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カテゴリー: ライフスタイル

日本のコンビニの海外展開

日本のコンビニの海外展開


2025 年 4 月 16 日の日経新聞に、「ローソン、6年で海外店舗2倍 アジア軸に1.4万店規模」という記事があり、2031 年 2 月期をめどに海外店舗数を倍増させるとのこと。現在は海外 5 か国に約 7,400 店舗あり、これを 14,000 店規模に増やすとのこと。この記事を読んだあとに各社のウェブサイトを見てみると、セブンイレブンが海外に 84,541 店(2023 年 12 月末、20 の国と地域)、ファミリーマートが 8,410 店(2025 年 3 月 31 日)とのこと。

私の暮らす街にも日本のコンビニが 2024 年に開店した。

海外での私の生活スタイルからすると、日本のコンビニはあればうれしいけれど、なくてはならないほどのものではない、というニュアンス。とはいっても、寝過ごして朝食を食べずに出社することになった日に、ささっと会社で食べるものを出社途中で買おうとすると、選択肢の最初に来るのが日本風コンビニだ。そのような理由で日本風コンビニを利用する機会が月に 2 回程度ある。その時には、日本風のパリパリ海苔のおにぎりがよい。そのほかの商品でいえば、ポカリスエットなどの日本の飲料を具合が悪くなった時に欲しくなることがある。

東南アジアには〇〇風なものや〇〇に似たものがたくさんある。見た目は同じようなものが低価格でてない入ったりするけれど、つかっているうちに〇〇風であって〇〇ではないことに気付かされることが多くの機会である。私の住む町の日系コンビニも同様で、日本風なのだけど日本のとは違う。名称は忘れたが、キャッシャーにはエキスプレス客が並ぶ場所があるのだが、だいたいはそこは使われていないか、そこに店員がいてもチキンやおでんのような時間を要する人が並んでいる。東南アジアにいれば時間がかかることは当たり前のスタンスではいるのだけれど、せっかくレーンとサイネージがあるのだからと毎回残念に感じてしまう。

店員さんはエキスプレス・レーンの意味を考えたことがあるのか、また、日本でいう本部のような人が店舗を訪れて指導しているのか、あるいは本部の人もある意味現地に合わせてゆるくていいと思っているのか、聞きたくて仕方ない。たまにしか利用しないので、まあどうでもよいといえばよいのだが、私は知りたくて仕方ない人間なので、インタビューしたくてうずうずしている。



4月27日の記念日・出来事
・婦人警官の日:戦後初めて採用された婦人警官が初勤務。1946 年、62 名の警官。
・哲学の日:ソクラテスが毒杯で刑死、紀元前 399 年。妻が悪妻と言われ、「悪妻の日」でもある。
・1810 年にベートーヴェンが「エリーゼのために」を作曲。

外国で担当業務の引継ぎ

外国で担当業務の引継ぎ

日本の企業に勤めていると、業務を引き継ぐときには引継書を作成する。少なくとも、私が以前に勤めた会社では引継書作成規定という社内規定もあって作成が当たり前であったし、一定規模以上の会社では、多くの場合で作成が求められていると思う。

外国の企業につとめていると、引継書が義務になっていない会社がある。それどころか、お願いしないとメモの受け渡しが無い場合すらある。私の場合は異動が少なくなかったため、いつか誰かに業務を渡す日がくることを想定して、引き継ぐ側として説明を聞きながらも、将来の引継書として使えそうな形のメモをつくり始めることも何度かあった。なので、引継書の作成が求めらえていなくても書類を作成してきたのだが、義務がなければ引継ぎを行う側の気が楽なのは間違いない。

決して前任者否定の文化があるわけではないと思うが、たまに心配になるのは、前任者の私に何も尋ねてこない人がたまにいること。当然、私のほうから説明したり、しばらくは新旧担当者が重複して業務を行いながらOJT的に引継ぎもしているのだけれど、限られた引継ぎ期間中に全ての事象が起きて、その対応を共有できるものではないし、何かしらどうしてよいか判らないことが起きていそうなのに過去例やアドバイスを求めてこない。私は、私が居てもいなくてもどうでもよい仕事をしていたのだろうか。決してそうは思えないのだが。

きちんと引継ぎしても、担当者が変わるたびに取引先との関りや業務の深堀さが薄まってゆく面は日本の会社にもあり、それは人が変わる以上は濃淡あって仕方ないことではあるが、引継ぎのない会社の場合は薄まりがもっと急速に進んでいくのだろうと危惧する。もしも私が引継ぎが発生した会社からみて取引先であれば、これをチャンスとしてとらえて、口約束なら破棄できるし、言ってないことも前任からはこう聞いてましたけどね、とか言えてしまうかもしれない。

まあ、それは実際にはしないし、口約束など初めからないも同然だから大した問題にはならないのかもしれないが、私が外国の会社で働いていて感じるのは、ジョブローテーションという概念があまりないことが多く、転職しない限り、一生、同じ仕事を継続する人が多いため、引継ぎという概念も引継書の必要性もピンとこないのではないかとのこと。会社側も出世しない限りは従業員を同じ仕事領域に置いておきがちで異動がほぼない印象。ある分野のプロフェッショナル育成といえば響きがよいが、あまり業務知識が蓄積していっている感じもしないし、業務への閉じ込めを感じる。それを心地よいと感じる従業員がいることも事実だとは思う(アグレッシブにならなくても生活を維持できる給与を得ることができる労働条件が確保されている国では特に)。ただ、上司はずっと変わらないし、上にいきたい人にとっては自分は上がれないしということで、少なくとも私の勤める会社では組織が硬直化していて、健全な環境ではないと感じている。まあ、それが普通の海外の会社なのであって、社外取締役は「社外取締役グループ」を作ってその中で椅子を互いにパスしあって自分の居場所を確保するので、つかう側になるか使われる側になるかのどちらになるかが若いうちに非常に重要となってくる社会なのだろうと想像する。


4月23日の記念日
・サン・ジョルディの日:キリスト教の聖名祝日だが現在は書物を贈り合う日として知られる
・ビールの日(ドイツ):1516 年に「ビール純粋令」を発布。原料を規定。世界最古の食品関連法律
・地ビールの日(日本):1999 年に制定
・しじみの日:語呂合わせ。有限会社日本シジミ研究所(島根県松江市)が 2007 年に制定

外国の会社での社内イベント

外国の会社での社内イベント

現在勤めている会社には、社内イベントがそれなりにある。完全に社内のものと、外部の組織をゲストに招くものと両方ある。例えば、消防や警察などいざという時のために日頃からの関係が重要な組織や、周囲のコミュニティというようなそれこそ毎日なにがしかの関係のある人々とともにイベントを行うこともある。そのイベントの様式でいえば、フォーマルなものもくだけたものもある。

フォーマルなイベントの時にいつも思うことは、年に1回あるかないかのイベントに着ていくことがでできる服をみんなよく持っているな、ということ。日本人の場合は、そんな服を持っていない人の割合のほうがまず間違いなく多数派だろうという恰好で出席する人が殆どで感心してしまう。

そんな人たちだから、パーティの席で記念品をもらったりする所作も慣れている人が殆ど。壇にあがり記念品を受け取り、プレゼンターと握手して、もらった記念品をよく見えるようにしてプレゼンターと笑顔で記念写真に納まり、次の人がきて…という一連の流れが何のよどみもなく進んでいく。とにかく、皆、慣れている。学校に通っているいる時からこういう経験があるのだろうか。こちらも感心する。

多くの日本人とは違ってすごいと思うことが多い反面で、パーティ前の気合の入れ方がすごくて、業務時間中にするその準備への熱量も高いのに困惑するというか、なんというべきか。会社のイベントなので準備の前に業務だろと言ったらパワハラと言われかねない。多くの人が集まって準備し、その会議室からは時折、楽しそうな笑い声がきこえたり。みんなで集まって準備しているので、後ろめたさが薄まるのだろうか。イベント前は目をつむるが、それと同じくらいの熱量を短時間集中型でもよいので仕事に向けられないものか。

これは一つの例だけれど、私がいまいる国では、やる人とやらない人の差がますます開いていく一方のような気がするが、以前に私がいた国とちがって、今の国ではやる人・やらない人の待遇差があまり顕著ではなく、生活ができる水準は維持できているようだ。これは、生活がしやすくて悪いことではないと思うのだが、ほかの国に抜かれてしまうのはそう遠くでない危機感はあるが、やる人が稼いでくれて国や会社としてはうまく回っていくのだろうと想像する。そうすると、やっぱりよい国なのだろう。

初めの趣旨とだいぶかわってしまったが、私もここぞの時に着て行ける服の一着くらい持っていたほうがよさそうだとは思っている。


4月22日の記念日
・よい夫婦の日:語呂合わせ。ほかに、毎月22日、2月2日、11月22日、11月23日(=いいふさい)
・カーペンターズの日:1969年に米 A&M Records と最初の契約に署名
・地球の日(アース・デイ):環境保護への支援イベントが毎年行われる(最初は1970年)

文章を書くハードル

文章を書くハードル

いまさらだけれど、パソコンは便利だ。計算が違えばやり直しは簡単だしどこで間違えたかの見直しも見つけやすいし、文章にしても、一遍に消したりまとめて段落の順序を入れ替えたり、何にしても便利だ。また、必要に応じて、文章を残したファイルにパスワードをかけて内緒にすることもできる。

その便利さのおかげで、手書きの時と比べて文章を書こうとする時のハードルが相対的に下がった。何か文章を書いてみようという気になりやすい。

反面、とりあえず書いてから後で推敲すればよいという気持ちで書き始めることが増えた。よく考えずに取り掛かってしまうので、書きたいことを書き始められるまで時間がかかる時がある。ただし、これは業務のなかで文書を作成する時にはかなり便利で、とりあえず箇条書きも使いながら主旨をかいてから、それにあうように前文を書いたりすることができる。別にパソコンでしかできない書き方ではないが、パソコンの場合は消しゴムでこすりすぎて紙を破ってしまうこともないし、消しカスもでないのでやっぱりパソコンが便利。

ただ、やっぱり私は今でも書くのが好き、なぜならペンが好きだから。社会人になりたての頃は、メモをほとんどとらない不良若手社員だったのだけれど、何をきっかけか忘れたけれど 5年目くらいからはとにかく書くようになった。そうなってしばらくして経ってからのこと、海外で一緒に仕事をしていたドイツ人の人にボールペンをもらったのだが、その書き味がとにかくとても良くて、それまで以上に書くことが好きになった。仕事でノートをとることはもちろん、手書きのスケジュール帳を買ったのもそのころで、20年以上たった今でも、毎年、その時と同じ会社が出している手帳を買い続けている(書くことが好きなので手帳は変えてもよいのだろうけど、結局、毎年その手帳を買い続けている)。
(よくよく考えてみると、高校の時の数学の先生にノートの取り方を教えてもらって目から鱗だったとおもに、成績も上がった経験が記憶の奥深くの普段は無意識の領域に保存されているのかもしれない:あの先生がいなかったら別の人生かも – Journeyman : Blog)。

私の感覚に同意してもらえる人も、理解できない人もいると思うけれど、気に入ったペンで書くという行為はどうしてあんなに気分のよいものだろうか。パソコンで何かを書くハードルは下がったのだけれど、依然として、ペンで何か書きたいという欲求がある。徐々にペン自体の塗りが変化してきて味わい深い見た目のペンもあるし、ペン先と紙のこすれあう音も気分が上がるし、自分なりに今日はうまい字が書けたと思える日は気分が良い。

書くことがデフォルトだるデメリットとしては、書かないと思えづらい脳になってしまうことだろう。例えば、コロナで在宅勤務だったころは、自宅にプリンタがないので印刷した資料に手書きでメモや補足、あとで調べる疑問点などを書き入れることができなかったり記憶が進まないことがあった。無用な印刷をせずに省資源に貢献する世の流れに従おうための訓練として書かずに頑張ってきたが、デジタル教科書から紙の教科書にもとりつつあるいくつかの国の例かれもわかるように、書くことと学習には関連があると思う。

そんなことを考えていたら、最近、郵便の手書きの手紙を出してないな、と。人との連絡には電子メールが便利なのは間違いないけれど、たまには手紙を書いてみようと思った。


4月20日の記念日
・穀雨:田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨が降るころ。二十四節気の第六。2025年は今日。
・郵政記念日:飛脚制度に代わり郵便制度の実施を記念。もとは逓信記念日として1934年に制定。
・青年海外協力隊の日:1965年に発足。
・珈琲牛乳の日:1923年のこの日に初めて販売された。東海道線国府津駅で。守山乳業㈱。

・イースター

コロナ当時はフォークダンスもなかったのだろう

コロナ当時はフォークダンスもなかったのだろう

そういえば、コロナ当時はソーシャル・ディスタンスを維持するように強く言われていたので、小中学校の運動会でのフォークダンスはなかったんだろう。そもそも、イベント自体が縮小・短縮されていたから、フォークダンスの有無というより、フォークダンスがプログラムがある運動会自体がなかったりしてたのだろう。私が思春期を過ごした何十年も前の田舎では、授業中に先生から強制される男女の交わりはあっても、それ以外のところでは、学校での休み時間や放課後も含めて男女交流もその発想もなく、運動会でのフォークダンスはそれこそ、一大イベントだった(ただし、一大イベントといいつつも、一大イベントは数多く存在した)。

人は生きていくなかで、有意義なこともあれば、直接的には意味なさそうなこともあるし、今、価値があることや、今は価値が見いだせないけど後で価値が出てくるかもしれないことなど、様々な出来事に出会い翻弄されながら経験値をあげて時を過ごしてゆく。コロナ自粛は誰にも共通の出来事ではあったものの、その自粛期間を過ごした年代、たとえば、それが学生生活と重なってしまった人々は、ほかの年代の人が学生時代に経験したであろうことの経験や思い出(良いことも悪いことも)が、おそらく少なかった分、これからの人生でいろいろなことが起きて欲しい。

なんで、突然、フォークダンスのことが頭に思い浮かんだのかが、もう思い出せない。


4月19日の記念日
・地図の日:伊能忠敬が蝦夷地の測量を行うために江戸を出発、寛政12年。
・飼育の日:語呂合わせ、419=しいく。日本動物園水族館協会が2009年に制定。

『中国にも「働き方改革」の兆し』という記事

『中国にも「働き方改革」の兆し』という記事

数日前に、ロイター配信の記事に「アングル:中国にも「働き方改革」の兆し、長時間労働改める企業も」(英文記事:”In China, whispers of change as some companies tell staff to work less”)があった。

すでにこのステージを超えた国もあれば、まさにこのステージを迎えつつある国、まだまだモーレツ時代は少し先で今後に働き方改革を迎えるであろう国というように、時期にこそ違いはあれど、ほぼほぼすべての国がいつかはこの段階に到達し、生産性などに副作用を生じさせながらも生活の質をあげていってこの段階を乗り越え成熟するステップを踏んでいくのだと思う。

働き方改革で輸出の伸びの傾きの角度がゆるやかになる一方で、余裕のある生活を送るにつれて内需が増加し、多少の時差はあっても経済への影響をうまく最小限にして軟着陸できるとよい。良いか悪いか論はさておき、日本でもゆとりを獲得する中で、乱暴に一般化すると国際貿易での競争力は他国との相対的な見方では落ちているような感じのところ、中国のモーレツぶりが少し落ち着くかもしれない中で日本にも頑張って欲しいと思う。

一方、どの国にあっても、一律に働き方改革を強制することなく、働きたい人や各人それぞれが今こそ働いてスキルを得たいとか考える時期には、自由にモーレツになれる余地を残してくれるのも多様性の尊重と言えると思うのだけれどどうだろうか。働く権利もあると思う。


4月17日の記念日
・徳川家康忌:1616年(元和 2 年)
・アポロ 13 号が地球に帰還:1970 年
・なすび記念日:417=ヨイナス語呂合せ。この日が命日の徳川家康はなすが好物で献上されたのが4月



電球の色味 – リビングルーム

電球の色味 – リビングルーム

不動産エージェントに、部屋を探している日本人の知り合いを紹介した。

エージェント側にも事情があって、入居者を早く決めないといけない部屋とかあるのだとは想像するけれども、事前にこちら側の好みを伝えても、全く彼・彼女たちに響かず興味のない部屋を紹介されるのはどういうことか。もちろん好みの個人差や言葉の定義の個人差がある。例えば、眺めの良い部屋の定義がすれ違っていたりする(実際に起きていることは、おそらく、こちらの希望に応えようとする姿勢がそもそもないのだと想像するが)。

それはそうと、エージェントからリビング・ルームの電気(ライト)の色は白か黄色かどちらが日本人の好みか聞かれた。これは、日本人の間でも個人差があるので非常に答えづらい質問だ。「リビング、ライト、白、黄色、好み」などといったキーワードでネット検索しても一般化した答えにはヒットせず。

私の好みは断然、黄色。しかも、あまり明るすぎない黄色(むしろ、暗くてよい)。もしも今、夜に本を読んだり紙やノートに書き込む必要のある受験生なら話は異なるが、読むのも書くのもパソコンが相手になってくるので部屋が明るくなくてはいけない必要性がないと思っているし、もともと、私は薄暗いくらいがちょうどよい。

なんとエージェントに回答しようか。


4月16日の記念日
・チャップリン・デイ:チャールズ・チャップリン誕生日(1889年)
・Boys be ambitious Day:クラーク博士が北海道を去る時に発言(1877年(明治10年))

美容院の倒産件数増加

美容院の倒産件数増加

3月初めに美容院倒産件数が急増しているとの記事があったのを覚えている。その後も、コンサルタントといった業種別のデータに焦点をあてて報じる倒産報道をいくつか見たのと、従業員の退職による倒産といった経緯・背景側面からのニュースもあった。

原料やユーティリティなどのコスト上昇が言われてからすでに長い時間がたっていて、その高いコストの下で、もともと業種毎の企業数が多すぎることでの過当競争がさらにコスト面で圧迫している背景もあると思う。

たしかにコストを積み上げて計算してゆけば、採算が年々厳しくなっているであろうことは、異業種にいる私でも想像できるのだけれど、価格を決めるのは市場側だとすれば、お金をかけなくなったことの方が影響としては大きいと思う。

ニュースを見ていると、給与・賃金が増えていないので生活が厳しいために節約しているとかいう街頭インタビュー・コメントをよく見かけるが、その割には、価格が高そうな商品が並んでいる店は客入りもよい上に実際にキャッシャーで支払いしている人も多く見かけるし、価格が高そうな車に乗っていたりしている。車については残価設定ローンとか費用負担の新しい選択肢が出てきたこともあるだろうし、お金を遣う対象が変わってきているのもあるとは思う。そういう意味では、自分の見た目に遣うお金の世の中での総額は確実に減っているように感じている。

個々人でみれば、たくさんお金をかけている人は今でもいると思うけれど、見た目への出費を以前より抑えている人の方が多数派になって、世の中総額では減少していそう。たとえば、一昔前であればTシャツでは出かけなかった場所にも、今はそれで出かけている人が多い(Tシャツもびっくりするような値段のものもあるが)。選択肢が増えてよい流れにはなっていると思うし、他人の目を気にする必要が薄れてきた世の中もよい方向。掛けられるお金に上限がある以上は、自分が掛けたい分野にお金を掛けるように優先順位を設定する必要があるのは仕方ない。ただ、もう少し見た目にお金をかけて TPO を考えてもいいのかなあとは思ったりする。私はバルブを知らない世代ではあるけれど、就職氷河期に巻き込まれていないから、そんな考えを持っているのだろうとの自覚はある。モノが売れない時代に変化しているのに、趣味嗜好が細分化されてきて大ヒット商品が生まれずらくてますますコストも上がってしまい、本当に大変な世の中になってきた。

仕事を早く終えて帰る動機、〇〇しよう

仕事を早く終えて帰る動機、〇〇しよう

担当業務によって、物理的に事務所にいる方が効率がよい仕事もあれば、自宅でも特にクオリティの落ちない仕事もある。また、自分が業務に精通していて、所属チームや社内の関係部署の誰に何を話すべきかを知っていれば、使用する業務システムで不都合なければどこでも仕事は可能だと思う。

私の場合、現在の職務内容から言えば、必ずしも事務所で仕事を毎日する必要はない。逆に、全く出社する必要ないかと言えば、そうではない。外でもできる仕事の方が多くて、一部には事務所の方がやりやすい仕事もある、という感じ。

私の勤務先の場合、会社的には出社して業務を行うことになっているので、体調不良の時くらいしか在宅勤務はしないのだけど、一日、事務所で業務したあとに早めに帰宅して家で仕事を続けることがある。場所をかえて気分転換とか、同僚のアクション待ちの時に事務所にいると帰宅が遅くなりそうなときに、まず家に帰ってしまってからアクションを待つときなど。ただ、別の意味で気分転換になってしまって、帰宅後にだらっとしてしまう時がないとも限らないのがあぶないところ。

今のところ、帰宅しても会社のOutlookを開いたりデータ処理をすることが多いので、帰宅という行動は所在地を変えるための行動になっていて、それ以上の意味は付与されていない。今年は、これを変えたいと思っている。帰宅後に仕事以外で夢中になれることを見つけることと、それを実行するために早く仕事を終えたいとワクワクしながらも退社予定時刻と闘いながら仕事をするような日々に変えたいということ。メリハリある生活を送ることで、副次的な効果もえられるだろうと思う。一生涯続けられる趣味につながる何かを見つけられるかもしれないし、それが新たな交友関係につながったり、視野が広がるかもしれない。効果を期待して何かを始める意図はないけれど、何かを始めればほかの何かが起こるだろうし、そのほかの何かが判らないからこそ、それが何なのか楽しみに感じられる気持ちを持っていたい。

専門性がない領域だとクリエイティブになれるのか

専門性がない領域だとクリエイティブになれるのか

私には仕事の専門性がないと感じている。多くの会社員の人よりは、数多くの業界や分野で様々な立場・役職での経験をしてきたとは思っているが、逆にいえばどれも薄くて、もしも転職するとしたら、何も売りがないと感じている。専門性がある人が非常にうらやましく思っている。

こんな私だが、クリエイティビティがあるように感じる時がある。そして、その由来は数多くの経験ではないかと思っている。つまり、専門性がないからこそのクリエイティビティではないかとの推測だ。専門的な人の場合、知らず知らずにその分野にある何らかのフォーマットに収まったりすることもあるかと思うが、素人の場合はそういうこともない。

ただ、クリエイティビティはそれが発揮できた時だけ有効であり、毎日、クリエイティビティを出せるような業務はまずない。だから、ある意味で有効期限がある。それ以外の期間はだましだましなのだが、その一方で、ある時、組織として新規のことへ対応する必要が生じたときに、私の経験が使えることが突如として出てくることもある。野球でいうと代打要員といったところか。
野球と違うところは、代打の切り札は一つの球団でその地位を築く人がそのほとんどだと思うが(トレードやFAでは取ってもらえるほど、代打の切り札はコスパに合わない)、私の場合は私の経験が活きそうな場所を渡り歩きながらやっていくことの方が、もしかしたらうまくいくのかもしれないと思うこと。ただし、専門性がない分、アピールできる機会は多くないので、一打席で確実に仕留める必要があるとも思っている。これが簡単でないところ。

4月1日、新年度

4月1日、新年度

4月1日は新年度のスタート。

大学新卒で働き始めたのが4月1日だったので、今となっては日本の会社に勤めてはいないけれど、やっぱり4月1日になると働き始めて〇〇周年の節目にはなるし、キリのよいタイミングが好きな私には気持ちを新たにできる大事な日。

何十年も働いてきているのにまだまだ知らないことだらけで毎日勉強の日々だけど、新鮮な気持ちでスタートするぞ。

時代遅れ、世間知らず

時代遅れ、世間知らず

私のこと。時代遅れ、というか、世間知らずの方がより的確な表現かもしれない。

理由あって自動車の生産・販売台数について2月に調べた時に、販売台数のうち半分がハイブリッド車になっていることに驚いた(日本の自動車産業を台数から理解する – Journeyman : Blog)。というか、それを知らない自分にもっと驚いた。日本で車を買ったのはもうだいぶ前のことなので、その時はまだハイブリッドが今ほど普及していなかったのだろうと思う。そして、そのときの記憶のまま止まっていたんだと思う。

それがひと月前。
それで、最近のこと。

YouTubeの番組が日本の大手家電メーカー2社を比較するという企画をやっていた。その2社は、それぞれに栄枯盛衰的な経緯を経て、以前とは異なる体制で現在も大手メーカーとして企業活動しているのだけれど、絶対評価の視点ではないのだけれど、2社の相対評価としては私が思っていたのと全く逆だった。私は何か調べたうえで何がしかの理解をしていたのではなく、以前に見聞きしたことの記憶がアップデートされていないままの理解なので、すぐさま私の世間知らず感に気付くことになるのだが、そのことにも驚いた。

私のここ何年かの仕事は、世間の動きに敏感でいないと業務の質を確保できない類のものではなく、また、ビジネストークの相手が決して多くないためトークのネタという意味で世間の動静をアップデートさせておく必要性も高くないとはいえ、いかに一般的な情勢に関心がなかったのかに気付いた。日記的にこのブログを始めたのも、今年の行動計画の一つである「すべてのことに対して感想を持つ」ことのきっかけづくりだったこともあるのだが、その意味では関心の無さに気付いたことは目標に向けたよい流れでよかった。

お葬式とお墓の話

お葬式とお墓の話

少し前に葬式に係るネット記事があった。どんな内容だったかは覚えていないので、一般的な話だったのだろうと思うけれど、その記事をきっかけに、葬儀と墓に関する自分の考えはどうだろうと考えてみた。自分の葬儀を死後に自分で設計できないため、もしも自分の希望を一部でも反映してもらえるならば事前に伝えておくしかないと思い、何が自分の希望が整理しておこうと感じた。

まずは、大きく費用を掛けて見栄えをよくしてもらう必要はない。人を呼ぼうとすれば、それだけ変動費が総額として増えるし、普通は葬儀は突然のことなので、多くの人に日程調整してもらうほどのことは申し訳ないので希望しない。また、固定費的なコストについても特に見栄えをよくしてもらうのは無駄遣いのような気がして、これも希望しない。

都合をつけてまで葬儀にきてもらいたいとは思わないのは既述の通りだが、私がこの世から去ったことはできるだけ多くの人々にお知らせしたい。どうやったらそれができるか考えているところだけど、生前のお礼と死亡の通知を兼ねた短いメッセージを準備しておいて、送ってほしい人たちのメールアドレスをリスト化しておくのはどうかと思っている。家族には、葬儀の手配よりも面倒になるだろうけれど、葬儀に費用を掛けない分は迷惑料してお金を遣ってもらうことで勘弁してほしい。最新のメールアドレスを知らない人の多くは海外にいたときにお世話になっていた人なので、その会社の総務・人事関係の部署に案内を出したら、そこからある程度の範囲の人には連絡を展開してもらえるじゃないかと期待する。

ちょっと面倒なのは、お墓の話。誰が一緒に入ってくれるか、自分が建てる必要があるかなどの視点もあるが、私の心配はメンテをどうするかということ。そういう意味では、都心の納骨堂がいいと思っている。メンテの心配が少ないし、都心の納骨堂であれば、何かのついでに寄ってみようという気持ちになってくれるかもしれない。本当は、いくつかの思い出の地に散骨してもらいのだが、知り合いに黙って死んでいって、葬儀にも呼ばず、眠っている場所を固定化させた墓もないと、あまりに身勝手なような気がしなくもないので、もしも、会いにきてくれる人がいるとすれば、納骨堂のような場所があるとよいと思っている。一部は散骨(そのための旅費は葬儀代を節約してもらって全く構わない)、残りを納骨堂を希望。

年齢がそれなりになってきたので、有効な形で意思を伝える意味で遺言の準備を考え始めている。相続できるような金銭や資産はそれほどないので、その意味では遺言に意味はあまりないのだけれど、葬儀にお金をかけるのはやめて、ということは私の希望として残しておきたい。そうでないと、こんな地味な葬儀では私がかわいそう、とか言ってくる人がいないとも限らないので、そこは私の意志だったことを証明するためにも正規の書類が少しは役に立つのではないかと思っている。

面接で待たされた

面接で待たされた

面接で待たされた挙句、受付から内線で電話したら担当者が帰宅していた、というネット記事をみた。

面接で待たされた経験は私もある。何十年も前の新卒就職活動の時。
当時の就活システムに則って、数人のOB訪問(といっても、私より上の6年間、私の在籍していた大学からその会社への入社実績がなかったので、大学OBではない若手社員との面接)を経て、人事担当と同課長の面接を終え、人事部長との面接という日のことだった。

一時間以上待った。あまり賢くない大学四年生だったので、受付にどうなっているか途中で確認してもらうこともせずに、ただただ、待っていた。記憶にはないが、多分、私とのお約束はどうなってますかと最終的には受付から聞いてもらったのだと思うけれど、部長に会って面接することができた。

その人事部長には重役面接(当時はそう呼んでいた)へ上げてもらい、最終的にその企業に入社したので、待たずに帰ったりしていたら今頃どんな人生だったのだろうかと思う。

まあ、結局は、実際ではない方の人生がどんなだったかに思いをめぐらせることには何も意味がないのでそれはどうでもいいことなのだが、自分がもっと臨機応変な奴だったらよかったなと思うことは数多くある。でも、よくわからないのは臨機応変にできる時もあって、できる時・できない時の違いがどこから来ているのか、ということ。場面なのか、相手なのか、自分の機嫌とかなのか。それが判ればうまく対応できる機会の可能性もあがるだろうに。判らないことがまだまだたくさんある。

最後まで使い切る

最後まで使い切る

最後まで使い切って終われるとなんだか嬉しい。やりきった感が出てくる。
日常生活で使用するもののこと。

調味料やボディーソープなどは最後まで使い切って当たり前な感覚だが、中身を消費しきるまえに買い替えてしまうものもある。

例えば目薬。日常的に使うので中身は減っていくのだけれど、目薬容器のキャップを占める部分のネジ山になんとなく汚れがついてくると、まだ使い切っていないけど衛生的に買い替えた方がよいように思えてくる(目薬をさす時にあやまってまつ毛に容器の先端が触れてしまった時も、買い替えたくなる)。

日常的な使用でないために使い切れない例では、ヘアトニック。普段はトニックは使わないのだけれど、たまに使いたくなる時があるので、在庫はしている。トニックには香りが強いものが多いので、本当にたまにしか使わない。しかし、トニックはある程度の大きさの容器で販売されているので殆ど中身が減らない。そのうちに、引っ越しすることになり(注:私は引っ越しが多い。もうじき、人生通算30回)、その引っ越し荷物を減らすために捨ててしまう。

今年の目標として掲げている「ていねいな生活」には、毎日、決まったことはきちんとする、ということも含まれていて、レベルの低いところでいえば、歯磨きに加えて毎日のデンタルフロスとマウスウォッシュ剤でのすすぎをやることといったような小学生の夏休み日記にありそうな項目もある。そのため、今までは使い切るまでには長い期間が掛かっていたフロスの消費が今は早い。使い切る前に買い替えるのには後ろめたさがあるのだが、使い切ることができると達成感がでるというか、無駄を生じさせずに地球に貢献できたというか、使い切ってキリがよくて新たな明日がくるようで楽しみなような、いろいろな感情が小さなことから湧いてくる。

製品の寿命 – 本体と付属品で寿命を揃えて欲しい

製品の寿命 – 本体と付属品で寿命を揃えて欲しい

あるあるの一つかもしれない。

例えば、電気製品の場合。本体はまだまだ使えて、充電池も問題ない。でも付属品が使えなくなってしまう。例えば、付属品が樹脂製で経年劣化で割れてしまう場合など。付属品のみ後から購入できる製品もあるが、そうでないものもある。営利団体である企業にとっては、自社製品を買ってもらうことが大事なのはわかるが、その企業のファンを増やしてこそ、長く愛用してもらえる製品と企業になるのにな、と思う。

誘惑に打ち勝った

誘惑に打ち勝った

久方ぶりに都会へ買い出しに行ってきた。買い出しに行く時の目的はだいたい食料品。

ひと通り食料を調達した後は、弁当や総菜、パンを買って買い出しを終え帰宅。帰ってから2-3日は、その弁当、パン類で過ごす。新しい店もできているとは思うけれど、その街へ行くときは、だいたい同じ店に行ってしまうので、同じような弁当や総菜、パンを買ってしまう。今回の買い出し旅も途中までは同じ流れで好きな総菜を入手した。

いつもの買い出しでは、日本酒やワインも調達して、その日だけはと自分を甘やかして総菜や弁当とともに自宅で一杯ひっかけるのが流れ。ただし、今はアルコール類を少し控えているので、今回は買い物リストに酒はもともと入れておらず、総菜を買うまではその流れの通りに買い物を進めていた。

ところが、だ。

総菜を買っていると、出来上がりの品物が陳列棚にならんだ。それは、食べたいものだった。いつもは買っているものなのだが、最初は陳列棚になかったので、あやうく買い忘れるところだった。それで、それを入手した瞬間、あ、日本酒があるといいと思ってしまった。

今回は酒を買わないという計画で買い物にきて、その後、酒が欲しくなり、そして、その誘惑を押し返した。そのやり取りを自分の心の中で何往復かして、そのたびに誘惑と強い意志の振幅が大きくなっていった。その間、酒売り場とそのほかの商品の売り場の間を何往復もした。

結局、今回は酒を買わなかった。今回の心の動きを誘惑と呼んでよいものかどうかわからないが、その言葉を使うとすると誘惑に打ち勝ったと言える。いくら途中で考えが変わりそうになったといっても、もともと買わない計画だったので、計画通りに実行しただけといえばそうなので、打ち勝ったといって誇るほどのものではないかもしれない。

しかし、一度決めたことからなびかなかったことは事実なので、私の身の回りのことで、何かが少し好転するような期待がある。何かを求めて何かを我慢するような交換条件の結果ではないのだが、自然と期待が湧いてきている。

ロシアン・ティー

ロシアン・ティー

飲み物の分野でいえば、私は完全にコーヒー党。普段は、水を除けばコーヒー以外の飲み物は、よっぽどのことがない限り選択肢に上がってこない。ところが、先日に突然、たまには紅茶を飲んでみようという気分になった。何かで見たとか読んで影響を受けたわけではなく、本当に何の前触れもなく紅茶が頭に浮かんだ。

コーヒー党ゆえに家に紅茶の在庫はいので、即日実行とはいかずに、まずはスーパーで紅茶を買う必要があった。美味しい紅茶の方が長続きすると思って名前を知っているところの紅茶の葉を買うことも考えたが、最後まで使い切れるかどうかの自信がないため、割と安めのものをまずは試してみることにした。

スーパーの紅茶売り場に立っていると、例の突然のひらめきでロシアン・ティが降って湧いてきた。こちらはゼロから出てきたわけではなくて、30年以上前に当時の知り合いと喫茶店に行ったときに、一緒にいた人が注文したのがロシアン・ティだった(ゼロからではないが30年以上前の記憶からだった)。そう思い始めると、ロシアン・ティにあう茶葉ってなんだろうとスマホで検索したのだが、ジャムは溶かすものではなくて、紅茶をのみながら舐めるものだという説明に目が入った。ロシアンティを初めて知ったあの日から30年以上、ジャムは溶かすものとばかり思っていたので、目から鱗が落ちた瞬間だった。そうすると、この飲み方に関するほかの情報も知りたくなって調べを進めると、ロシアのお茶文化といった一般名詞としてのロシアン・ティを除くと、アメリカ発祥のロシアン・ティはジャムとは無関係だとかいろいろ出てきて、今日も探求心から眠れなそうだ。

ファミリー・ネーム

ファミリー・ネーム

選択的夫婦別姓が施行されると、「姓」に対する英訳は、日本では「surname」だけになって「family name」は姓の訳語として使われなくなるのだろうか。Family なのに父母で異なる名字を使うことを選択した人には、もう family の name ではなくなる。父方 family の name や母方 family の name では、自分の親家族には違いないが、自分が結婚を決めた配偶者とその配偶者との間の子どもという意味での家族感とは違う。

ところで、夫婦同姓を法律で強制するのは日本だけのようだが、family name という単語は世界各地で公文書に使われているのか surname が正式な英単語なのか(あるいは、それぞれの国の現地語に surname と family nameの両方の単語が存在するのか)など判らないけど調べてみたいことだらけで、今日も時間が足りない。

普段と違うことをやってみたら…

普段と違うことをやってみたら…

昨夜、取引先と食事をした。会食ではなく、先方の会社の社内イベントに同席させていただいた。その会社は、私が勤務する会社の近くに工場があるものの、本社アドミは車で数時間の場所にあり、私を招待してくれた人もそのアドミ事務所勤務。そのお方が工場に来るときは、だいたい食事に誘ってくれて、時には先方社員の食事会に私一人、部外者で参加することもある。昨夜はそのパターンでもう少し大規模の会社イベントに同席させていただいた。

会場は、私が住む町ではあるものの、普段はあまり行かないエリアにあるホテルだった。早く着きすぎたら、丁度、用事もあるんのでスーパーへ行って時間調整しようと思い、いつも以上に余裕をもって会社を出発。
結局、だいぶと早くついたので、いざ買い物へ。
いつもは行かないスーパーなので、何がどこにあるか判らず何度も同じ場所をぐるぐる・うろうろしていると、私に声をかける人が。名前を呼ばれたので会社の人だろうとは思ったのだが、よく聞くと私の勤務先にインターンとして7-8年前に働いていたとのこと。私は名前と顔を覚えるのが苦手であることに加えて、私の勤務する製造業の会社の従業員は数百人レベルとあって、よくあるように昨晩も申し訳なく感じつつも、お互いに近況を少々報告しあって会話を楽しんだとともに、声をかけてくれたことが非常に嬉しかった。同時に、外国人は目立つから、悪いことはしちゃいけないなと再確認した(普段から悪いことはしていない)。

再会と買い物を終えてスーパーを出ると、横にドラッグストアがあった。私がこの町にきて暫くたった頃にふと入ったスーパーで見つけた、とても泡々なボディーソープが気に入ったのだが、そのスーパーは数か月前に閉店してしまい、その後はどこを探してもそのボディーソープを扱っている店に出会うことができなかったが、なんと、たまたま入ったドラッグストアにその商品がおいてあった。ああ、来てよかったとつくづく思った。

弁護士の人は、日々の生活の中で下さなければならない決定や選択に脳みそを浪費しないよう、生活をパターン化させている人が多いと聞いたことがある。私は弁護士でもなければ脳みその浪費を回避しようとしているわけでもないが、パターン化した生活という意味では似ている。時にこれでは味気ないと思いつつも、仕事で疲弊しているのも事実で、こうなってしまう。しかし、昨晩のようなことがあると、たまには普段と違うことをするのもいいことがあるなと思うのだが、それがまたジレンマを生み、いつも通りにすべきか違うことをすべきかで心をすり減らしてしまうのだ。解決しない。