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Category: 国づくり

全個体電池を試験的に車両に搭載

全個体電池を試験的に車両に搭載

掲載から1か月くらいがすでに経つが、日経新聞に「BYD、全固体電池を27年にEV搭載 大量生産は30年以降」という記事があった(2025年2月18日)。記事には、「BYD子会社の幹部は15日、2027年ごろから次世代電池「全固体電池」を試験的に車両に搭載すると明らかにした」とあったのだが、試験的に搭載するという記述に目がいった。もしかしたら、発言した幹部の中国語の翻訳が実は「試験的」では正しくなかったとか、あるいは、中国語に相当する「試験的」の定義が上市一歩手前であとは認証のハンコを押すだけとかかもしれない。しかし、仮に翻訳や解釈によるものであったとしても、「試験的」に搭載するという表現が私にはショッキングだった。

ひとつには、手続きが全て終わる前に搭載することへのショック(=心配)。もう一つは、試験的にでも搭載できる早いアクションへのショック(=感嘆)。

にわか調査員としてネット検索すると、中国自動車業界は、GB規格(Guo jia Biao zhun、The Chinese national standards、中国国家標準規格)というものに基づいていて、日本はECE法規(Economic Commision for Europe、欧州経済委員会)という規格に基づいているとある。異なる規格・法規・基準に基づけば、異なることができるのは理解できるし、試験的にでも搭載することでより多くの実地データが入手できて、安全性能に活用できるかもしれない。もしかしたら、大昔の犠牲者のおかげで、今、フグを食べられている事実に似ているのかもしれない。このことに関しても、私にはどちらがよいのか判らない。また、今日も眠れない。

ファミリー・ネーム

ファミリー・ネーム

選択的夫婦別姓が施行されると、「姓」に対する英訳は、日本では「surname」だけになって「family name」は姓の訳語として使われなくなるのだろうか。Family なのに父母で異なる名字を使うことを選択した人には、もう family の name ではなくなる。父方 family の name や母方 family の name では、自分の親家族には違いないが、自分が結婚を決めた配偶者とその配偶者との間の子どもという意味での家族感とは違う。

ところで、夫婦同姓を法律で強制するのは日本だけのようだが、family name という単語は世界各地で公文書に使われているのか surname が正式な英単語なのか(あるいは、それぞれの国の現地語に surname と family nameの両方の単語が存在するのか)など判らないけど調べてみたいことだらけで、今日も時間が足りない。

国際女性デー

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。女性の役割拡大や地位向上を目指すこと、その進捗を確認するために年に一度、記念日を設けることに私は賛成の立場。

男性への逆差別云々という一部世間の声について、個人レベルで利己的に述べると一部には同意できる事柄もあるけど、人類の中の male という性の中の一人の見地から言えば、逆差別のような事象は私の生死に影響を与えるほどの重要問題ではないし、また、これを是正しなければと本気で主張するつもりも私にはないし、女性の日があって男性(割引き)の日がないことに私も文句もない。

とはいえ、ここ数年のありとあらゆる多様性への主張は、ちょっと違うんじゃないかとずっと感じてきた。それは、そういった主張をする人々の表現の仕方に影響されている部分のあると感じている。それはというと、少数こそ正義というメッセージに聞こえる場合があるからだ。いろいろな媒体で出尽くしている表現になるが、少数派こそ多様性を受け入れない人たち、利権団体にすら思えてしまうことがなくもない。

私がジャーニーマンのように働いてきた経歴の中で、どちらかといえば私が仲間に入っている立場になることのほうが多かった。けんか腰で自分の立場だけを主張していても、当然、受け入れてもらえない。受け入れられなければ、たとえ私が良い案を提案しても採用されることはなかっただろうし、事柄がうまく回ってゆくこともなかったかもしれない。受け入れてもらうために自分を偽る必要はないが、まずは受け入れてもらって、やっと何かが動くのだと思う。そういった意味では、本当に世の中を変えてゆこうとするならば、アプローチを変える必要があるし、大声を出さないと変われないと人々に思われる世の中も変えてゆかないといけないと思う。

多様性の進捗を測るために目標を数字で規定することは、それが目的化してしまう問題や目標値の決め方に課題があるのも誰もが気付いていることではあるが、かといって、客観的評価を可能にするには目標と現状を比べる以外の方法を思いつかないのも正直なところ。ただ、多様性のもともとの意義は、多様な人材や視点、アイデアが生まれやすくなることで問題解決の幅が広がって良い成果につながる、ということだったはずなので、こっちの視点からの何らかの評価方法を考える必要がある。もしも私が経営者になったと仮定して、どんな方法があるか考え続けることを止めないようにしたい。

高校無償化

高校無償化

自民党、公明党、日本維新の会の3党が教育支援金の見直しについて合意する文書に署名したことをメディが報じている。

ニュース番組を見れば専門家と呼ばれる人が色々と解説してくれているし、新聞では記者が内容を報じ、ネットニュースのコメント欄には一般の人々が各自の意見を披露しているので、いろいろな人が様々な考えを持っていることを理解する上で参考になった。

私が高校受験生だったのは何十年も前で、また、高校卒業とともに地元を離れたので今の動向はしらないが、私はいわゆる地方で育ち、地元の私立高校は市に一校づつといった感じだった。都会のように、教育方針や校風を理由に私立を選ぶというよりも、第一志望の公立高校に落ちたとか、特定の部活に入ることが目的で私学に進むケースが多かったように思う。公立に落ちて期せずして私立に通う場合には、支援金は有難いはずだと思う。一方で、私立を第一志望に選ぶ受験生が多くない地方の場合においては、成績優秀者には特待生制度を用意して学生を集めようとする私立も多いと思うので、支援金が効いてくる高校生の割合は、地方では都会よりも低いように想像する。支援金は、私学の中でも多くの選択肢が存在する都会において、より価値が出てきそう。

私は、地方で育ったあとに、そこからは距離も生活文化も結構離れた地方都市で大学時代を過ごし、就職で東京に出てきた。お上りさん的に双六の目を進んできたが、私個人はそれがよかったと思っている(ほかの人生を経験していないので、自分の経験がよかったとしか思えない、ということもある)。だけど、この教育支援金のニュースを聞いて考えたのは、都会と地方の教育機会格差を広めたり、それが廻り回って都会への人口集中が収まらない原因になったり、そこから少子化になったりするのかもしれないなとと思ったりした。

自分には高校生の子どもはおらず、また、将来に高校生になる年齢の子どももいないため受益者になる予定はない(今日時点)。さらに言えば、ここ数年は日本で納税していないため、教育支援金の原資を提供する側にもなれていない。だけど、教育は国づくりの基本だと思っているので、どうしても気になる。

3月3日はひな祭り