Browsed by
Category: 国づくり

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

感情の言語化と異国語への翻訳 =「やせ我慢」

通勤時に、横断歩道に停車している車をまた今日もみた。実際は違うのかもしれないけれど、印象としては、運転する日には例外なく、毎日見かける光景。

そこに止めれば便利だし歩かなくて済むのは判るけれど、ほかの人の安全を犠牲にしてまでそうしてはいけないと私は思うのだけど、そこに止める人はそうは考えていないのだろうと推測する。それが他人を危険に陥れることを知らない、気づかない、誰にも教えてもらったことがないのだと思う。

横断歩道への駐車が便利としっていてもマナーとしてそうしないことを、なんというのだろうかと疑問が生じた。やせ我慢?ちょっと違うけれど、ほかに言葉が見当たらない。その後、やせ我慢を英訳するとなんというのだろうとネット検索してみると、「プライドが高すぎて」とか「勇敢さを示すために平気なふりをする(関係ないけれど、平気は関西の人が嫌いな言葉の一つだったような記憶)」という感じの意味を汲む英訳の例文が多くヒットして、横断歩道に停車するという「そっちが楽なのは判っているが、それをやるのは正しくないと信じているので我慢してそれはやらない」に合致していないような気がした。もしかしたら、私が考える内容の概念が言葉を作った人々にないとしたら、その訳語は英語にないのかもしれない(プライド云々の英文としては、例えば、アメリカ男性は痛くても痛いと言わないことが男らしさと思っていた人が多かった時代がかつてはあったので、先に紹介した例文は訳文としては適切だと思う。なお、男性とか男らしさという価値観は適切ならば現代でもあってしかるべきと私個人は考えるが、私のような考えは現代の世間では受け入れずらくなっていることを自覚していることも併記する。だけど、アメリカのメジャーリーガーは、今でも死球を受けても痛いそぶりを見せる人はいない)。

いろいろ考えていると、私の日本語での感想の言語化がうまくできていないのだろうという結論に至った。これは珍しいことではなくて、私の言語化能力が低いことに気づくことは頻繁にあるので、今回のことにも何も驚かない。

あー、日本語力を鍛えたい。

宗教

宗教

自分が信じる宗教に対して厳格な人が多く住む国でも、強盗や殺人など人から何かを奪ったりする個人の犯罪はあるし、信心深いはずの国であっても、軍政をひいて国民を弾圧したりする国がある。

宗教は、本当に人を救っているのだろうか。

もちろん、信じることで救われた人が存在したであろうことは否定はしないけれど、人や国をまとめるのに宗教が好都合だったという過去もあって、むしろそちらの趣旨のほうが強かった期間のほうが長かったんじゃないかと思っていしまう時もある。

政治や宗教の話は争いになるから他人と話すなとよく言うので、私もあまり誰かとこの話をしたことはないが、少し疑問に思うことはある。



5 月 1 日の記念日・出来事
・メーデー/国際労働
・元号が平成から令和に(2019年)
・Gibson Guilar Corporation が 2018 年のこの日に Chapter 11 をファイリング
・1956 年のこの日、新日本窒素水俣工場附属病院が「原因不明の中枢神経疾患多発」と保健所に報告

『中国にも「働き方改革」の兆し』という記事

『中国にも「働き方改革」の兆し』という記事

数日前に、ロイター配信の記事に「アングル:中国にも「働き方改革」の兆し、長時間労働改める企業も」(英文記事:”In China, whispers of change as some companies tell staff to work less”)があった。

すでにこのステージを超えた国もあれば、まさにこのステージを迎えつつある国、まだまだモーレツ時代は少し先で今後に働き方改革を迎えるであろう国というように、時期にこそ違いはあれど、ほぼほぼすべての国がいつかはこの段階に到達し、生産性などに副作用を生じさせながらも生活の質をあげていってこの段階を乗り越え成熟するステップを踏んでいくのだと思う。

働き方改革で輸出の伸びの傾きの角度がゆるやかになる一方で、余裕のある生活を送るにつれて内需が増加し、多少の時差はあっても経済への影響をうまく最小限にして軟着陸できるとよい。良いか悪いか論はさておき、日本でもゆとりを獲得する中で、乱暴に一般化すると国際貿易での競争力は他国との相対的な見方では落ちているような感じのところ、中国のモーレツぶりが少し落ち着くかもしれない中で日本にも頑張って欲しいと思う。

一方、どの国にあっても、一律に働き方改革を強制することなく、働きたい人や各人それぞれが今こそ働いてスキルを得たいとか考える時期には、自由にモーレツになれる余地を残してくれるのも多様性の尊重と言えると思うのだけれどどうだろうか。働く権利もあると思う。


4月17日の記念日
・徳川家康忌:1616年(元和 2 年)
・アポロ 13 号が地球に帰還:1970 年
・なすび記念日:417=ヨイナス語呂合せ。この日が命日の徳川家康はなすが好物で献上されたのが4月



日本の貿易依存度 – トランプ関税

日本の貿易依存度 – トランプ関税

またもや自分の認識が実態とかけ離れていると分かったことがあった。考えてみれば、そりゃそうだ、という類のことで別にびっくりする話ではないのだが、自分の考察の浅さと考えることを放棄しているのと同等の状況であることに驚いた。

米国が発表した相互関税に関するニュースは、日本国内の輸出産業への影響について考察したり、意見したりもしている。私が少し前に調べた限りでも(*)、2023年の日本国内の四輪車生産9百万台のうちの輸出が4百万台で、そのうちアメリカ向けの輸出台数が1.5百万台であることから、生産のうちの16%、輸出に占める割合では37%の市場ということになるので影響は小さくないし、部品での輸出やメキシコからアメリカへの完成車輸出を含めれば、さらにインパクトは大きくなる。

    (*) 日本の自動車産業を台数から理解する – Journeyman : Blog
       日本の2023年四輪車生産高は26兆円なので、単純に台数割りすれば3百万円/台と
       なり、これに25%の自動車への追加関税を考慮すると関税分で1兆円となる。
       2023年と同じ台数を、追加関税課税前と同値で輸出分から販売しようとするときの
       値下げ原資として1兆円を準備しないといけなくなる計算。

その一方で、GDPへの影響を試算しているYouTube番組などもあって、それによれば影響はあまり大きくないと説明されている。実態はどうなのか気になったので、まずは日本の輸出依存度を調べようとしたところ、貿易依存度データはあったが輸出依存となるとまだ見つけられていない。貿易依存度の計算方法は、GDPと輸出・輸入とで計算しているが、輸出依存度となると分母の設定(計算式の定義)の考え方が定まらないのだろうか。

上記はいったん横において、「貿易」依存度について分かったことは、日本は30%台半ばで世界的にみると非常に低い水準ということらしい。ただ、依存度が他国と比べて相対的に低いといっても金額ベースでは他国よりも大きいはずであるし、また、日本の場合は、依存度が低いということはすでに海外生産が進んでいるということでもあるので、日本の統計に出てくる影響よりも、日本企業の全世界活動に及ぼす影響はさらに大きくなるであろうことは容易に見当につく。

私は、常々、データは嘘をつくと思っている。正しくは、データを見せる人が見せたいようにデータの見せ方を工夫して、データの受け手を誘導することができる、というべきかと思う。X軸の起点をゼロにするかしないかでも変化量の見え方は変わるし、データを示す期間ひとつで見える印象も変わる。たとえ、データが唯一の事実であったとしても、データはいくらでも恣意的に作成可能だ。

ちょっと話がそれてしまったが、日本の貿易依存度はもっと高いものと勘違いしていた。それは、昔ならった貿易立国という印象が更新されていないことも原因だと思う。国内産業の空洞化という表現は使い古されているし、製造業の海外進出ゆえに私の海外生活も長くなったわけなので、依存度が低いこと自体は驚く話ではなくて、私の凝り固まった認識(理解はちゃんと更新されている)に驚いている、というのが冒頭の話。





全個体電池を試験的に車両に搭載

全個体電池を試験的に車両に搭載

掲載から1か月くらいがすでに経つが、日経新聞に「BYD、全固体電池を27年にEV搭載 大量生産は30年以降」という記事があった(2025年2月18日)。記事には、「BYD子会社の幹部は15日、2027年ごろから次世代電池「全固体電池」を試験的に車両に搭載すると明らかにした」とあったのだが、試験的に搭載するという記述に目がいった。もしかしたら、発言した幹部の中国語の翻訳が実は「試験的」では正しくなかったとか、あるいは、中国語に相当する「試験的」の定義が上市一歩手前であとは認証のハンコを押すだけとかかもしれない。しかし、仮に翻訳や解釈によるものであったとしても、「試験的」に搭載するという表現が私にはショッキングだった。

ひとつには、手続きが全て終わる前に搭載することへのショック(=心配)。もう一つは、試験的にでも搭載できる早いアクションへのショック(=感嘆)。

にわか調査員としてネット検索すると、中国自動車業界は、GB規格(Guo jia Biao zhun、The Chinese national standards、中国国家標準規格)というものに基づいていて、日本はECE法規(Economic Commision for Europe、欧州経済委員会)という規格に基づいているとある。異なる規格・法規・基準に基づけば、異なることができるのは理解できるし、試験的にでも搭載することでより多くの実地データが入手できて、安全性能に活用できるかもしれない。もしかしたら、大昔の犠牲者のおかげで、今、フグを食べられている事実に似ているのかもしれない。このことに関しても、私にはどちらがよいのか判らない。また、今日も眠れない。

ファミリー・ネーム

ファミリー・ネーム

選択的夫婦別姓が施行されると、「姓」に対する英訳は、日本では「surname」だけになって「family name」は姓の訳語として使われなくなるのだろうか。Family なのに父母で異なる名字を使うことを選択した人には、もう family の name ではなくなる。父方 family の name や母方 family の name では、自分の親家族には違いないが、自分が結婚を決めた配偶者とその配偶者との間の子どもという意味での家族感とは違う。

ところで、夫婦同姓を法律で強制するのは日本だけのようだが、family name という単語は世界各地で公文書に使われているのか surname が正式な英単語なのか(あるいは、それぞれの国の現地語に surname と family nameの両方の単語が存在するのか)など判らないけど調べてみたいことだらけで、今日も時間が足りない。

国際女性デー

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。女性の役割拡大や地位向上を目指すこと、その進捗を確認するために年に一度、記念日を設けることに私は賛成の立場。

男性への逆差別云々という一部世間の声について、個人レベルで利己的に述べると一部には同意できる事柄もあるけど、人類の中の male という性の中の一人の見地から言えば、逆差別のような事象は私の生死に影響を与えるほどの重要問題ではないし、また、これを是正しなければと本気で主張するつもりも私にはないし、女性の日があって男性(割引き)の日がないことに私も文句もない。

とはいえ、ここ数年のありとあらゆる多様性への主張は、ちょっと違うんじゃないかとずっと感じてきた。それは、そういった主張をする人々の表現の仕方に影響されている部分のあると感じている。それはというと、少数こそ正義というメッセージに聞こえる場合があるからだ。いろいろな媒体で出尽くしている表現になるが、少数派こそ多様性を受け入れない人たち、利権団体にすら思えてしまうことがなくもない。

私がジャーニーマンのように働いてきた経歴の中で、どちらかといえば私が仲間に入っている立場になることのほうが多かった。けんか腰で自分の立場だけを主張していても、当然、受け入れてもらえない。受け入れられなければ、たとえ私が良い案を提案しても採用されることはなかっただろうし、事柄がうまく回ってゆくこともなかったかもしれない。受け入れてもらうために自分を偽る必要はないが、まずは受け入れてもらって、やっと何かが動くのだと思う。そういった意味では、本当に世の中を変えてゆこうとするならば、アプローチを変える必要があるし、大声を出さないと変われないと人々に思われる世の中も変えてゆかないといけないと思う。

多様性の進捗を測るために目標を数字で規定することは、それが目的化してしまう問題や目標値の決め方に課題があるのも誰もが気付いていることではあるが、かといって、客観的評価を可能にするには目標と現状を比べる以外の方法を思いつかないのも正直なところ。ただ、多様性のもともとの意義は、多様な人材や視点、アイデアが生まれやすくなることで問題解決の幅が広がって良い成果につながる、ということだったはずなので、こっちの視点からの何らかの評価方法を考える必要がある。もしも私が経営者になったと仮定して、どんな方法があるか考え続けることを止めないようにしたい。

高校無償化

高校無償化

自民党、公明党、日本維新の会の3党が教育支援金の見直しについて合意する文書に署名したことをメディが報じている。

ニュース番組を見れば専門家と呼ばれる人が色々と解説してくれているし、新聞では記者が内容を報じ、ネットニュースのコメント欄には一般の人々が各自の意見を披露しているので、いろいろな人が様々な考えを持っていることを理解する上で参考になった。

私が高校受験生だったのは何十年も前で、また、高校卒業とともに地元を離れたので今の動向はしらないが、私はいわゆる地方で育ち、地元の私立高校は市に一校づつといった感じだった。都会のように、教育方針や校風を理由に私立を選ぶというよりも、第一志望の公立高校に落ちたとか、特定の部活に入ることが目的で私学に進むケースが多かったように思う。公立に落ちて期せずして私立に通う場合には、支援金は有難いはずだと思う。一方で、私立を第一志望に選ぶ受験生が多くない地方の場合においては、成績優秀者には特待生制度を用意して学生を集めようとする私立も多いと思うので、支援金が効いてくる高校生の割合は、地方では都会よりも低いように想像する。支援金は、私学の中でも多くの選択肢が存在する都会において、より価値が出てきそう。

私は、地方で育ったあとに、そこからは距離も生活文化も結構離れた地方都市で大学時代を過ごし、就職で東京に出てきた。お上りさん的に双六の目を進んできたが、私個人はそれがよかったと思っている(ほかの人生を経験していないので、自分の経験がよかったとしか思えない、ということもある)。だけど、この教育支援金のニュースを聞いて考えたのは、都会と地方の教育機会格差を広めたり、それが廻り回って都会への人口集中が収まらない原因になったり、そこから少子化になったりするのかもしれないなとと思ったりした。

自分には高校生の子どもはおらず、また、将来に高校生になる年齢の子どももいないため受益者になる予定はない(今日時点)。さらに言えば、ここ数年は日本で納税していないため、教育支援金の原資を提供する側にもなれていない。だけど、教育は国づくりの基本だと思っているので、どうしても気になる。

3月3日はひな祭り