自分の引出しが増えると思うし、考えることはボケ防止にもよいかもしれない。

前の車の、その前を走る車が見えない

前の車の、その前を走る車が見えない

車を運転していて感じるのは、以前は、何台か前の車の動きまで見えていたのに、最近は、自分の目の前の車しか見えないな、ということ。

私はできるだけブレーキを使わない運転を心がけているので、前の車だけではなくて、それより前の車の動きも見るようにしているのだけど、前の方を見通すことができない車が増えた。ある程度新しい車だと、ほぼほぼ全車、前を見通すことができない印象。一つにはリアガラスにフィルムが貼ってあって透過性がないこと、二つ目にはデザインなのかガラス重量を減らして燃費改善なのか判らないけれどリアウィンドウが小さくなってきていること(加えてリアウィンドウに角度がついていて前を覗くことができる面積が余計に狭い)。

その分、車間距離をとれということだろうけども、急ブレーキかける人やウィンカーを使わない人とかいるので、車間距離だけでは怖くてやはりもっと前を見たい。フィルムを張ることで車内スペースにプライベート感が出て乗り心地が改善したり、UVカットの効果があったり、また、エアコンの出力を抑えて燃費改善効果が期待できたりもするのだろうけれど、もう少し色を薄くしてもいいんじゃないかと思う。危ないのはよくない(車間距離をもっととればよいのだろうけど)。

たいしたものじゃない

たいしたものじゃない

行き詰まりを感じることがある。それでも、毎日、仕事をしに会社へ行くし、ご飯も食べる。だから、深刻な行き詰まりではないと思っている。

行き詰まりを感じるもとは仕事からきている。プライベート・ライフがあるような生き方をしているわけではないので、例えば、友人関係に悩むことで行き詰まりを感じることはない。結局、仕事が日常生活にも感情にも大きく影響を与えている。

具体的には、思うような成果をあげられていないことや、業務とスキルが合っていないと感じていることなどにスッキリしない感情があって、それが行き詰まりという感情になっているかと思う。そう思う背景には、成果を上げていた自分が過去にいたと思うことや、自分のスキルがその当時の業務にうまい具合に活用できた経験が都合の良い記憶(良い思い出)として残っているというのが潜在意識にあって、それとの比較で行き詰まっていると感じているのだと思う。

しかし、冷静に考えてみると、良い時がそんなに長い時間あったわけではないし、大学卒業までも順風満帆な子ども生活・学生生活を送っていたわけではない。そこは、自分の人生を否定するほどの悪いストーリがあったわけではないのだが、単純に、今、行き詰まりを感じるほどの良い生活を以前に送っていたかといえば、それほどでもない、という程度のこと。

つまりは、大したものではないということ。それに気づいたら、もう少し楽にやっていけそうな気がしてきた。だけど、全力は尽くすつもり。

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

通勤時に、横断歩道に停車している車をまた今日もみた。実際は違うのかもしれないけれど、印象としては、運転する日には例外なく、毎日見かける光景。

そこに止めれば便利だし歩かなくて済むのは判るけれど、ほかの人の安全を犠牲にしてまでそうしてはいけないと私は思うのだけど、そこに止める人はそうは考えていないのだろうと推測する。それが他人を危険に陥れることを知らない、気づかない、誰にも教えてもらったことがないのだと思う。

横断歩道への駐車が便利としっていてもマナーとしてそうしないことを、なんというのだろうかと疑問が生じた。やせ我慢?ちょっと違うけれど、ほかに言葉が見当たらない。その後、やせ我慢を英訳するとなんというのだろうとネット検索してみると、「プライドが高すぎて」とか「勇敢さを示すために平気なふりをする(関係ないけれど、平気は関西の人が嫌いな言葉の一つだったような記憶)」という感じの意味を汲む英訳の例文が多くヒットして、横断歩道に停車するという「そっちが楽なのは判っているが、それをやるのは正しくないと信じているので我慢してそれはやらない」に合致していないような気がした。もしかしたら、私が考える内容の概念が言葉を作った人々にないとしたら、その訳語は英語にないのかもしれない(プライド云々の英文としては、例えば、アメリカ男性は痛くても痛いと言わないことが男らしさと思っていた人が多かった時代がかつてはあったので、先に紹介した例文は訳文としては適切だと思う。なお、男性とか男らしさという価値観は適切ならば現代でもあってしかるべきと私個人は考えるが、私のような考えは現代の世間では受け入れずらくなっていることを自覚していることも併記する。だけど、アメリカのメジャーリーガーは、今でも死球を受けても痛いそぶりを見せる人はいない)。

いろいろ考えていると、私の日本語での感想の言語化がうまくできていないのだろうという結論に至った。これは珍しいことではなくて、私の言語化能力が低いことに気づくことは頻繁にあるので、今回のことにも何も驚かない。

あー、日本語力を鍛えたい。

人間関係が構築されて断り切れない状況

人間関係が構築されて断り切れない状況

ママ友を闇バイト(そろそろ、犯罪と詐欺とかに表現を変えるか?)に誘い商品を騙し取った罪にとあわれた被告の裁判があったと報道されていた。いろいろなメディアが報じる中で、犯罪ジャーナリストの人からコメントを取って報じるメディがあり、そのコメントして「人間関係が構築されて断り切れない状況で誘うケースもある」というものが引用されていた。

このニュースとは全く関連のない話ではあるが、この記事をみて思ったのは、私も断るのが苦手なことだ。本当は乗り気でないがいいよと言ってしまうことが多い。逆に、酒宴やゴルフのお誘いなどは、特に海外にいると決まりきった日本人の狭い世界のメンバーになりそうなことがあらかじめ想像がつき、また、その狭い世界からのお誘いを時々であっても断ることができないであろうことも予想できるので、私は最初から避けようとしてしまう。

これは、海外にきてからより強い傾向になっている。日本では仕事場、地元、家族関係などのしがらみの種類も多く、その中で必要と思えばお付き合いもしていたが、海外ではほぼしがらみがない分、あまり参加しないことを気にしなくなってきた。それで孤立する人もいればそうでない人もいるし、本当に人それぞれで何があっているが合っていないかは千差万別であるが、どうやら私にはこれがあっているような気がしている。

人との関係が少なくて、果たしてこれで生きているのかってことを疑問に思う瞬間もあるのだが、仕事を通じて世界や社会との関わりはあるので、まったく浮世離れしているわけではないということにしている。

コンクラーベ

コンクラーベ

新しいローマ教皇を決める選挙が 5 月 7 日に始まり、4回の投票の結果、8日に決着したとのことらしい。教皇になるにはいくつかの条件を満たさないといけないようで、また、選挙は密室で行われるとも伝えられている(子どもの頃に聞いた覚えのあるローマ法王って誰の事だっけと思いネット検索すると、1981 年のヨハネ・パウロ二世の来日時にローマ教皇に呼称を統一した由)。

教皇の影響力は、キリスト教世界に限定されているわけではなさそうなので、私は、世界で生きている人びと全員と同じように、完全無欠な部外者というわけでもないが、一方で、世界の多くの人と同様に、私はキリスト教徒ではないので、教皇の決め方に関する発言権は私にはない。

発言権はないのだが、資格や選び方に制限が多いやり方に対して、別件で同じようなことをしたら声高に文句を言う人たちが、不公正だ、開かれていない、前近代的だ、とかの意見を言わないのがよく理解できない。天皇制やジェンダー問題、ダイバーシティ、政教不分離に意見をいう人のコメントが聞こえてこない。自分が当事者ではないから意見を言わないのか、言っているのにメディアが取り上げていないだけなのか判らないが、ニュースを見聞きしても意見を言っているようなことは聞こえてこない。

この差はどこから来ているのか。

結局は、彼・彼女らのいつもの主張が理路整然とした改善要求・提案ではなく、自分が気に入らない単なる文句だからなのだろう。だから、いつもの文句と同じような問題点がある事柄であっても、意見を述べることはないのだろうと推測する。果たして、そういう人たちの意見に耳を傾けて議論する必要があるのだろうかと思ってしまうが、意見は尊重しないといけないとも私は思う。

ところで、今まで興味なかったのだが、カソリックの組織図(?)は下記のようだ。

・教皇/The Pope:全世界のカソリック教徒の精神的指導者
・枢機卿/Cardinal:司教の中から教皇が自由任命、教皇の最高顧問、任期無、教皇選挙権あり
・司教/Bishop:教皇の自由任命、独身制、教区を監督する聖務職、経験・年齢・経験年数問われる
    聖職者の地位は他の司教と同じで権限のみ大きい大司教もいる(Archbishop)
・司祭/Priest:独身制、助祭の中から市況が叙階、神父(⇔プロテスタントの牧師)
・助祭/Deacon:「助」とついているが固有の業務を規定する方向にある由。
    終身助祭で昇叙はできないが妻帯を許可される終身助祭という階級がある。
・信徒

信徒の人にとっては違いが大きいと思うが、乱暴にラベリングするとすれば、
  【カソリック】   ローマ教皇を中心に団結
  【プロテスタント】 聖書を拠り所、教会組織はわりと自由


よく判らないついでにイスラム教について調べてみると、これも信者の方には失礼な乱暴なラベリングかもしれないが、下記のように違いを述べることもできる模様。
  【スンニ派】 コーランやムハンマドの慣行をまとめたハディースが拠り所
        後継者にはコーランやハディースを解釈する権限はない
  【シーア派】 ムハンマドの特別な資質を受け継いだイマームが信仰の拠り所
        現在、隠れているイマームが再臨するまではイスラム法学者が役割を代行

外国暮らしの気分

外国暮らしの気分

東南アジアの国で仕事をしているけれど、ウィークデイは家と会社の往復だけで、ウィークエンドも家事と休息、少しの仕事など家で過ごす時間のほうが長いので、外国暮らしをしている感覚はほとんどない。出社しても日本語を使うことはないし、街でも日本人に会うことはないので、周りは完全に外国なのに外国暮らしを感じることがない。

周りの人と比較すれば、私は海外にいる期間は長い方なので、日本だとか海外だとかという区別をしなくなっているのかもしれないし、本当に自分の生活しかしていないからかもしれない。何かに心を動かされることがあまりない人間だからなのかもしれない。

まあ、その理由はどうでもよくて、本題は外国気分を味わったという話。

今日は、車の中でラジオを聞いた。いつもは自分のデバイスにある音楽とか、YouTube で自分の聞きたいものを選択して聞くのが殆どなのだけど、なにかラジオを聞きたくなる気分になって、実際にラジオを聞いた。日常と違って、自分で選択しない音楽とかニュース番組を聞いていると、突然に外国気分になった。少し前に、次アポまでの時間つぶしがてらに入った普段は行かないスーパーで偶然やら再会やら発見などが重なった日があったときに、いつも同じことをしていてはいけないと思ったのだけど、ラジオもまた、懐かしい曲が突然かかったり、決まりきった生活から一歩離れることができると感じた。

なぜだか、とにかく眠い

なぜだか、とにかく眠い

年齢を重ねると睡眠時間が短くなる話をよく聞くが、そんなことはない、私の場合はとにかく眠いし、ここ 1-2 か月は本当に眠ってしまっている。

日本で働いていたかなりの長い期間では、いつでも眠かった。しかし、それは慢性的な睡眠不足が原因だったと思う。長時間勤務や時差のある国との仕事、また会社から距離のある場所に居住していた長時間通勤のため、朝の出勤は早く、夜の帰宅も遅かった。一番ひどい記憶としては、1対1で打ち合わせしていた際に、自分が案件を口頭で説明しながら意識が飛んだことがある(ほんの一瞬ながら眠りに落ちた)。

自分の適切な睡眠時間を知らないため、睡眠時間が不足しているのか適当なのか判らない。昼間に眠くなることがあれば睡眠不足なのだろうが、その観点でいえば、最近は昼間に睡魔に襲われることはほぼなくなった(それでも、横になったら一瞬で眠りに入れる自信がある)。しかし、帰宅とともに眠くなる。最近は、帰宅後にひと休みと思っていったんソファに身を預けると、もう起き上がることができなくなることが度々起こる。気が付くと夜中の 2 時とかで、それからあらためてベッドで眠ることになる(二度寝して得した気分になる)。ソファで寝落ちしても体は休まっていないだろうということは想像がつくが、それでも結構な時間を睡眠に費やしている。それでも夜は眠い。

眠くなる病気とかってあるのだろうか。まだまだ色々な学びに時間を使いたいし、眠くなるのは困る。

ワークライフバランス:1日のうちの時間の使い方か1年単位の話か?

ワークライフバランス:1日のうちの時間の使い方か1年単位の話か?

前日に続き、ゴールデンウィーク期間中のニュースから感じたことを。

観光地の混雑や、観光地・帰省先への移動中も混雑が発生していたようだ。今年は、お金を使わない、家で過ごすGWだった人が例年より多いという報道もあったけれど、渋滞や混雑は連休中の風物詩。

せっかくの休日を疲れにいくようなものだし、鉄道のように年中価格が同じものばかりでもなく、連休中に出かけることでいつもよりも払うコストが上昇する品目もある。

ここ数年は、ある時間以後の残業を禁じたり、また、パソコンのログ管理で、前日の勤務終了から当日の勤務開始までに一定の時間間隔がない場合は、勤怠管理表に理由を入力しなければならないシステムを使用する企業もある。その意味では、一日の中でのワークライフバランスの意識は以前よりも確実に高まっている(労働時間の実態は別として)。

しかし、休日の混雑などを観ていると、私の意見では一日の中のバランスよりも、もっと連続する有給を取りやすい環境を整えて、一年のうちで働く時と休む時を分けるワークライフバランス、取得する休日を働く人の間で分散するシステムのほうが幸せなのではないかと思うことがある。

子どもも学校を連続して休ませるのかとか、夏季休暇とかでない有給を連続でとるのは私自身も休み明けが心配で気がひけるだろうとか、問題がないわけではないだろうが、こちらも選択できる制度があればよいと思う。人や荷物を運ぶことを仕事とするドライバーなどの職種に対しては、一日の実働時間を管理することが疲労を原因とする事故を最小化するために必要なシステムだと思うけれど、全員に当てはめる必要はないと考える。

中には、混雑の中で出かけることで休日気分を味わえる人もいるかもしれないけれど、空いている休日を実感すればそれは誤解だったことがわかるのではないだろうか。問題はあると思うけれど、選択肢を設けることは悪いことではないと思うけれど、どうだろうか。

カッコ好い車がなくなった(個人的見解)

カッコ好い車がなくなった(個人的見解)

車は嗜好品。好みは人により千差万別、カッコ好いの定義も人それぞれ。

ゆえに、私の感想に留まる話ではあるけれど、カッコ好い車、自分で乗りたい車が以前に比べて減ってきた。あくまで私の基準による分類。

歩行者保護をはじめとした安全基準によるボディ形状、燃費と空気力学を考えた車体の形、製造コストなど、以前よりもデザイン上の制約が増えているだろうとは想像がつくので、仕方ない部分は理解する。理解はするけど、買いたいと思う車は減った。若いころと比べると、車に出せるお金は多少増えたというのに、買いたいと思う車は減った。

私の場合、車を選ぶうえで大事な点は「見た目」。価格によっては検討すらできないモデルもあるので、もちろん、車体価格は最重要。しかし、燃費はよっぽど悪くない限りは気にしない。装備については種類によって、気にするものとそうでないものが混在しているけれど、装備はよいけど外見が好きでない車よりは、外見がよければ装備は我慢できるところはある。

え、このデザイン?という見た目の車を街中で見ること不思議な気がするが、車が嗜好品であるがゆえに消費者の好みの問題だとは思うけれど、一定の台数を売ろうとする自動車会社のそのモデルの責任者がよく決裁したな、と疑問に思わざるを得ない車もある。自動車の歴史が始まって以来、デザインも出尽くして少しでも似たような見た目にしたら真似しただの言われかねないのも想像できる。だけど、私のように見た目重視の人もまだいるだろうから、もうちょっとデザインに気を配ってみてはどうかと思う。車以外にお金を遣う人が車を買ってくれないという前に、買いたいと思うような車を出してくれないことには売れないよ、と思うこともある。



5月3日の記念日
・憲法記念日:1947 年のこの日に日本国憲法が施行されたことを記念

宗教

宗教

自分が信じる宗教に対して厳格な人が多く住む国でも、強盗や殺人など人から何かを奪ったりする個人の犯罪はあるし、信心深いはずの国であっても、軍政をひいて国民を弾圧したりする国がある。

宗教は、本当に人を救っているのだろうか。

もちろん、信じることで救われた人が存在したであろうことは否定はしないけれど、人や国をまとめるのに宗教が好都合だったという過去もあって、むしろそちらの趣旨のほうが強かった期間のほうが長かったんじゃないかと思っていしまう時もある。

政治や宗教の話は争いになるから他人と話すなとよく言うので、私もあまり誰かとこの話をしたことはないが、少し疑問に思うことはある。



5 月 1 日の記念日・出来事
・メーデー/国際労働
・元号が平成から令和に(2019年)
・Gibson Guilar Corporation が 2018 年のこの日に Chapter 11 をファイリング
・1956 年のこの日、新日本窒素水俣工場附属病院が「原因不明の中枢神経疾患多発」と保健所に報告

リビングトラストについて調べてみた件

リビングトラストについて調べてみた件

今月初めに、「銀行口座が凍結されぬようWillを準備 – Journeyman : Blog」ということを書いた。

この記事ののち、実際に遺言の作成・管理などを請け負うサービス会社に相談に行ったのだが、事前情報が全く誤解だったことが分かって、相談に行って本当によかったと思っている。

細かいことは別として、① 遺言作成、② 遺言を作成して管理もお願いする、③ 生前信託といって財産を信託にあらかじめ移しておくことで裁判所が関与する手続きを回避する、以上 3 つの方法で見積もりを取ってみた。万が一がおきてから必要となる費用は、資産額対するパーセンテージで計算されるため、単純化できないが、仮にもしもの時の銀行口座残高が 10 百万円だったとした場合の費用は、おおよそ以下が目安のよう。

私が銀行口座を持っている国では、遺言書を残したとしても相続には裁判所が関与するシステムになっている。この手続きを回避するのが生前信託となるのだが、これを行った場合の銀行口座は、死亡や植物状態、認知症などのトリガーが発動されるまでは、信託しない場合と同様に何ら制限なく使用できると遺言書サービス会社から口頭で説明を受けているが、信託契約書を見るまでは実態は未詳。


日本と法律・制度も違う国で手続きをしなければならないことを考えれば、必ずしも高いとはいえないというのが私の感覚。最悪、いままでの働きを給与として対価で得た資産が理由も判らず口座を保有する国の政府に召し上げらてしまうリスクや、外国人が行わなければならない手続きの煩雑さを考えると、もうちょっと中身について検討するとしても、契約を進めるつもり。



4 月30日の記念日
・年始から 120 日目
・南部解放記念日(ベトナム):1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終結
Day of Liberating the South for National Reunification
・図書館記念日:1950 年に図書館法が発布されたことにちなむ。制定は 1971 年。