閲覧者
カテゴリー: 国づくり

人の心情を勝手に想像して記事にする人々

人の心情を勝手に想像して記事にする人々

記者やそのほかの対外的に情報発信する人々は情勢を分析しているつもりかもしれないが、読み手である私たちからすると、人の心情や意図など判りもしないのに、それを勝手に想像して書いているんじゃないのかと疑ってしまうことがある。

最近の例でいえば、解散総選挙になるかという観測の中での報道。「高市首相は〇〇ということで解散総選挙を実施するのだろう。けしからん」といった文脈のこと。高市首相や選挙実施に対する私のスタンスは一旦横におき、ここでは記者や記者の所属会社の態度について言っている。高市首相へ取材した結果なのか?と聞きたい。想像で記事を書いているのに、事実のように書いていないか?それこそ、レッテル貼りや世論の誘導だなあと。

現実離れしたストーリーのドラマを見ていると、見ているこっちが恥ずかしくなるタイプが私。それと同様に、想像した心情や勝手に作ったストーリを事実のように書いている記事も読んでて私が恥ずかしくなることがある。事実なら事実と書けばよいし、想像ならばそうであることが読者に判るように書くべき。また、記者自身の政治的立場を明記したうえで書いてくれれば、ああこの人はこういう信条だからこういう見方・主張をしているんだ、と分かるというもの。

事件とか社会ニュースにも同じことが言えると思う。被害者・加害者のことを勝手に推測して書いてるのに、最後は断定している。嘘を書くと事務所がうるさいのか、芸能ニュースからは、勝手に詮索して書いている感じはあまりうけない。先日のアメリカによるベネズエラ大統領拘束に関する記事もファンタシーを堂々と書いているようで、読んでいててムズムズしたりする。

先輩の代から引き継いできたフォーマット化された伝統的な働きぶり・書きぶりなのだと思う。ここらで一度、リセットできる人に変わってもらいたい。あるいは、あたらしいメディアに登場してもらいたい。

運転マナーが合わない国だと出不精になる

運転マナーが合わない国だと出不精になる

私は現在、東南アジアの国に暮らして働いている。今いる国の交通事情は、私には合わないと感じている。車の運転の仕方やバイクの交通ルール順守の度合いや、少し前まで走っていた車から車外に出てきて運転者・同乗者のふるまいなど。

お国柄や個人個人の交通安全や運転への考え方の違いなどで仕方ないことだと判っているので、イライラすることはあってもその問題が解消する日が近いうちに来るとは思っていない(本当は、個人の考えはお国柄に大きく影響されると思っている。だって、親の運転をみて子どもは育ってきているから、変化が必要だとする相当強い意志がない限り、どうしても、その国特有のローカルルールとかがこども世代に引き継がれてゆく)。。だから、私は多くの人々が道路上に出てくる前にと企図して出勤は早く家を出るし、仕事以外では必要性が非常に高くない限りは外出しないか、朝いちばんにしか出かけないようにしている。外に出れば渋滞に巻き込まれるし、本来は回避できそうなものなのに回避されない事柄に巻き込まれる。だから、この国では私は非常に出不精になる。その結果、インドアでできることに時間を使う傾向が増えた。何が良いとか悪いとかではなく、理由があって何かがおこる、ということと感じている。

不織布マスクからサプライチェイン強靭化

不織布マスクからサプライチェイン強靭化

サプライ・チェインの中国リスクがニュースで頻繁に取り上げられるようになってしばらくが経つ。同じ製品・原料の懸念が再燃しているものとかもある。結局、コスト優先でリスク管理はあまりしてきていなかったように見えたりする(実際は、有事の準備はできているけど、その素振りを見せずにいるだけの企業もあるとは思う)。

特定の業界とか企業とか、範囲が狭いところでの懸念だと、のど元過ぎれば熱さを忘れることもあるともうけれど、コロナの時に日本企業の中国拠点で製造されたマスクですら出荷を止められたことは、多くの日本人であれば覚えていてもおかしくない事件だったはず。当時は、経産省がサプライチェイン強靭化のための補助金を提供することもあったはずなのに。

オフレコ

オフレコ

官邸幹部のオフレコ発言が最近に報じられていた。

何年に一度の頻度でオフレコ発言が取りざたされる。そのたびにいろいろ議論があるが、私の中では政治家にはオフレコ発言はないと思っている。オフレコといってそれを本気にするマスコミは存在しない、というのが既に暗黙の了解になっているという認識だった。

だから、政治家が「これ、オフレコだからな」という場合は、流出するのが判ってあえてその情報を流すのが政治家でも常識になっているのかと勘違いしていた模様。

今回報道されている案件にどのような背景があるのか判らないけれど、センシティブな時の変な発言もよく判らないし、オフレコ発言を書くくらいなら発言者の名前も明かせばよいのにそうはしないのはなぜかもマスコミの世界にいない私には想像もつかない。オフレコ書くなら、その官邸高官とマスコミの信頼関係は壊れてしまっているはずなので具体名を隠す必要がないように私にも思える。

彼らには彼らの暗黙の了解があるのだろうけれど、オフレコは書くというのがそうなのであれば、発言者はもっときちんと認識すべきだと思う。そうでなければ、わざと言ったとしか思えない。だとしたら、今じゃなくてよかったのではという私の感想。あるいは、わざと足を引っ張るために、書かれる前提でオフレコ発言すれば、オフレコだからってそんなこと言ってもいいのかというように余計に否定的な意見を引き出しやすい。そうであれば、マスコミが名前を出さない理由はありそう。ともにアンチ現政権ということになるだろう。

経済効果と言ったって

経済効果と言ったって

中国人観光客減少による経済損失をどうしてくれるんだ、という意見を言うコメンテータやそういった発言を引用して伝えるニュースがある。

経済効果という文節では、例えばヤクルト・スワローズが優勝して経済効果が〇〇億円と言ったって、真水で〇〇億円が余計に使われたわけではなくて、その分、今日の晩御飯は質素にとかいうのがあってのヤクルト関連支出である、というようなことを言っていた人がいた(ヤクルトは例として私が使用)。よく考えてみれば至極当然な感じはするが、なるほどね、と思った。お金持ちは別として、ヤクルトに余計にお金をつかうのではなく、その分がどこかでへこんでいるはずだ。

一方、経済損失はどうなんだろう。中国人は中国人の経営する宿などを利用する人が多いからそもそも日本の経済には影響していない、という説はここではいったん忘れるとして、外国人が使わなくなるものは他で埋め合わせはないであろう。だから、外国人に由来するものは経済損失で確定、ただし、中国人が少なくなった観光地や店舗に日本人が訪れてお金を落とすから多少は埋め合わせする、は成り立つのだろうか。しかし、その日本人の旅行代金や支出は、今日は安売りの魚にして節約した分から支出されいるだろうから、そうするとやはり経済損失は損失で確定なのかなあと思ったりする。

政治発言をどうのこうのとか、旅行者減少がどうとかいうつもりはなく、単純に、経済効果や経済損失という言葉について考えてみた。

キャンセル・ポリシー

キャンセル・ポリシー

中国政府による訪日自粛で旅館業をはじめとした旅行関連業界や飲食店などの予約にキャンセルが発生して、キャンセル料を免除するよう主張する人々がいるというニュースをよくみた。最近は、その手のニュースはちょっと落ち着いてきた印象がある。

キャンセル料をとりっぱぐれることを未然に防ぐための対策として、日本のホテルなどにもキャンセレーション・ポリシーがしっかりあるところが多いと思うので、事前にクレジットカードを保証用に必須にするだけでよいと思うけど、だめなのかなあ。

正直言って、私自身はカード情報をネット入力するのはいまだに抵抗あるのだけれど、それで迷惑をこうむっている店舗があるなら仕方ないと私は割り切る。海外ではクレジットカード情報がホテル予約には必須なところが普通なので、日本がそれを厳格運用しても問題はないと思う。相互主義だから問題ない筈。それで、できれば日本人にはカードなしで予約を取って欲しいけれど、レストランでの無断での予約キャンセルなどの問題を聞いてもうしばらくたつので、日本人だけOKというわけにもいかないだろう。

会社のコンプラやリスク管理などに関するルールもそうだが、破るやつがいるから厳しくなって、ちゃんと遵守している人までがんじがらめにされてしまう。一旦、キャンセルする人がでてくると、もうカードなし予約の世界には戻れないと思うけれど、いまよりも厳しくなることがなきよう、キャンセルする人はもうやめて欲しい。

普段は意見の違うニュースでも楽しめるのに…

普段は意見の違うニュースでも楽しめるのに…

ちょっと見ていてしんどいニュース番組があった。スタンスの異なるニュースでも、普段の私は突っ込みを入れながらもバラエティっぽく報道番組を見ることができる。違う意見があるのは当然だし、テレビ局も民間の営利企業ゆえに収益が大事であり、そうなると、視聴率を上げないといけないし、そのためには事実であるかは彼らにとっては重要ではなく、伝え方をセンセーショナルな方向にもっていきたくなるのも理解しているつもり。

そんな私でも、最後までみていられない報じぶりの番組があった。

最近の中国との関係について報じる番組の中で、沖縄に関する中国側の要人発言を取り上げ、そこから派生して、現在の沖縄県に中国の影響を受けたものが多く存在していることを説明していた。ここにもある、あそこにもある、と。このままいくと、中国側の主張に沿った話題のみを展開して沖縄は中国の一部ということを言い出しそうな感じで、その時だけは途中で見るのをやめた。中国が何かを言う権利は認めるけれど、なぜ、日本の報道会社が他国の主張ばかり垂れ流すか判らない。同様のことは、私が見るのをやめたテレビ局のものだけではないのだけれど、その日のそれは、もう本当に見ていられないというか、それ以上みたら本当に気分が悪くなりそうだった。

少し前には、米国で USAID(United States Agency for International Development、アメリカ合衆国国際開発庁)が報道機関に資金支援をして自分たちに有利な報道をさせていた、という報道もあったし、アメリカが国外の報道機関にも資金を与えて影響をおよぼしていたというニュースもあった。日本の報道会社が買収されていないとも限らない。

自虐史観という言葉・概念がこの報道の事象に関係しているのかどうか判らないけれど、どうも日本人は日本のことを尊重してはいけないということになってしまっているような気がしてならない。私の場合は、自国を愛するという概念はちょっと違う感じを持っているのだけれど、自国を尊重して自国ファーストのスタンスをとることは、国民にとって、ごくふつうのありふれた反応だと思っている。

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

考えを変えたのか、そういうフリをしてたのか

考えを変えたのか、そういうフリをしてたのか

国会議員または議員になろうとする人は、選挙のためなら自分の思想を押し殺したらキャラ設定したりするのだろうか。

今年 2025 年の参院選で久々に立候補するも落選した人が直近の代表例。その人は、とある党の公認内定を受けたが土壇場で取り消しにあい、無所属で出馬して落選した人。もともとは、別の党所属の衆議院議員だったが、ここしばらくは出馬もしていなかった人。

以前は、与党にいちゃもんをつけることを目的に議員になったとしか思えない言動をしていた人だったのに、最近は、与党・野党に関係なく、それが道理にあう考え方だよね、という発言をしている記事を多く目にする。記事を通してしかその人の発言を聞いていないから、もしかしたら私が目にしていないだけで、今でも理解不能な主張をしているかもしれない。加えて、私が同調できる意見を言っているというだけで、その意見が正しいかどうかも判りはしない。ただ、その人が衆議院議員だった当時は、その人の発言の全てが納得がいかなかったので、発言の方向性が変わったのは間違いないはずだと思う。

これってその人が考えを変えたというよりも、当時から与党に近い考えを持っていたにも関わらず、公認待ちの列が長すぎて与党では出馬できそうにないから、意思をまげて野党から出馬し、その結果、自分の考えと違うことを主張せざるを得なかったということなのかなあと意地悪に想像したりする。私が思うには、国会議員のような職業の人は、何か成し遂げたいものがあり、それを必ず実行するんだという強い意志があり、その意志は長い年月をかけて築き上げてきた人となりに重なるものでもあるので、そんなに簡単に思想は変わらないと思っている。当時のイチャモン発言がキャラ設定だったと疑っているのは、こうした理由からだ。

だとしたら、残念だ。自分の意志をまげてまでそうするのが国会議員の仕事なのか。やりがいや成し遂げたいことを押し殺してまでも国会議員であることは美味しい仕事なのだろうか。もしかしたら、現役野党議員にもそういう人がいるとしたら、なんとも残念。



官僚出身の国会議員

官僚出身の国会議員

以前から言われていたことで、最近はよりその声が大きくなったように思われるのが、国会でのあまり意味のなさそうな野党の質問に対する世論。

日本の将来のことではなく、過去の発言についてあーだ、こーだ質問している。答えられないことについて質問している。答えさせて誰が得するのか判らないことを質問している。

各人の信条もあれば、所属政党からの指示・方針に従って質問している場合もあるだろう。人を追い詰めることだけに興味がある人もいるだろう。

今日、ふと思ったのは、彼・彼女らには特に悪気や意図もなく、単にそれがフォーマット化して、こうあるべきと刷り込まれてしまっているのが理由なのかも、と。特に、閣僚出身の人は、自身が閣僚として答弁を作成している時からそんな国会質疑に慣れっこというか、それが国会質疑だと思いこんでしまっているからとか。もう、フォーマット化してしまったから、そういった類の人たちが国会議員を引退するまで、もう治らないのかも。それまでの間に、フォーマット化した人が再生産させるかもしれないけれど、これからの若い人はそう簡単にフォーマット化されないような気もする(そう思いたい)。

ただ、とにかく時間の無駄になるような質問はやめて、将来に関わる質疑をして欲しい。

自民党総裁選 ~ 連立 ~ 首班指名選挙

自民党総裁選 ~ 連立 ~ 首班指名選挙

10月初めからの一連の流れの中で、いくつかのファインプレーがあったと私個人は感じているのだけれど、その中のひとつが自民党総裁選をフルスペックで実施すると決めた人だと思う。

総裁選がスタートしたころの報道では、たしか、現首相を支持するメンバーが選挙管理委員会に名を連ねているという報道内容だったと記憶する。もしそうであるならば、国会議員のみにはかるというやり方があってもおかしくないところ、フルスペック選挙の実施を決めたのは、高市候補が勝利する方向性の最初のステップを大きく踏み出すことになったと思う。もしかしたら、自民党に危機感を感じる議員が少なからずいて、党員の声を聴くべきと思っていたひとが案外多かったのかもしれないと思った(2024年の総裁選同様に、フルスペックで実施しても議員側が恣意的に議員票を活用できるとおもっていたのかもしれないが…)。

これがなければ、今頃は期待感もない政治ニュースになっていたかもしれないし、自民党政治の終焉を迎えるきっかけになっていたかもしれない。

実際に高市氏が何を実行できるかはまだわからないものの、期待感はあると思っている有権者の一人です。

連立とか首班指名とか

連立とか首班指名とか

10月4日の自民党総裁決定後からの報道を観ている部外者の私としては、結論が出ていそうなのに何をやっているんだろうという傍観者の気持ち。支持者の顔色をうかがうためか、あるいは支持者の要望を検討しているフリをするためのポーズなのか、やってる感を出すためなのか、可能性を協議してばかりしている印象。

国民民主党は、立憲民主党と可能性の協議を続ければ続けるほど、考えが交わらずに別れた2党なのに、やっぱり近しい考えなのではないかと誤解を有権者に与えそう。早めに結論出したほうがよさそうに見える。

公明党が今回の最大のファインプレーだと思う。連立を離脱すると決めたことが、日本が前向きに進んでいきそうな予感をさせた。自民党がよいとは思わないけれど、高市首相が誕生して日本が変われるとしたら、公明党代表の英断だと思う。

維新のことは良く知らないので何もいえないけれど、報道やその書き込みコメントなどを観ていると、自民と考えが近いらしいので悪くはなさそうだけれど、私が知っている数少ない情報のうちの一つの高校無償化には全く同意はできない。しかし、高市首相誕生をアシストするのであれば、公明党につぐファインプレー。

国民民主だけ割食った感じかなあ。素人だけど。

一番残念なのは報道かなあ。彼らに大事なことは、売上や閲覧数、視聴率だろうからあることないことを言ってみてもらうのが一番大事で、なにが大事だとかは関係のないことが今回のことでもよくわかる。

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

「支持率下げてやる」と記者が言ったとか

高市自民党新総裁の会見待ちの記者の発言がライブ中継に乗ってしまったという記事をみた。
支持率発言についてはもう一つ、「支持率下げるような写真しか出さねえぞ」というのもあったとか。

いままで、なぜこんな写真を使うんだろう、もっといい写真あるはずだろ、と思った記事写真は数多くある。政治家はまだしも、イメージが重要でいつもはきちんとした姿を視聴者に見せている芸能人のぼけた写真や変な角度からの写真、さえない表情をした写真などは悪意のあるものだと想像していた。しかし、今日は、ああ、なんだ、意図持ってやっていたのかということがはっきりしたので、あんな写真を選んで載せたのは納得、という感じになった。メディア社員が代替わりしたら、今と違う会社・業界になっていくのかな。メディアへの就職希望者の倍率って、最近どうなのかなと思ったので調べてみる。

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外免切替厳格化に困惑、との記事は誰目線?

外国運転免許証の日本への切り替えの要件が 10 月から厳しくなったことを取り上げるネット記事があった。外国人が困惑しているということらしい。

外国人が困惑するのは無理もない。しかし、「厳格化してけしからん、外国人が困惑せぬようにしないといけないではないか」と該当の記事が主張しているような印象を受けた。タイトルのみが目に入ってきた時は特に。
記事は、安全に運転できるように制度変更の効果を期待するという締め方にはなっているものの、外国人が困惑していることを前面に出す必要があるだろうか。これを配信したメディアは、ハードルの低い日本の外免切替を利用してルールをきちんと知らない(あるいは知っていて無視している)運転者が悲惨な事故を起こしても、外免切替の問題点を指摘する資格はない。いろいろな視点を取り上げるのがメディアであるとこの会社が主張するならば、どんな犯罪でも批判的に述べてはいけないと読者に感じさせるような書き方だ。どっちの向きに対してでも、その時に出てきたこと何に対しても批判的に書けばよい時代ではない(今日死刑が執行されたら海外では死刑廃止だといって批判して、翌日には 10人をあやめた犯人に死刑判決が出なかったとしてなぜ死刑ではないのかまた批判するように、同根の事柄について、舌の根も乾かぬうちにどっちにもとにかく批判する姿勢)。

私は、現在の居住地で日本の免許からの切り替えで現地免許を取得しているので、逆方向で外免切替の恩恵を受けている。しかし、当地の人と同じように運転している。また、当地の免許は日本で可能なような旅行者の取得はできない。住所があってビザを取得し、一定期間この国に滞在する人でないと申請できないし、外免切替の制度が停止されたりもする(この場合は、現地の人も外国人も全員が同じ試験を同じ方法で受験して免許を取得というルール)。

外免切替制度に関しては、なぜ、日本のメディが外国人の気持ちを代弁する必要があるのだろうか。

喋っていないと死んでしまうのか

喋っていないと死んでしまうのか

口数の多い人とそうでない人がいる。人それぞれ。しかし、静かな環境の方がよい場所では、静かにしていてほしいと思う。

それを特に感じたのが病院での出来事。その人は、人間ドックのために通訳とともに病院にきていた。検査なので別に具合が悪くて来院していたわけではないし、通訳という話相手がいる状況だから話したいのだろうけど、周りの人(みなさん単独で来ているので話し相手がいないので静かにしているのが当たり前といえば当たり前)が皆静かにしていて、その場の空気感も静かな環境であるにも関わらず、その人はいつまでも通訳としゃべっている。病院の人が注意しないので、病院としての許容範囲内なのかもしれないので私も特に指摘をせずに、遠く離れた場所にいた(はじめは、看護師さんの指示でうるさい人の隣の座席に座るように言われたのだが、耐えられなくて離れた場所に移った)。多分、病院は静かにしているという価値観とは異なる環境で育ったのであれば、うるさいのは仕方ないのだと思う。だけど、名前を呼ばれてもその場の人に聞こえないようなうるささで会話するのはやめてほしい。

自民党総裁選でのステマ

自民党総裁選でのステマ

やったこともダメだし、そのあとのコメントもダメだろうという感想。

本人ではないので実際にどうなのか判らないけれど、しらを切っているのか問題意識が別のところにあるのか。しらを切るようなことになるなら初めからやらなければよい。「表現が行き過ぎた」という意識が本当だとすれば、今後の改善・改心も期待できなさそう。

私は年齢的にはそこそこ。新卒では大企業と区分される会社に就職し、東京に住所を持ったことはないけれど、勤務地として大都会の東京と絡む生活を送った時間がそれなりにあった。だから、個人としては自民党支持ではないものの、自民党政権によってそこそこの生活を送ることができた国民の一人だったような自覚は多少ある。そんな自覚もあってか、政権与党である自民党にはしっかりやって欲しいし、政権が変わって色々なことが急激に変わることには少し不安感を持っている。全体として良い方向か悪い方向かという心配に加えて、私の属性にとってもメリットがあるのかデメリットが生じるのかにも不安がある。年齢的には、今の世の中に不満はあるものの、あまりに大きく変化していくのは少し不安。この感情が国を変えることにマイナスなことも理解しているので、別の自分は若い人たちのために良い世の中になるためのコストを払う必要があると考えていて、受け容れる準備もある。

今回のステマ事件で感じたのは、日本は変わらないと本当にダメになってしまいそうということ。もしステマ首相が誕生すれば、次の選挙では自民党はもっと議席を減らしそう。また、ステマ首相が誕生しないとしても、もう自民党は党内や議員自分のことしか考えていないということがバレてしまったとおもう。中くらいの大きさの党がいくつか存在する体制になって必ず連立政権となるけれど、連立の構成党はその時々の国のアジェンダで変わるようなことになるんじゃないかなと想像している。

とにかく安心して暮らせる国にして欲しい。経済的にも治安でも安心でき、外交的にも安心できる国にして欲しい。

一律全国区で選挙・投票したらどうなるか

一律全国区で選挙・投票したらどうなるか

国のために仕事をしてくれる代表者を選ぶ選挙だから、選びたい人に投票したい。自分の選挙区に選びたい人がいない場合には、選びたい人が所属する党から出馬している人に投票することで、本来は投票したい候補者と同じ政策目標を持っている党の候補者に勝ってもらいたいから、そうするしかないのが現状。

もしも選挙区をとっぱらって全国区にしたらどうなるだろう。良い点は、自分が投票したい人に一票をつかえること。懸念点は、日本のためになるか疑問に感じる人まで当選してしまうことがあるかもしれないこと。全国区の多数の候補者を自由に書くような投票システムだと開票と当選者確定に時間がかかるだろうし、判読不明による無効票も増えそう。

それでも全候補者を全国区でやったらどうなるだろうか。当選者を決めるシステムは、上位から国会議員の定数までにはせずに、票数の足切りラインを設定する。その票数に届かない人は最低限の信任を得られなかったと判定して落選となり、議員数が定数に満たない場合もありにする。落としたい人を落とせるシステムは、一人一票である以上は不可能だけれど、なって欲しい人には全国から投票できるようにしたら、結果的に落としたい人(有権者によって落としたい人が違うのでなんとも言えないが)を落とせるシステムにならないだろうか。

非現実的だから一人妄想しても仕方ないか。

自民党 総裁選

自民党 総裁選

私は自民党員ではないので投票する権利はないけれど、日本の有権者としては総裁選の行方が非常に気になる。今回選ばれる総裁が誰になるかによって、次の衆院選で自民が与党で居続けるのか野党となるのかが左右される可能性は少なからずあると思う。さらにいえば、政党の再編や今後の政治体制が変わる可能性すらあるかもしれないと思う(素人です)。

次の自民党総裁と、その総裁に率いられる自民党をみて、次の選挙こそはいつも以上に有権者も各自が考えぬいて議決権を行使することが求められているだろう。変わるのは少し怖いけれど、国としてきちんとした方向へ向かってゆくことになるのであれば、変わってもよいと思う。若い人たちに比べると、変わることで受けるかもしれない困難も恩恵も、年齢的にはあまり長くは経験できないと思うけれど。

根拠のないルールを守る人はいない

根拠のないルールを守る人はいない

秩序を維持して社会生活を送るにはためにはルールが必要。そして、それを守らないと、自分や周りの人を危険な状況においてしまったり、争いがおきたりする。だから関係者全員がルールを守る必要があるが、設定したルールの理由があいまいだと、ルールを守らない人が出てくることがある。

ドイツの道路は快適だ。アウトバーンでは、路面は走行しやすいところが多いし、一般道もラフな道はあまりない。だからスピードを出しがちにはなるが、制限のある区画に入る標識にしたがって減速すると、ああ、なるほどね、ということになる。工事をしている、路面が荒れている、前方で車線が減少している、町の入り口など、なぜ減速が求められたかの理由が明白だ。一方、欧州の別の国を走っていると、工事が終わっているのに減速や車線減少の標識が出しっぱなしになっているなどの理由で、これ意味ないじゃんということが少なくない。標識通りの状況ではないじゃないかと思っているのは私だけではないのか、減速指示を守っていない車が周りに多かったりする。そりゃそうだ、と思う部分もある。だから、本当に危険な場所であるにも関わらず、注意喚起の効果が薄れて危ない場合がある。

この例からは、ルールを守らせるには納得性が必要だということがよく分かる。このことは、いろいろなことに適用ができる。自分がルールを作る側になる時には忘れてはいけない。

西洋的価値観について考える

西洋的価値観について考える

時代が進むにつれ、解決をみる既存の問題の件数は増え、世の中は確実に良い方向に向かっていると思う。個別にみれば、新たな問題が発生しているのも間違いないし、新たな問題はかつてないほどの規模の大きな問題だったりして、もぐらたたきのようにあっちを叩くとこっちから頭を出すことはあるだろうけれど、全体としては良い方向に行っていると思うし、そうでなければ、微力ながら(?)私も改悪に手を貸していることになってしまうので、そうは信じたくない。

とはいえ、私の長くない人生の間におきていることだけをみても、日本は結構変わったという感想を持っている。理由はいくつもあると思うが、その一つは西洋的価値感の取り入れ方によるところがあると思う。もちろん、私は西洋的価値観を否定するつもりはない。ただ、なんでもかんでも西洋的価値感であったり、哲学をもたずに取り入れるのはちょっと違うと思っている。日本には日本の良さがあるんだと考えていた。

最近、ちょっと考えを改めるかもしれないと思い始めている。日本的良さは、今もこれからも大事にすべきところだという考えは変わらないが、現在のように外国や外国人との交流がより深くなってくると、付け入るスキを与えてはいけないと強く感じ、それには残念ながら西洋的価値観で対抗せざるを得ないと思うようになってきた。それが結果的に日本の良さを守ることになってゆくのだと思うようになった。

先輩方が作ってきた日本的良さを壊されるのは堪えられない。それと同時に、壊されるのを見ながら何もアクションをせず、へらへらしているのも堪えられない。攻撃的になってはならないが、攻めないと守れないというスタンスでいる必要があると思う。それは、自分がいさせてもらっている外国にも当てはまり、その国のシステムを尊重していかなくちゃ、ということをあらためて思う。