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Category: 社会

謝罪文のテンプレート化 – 迷惑と心配

謝罪文のテンプレート化 – 迷惑と心配

「ご迷惑とご心配」が対メディアでの謝罪文のテンプレートになってから、結構な時間が経ったと思う。誰かが謝罪したというネット記事の投稿コメントには、この迷惑と心配について言及する人がかつては結構いたけれど、もうテンプレートになってしまったから、最近は思っていても特に書き込まない人が増えたのかもしれない。

本件に限らず、私はニュース記事へのコメント投稿はしないのだけど(読むのは大好き)、迷惑と心配に今でも不満を持つ人間の一人。誰も心配などしていないのに、と独り言で突っ込む日々だ。なんでこれがテンプレートになったのかは判らないけれど、単純に「迷惑かけてすみません」という謝罪のみの発言だと自分が悪かったと認めることになるので、自分の非を薄めるために意味をなさない「心配」を付け加えているだけのような気がする。

誰かが書いた謝罪文を読まされているだけかもしれないし、本人も不本意(本当は土下座したい気持ちだったりするかも)にそう言っていわざるをえない大人の裏事情もあるのだろうけれど、それは私たちには見えないので、見えるもので発言して欲しい。

就職氷河期世代への支援

就職氷河期世代への支援

氷河期世代への支援をテーマに出演者が話し合う番組を動画でみた。どんな結論だったか忘れてしまったけれど、議論のなかで新卒で失敗してもやりなおせる社会に変えてゆくことが大事という意見を言っていた人がいた。

氷河期時代に新卒で非正規からはじめた人には今でも厳しい社会であると想像するけれど、新卒で正規雇用された人については、転職に対する労使双方の見方が変わってきたことで、以前よりはセカンド・チャンスの機会は創出されていると思う。

以前よりましだからいいじゃないか、というつもりは毛頭ないが、新卒への教育に掛けた決して小さくないコストで自社仕様に育て上げた社員がいるので、なぜセカンド・キャリアで採用するかといえば、多分、専門知識を持っている人があらたに自社に戦力として入ってきてくれることを期待してのことだと思う。

日本の新卒採用で私がよいと思っていることは、大学で学んだことと違う分野で採用・配属が行われること。デメリットもあるけれど、よい点のほうが上回っていると私は思う。大学の専攻と関係ないからこそ、配属後に OJT で徹底的に鍛える必要があるし、一人前になるまでに結構なコストがかかっていると思う。この状況を変え、セカンド・キャリアの流動性をあげようとすると、セカンド・キャリアで入ってくる時は勿論のこと、社員教育にコストをかけないとすれば、新卒の時点でも専門性を身につけた人を採用しようとするだろうし、専攻分野によって就職先が限定されてきて、新卒の門戸や選択肢が狭まる結果になるような気がして、そっちの方が副作用が大きいように思う。これが極々一部の大企業にのみ当てはまることで無視してよい話ならばよいが、私には専攻と関係ない会社に勤める機会があることは結構、重要なことだと思っている。また、何か単一分野の仕事はしてきたが、その分野でのスペシャルな技能がない人の場合、何年経験をつんだとしても職種が高度化することもないだろうから、昇給する機会も少なそう。スキルが上昇しなければ、身に着けたスキルでキャリア・アップ転職の機会もなく、もし転職をするならば、同じ仕事でちょっとだけ待遇がよさそうな会社を見つけた時にしか起こらなそう。

氷河期とかセカンド・チャンスとか関係なく、全ての国民が最低限の生活を送れことができる制度や仕組みのある国にしてくれるのが一番ということになるのだろうか。年代や性別、住む地域などで不公平のない社会、かといって結果を出せた人とそうでない人とが同じ処遇を受けるのではなく、頑張った人はその報酬を得ることを誰にも邪魔されない社会。それと、今ある色々な問題の多くに共通すると思うのだけど、教育が非常に重要だと思っている。

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

会社で電気の無駄遣いを気にしない人々—家では?

東南アジアに来たことのある人にとったはあるあるだと思うけれど、とにかく室内が寒い。会議室があまりに寒いため、会議室以外でジャケットを着用することがないのに東南アジア出張には必須アイテムといってよいと私個人は思っている(ほかで着用しないので荷物が増えるだけなので、個人的には迷惑な環境)。寒い国・地方の人が、家のなかでは暖房をガンガンにたいて、室内では Tシャツで過ごせるような温度にしているのと同じ発想だと思う。寒いことや暑いことへの抵抗だと思う。

現在私が暮らす国で、駐在員や転職して数年単位でここに暮らしている外国人の知り合いの個人宅にお邪魔したことはあるけれど、ここで生まれ育った人の家を訪問したことはないので判らないのだけど、自宅でもガンガンに冷房をかけているのか知りたい。今私が払う自宅の電気代は、大家の名義で契約しているものなので、仮に基本料金と外国人料金があったとしても、多分、私は基本料金を払っているのだと思う。そうであっても、ほかの物価に比べて電気代は安くないと思っているので、ここに生まれ育った人々にとっても安いものではないと思う。私が子どもの頃は、エアコンがある家庭はほぼなく、また私の家にも扇風機しかなかったので、いまだにエアコンに電気代を払ってまでも使用することに抵抗があるということも、私のものの見方に影響を及ぼしているとは思う。

私は、事務所ではほぼほぼ出社一番乗りなので、事務所内の照明をつけることが多い。その際に、自分の部屋へたどり着くまでの間に通り過ぎる幾つかの個室からエアコンの音が聞こえてくることが多い。ああ、昨日つけっぱなしで帰ったなとか、こいつ毎日つけっぱなしで帰っているなとか、ひどい時には事務所大部屋のエアコンさえつけぱなしのこともある(前日に最後に帰る人が普通は消すのだけれど、最後になる人によっては消して帰るという概念すらない人がいるように思う。知らなければ仕方ない)。こういったつけっぱなしは家庭でもそうなのか、というのが私の以前からの疑問である。多分、家では無駄な電気は使わないようにしているのだと思うけれど、どうだろう。東南アジアは灯りが派手であるのは街中や車の装飾を見ていればわかるので、電気代より派手さが大事なのかもしれないけれど、それってコストなのに...と思う。ケチケチしなくても何とか生きて行ける国なのだとしたらうらやましいけれど、そうはいっても無駄なのに。

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ベトナム「二人っ子政策」廃止へ

ニュースで知った、二人っ子政策をしていることを。しかも、導入されたのが 1998年とのこと。もう四半世期も継続していたことを知らなかった。

ベトナムの人口についての私のイメージは、年間 1百万人ずつ増加する若い国というイメージだったので、その増加数からいって、政策で制限しているなどとは想像もつかなかった。背景には、合計特殊出生率が 2024年に最低を記録したことなどのもよう。ベトナムがそのような状況なんだと思っていると、これはベトナムだけの問題ではなく、少子化が遠くない将来に問題になりそうな国が少なくない模様。

ちょっと話は逸れるが、すでに存在する製品よりも環境面に優れた新商品が出てきた場合、真っ先に投入される市場では、当然、初めての製品が浸透するには時間を要すが、ある程度、新製品が認知されている国・市場があれば、それに続く市場では急激な市場シェアの獲得が期待できる。それと少子化の問題は異なる性質ではあるものの、少子化とは縁遠そうな国が実は先進国市場よりも、タイミングは後だとしても、先に少子化を経験した国々よりももっと急激な少子化へ突き進むことはあり得る展開だと思う。

経済が成長し、生活のコストや教育への投資が高額になるほどに、夫婦ともに働く必要が生じるし、また、社会が高度化すれば社会との関りに男女の別も関係なくなる。結婚するカップルのもとでは出生率はもしかしたら大きくは減らないかもしれないが、結婚しない人もしくは結婚システムに入らないカップルの比率が増えると、それはイコール出生しない選択肢をとる人たちということになるかもしれない。そうすると、どうしても社会の成熟とともに少子化になるのは仕方ないことかもしれない。

私個人でできることはあまりなさそうだけど、今回のベトナムの政策変更に係るニュースに触れたことで、ニュースは偏りなく入手する必要があると再認識した。ニュースを知ってどうする、とは思わない。かりに、直接自分には関係なくても、いろいろなことを知れば知るほど考える機会や感想が増えて自分の引出しが増えると思うし、考えることはボケ防止にもよいかもしれない。

ゲノム編集について専門家発言・・・歯止めはどこ

ゲノム編集について専門家発言・・・歯止めはどこ

ゲノム編集をテーマに人があつまって話している動画を見た。専門家一人と何にでも発言する、その番組のお決まりのコメンテータが出演していた。立場が変われば意見が変わるだろうし、理解度が違えば人によって見方も違ってきて当然の話。しかし、専門家の発言で引っかかるものがあった。普段、私が動画を見る時は、違う意見をいう人であっても一人突っ込みしながら楽しく見解を聞くことができるのだけど、このときだけは違った。

医療分野などではよくある話であるが、倫理との関係についての話題になったときに、悪用される可能性もあるので十分に議論してから技術的な検証に進むべきみないな意見が出てきたときに、その専門家は、「とりあえず作らせろ。それから考えたらいい」と言った。

正直、気持ち悪い意見だと思った。あまりそんな感想を持つことがない私だが、気持ち悪いと思った。同時に、研究してはいけない人ではないかと感じた。「作ったんだから、とりあえず使わせろ」と次に言いそう。実際に要求するようなことはしないにしても、「とりあえず作らせろ」という発言をする人を信用することは私にはできない。私が多数派かどうか判らないけれど、そういう発言をする人がいる以上、私個人としては危険な研究だと思った。

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

通勤時に、横断歩道に停車している車をまた今日もみた。実際は違うのかもしれないけれど、印象としては、運転する日には例外なく、毎日見かける光景。

そこに止めれば便利だし歩かなくて済むのは判るけれど、ほかの人の安全を犠牲にしてまでそうしてはいけないと私は思うのだけど、そこに止める人はそうは考えていないのだろうと推測する。それが他人を危険に陥れることを知らない、気づかない、誰にも教えてもらったことがないのだと思う。

横断歩道への駐車が便利としっていてもマナーとしてそうしないことを、なんというのだろうかと疑問が生じた。やせ我慢?ちょっと違うけれど、ほかに言葉が見当たらない。その後、やせ我慢を英訳するとなんというのだろうとネット検索してみると、「プライドが高すぎて」とか「勇敢さを示すために平気なふりをする(関係ないけれど、平気は関西の人が嫌いな言葉の一つだったような記憶)」という感じの意味を汲む英訳の例文が多くヒットして、横断歩道に停車するという「そっちが楽なのは判っているが、それをやるのは正しくないと信じているので我慢してそれはやらない」に合致していないような気がした。もしかしたら、私が考える内容の概念が言葉を作った人々にないとしたら、その訳語は英語にないのかもしれない(プライド云々の英文としては、例えば、アメリカ男性は痛くても痛いと言わないことが男らしさと思っていた人が多かった時代がかつてはあったので、先に紹介した例文は訳文としては適切だと思う。なお、男性とか男らしさという価値観は適切ならば現代でもあってしかるべきと私個人は考えるが、私のような考えは現代の世間では受け入れずらくなっていることを自覚していることも併記する。だけど、アメリカのメジャーリーガーは、今でも死球を受けても痛いそぶりを見せる人はいない)。

いろいろ考えていると、私の日本語での感想の言語化がうまくできていないのだろうという結論に至った。これは珍しいことではなくて、私の言語化能力が低いことに気づくことは頻繁にあるので、今回のことにも何も驚かない。

あー、日本語力を鍛えたい。

コンクラーベ

コンクラーベ

新しいローマ教皇を決める選挙が 5 月 7 日に始まり、4回の投票の結果、8日に決着したとのことらしい。教皇になるにはいくつかの条件を満たさないといけないようで、また、選挙は密室で行われるとも伝えられている(子どもの頃に聞いた覚えのあるローマ法王って誰の事だっけと思いネット検索すると、1981 年のヨハネ・パウロ二世の来日時にローマ教皇に呼称を統一した由)。

教皇の影響力は、キリスト教世界に限定されているわけではなさそうなので、私は、世界で生きている人びと全員と同じように、完全無欠な部外者というわけでもないが、一方で、世界の多くの人と同様に、私はキリスト教徒ではないので、教皇の決め方に関する発言権は私にはない。

発言権はないのだが、資格や選び方に制限が多いやり方に対して、別件で同じようなことをしたら声高に文句を言う人たちが、不公正だ、開かれていない、前近代的だ、とかの意見を言わないのがよく理解できない。天皇制やジェンダー問題、ダイバーシティ、政教不分離に意見をいう人のコメントが聞こえてこない。自分が当事者ではないから意見を言わないのか、言っているのにメディアが取り上げていないだけなのか判らないが、ニュースを見聞きしても意見を言っているようなことは聞こえてこない。

この差はどこから来ているのか。

結局は、彼・彼女らのいつもの主張が理路整然とした改善要求・提案ではなく、自分が気に入らない単なる文句だからなのだろう。だから、いつもの文句と同じような問題点がある事柄であっても、意見を述べることはないのだろうと推測する。果たして、そういう人たちの意見に耳を傾けて議論する必要があるのだろうかと思ってしまうが、意見は尊重しないといけないとも私は思う。

ところで、今まで興味なかったのだが、カソリックの組織図(?)は下記のようだ。

・教皇/The Pope:全世界のカソリック教徒の精神的指導者
・枢機卿/Cardinal:司教の中から教皇が自由任命、教皇の最高顧問、任期無、教皇選挙権あり
・司教/Bishop:教皇の自由任命、独身制、教区を監督する聖務職、経験・年齢・経験年数問われる
    聖職者の地位は他の司教と同じで権限のみ大きい大司教もいる(Archbishop)
・司祭/Priest:独身制、助祭の中から市況が叙階、神父(⇔プロテスタントの牧師)
・助祭/Deacon:「助」とついているが固有の業務を規定する方向にある由。
    終身助祭で昇叙はできないが妻帯を許可される終身助祭という階級がある。
・信徒

信徒の人にとっては違いが大きいと思うが、乱暴にラベリングするとすれば、
  【カソリック】   ローマ教皇を中心に団結
  【プロテスタント】 聖書を拠り所、教会組織はわりと自由


よく判らないついでにイスラム教について調べてみると、これも信者の方には失礼な乱暴なラベリングかもしれないが、下記のように違いを述べることもできる模様。
  【スンニ派】 コーランやムハンマドの慣行をまとめたハディースが拠り所
        後継者にはコーランやハディースを解釈する権限はない
  【シーア派】 ムハンマドの特別な資質を受け継いだイマームが信仰の拠り所
        現在、隠れているイマームが再臨するまではイスラム法学者が役割を代行

音楽はよいなぁ

音楽はよいなぁ

好きな音楽は人それぞれだけど、音楽がよいかどうかという質問をすれば、とても高い割合で音楽はよいなぁという回答が出てくるだろうと思う。

あたらしい音楽、古い歌、何か特定の記憶とリンクした音楽、元気がない時に少し元気になれそうに思える音楽、聴いていて気持ちのよい音楽など、音楽はいいよな。

富める人もそうでない人も、老若男女、国を問わず、人々は音楽のある生活を送ることができる。こんなに公平なこともほかにはない。音楽はいいなあ。


* 上記投稿したあと、念のためという思いでネット検索したところ、音楽を禁じている宗教もある模様。偶像崇拝禁止は聞いたことがあったが、音楽を禁止する宗教があることを初めて知った。音楽も皆が楽しめるものではなかった模様。

外国で担当業務の引継ぎ

外国で担当業務の引継ぎ

日本の企業に勤めていると、業務を引き継ぐときには引継書を作成する。少なくとも、私が以前に勤めた会社では引継書作成規定という社内規定もあって作成が当たり前であったし、一定規模以上の会社では、多くの場合で作成が求められていると思う。

外国の企業につとめていると、引継書が義務になっていない会社がある。それどころか、お願いしないとメモの受け渡しが無い場合すらある。私の場合は異動が少なくなかったため、いつか誰かに業務を渡す日がくることを想定して、引き継ぐ側として説明を聞きながらも、将来の引継書として使えそうな形のメモをつくり始めることも何度かあった。なので、引継書の作成が求めらえていなくても書類を作成してきたのだが、義務がなければ引継ぎを行う側の気が楽なのは間違いない。

決して前任者否定の文化があるわけではないと思うが、たまに心配になるのは、前任者の私に何も尋ねてこない人がたまにいること。当然、私のほうから説明したり、しばらくは新旧担当者が重複して業務を行いながらOJT的に引継ぎもしているのだけれど、限られた引継ぎ期間中に全ての事象が起きて、その対応を共有できるものではないし、何かしらどうしてよいか判らないことが起きていそうなのに過去例やアドバイスを求めてこない。私は、私が居てもいなくてもどうでもよい仕事をしていたのだろうか。決してそうは思えないのだが。

きちんと引継ぎしても、担当者が変わるたびに取引先との関りや業務の深堀さが薄まってゆく面は日本の会社にもあり、それは人が変わる以上は濃淡あって仕方ないことではあるが、引継ぎのない会社の場合は薄まりがもっと急速に進んでいくのだろうと危惧する。もしも私が引継ぎが発生した会社からみて取引先であれば、これをチャンスとしてとらえて、口約束なら破棄できるし、言ってないことも前任からはこう聞いてましたけどね、とか言えてしまうかもしれない。

まあ、それは実際にはしないし、口約束など初めからないも同然だから大した問題にはならないのかもしれないが、私が外国の会社で働いていて感じるのは、ジョブローテーションという概念があまりないことが多く、転職しない限り、一生、同じ仕事を継続する人が多いため、引継ぎという概念も引継書の必要性もピンとこないのではないかとのこと。会社側も出世しない限りは従業員を同じ仕事領域に置いておきがちで異動がほぼない印象。ある分野のプロフェッショナル育成といえば響きがよいが、あまり業務知識が蓄積していっている感じもしないし、業務への閉じ込めを感じる。それを心地よいと感じる従業員がいることも事実だとは思う(アグレッシブにならなくても生活を維持できる給与を得ることができる労働条件が確保されている国では特に)。ただ、上司はずっと変わらないし、上にいきたい人にとっては自分は上がれないしということで、少なくとも私の勤める会社では組織が硬直化していて、健全な環境ではないと感じている。まあ、それが普通の海外の会社なのであって、社外取締役は「社外取締役グループ」を作ってその中で椅子を互いにパスしあって自分の居場所を確保するので、つかう側になるか使われる側になるかのどちらになるかが若いうちに非常に重要となってくる社会なのだろうと想像する。


4月23日の記念日
・サン・ジョルディの日:キリスト教の聖名祝日だが現在は書物を贈り合う日として知られる
・ビールの日(ドイツ):1516 年に「ビール純粋令」を発布。原料を規定。世界最古の食品関連法律
・地ビールの日(日本):1999 年に制定
・しじみの日:語呂合わせ。有限会社日本シジミ研究所(島根県松江市)が 2007 年に制定

コロナ当時はフォークダンスもなかったのだろう

コロナ当時はフォークダンスもなかったのだろう

そういえば、コロナ当時はソーシャル・ディスタンスを維持するように強く言われていたので、小中学校の運動会でのフォークダンスはなかったんだろう。そもそも、イベント自体が縮小・短縮されていたから、フォークダンスの有無というより、フォークダンスがプログラムがある運動会自体がなかったりしてたのだろう。私が思春期を過ごした何十年も前の田舎では、授業中に先生から強制される男女の交わりはあっても、それ以外のところでは、学校での休み時間や放課後も含めて男女交流もその発想もなく、運動会でのフォークダンスはそれこそ、一大イベントだった(ただし、一大イベントといいつつも、一大イベントは数多く存在した)。

人は生きていくなかで、有意義なこともあれば、直接的には意味なさそうなこともあるし、今、価値があることや、今は価値が見いだせないけど後で価値が出てくるかもしれないことなど、様々な出来事に出会い翻弄されながら経験値をあげて時を過ごしてゆく。コロナ自粛は誰にも共通の出来事ではあったものの、その自粛期間を過ごした年代、たとえば、それが学生生活と重なってしまった人々は、ほかの年代の人が学生時代に経験したであろうことの経験や思い出(良いことも悪いことも)が、おそらく少なかった分、これからの人生でいろいろなことが起きて欲しい。

なんで、突然、フォークダンスのことが頭に思い浮かんだのかが、もう思い出せない。


4月19日の記念日
・地図の日:伊能忠敬が蝦夷地の測量を行うために江戸を出発、寛政12年。
・飼育の日:語呂合わせ、419=しいく。日本動物園水族館協会が2009年に制定。

知らないなら、知らないと言ってほしい

知らないなら、知らないと言ってほしい

各個人の性格によるところが大きいのだと思うけれど、私が他人に望むのは、知らないことは知らないと言って欲しいということ。

知らないことに関して饒舌に話すことができる人がたまにいる。この人、多分よく知らないんだろうな、と私に感じさせる人もそうでない人もいるが、正直、そんなことができる人をうらやましく思うというか、尊敬するというか。

先日、取引先の西欧人(ドイツ人)と話していたとき、その人が別の西欧の国(ポルトガル)の会社に勤務していたときの経験として、多くのポルトガル人は知らないことでも教えてくれるということを言っていた。例えば、道を尋ねると、知らないのに適当に道を教えてくれるらしい。すべてのポルトガル人を一般化して言えないけれど、「知らない」ということを言えない人たちなのではないかと、私はその話を聞いたときに思った。

私は、知らないなら知らないと言って欲しいタイプだ。私がそう言ってしまう人間だから、他人にもそうして欲しいと思っているのかもしれない(多分、逆。適当な回答されるくらいならば知らないと言ってくれた方がありがたいので、自分も知らないと言うようにしている、が正しいと思う)。

知らないと言ってはいけない、あるいは知らなくても何か話さないといけない場面ある。特に仕事上ではそういう場面はある。でも、どちらが罪深いかと言えば、知らないのに知らないことを隠すために何かを言う方だと思う。所属するチームや会社、他人をミスリードする可能性があるからだ。
嘘を言うわけでなくうまく立ち回ることができればその方がいいと私も思うが、発言が嘘になってしまうケースやうまくはぐらかすテクニックがないならば、私は知らないことは知らないと言う派だ(そんなこと言っているから私は会社員としてイマイチなんだと思う)。

美容院の倒産件数増加

美容院の倒産件数増加

3月初めに美容院倒産件数が急増しているとの記事があったのを覚えている。その後も、コンサルタントといった業種別のデータに焦点をあてて報じる倒産報道をいくつか見たのと、従業員の退職による倒産といった経緯・背景側面からのニュースもあった。

原料やユーティリティなどのコスト上昇が言われてからすでに長い時間がたっていて、その高いコストの下で、もともと業種毎の企業数が多すぎることでの過当競争がさらにコスト面で圧迫している背景もあると思う。

たしかにコストを積み上げて計算してゆけば、採算が年々厳しくなっているであろうことは、異業種にいる私でも想像できるのだけれど、価格を決めるのは市場側だとすれば、お金をかけなくなったことの方が影響としては大きいと思う。

ニュースを見ていると、給与・賃金が増えていないので生活が厳しいために節約しているとかいう街頭インタビュー・コメントをよく見かけるが、その割には、価格が高そうな商品が並んでいる店は客入りもよい上に実際にキャッシャーで支払いしている人も多く見かけるし、価格が高そうな車に乗っていたりしている。車については残価設定ローンとか費用負担の新しい選択肢が出てきたこともあるだろうし、お金を遣う対象が変わってきているのもあるとは思う。そういう意味では、自分の見た目に遣うお金の世の中での総額は確実に減っているように感じている。

個々人でみれば、たくさんお金をかけている人は今でもいると思うけれど、見た目への出費を以前より抑えている人の方が多数派になって、世の中総額では減少していそう。たとえば、一昔前であればTシャツでは出かけなかった場所にも、今はそれで出かけている人が多い(Tシャツもびっくりするような値段のものもあるが)。選択肢が増えてよい流れにはなっていると思うし、他人の目を気にする必要が薄れてきた世の中もよい方向。掛けられるお金に上限がある以上は、自分が掛けたい分野にお金を掛けるように優先順位を設定する必要があるのは仕方ない。ただ、もう少し見た目にお金をかけて TPO を考えてもいいのかなあとは思ったりする。私はバルブを知らない世代ではあるけれど、就職氷河期に巻き込まれていないから、そんな考えを持っているのだろうとの自覚はある。モノが売れない時代に変化しているのに、趣味嗜好が細分化されてきて大ヒット商品が生まれずらくてますますコストも上がってしまい、本当に大変な世の中になってきた。

時代遅れ、世間知らず

時代遅れ、世間知らず

私のこと。時代遅れ、というか、世間知らずの方がより的確な表現かもしれない。

理由あって自動車の生産・販売台数について2月に調べた時に、販売台数のうち半分がハイブリッド車になっていることに驚いた(日本の自動車産業を台数から理解する – Journeyman : Blog)。というか、それを知らない自分にもっと驚いた。日本で車を買ったのはもうだいぶ前のことなので、その時はまだハイブリッドが今ほど普及していなかったのだろうと思う。そして、そのときの記憶のまま止まっていたんだと思う。

それがひと月前。
それで、最近のこと。

YouTubeの番組が日本の大手家電メーカー2社を比較するという企画をやっていた。その2社は、それぞれに栄枯盛衰的な経緯を経て、以前とは異なる体制で現在も大手メーカーとして企業活動しているのだけれど、絶対評価の視点ではないのだけれど、2社の相対評価としては私が思っていたのと全く逆だった。私は何か調べたうえで何がしかの理解をしていたのではなく、以前に見聞きしたことの記憶がアップデートされていないままの理解なので、すぐさま私の世間知らず感に気付くことになるのだが、そのことにも驚いた。

私のここ何年かの仕事は、世間の動きに敏感でいないと業務の質を確保できない類のものではなく、また、ビジネストークの相手が決して多くないためトークのネタという意味で世間の動静をアップデートさせておく必要性も高くないとはいえ、いかに一般的な情勢に関心がなかったのかに気付いた。日記的にこのブログを始めたのも、今年の行動計画の一つである「すべてのことに対して感想を持つ」ことのきっかけづくりだったこともあるのだが、その意味では関心の無さに気付いたことは目標に向けたよい流れでよかった。

ファミリー・ネーム

ファミリー・ネーム

選択的夫婦別姓が施行されると、「姓」に対する英訳は、日本では「surname」だけになって「family name」は姓の訳語として使われなくなるのだろうか。Family なのに父母で異なる名字を使うことを選択した人には、もう family の name ではなくなる。父方 family の name や母方 family の name では、自分の親家族には違いないが、自分が結婚を決めた配偶者とその配偶者との間の子どもという意味での家族感とは違う。

ところで、夫婦同姓を法律で強制するのは日本だけのようだが、family name という単語は世界各地で公文書に使われているのか surname が正式な英単語なのか(あるいは、それぞれの国の現地語に surname と family nameの両方の単語が存在するのか)など判らないけど調べてみたいことだらけで、今日も時間が足りない。

国際女性デー

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。女性の役割拡大や地位向上を目指すこと、その進捗を確認するために年に一度、記念日を設けることに私は賛成の立場。

男性への逆差別云々という一部世間の声について、個人レベルで利己的に述べると一部には同意できる事柄もあるけど、人類の中の male という性の中の一人の見地から言えば、逆差別のような事象は私の生死に影響を与えるほどの重要問題ではないし、また、これを是正しなければと本気で主張するつもりも私にはないし、女性の日があって男性(割引き)の日がないことに私も文句もない。

とはいえ、ここ数年のありとあらゆる多様性への主張は、ちょっと違うんじゃないかとずっと感じてきた。それは、そういった主張をする人々の表現の仕方に影響されている部分のあると感じている。それはというと、少数こそ正義というメッセージに聞こえる場合があるからだ。いろいろな媒体で出尽くしている表現になるが、少数派こそ多様性を受け入れない人たち、利権団体にすら思えてしまうことがなくもない。

私がジャーニーマンのように働いてきた経歴の中で、どちらかといえば私が仲間に入っている立場になることのほうが多かった。けんか腰で自分の立場だけを主張していても、当然、受け入れてもらえない。受け入れられなければ、たとえ私が良い案を提案しても採用されることはなかっただろうし、事柄がうまく回ってゆくこともなかったかもしれない。受け入れてもらうために自分を偽る必要はないが、まずは受け入れてもらって、やっと何かが動くのだと思う。そういった意味では、本当に世の中を変えてゆこうとするならば、アプローチを変える必要があるし、大声を出さないと変われないと人々に思われる世の中も変えてゆかないといけないと思う。

多様性の進捗を測るために目標を数字で規定することは、それが目的化してしまう問題や目標値の決め方に課題があるのも誰もが気付いていることではあるが、かといって、客観的評価を可能にするには目標と現状を比べる以外の方法を思いつかないのも正直なところ。ただ、多様性のもともとの意義は、多様な人材や視点、アイデアが生まれやすくなることで問題解決の幅が広がって良い成果につながる、ということだったはずなので、こっちの視点からの何らかの評価方法を考える必要がある。もしも私が経営者になったと仮定して、どんな方法があるか考え続けることを止めないようにしたい。

猫の日

猫の日

にゃん・にゃん・にゃんの語呂合わせで2月22日は猫の日。にゃん3回だとちょっと冗長な気がして、にゃん・にゃん2回のほうがリズムがよいように思えるが、2月2日ではなくて2月22日。

もともと2月3日に節分がビッグ・イベントとして存在していることから、猫の日を決めた人々の中に、節分に隠れる可能性を心配した人がいたかもしれないことや(今年の節分は2月2日だった)、猫のかわいさに全く関係ない別の意味で「ニャンニャン」が世間で使われているのを嫌がったのかもしれない。まあ、そんな考察はいいとして、去年までは猫の日を知らなかった私が今年になって知ったように、今年初めて知った人はほかにもいるだろうと思うので、知名度が大事な記念日にとっては、してやったりだろう。

ちなみに、2月22日が記念日になっている日で、その由来が日付の語呂や見た目が理由と思われるものは下記の通り。

・おでんの日=「ふー、ふー、ふー」(これも音的には2回の方がしっくり)
・食器洗い乾燥機の日=夫婦(22)にっ(2)こり
・猫背改善の日=猫背の人を横から見て形が似る数字の2が最も多いのが2月22日
・温泉マークの日=温泉マークの湯気(逆からみたとき)

訪日外国人観光客-ニュース記事のこと

訪日外国人観光客-ニュース記事のこと

2023年に日本人が取得したパスポート発行冊数に係る外務省発表に関連するニュースが気になった昨日からの流れで、今度は、訪日外国人観光客を取り上げニュースが気になった。

それは、外国人観光客の多い北海道・ニセコで物価があがったり、上昇した最低賃金・時給の影響で人を集められなくなった介護施設が閉鎖したといったもの(2月16日頃)。そうすると、その16日の記事と関連付けて、『「外国人観光客=悪」の構図は本当か?』というタイトルの2月19日付け記事を見つけた。

その19日の記事には、『「外国人観光客などもう来るな!」とはらわたが煮え繰り返る方も多くいらっしゃるだろう。』という表現があり、私も「そうか、そんな意見が大勢を占めるんだ」と思ったのち、「え?本当。アンケートとかとった結果なの?」と、あやうく騙されそうになったことに気づいた。もしかしたら本当かもしれないし、あるいは記者の個人的考えに世論が影響されそうになったのかもしれない。実際、人々がどう思っているか知る由もないので、自分はニュートラルに記事を見ておくことにとどめておく。

さて、記事は記事として、外国人観光客が日本のルールに則った行動をして欲しいと個人としては望んでいる。円が高いときは、出張者やコストが高くても本当に日本を訪問したいと思っていた外国人、お金持ちの人々などが主な観光客だったのかもしれない。出張者ならば、基本は都会を訪問する人のほうが多いだろうし、日本好きな外国人であれば、多少は日本のことを知っていたり、あるいは事前に調べてきたり、また、日本のやり方・ルールを尊重する気持ちがある人たちだったのかもしれない。お金持ちの人が自分勝手なふるまいをしないかと言えばそんなことはないだろうが(もちろん、個人による)、悪目立ちをしないといったような人目を気にする人の割合はお金持ちに多いような気はする。

では今はどうかといえば、いいねが欲しいあまりに目立つ行為をしたがったり、日本に特別な感情はないが、円安で安く過ごせるという理由で日本を旅行先に選択し、旅の恥をかき捨てといった感じで過ごす人、世界には違いがあることを知らずにいつものやり方を通してしまう人などの訪日者も増えているのかもしれない。

インバウンドで直接的に生計をたてている人もいるだろうし、そうでなくてもモノやサービスが売れれば間接的には会社員の私たちにも売上アップのような形で関係してくるし、訪日客がいけないわけではないものの、郷に入れば郷に従ってほしいし、それが旅行の楽しさの一部であるとも思う。

結局、私には解決策の提案はできないのであるが、私には私にできることを粛々とやっていく。それは、自分が地元を出たら、そこが海外であろうが国内の地元外の場所であろうが、自分の行動を地元の人に違和感を持たせないことだ。好き好んでジャーニーマンをしてきたわけではないのだけれど、引越し先の土地やチーム、会社などで溶け込むことができる能力はジャーニーマンに必要な資質の一つだと思っている(本当に強固な技術・実績などあれば、他人に違和感をあたえても腕一本で生きていけるのかもしれないけど、私は人間、または会社員としてのジャーニーマンなので…)

パスポート保有者は日本人の6人にひとり

パスポート保有者は日本人の6人にひとり

ネット・ニュースの投稿コメントが好き

ネット・ニュースの投稿コメントが好き

ネット・ニュースのコメント欄が好き。自分で書き込むことはないが、誰かが投稿したものを読むのが好き。
いろいろと違ったスタンス、ポジションからの異なる意見に触れるのが楽しい。そのくせ、私は頑固なのか他人の意見に影響を受けることはあまりないのだが、読むのはとくかく楽しいし、多くの発見がある。画面を見ることができないときは、PC音声か誰かに読み上げて欲しいと思うくらい、好き。

EVは自動運転とセットなら

EVは自動運転とセットなら

自動車の販売台数に占めるEV比率について、2024年の海外市場では成長率が鈍化したという報道がある。

2023年までは、EV比率が上昇していた背景には、購入者に対する補助金(主に欧州)や増大させた自動車会社のEV生産能力の稼働率を上げるためにEV販売価格を抑えた(主に中国)などといった背景があったとは思う。

いったん落ち着いたEV販売比率が引き続き上昇してゆくために必要となってくる要因はいくつもあると思うが、自動運転の発展は大きく寄与すると思う。

本当に自動運転で事故が無くせるならば、頑丈なボディにする必要がなくなるはず。頑丈なボディでなくなれば軽量化が図れ、それにより電費がよくなりバッテリーの小型化が可能になるだろう。その結果、コスト・価格を抑えられると思う。また、事故がなくなれば、いくつかの安全装備が不要になるであろうこともコスト低減に貢献するはずだし、ボディの設計・製造や衝突安全のノウハウが重要でなくなれば、自動車製造の新規参入も出てきて競争原理がいまより働くかもしれない。

私が思うには、EVが売れるかどうかは、結局はHEVやエンジン車との価格差なのだと思う。エンジン車並みに短時間で給油することは無理としても、もっと気軽で早急に充電できたり、自動車の生産段階から本当にカーボン・ニュートラルになったりしない限りは、価格が最大の要因だと思う。
自動運転の信頼度があがって普及すれば、EV普及率の線グラフは今の予測よりも時間軸は右側にいくとは思うが、グラフの上昇角度はもっと急になる可能性を十分に秘めていると思う。実際のところ、EVだけが自動運転になっても、運転補助のないエンジン車に追突されたら終わりなので、しばらくはある程度頑丈なボディは必要だとは思うけれど、自動運転とのセットがEVをさらに後押しはすると思う。