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数字は嘘をつく

数字は嘘をつく

「数字は嘘をつかない」という表現を聞く機会は多い。その表現は間違いとは言えないが、私の意見では、数字がいつでも正しく表示されているとは言えないと思っている。注意して数字を見ることを怠ると、意図をもって数字を作成した人にミスリードされる。多分、この意見に同意できる経験がある人は多いと思う。

時事問題を解説するテレビ番組が多い最近、ある番組で、一つの話題について複数のグラフを用いて解説しているシーンがあった。この番組で使っていたグラフの殆どは縦軸はゼロから始まるグラフだったのに、これを言ったら盛り上がりそうな話題のところだけ、ゼロとその次の座標の間に波線を入れて増加率がある時点で急変したように見せて、「最近激増しています」という解説をやっていた。最初は、ほかのグラフ同様にゼロからの座標にしたところ、その番組(またはテレビ局)の作成者の思想を流布するための急増しているような印象付けができないグラフに仕上がってしまって、縦軸を変えて印象操作をしようとしたんだろうと疑っている。変化率がわからないグラフなのに、解説は変化していますとやっていた(この日のこの番組では、別の話題では波線グラフを一切使っていなかった!)。

ちゃんとした人にしか数字を扱わせてはいけない。
波線グラフをエクセルで作ろうとすると、座量の境界値単位の取り方をうまく設定しないと難しいので私はあまり波線を使わないが、グラフ化に採用する期間を調整して、社内で私の主張にあうようなチャートを作ったりはする。私がやっているのだから、ほかの人もやっている。だから、数字を言われるがままに信用してはいけないのを私も知っている。

老眼の定義を正しく知る

老眼の定義を正しく知る

日本資本の眼鏡店がやってきた。もしかしたら前からあったのかもしれないけれど、私がたまに買い出しにゆくモールには最近やってきた。

そこへ偵察にいってみた。

私の眼鏡は遠近両用。近くは見えて、遠くが見えない。だから、仕事中でいえば、パソコンを見る時は眼鏡を外し、会議資料がプロジェクタでスクリーンに投影されたものしかない場合は眼鏡を掛ける。スイカやパスモが登場する前は、普段乗らない路線の電車に乗る時は運賃表を見ないといけないので眼鏡が必要だったが、車内で本を読むのは眼鏡は不要。まあ、今は電子マネーが乗った路線の運賃を勝手に引き落としてくれるので、知らない土地でも眼鏡は不要になったので車中も車外も眼鏡は不要。

だから、眼鏡の掛け外しが頻繁に発生した。こうすると、視力の低下が早まるというのが十数年前の定説っぽかったので、遠近両用ならば外す必要性が薄れ、結果として視力低下の進行を遅らせられると思った。それ以来、遠近両用メガネ派に転向した(「それ以来」と書くと、何度も作り替えた眼鏡が全て遠近両用だったように誘導する表現だけれど、実は、その時に作った眼鏡を今でも使っているので最初の一本限り)。

一時休暇で日本に行く機会はあるけれど、遠近両用を作ってもらうのに必要な期間には足りず、遠近両用派に転向後も、特定の用途に両用でないメガネを新調していた。

が、しかし。日本の眼鏡チェインができたので、ここで作れるか相談したところ、なんだかよさそう。日本の店でなくても遠近はあるけれど、以前に書いたように日本ですら眼鏡を上手に作れたことがないので、それを海外でしかも遠近両用をチャレンジする気になれなかったが、明るい未来が見えてきた。

大都会まで出ていかないといけないけれど、便利になったなあ、この国。

タイトルに書いた「老眼の定義」について書くのを忘れていた。近くが見えないのが老眼だと私は今日まで思っていた。ところが、目の検査を担当頂いた日本人の方によると(現在、期間限定で当地店舗で研修中の由で、もうすぐ日本の本来の勤務地に戻ってしまうそうなので、日本語が通じるうちにメガネを作りたい)、調整ができなくなることが老眼とのこと。近眼の私は、以前は一つのメガネで近くも見えていたが、今は、遠くを見るためのメガネでは近くは見えず、裸眼にしないといけない。近くが見えても、これは立派な老眼らしい。

私は近くが見える老眼。

カップか水筒かで変わるコーヒーの味

カップか水筒かで変わるコーヒーの味

最近に度々起きてることなのだけど、コーヒーをおいしく感じないことがある。好きな味の豆が手に入らなくて、確かに1か月くらい前までは別の種類だったのだけど、最近はいつもの豆に戻っている。それでも何かが違う。

コーヒー豆の価格高騰で品質が変わったのか。あるいは、私の好みが変わったか。はたまた、味覚障害にでもなったか。

いろいろ考えていたところ、週末に自宅で飲んだコーヒーはいつも通りの味だったことを思い出した。自宅と会社で違うところは、カップで飲むか水筒で飲むかだ。そこで疑ったのは、ストローでアルコールを飲むと酔いやすいのは空気と一緒に飲むから、というのを思い出した。コーヒーも水筒の狭い飲み口から少ない空気とともに飲むとを味が変わるのではないか。

ネットに答えがないかと思って探してみたところ、水筒は作り置きなのでカップで飲む時より温度が低いことと、周りの雰囲気で味が変わるというのにヒットしたけれど、私にはちょっとしっくりこなかった。そんなちょっと落ち着いた感覚になったのもあってか、この疑問のことは少しの間、忘れていた。

何の拍子か、また、気になる瞬間が来た。今度は別のキーワードでネット検索してみたところ、あるわあるわ、同じようなことを言っているページがたくさんヒットした。ああ、みんな同じような経験をして、同じような感想を持ったんだと認識した。

結局、まだ理由は判っていないのだけれど、試しに会社にカップを持って行き、水筒からカップに注いで飲んだところ、いつもの味なのに気が付いた。水筒に入れている間に味が変わったのではなくて、水筒から飲むと違う味に感じるところまでは実証できた(理論は不明)。またおいしくコーヒーが飲めるのが楽しい。


※ 逆流性食道炎の改善のためにカフェインを控える実験をしようと考えたのは、改善を企図しているのは本当にそうなのだけれど、最近、コーヒーをおいしく感じない場面が増えたのも実はその背景のひとつ。カップでおいしく飲めることに気付いてしまったので、さあ、どうしよう。

自分の物差しが少数派なことに気付くとき

自分の物差しが少数派なことに気付くとき

私があまり得意でないタレントがテレビ CM に出ていた。なんとなく苦手に思う理由は、その人の表情やものの言い方を自然に受け取れないため。テレビに出る人は、それがドラマであろうがインタビューであろうがなんであろうが、皆、素の自分ではなく、芝居をしているわけではあるけれど、私の印象ではその人はあまりにわざとらしくて、素直に受け取れないと見るたびに感じている。

その人が CM に出ていて、その CM でもわざとらしいセリフ感が満載だったので正直、意外だった。

私にとっては、その人があまりに露骨に感じているので、私と同じような感想を持つ人は少なくないのではないかと勝手に想像していた。しかし、私と同様の印象を持っている人が多数派であれば、CM に起用さえることはなかっただろうから、私の見方は少数派なのだろう。少数派だから間違っているとも、また逆に、少数派の意見だって尊重されるべきだとかいうつもりはなく、単に、この件については私が少数派ということが全てであって、それ以上でもそれ以下でもない。

だけど、その人に対する私の物差しが少数派だったのは、少し意外に感じた。ああ、そうやって世間とズレていくのかなあと思った。何事にも、各人にはし好があるので世間とのズレはあるのが当たり前なのだけれど、時折、何がどれくらいズレているかを確認する作業は有意義だとは思っている。

テレビ・ドラマの世界

テレビ・ドラマの世界

今に始まったことではないけれど、テレビ・ドラマを見ていて思うのは、これって実際の世の中を反映していることなのかどうか、ということ。

自分が知っていることであれば比較はできる。例えば、自分がかつて勤めていた日本の会社では、スーツの上着は出社とともに脱ぐのだけど(入社してから転職するまでの約30年間変わらず)、ドラマでは事務所で仕事中も上着を着たままの人が多い。これって違うんではと思いつつ、自分が勤める会社しか知らないから、自分が知っていることが多数派なのか少数派なのか判らない。

自分の感覚と違うことが一つあると、他も違うんじゃないかと思い始めてしまう。

最初に、今に始まったことではないけれどと書いたが、少し前にそれを再認識したのは、学校の保護者カーストのような人が登場する場面のこと。そういった人間関係から遠いところにいるのでよく判らないけれど、本当にそういった人(カーストの上のほうにいて権力を振りまく人)っているのだろうか、自分の周りで観たことも聞いたこともないので、テレビ・ドラマの世界だけで存在している人なのではないだろうかと思ったりする(あるいはいても、ごくごく希少な人々)。

自分が知っている世界とテレビ・ドラマ内の世界があまりに違い過ぎる時、私はドラマを直視できないほどに恥ずかしい気持ちになる。これは現実世界を反映しているもの?それとも、おとぎ話の世界?

政府関係者への贈答品

政府関係者への贈答品

外交ウィークだった。ASEAN 首脳会議をきっかけに ASEAN+3(日中韓)首脳会議が開かれ、トランプ大統領もタイ・カンボジア和平合意式典に参加するために ASEAN 会議の開催地であるマレーシア入り。その後、トランプ大統領は来日し、また、APEC が開催された韓国では、米中、日中、日韓首脳会談も行われた。

トランプ大統領に関わる報道では、日本と韓国で贈答品について報じられていた。

民間企業の場合は、アメリカの The Foreign Corrupt Practice Act of 1977 に日本の企業であっても監督されるし、民間企業自体も海外腐敗防止規定などを作成して海外公務員への贈答や、民間企業間の贈答品を含む接待に関わる規定を定め運用している。

それに対して、今回の外交ウィークの報道を見ていると、政府間の贈答品については規定がないのか、政府トップなどの一部にはルールが適用されたいのかとか気になった。自分がその立場や関係者になることはまずないので、このことを自分で調べてみようと思うほど気になるわけではないので調べないが気にはなった。

貰って喜ばしいものを貰っていなそうだったので、なおさらそう思った。贈賄規定があるからその王冠はもらえませんとトランプ大統領が言ったらどうなるだろうか。大統領個人がもらっているのかホワイトハウス寄贈になるのか、また別の方法で管理されるのか判らないが、規定上、貰ってよいのであれば価値のあるものよりは貰って嬉しいものの方が私はいいなあ。

今日は視界に光や黒い点々が見える

今日は視界に光や黒い点々が見える

朝に目覚めてから、視界に光る虫が飛んでいたり、出勤時の車の運転中にはウィンドウシールドに実際にある汚れなのかそう見えていただけなのか判らないけれど、黒っぽい点々が見えた。

脳内の視力に関係する神経や血流の調子が今日は悪いのか、それとも偏頭痛の前触れか判らないけれど、いつもと体調が同じではないのは間違いなさそう。偏頭痛の予兆として光とかが言われるのはネット情報で知っているのだけれど、偏頭痛の歴史が割と長い私には、この予兆をあまり感じたことがないので、神経や血流なのかなあ。今日は、自分の感覚に少し敏感になっておいて、変化があれば記録しておこうと思う。


【 追記 】
日中になると、左目の左上から斜めに伸びた前髪が見えるように影がちらちらしている。
髪は短いので視界に入るはずはないのだけれど、初めは本当に前髪に見えた。
そのあとは、やはり左目の左上から黒い稲妻のようなものが度々見えた。
結局、一日中、左目だけ何かが見えていた。

飛行機内のデフォルト温度設定は変わったのか

飛行機内のデフォルト温度設定は変わったのか

機内は寒い、というのが私の認識だった。飛行機に乗る時にはネックウォーマーは必需品で、搭乗地と目的地が両方夏でもパーカーは手元においていた。

ここ数年は、機内が寒いの感覚がなくなった。前回はたまたまだろう、と思って飛行機に乗る時は今でも毎回ネックウォーマーとパーカーを機内持ち込み荷物に入れているが、少なくともネックウォーマーは鞄に入れっぱなしで降機することが続いている。パーカーは毎回来ているが、ひと寝して目覚めると、うっすら汗を感じることもあるくらい。

コロナで収益が厳しくなった航空会社が機内設定温度を変えたのだろうか?(いや、外から空気を取り入れているとすれば、むしろ、冷たい空気を今はコストかけて温めて機内に対流させている?)あるいは、私は最近は日本の航空会社の便にしか搭乗しなくなったため、欧米人の体温に合わせたギンギンひんやり飛行機に遭遇していないだけだろうか。

手荷物のリストラをしたいと思っているので、デフォルト温度が変わったかどうかは結構小さくない問題だ。機内で寒いのは耐えられない。だから、使わなくても仕方なしと割り切って寒さ対策を持ち込んでいるけれど、デフォルトを変えたというのであればそう言って欲しいのだが、航空会社に問い合わせたら回答もらえるのだろうか?お客様の主観によって感じ方が違うので回答できません、なんて言われてしまうのかな。

牛丼並盛が498円税込

牛丼並盛が498円税込

突然に牛丼が食べたくなった。これまでに牛丼を食べた回数は、大人になってからの人生をならせば多分1年に2回くらい程度の低い頻度ではあるけれど、たまに食べたくなると続けて食べたくなる。今回は、おそらく3年ぶり位なので続けて食べたくなる例とは違うのだが、無性に牛丼が食べたくなった。朝早くに出かける用事があり、それも牛丼を食べたくなった理由の一つだったと思う。牛丼は、夜なら遅い時間、朝でも日が出る前の時間帯で食べるものというイメージが私にはある。

味はいつもの牛丼の味だった。変わるもの・変わらないもの・変わってほしくないものがあるが、牛丼は変わってほしくない味で、私には変わっていないように感じる。年齢によって、私の味覚は変わっているはずなのに、牛丼の味は変わっていないように感じるのは、味の記憶がどこかにあって、実際の味ではなく記憶の味を感じているからなのだろうか。

大きく変わっていてびっくりしたのは価格。店舗で並を食べたのだけれど、税込み498円だった。昔と比較するのはナンセンスとは言え、私が初めて外国旅行に出発する日に食べた特盛が当時は 500 円だった。餞別というわけではないが、先輩がおごってくれるということで、なんと、その先輩のご厚意で特盛を2杯ごちそうしてもらった。ありがとう、あの時の先輩(ちなみに無事帰国した後も、同じ先輩に牛丼をごちそうになった)。

30 年以上経てば物価は上がって当然な反面、デフレ、デフレと言い続けていたのに、いつの間にか並盛が 500 円になっていたとは。3 年くらい前にも牛丼は食べていたはずだか、私は牛丼を食べるときは特盛か大盛だったので並の価格を知らなかったところ、学生時代の特盛と現在の並が同じだったので比較しやすいところで違い大きくて驚いた。以前と現在で特盛同士の比較であればそんなもんかと思ったかもしれないが、特盛と並が同じことに驚いた(実際に特盛価格をネット検索したら当時との違いに驚いた。結局、何をどう比較しても驚いた)。

学生バイトの時給も上がっているはずだけれど、今も学生にとっては牛丼は安いものではないのだろうと思った。

口数の多さと繰り返し発言の多さ

口数の多さと繰り返し発言の多さ

私は、口数が多くない時の方が累計では長いと思う。人と話すのは苦手ではあっても嫌いではない。だけど、意見とか物事の見方とかがほかの人々と違うケースが多いと認識していることもあって、会話が弾まないことが少ないない。加えて、一緒にいる人の発言と関連のある他のことが頭に浮かんでしまうことが高頻度で起こり、私の中ではさっきの話の関連トピックで話しているのだけど、相手からしてみたら話題が飛んでいってしまうように感じさせて、一つのトピックで会話を続かせることができない私の話し方も悪い点だと認識している。

そんな悪い点に加えて、個人の趣味として、言葉の繰り返しがあまり好きではない。自分の言ったことのみならず、誰かが言ったことを繰り返すのもあまり好きではない。このことは私的な会話ではあまり気にしないのだけど、業務上だと特に避けたくなる。だから、他人の意見を繰り返したりする人を会議とかで聞くのが好きでない。それはさっき、〇〇さんが言ったから判ってますよ、と心の中で独り言つ。それは、底上げの弁当箱、嵩上げで余計な時間を使っているだけではないか。自分でもそれを避けようとするので口数を嵩上げしない。

まあ、ここは個人の趣味の問題で、一般的には口数が多いほうが人に与える印象はよいだろう。柔和というか話やすい人というか。印象は悪いよりは良い方が望ましい場合が多いので私が考えを改めるのは一つの方法であるが、みんながみんな人の言ったことを繰り返したらしたら時間がもったいないし、会話が終わらなくなるので、少しの努力をしつつも私の個性としてご理解いただければ嬉しい限り。

EVの見た目

EVの見た目

自動車のモデルチェンジで EV をラインアップに加えたという自動車メーカーの記事のタイトルが目に入った。どんなデザインなのだろうか気になり、記事本文を読むべく全文表示をクリックした。

私にはどうしても EV の見た目が好きになれない。

私の好みではない車が続々発売されているということは、私の感覚が異端なのだろうことは容易に想像がつく。しかし、私にとっては多くの EV の見た目は、2001年宇宙の旅で出てくるような昔の時点での未来イメージというか、40 年くらい前に雑誌で見た未来カーのように見えて仕方ない。フロントもリア(ライト(ランプ?)の話をしているのでテールというべき?)も左右のライトがつながっているのが、どうしても昔の未来カーにしか見えない。天才バカボンにでてくる目ん玉つながりの警官を細めにした感じというか。EV にすると光っている部分が多くないといけないといった先入観があるのかどうかしらないが、私にとっては好みではない。

ちょっと前までの車のテール・ランプの場合、欧州車は縦が多くて米国販売車は横長かつ真ん中の部分が赤い反射鏡でつながっていて、昼間にみればランプと反射板で横に赤い帯があるようだった。日本車が米国に輸出されていた時代は、日本の車もアメリカ好みと私が勝手になずけている横長・反射板でつながりタイプが多かったが、(私の感覚で)ダサい見た目が嫌われたのか日本車も欧州車に近いデザインになっていた。

なぜ EV になると流れるようなライトが増えるのだろう。EV 駆動にすることで上昇する生産コストをほかで安くするために、安く作れるような設計にした結果だったり(プレスが安っぽい感じ)、デザインの費用を抑えて作っているのだろうか。安全対策を一例に、以前にはなかった重要必須項目が増えたとかがあるのは判るけれど、乗るのが楽しみな車が減ったように思う。EV化以前より存在する自動車メーカーには、どのモデルにも共通するそのメーカーの車に共通するシルエットのようなものがある。欧州モデルはEV モデルでもびっくりするほどの外観急変は少ないが、日本メーカーの EV にはそれまでの内燃機関モデルと比べて未来臭が結構する。また、EV 専業の新興メーカーの EV は完全に未来臭しかないのと同時に、なんとなく(人によって大きくイメージが異なるけれど)e のイメージという感じ。

余計なお世話だが、こんなんではますます車が売れなくなるよと心配する、わたしくの主観では。

喋っていないと死んでしまうのか

喋っていないと死んでしまうのか

口数の多い人とそうでない人がいる。人それぞれ。しかし、静かな環境の方がよい場所では、静かにしていてほしいと思う。

それを特に感じたのが病院での出来事。その人は、人間ドックのために通訳とともに病院にきていた。検査なので別に具合が悪くて来院していたわけではないし、通訳という話相手がいる状況だから話したいのだろうけど、周りの人(みなさん単独で来ているので話し相手がいないので静かにしているのが当たり前といえば当たり前)が皆静かにしていて、その場の空気感も静かな環境であるにも関わらず、その人はいつまでも通訳としゃべっている。病院の人が注意しないので、病院としての許容範囲内なのかもしれないので私も特に指摘をせずに、遠く離れた場所にいた(はじめは、看護師さんの指示でうるさい人の隣の座席に座るように言われたのだが、耐えられなくて離れた場所に移った)。多分、病院は静かにしているという価値観とは異なる環境で育ったのであれば、うるさいのは仕方ないのだと思う。だけど、名前を呼ばれてもその場の人に聞こえないようなうるささで会話するのはやめてほしい。

雨季のショッピングモールでの駐車

雨季のショッピングモールでの駐車

私が今の土地で暮らすようになって割と早くに雨季が来た。もう何年か前の話。

生活面の注意事項を会社の同僚から教えてもらったことの中のひとつに、雨季にショッピングモールに行くときは、地下駐車場での駐車を避けたほうがよいというアドバイスがあった。もちろん、停めてはいけないわけではなく、実際に停まっている車の数は乾季のそれと変わらない。しかし、長時間止める場合は考えてから停めるようにと言っていた。ひどい豪雨になると、30分で地下駐車場に水が流れ込んでくることがあるらしい。

そんな豪雨は経験したことないが、一般道からバイパスに入るための勾配のある道を走っていた時に、川のような流れの中に巻き込まれたことがあった。車で走っていたので、その地点でいつから雨が降り始めていたのか判らないので私の想像が間違いかもしれないけれど、その地点に辿り着くまでの雨量はそんなに驚くものではなかったので、あっという間に増水したような状況ではあった。

日本でも台風で同様のことがあったようなので、同僚からのアドバイスを忘れないようにとあらためて思った。

田舎育ち

田舎育ち

大学に入るまで田舎で育った。びっくりするほどの田舎というほどの土地ではなく、よくある中途半端ないなか町。

・電車は一時間に一本
・だから、電車の時間に遅れないことに必死(とはいえ、基本の移動手段はどんなに遠くても自転車)
・バスは小学生の頃に廃止
・畑が多くて冬は出窓に砂がたまる(田舎だからではなくて私の育った家の建付け?)
・夏はほぼ毎日、夕方に雷雨
・学校帰りは畑をつっきって最短距離で家に向かったりできる
・トウモロコシ畑をつっきる時はいろいろなものが服にくっつく
・登下校の道には小学生が寄れる店がない(まあ、小遣いもないから寄れないが)
・マクドナルドが町にない(ほかのファストフード店もない。今でも)
・電車が単線
・警察署や交番がなく、派出所が町に一つだった
・建物が少ないので風の強い日にはダイレクトに風を浴びるので自転車が進まない
・時間帯にもよるが、だいたい電車は一両編成
・小学校まで片道歩いて40分(いくら小学生でも2kmを40分って、遊びながら通学してたのかな?)

小学生なんて(中学生のときも)自分の町しか知らないから、ほかにどんな世界があるかもしれず、別に不平・不満もなかった。今考えると田舎生活していたなとなるが、当時は別に何とも思っていなかった。

クリーンな政治家

クリーンな政治家

仕事ができれば政治家に清廉潔癖さは求めない。この意見は、ネット世論としては珍しいものではない印象。

私も、真っ黒クロスケはさすがにどうかと思うが、完全クリーンで仕事ができないよりは、多少の疑いはあっても仕事ができる人が議員でいてくれた方がよいという意見だった(クリーンな仕事人が一番よいけれど)。

しかし、最近になって、もしかしたら今までの意見を見直すことになるかもしれないと思い始めた。私は、陰謀論を興味を持って聞くけれど、それを信じてはいない(陰謀論と気付かずに信じている説がないとは自信を持って言えないけれど…)。しかし、もしも、脱税を見逃してもらう代わりに誰かの言いなりになっているケース、例えば変な国家予算の使い方であったり徴税を法制化したり、何か弱みを握られることで指示通りに動くような議員が本当にいるとすれば、仕事ができるできないは譲歩して、クリーンな政治家を求めたいと思うようになった。私腹を肥やす程度(本心では程度などという表現を使いたくない)ならば国民には迷惑をかけていないとも言えるが、国を思う政策を曲げるようなことは国民の代表としての信任は得られまい。

クリーンかどうかは実際は判らない。だから、総合的に判断せざるを得ないのが実情だけれど、次回の投票では、この目線を検討項目に入れて投票先の候補者を考えてみようと思っている。
次回の選挙の時にどのような世の中になって、どんな世論が形成されているか判らないが、そろそろ、本当に政治体制が変わる頃になっているかもしれない。自分の年齢的にも、そろそろ自分のことよりも次世代のことにより思いを巡らす時期が来ているかもしれない。

「H」は「ヘイチ」と読むのが多数派だった

「H」は「ヘイチ」と読むのが多数派だった

外国人の人と話していると、自分が主流派なのかそうでないのかに悩むことがある。現在、海外にいる私の環境では、私こそが外国人であるのでマイノリティであるし、世界に 80億人を超える人口がいれば、途方もない数に区分けできるであろうから、分けることに意味があるのか判らないのだが、そうであるかないかの2つに分けることができるケースでは、多数派か少数派かを知るのは面白いと思っている(自分がどちらに属していると嬉しいかは、そのお題によって変わる)。

そんな中、会社の同僚が「ヘイチアー」と言うのを聞いた。はじめは何を言っているのか判らなかったのだが、何度か同じ言葉を聞いた後に文脈から「HR」と言っているらしいのが分かった。なんだ、人事のことかと。今いる国では、いかにも東南アジアっぽい英語を喋る人もまだまだ多い。たまに、アメリカのテレビで見るようなアクセント、イントネーションの人に出会うこともあるが、まだまだ、アジア発音だ。だから、「Hのことをヘイチと発音するのか?」とネットで検索してみると、私の無知ぶりを知ることになる。私が見たページが事実を述べているのか判らないのだけれど、「エイチ」よりも「ヘイチ」と発音する人口の方が地球上では多いという情報が書いてページの方が多かった。ごめんなさい、私が少数派、非主流派でした。

他の例でも、最近になって私(日本の教育内容)が非主流派だと知った発音があったけれど、それが何かは忘れてしまった。まあ、それはよいとして、知らないって怖いなと思い知らされることが多くてたまらない。ありがたや。

人の顔はあまり変わらないようだ

人の顔はあまり変わらないようだ

そりゃそうだろ、という人もいるかもしれないけれど、最近に私が(やっと?)気付いたのは、人の顔はあまり変わらない、ということ。

学生時代の友達と会ったりする機会は全くないので、それを思ったのは芸能の人たちを見たときのこと。ドラマやバラエティの古い番組で芸能人の以前の映像を見ることがたまにあって、原則としては顔の作りが変わっていないなあと。ただし、ほとんどの人のケースでは、以前の方が(若い時の方が)顔がほっそり・すっきりしている。それは、頬がこけているとかではなくて、無駄な肉がついていなくてシャープな印象を与える印象。無駄な肉がない分、皮膚表面が骨の凹凸を忠実に反映している感じ。道路表面をタイヤを通じて感じ取れるようなというか。年齢とは、こういうことなのかと感じることもできる。

見た目の維持に時間もお金もかけられる芸能人だから顔があまり変わらないのであって、一般人には該当しないと言えるのかもしれない。一般人の場合は、おもかげを少しだけ感じられるだけで、とても変わってしまうのが普通なのかもしれない。そのところはあまり判らないけれど、顔が変わらないのであればなおのこと、自分の歩んでいる人生が良い方向に顔に出てくるように精進したいと思った。

トイレット・ロールを装填する向き

トイレット・ロールを装填する向き

トイレット・ペーパーは、ロールの手前側から紙が垂れ下がるように装填された家庭や学校、職場で生活してきた。しかし、オーストラリアとニュージーランドでは、ロールの向こう側から垂れ下がって装填されているケースの方が「日本での多数式」より多いというのが私の経験からくる認識。いくつかの国籍の人がで入るする事務所で働いていると、日本人からみて逆向きに設定していると、あ、あの人がロールを入れ替えたんだな、と思ってしまったりする。

AUS と NZL の共通点は、イギリス連邦加盟国であることと南半球の国であること。私は、この二か国の例しか実体験がないため、日本から見た逆向きがどちらの影響なのかが気になった。

例えば、時計が右回りなのは、日時計が右回りになる北半球で時計が発明されたからというように認識している。高校の地学で学んだのは、たしか、高気圧の風が吹き出す方向、低気圧の風が吹き込む方向が北半球と南半球とでは反対になる(と、いう記憶。正しいかは定かではない。調べてから書け、という話だが)。だから、ロールの向きにも影響を与えているかもしれないと思ったりした。

結論としては、イギリスの影響の模様。なぜ、そうなったかはよく判らないけれど。

ロールに関するほかの違いで向き以上にどうでもいいこととしては、ロール・ホルダーの蓋がない国の方が多い印象があるけれど、これは、トイレの場所によるのかもしれないとも思っている。空港などのトイレでは、設置コストやメンテの関係(ロールを交換する際に、蓋を上げて芯を外してまた入れてという作業の効率を上げるには蓋を上げなければよい)で蓋なしなのかもしれないため、もしかしたら家庭では蓋付きケースが一般的かもしれない。
少し困るのがロールホルダがついている場所が、不便なところにある国が多い。体を不自然にひねらないとロールが取れないとか、外国のホテルによくある。あれは、あらかじめ必要と思われる長さの紙を切り取ってから便座に座るからなのかとか疑ってみる。

ロールの向きはどっちでもよが、トイレは落ち着くことができる環境になっていて欲しい。

日立が白物家電事業の売却を検討

日立が白物家電事業の売却を検討

また、この手の事業売却ニュースだ。売却するような事業をほかの日本企業が買うとも思いずらいので、外国の企業の手に渡ることになるのだろうか。

利益を求める私企業だから、そう決断するような事情があれば事業を売却するのは仕方ないことだろう。しかし、日本の企業が海外に売られてしまうのは寂しいことだ(海外に売却されると決まったわkではないが)。なぜ、こうなってしまうのだろう。

企業個別の事情もあるし、日本という国の性格が関係している背景など、理由を上げればたくさん出てくるだろう。コストで外国企業には勝てないとか、同業で国内メーカーの数が多すぎて、本来は競争によって企業の力があがるところ、むしろ競争で力が削がれていることもあるだろう。

ネットを探せばいろいろな解説を知ることができるけれど、私が思うには製品の寿命が長いことも原因の一つではないかと思う。ソニー・タイマーと言われるものもあったりするけれど、平均的には日本の製品は外国製に比べて寿命が長いと思う。消費者にとっては寿命が長いことはよいのだけれど、寿命が長いということは買い替え需要がそうでない場合よりも少なく、そうなると、製造数が減ってコストが上がるのは勿論、新技術を披露する新製品サイクルにも影響する。その結果、消費者が求めてもいない機能を入れたり、それゆえに無駄に値段の高くなったり、商品がガラパゴス化するとか、寿命の長さが開発結果を世に出すことを阻害したり商品の魅力を下げているのではないかということ。

私がくらす東南アジアではすぐにモノが壊れるので、すぐに買い替えないといけない。まあ、価格が安いからそれでもいいのだけど、突然壊れてしまうことには困っている。

私の想像が正しいとすれば、本来は寿命が長くのはよい製品であるはずなのに、よい結果に結びつかないことになっているとすれば残念。

青い車に気をつけろ

青い車に気をつけろ

非常に乱暴に言うと、「青い車をみたら気をつけろ」は運転中の私の座右の銘の一つだ。

流れに乗れていない車や突然に私の走行車線の前に出てくる車が少なくない。率でいえば、私が路上で見かける青い車の中では、そのような動きをする車両がとても多い。その動きをするのは青だけではないが、青の車がその動きをする確率は高い。

色でいえば、青のこの現象以外には顕著なものは他に今のところ見当たらない。
一方、車種でいえば、ピックアップの人は運転が上手でない確率が高いような気がする。これも、下手な人が皆、ピックアップを運転しているわけではないが、ピックアップの人は下手な確率が高いというのが私の観察結果。実際は、下手というとちょっと実際は違うかもしれず、ただしくは運転という行動をするときに、運転にあまり注意を払うことができない人の確率が高いというか。例えば、片側2車線の車線をまたいで走行しているとか(これも、またいでいるのは皆ピックアップということではなくてほかの車種もあるが、ピックアップがまたいでいる確率が高いという主旨。車幅感覚ないのかな?)。

ドイツのアウトバーンでは、オランダ・ナンバーと帽子をかぶった老紳士が運転しているのが後続から見えたら気をつけろ、ということを言うのを聞いた。どちらも後続車両との距離感や速度差を気にせずに車線変更をして追い越し車線に出てくる人、という趣旨だった。印象的にはその通りだったような記憶はあるものの、実際に危険運転をする確率が高かったかどうかは覚えていない。しかし、運転中に両者を発見したときは、いつも以上に慎重になっていた。これは主観としての事実。

日本では、赤い車は警察に目を付けられやすい、という説を唱える人がいたような気がする(黄色だったかな?)。実際に統計をとったら実際には相関はないかもしれないし、運転が下手という定義の設定の仕方によっても結果が左右されるので単純な話ではないが、ある人がどういう選択をするとか好みがあるとかをもっと極めていったら結構面白い研究になるかもしれない。レッテル貼りや先入観につかってはいけないけれど、研究としては面白いのではないか。