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カテゴリー: 教育

長くいると勘違いする

長くいると勘違いする

立場が人をつくる、という言葉がある。私の身の回りであの人のことだ、とすぐに思いつく人はいないのだけれど、この言葉は実際の世の中に当てはまるんだろうなあとの感覚はある。

一方で、その立場にいる時間が長くなるにつれて勘違いしてしまう場合もあると思う。むしろ、勘違いしてしまうケースの方が立場が人をつくることよりも多いような気がする。

どうしてそんなことを急に思ったかといえば、たまたま見ていた政治に関する題材を出演者が話している動画の中で、俺はよく判っていると本人が思っていそうな話し方で芸能人がコメントしているのを見たから。

たぶん、その人が政治関連の番組に出始めた頃は、率直な感想的なコメントを発していただろうと思う。番組である以上は、ある程度の筋書きや求められるコメントの方向性はあるのだと思うけれど、それでも、ある程度は本人のキャラに準じたものが用意されているとは思う。そうであれば、今回に私がおやっと思ったその芸能人のコメントも筋書きに沿ったものだと思うけれど、コメントの辛辣さと言い方のいやらしさは、この人ちょっと何?と思わずにいられなかった。ということは、その人のキャラがそういう方向になっていってしまっているのと、その人が番組の作成側からそう思われているということなのだろう(「支持率落としてやる」の発言から考えると、番組側がその芸能人を貶めるために、嫌な奴キャラの筋書き書いていたとしたら、まー怖い)。

バラエティ番組などでいろいろな知識に触れる中で、人から聞いた話と自分で見たこと・聞いたこと・調べたことを混同(自分の意見と錯覚)してしまい、判ったつもりになってしまうことはよくあるだろう。知らず知らずのうちに、自分の考えと勘違いすることがあるだろう。

特定の立場に長く居すぎると勘違いすることはよくあるとおもう。自分も気を付けたい。

人生の機微が判らない

人生の機微が判らない

最近、学生スポーツ部員が書類送検された事例を伝える報道がいくつか続いている。送検された本人が実際どうだったか知る由もないが、ネット・ニュースの下についているコメント欄を見ると、運動しかしてこなかったからとかスポーツさえできればよいという価値観でやってきたのでモラルがないといった書き込みが散見された。それはあくまで書き込む人の先入観や決めつけではあるけれど、自分のこととを振り返ってみて、一点集中の弊害はあるなあと再確認した(ちなみに、私は犯罪はしていない)。

たまたま私の高校生活はスポーツだったのだけれど、何もスポーツが悪いと言うつもりはない。ただ、平日は練習で朝早く家をでて夜遅く帰宅、土曜半ドン時代を高校生として過ごした私は土曜午後と日曜は試合と、ほぼテレビを観る時間も本を読む時間もなく毎日を送り、部活引退後はほぼ受験勉強のみに時間を使った。

大学時代には自分の裁量でつかえる時間がたくさんあったけれど、授業とバイト、クラブ活動、学食での友人との語らいに忙しかった。

就職すると、昔のモーレツ社員的な働き方なので、流行りのドラマを観ることはなく、また、本(文学)を読むこともなく、ひたらす仕事と仕事に関係する知識吸収に励んでいたなあ。

私は、自分自身が一般常識に欠けた部分があることを認識する時が結構ある。また、人と会話するときに駆使すべき建前も使えない。おべっかも言えない。それは、持って生まれた性格によるところと、そのように鍛えられずにきたからという面の両方があると思う。新卒入社してから殆どの時間を、営業部内ではあるものの本体のメンバーとはほぼ交わらない新規ミッションを追求する小さなチームで働いてきた。だから、調子のいいことを言うことを求められる機会もあまりなく、その必要性を教えてくれる人も周りにいなかった(教えて欲しかった😢)。これが現実世界。

フィクションの世界からいうと、映画やドラマを観ず、小説も読まずで来てしまった。最近になってドラマを観る機会が出てきたのだけれど、ああ、たしかに映画・ドラマ・小説から学べる人生の機微ってもしかしたらあるのかなあ、それが私にかけてたのかなあ、と思うことがある。情操教育というか。

スポーツ一直線が犯罪に直接結びつくわけではないし、もともとの話ともちょっと変わってしまったけれど、私のなかに足りないものがあるというのは自覚している。今からでも間に合うだろうか。

コンビニで働くことはマルチタスク

コンビニで働くことはマルチタスク

私が暮らす東南アジアの国にもコンビニがある。日本のそれと比較しても仕方ないことは明らかだけれど、ここで暮らしていると、日本のコンビニで働く人々がいかにマルチタスクなことをしているかということを深く感じる。

日本のコンビニのような動きを知らない国の人に、手際の良さを求めても仕方ない。参考にすべきサンプルがないのだから。だから、マルチタスクを求めはしない。しかし、最近に当地のコンビニでも増えてきた店員がショーケースから取り出す総菜系の商品の注文・支払いと、客が棚から持ってきてレジをする商品の列を分けたほうがよいとは思う。「注文の人はこちら」のように列を分ける意思のある表示はあるのだけれど、実際は1台のレジしか稼働していない。複数の人が1台のレジに対応している。これもやはり、どう動くかのサンプルがないため、最適なやり方を知らないだけだと想像はするが、何が起きているかと言えば、共通のレジを使用するスタイルになってしまっているのが事実。だから、運・不運でレジに待つか・待たないかが決まることがある。「だから日本人は」「そんなの判ってるのだから、それが不満なやつはコンビニに行くな」とか言われそうだけど言わせてほしい。もっといいやり方があるのだから。昨日より今日、今日より素晴らしい(便利な・効率のよい)明日のために。

サンプルを知らない人に動いてもらうために、運営会社の人には、映像マニュアルを導入して動き方をビジュアルに訴えて啓蒙したり、また、決められたことを各店舗がしっかりやるように指導していただけると嬉しい。

他社より早く出すことが記者には大事らしい

他社より早く出すことが記者には大事らしい

先日にYouTube番組をみていたところ、以前は新聞社に所属していたというフリーライターがゲストで出演している番組が流れてきた。いわゆる大手の新聞社に属している記者あるあるのようなことをインタビュアーから聞かれて答えていた。

あるあるのひとつとして、記者は他社よりも少しでも早く配信したいという気持ちがあるというようなことを言っていた。非常に理解できる。紙のニュースだった時代ならいざしらず、ネット配信となると朝刊・夕刊の時間を待たずに随時配信できるから、一分一秒でも早くというのは非常によく分かる。

ただ、それは、読者に有用な情報を少しでも早く伝えないといけないという使命感よりも、他社を差し置いて早く伝えたいということに重きをおいているようで、そうなると半分理解して半分はなんだかな、という印象を受けた。また、記事の真偽は別でとにかく早く出せばよいようなことを匂わしていたので、さっき、私が記者の習性の半分理解を示したうちのまた半値七掛けくらいしか共感できなくなってしまった。

それって個人の承認欲求を紙面や公共の(?)ネットを使って満たしているだけでしょうと思った。本心ではそう思っていても、その気持ちを隠すくらいしてもよいのではないかとも思った。

私が以前に関与していた案件に関わるメディアの報道ぶりに疑問を感じたことが過去にあり、それからは記事を信じなくなってはいたのだけれど、今回のこの番組によって、より強くそれを思うようになった。

メディアも営利企業だから、記事へのアクセスが増えることが第一義だろうから読んでもらえそうなセンセーショナルさが正確性にまさるし、そのメディアに所属する記者の側も、記者個人の評価が一番であるという人が多いのではないだろうかと想像する。正しく書いたからといって読者が増えたり評価がよくなったりするわけではない仕組みなのだと思う。また、何が正しいかを知らない私たちは、結局、記事が正しいかどうかさえ判別つかない。できるのは、自分が精通している分野がどう書かれているか比較して、その評価を参考にすることくらいだろう。

17 日とかいて「じゅうなのか」と読むか

17 日とかいて「じゅうなのか」と読むか

ネットで視聴できるテレビ局のニュース番組があったので見ていた。いわゆるキー局の経済ニュース番組。

アナウンサーの人が、「じゅうなのか」というのを聞いて違和感があった。その使われ方が「〇月17日」だったのか「17日間」だったのか忘れてしまったけれど、違和感を感じたのは間違いない。

「じゅうなのか」という読みがあるのかないのか帰宅後にネットで調べてみた。方言や年齢の高い人が使うことがある、というような情報にはヒットしたけれど、なにか、適当さを感じた。使う・使わないと正しい・正しくないは違うけれど、「じゅうなのか」という人もいるという程度で、その確率も100万人に一人くらいのイメージをネット検索からは感じた。

パソコンで変換できるかどうかためしてみたけれど、「じゅうなのか」は「17日」に変換されなかったから正しくない可能性が高そうだ。あくまで可能性の話だけれど、もしも本当にこの読みがあるとしても、テレビ局のアナウンサーは一般的に通用している読みや言葉を使ったほうがよいのではないかと思った。

フォーマット化:うまく使う分にはよいが

フォーマット化:うまく使う分にはよいが

フォーマット化してできることは省力化・省人化・迅速化などなど、決まりきった何かを遂行する場合には良い面が多いと思う。一方、臨機応変に対応しなければならない状況には使えない。行動に関する場面では、「マニュアル化」と言い換えてもよいと思う。思考をアウトプットしたりする場合は、「フォーマット化」がふさわしい表現だと思う。

今月に実施された衆議院選挙後の動きを見ると、フォーマット化のよくない面を見ているような気がする。一番大きな例としては、中道改革連合の代表交代というのが私の意見。議席数を減らした二人の共同代表が引責辞任をし、さっそく、新代表が選出された。政治の分野に限らず、何か不祥事などが起きた直後に引責辞任はよくある話であり、また、辞任しない場合にはそのトップに対してマスコミや芸能人、政治家・経済人、世論などからの辞任を求める声が大きくなったりする。まれに、問題に対処するため辞任しません、というトップもいるけれど、保身だとかなんだとかで批判の矢面に立たされる。

多くの人に引責辞任がフォーマット化されていると思う。しかし、今回の中道をみていると、党内を落ち着かせてから新代表を選出した方がよかったのではないかと私は思う。特別国会の召集までに新体制にしたかっただろうし(首班指名に野田もしくは斎藤共同代表の名前を書くことはできないだろう)、共同代表自身が辞任を言ってしまったし(取材マスコミは辞任の言質をとるまで身の振り方を聞き続けただろう)、前代表自身としても辞任した方が楽だということも考えただろう。

しかし、今回の中道のようなケースでは、真摯に敗因を分析し、最終決定は新体制確定後だとしても、党内に将来の安心感をあたえるような方向性の案を打ち出したりして、悪い膿は自分たちがいる間に出し切り、新代表選出後は前向きな議論に集中できるような体制を作ってから辞任すべきだったと思う。それには、党員やマスコミもむやみに辞任させようとするのはどうかと思う。

フォーマット化が負の働きをする例だったと思う。決まりきったことを遂行するにはよいが、答えを見つける行動の場合には、思考停止につながるフォーマット化はうまく機能しないと感じさせる事象だ。

選挙まで時間がなかった

選挙まで時間がなかった

私は、投票以外には選挙に関わったことはない。主旨としては、候補者になったことはないし、特定の候補者を支えるボランティアのような形で選択される側として関与したことがないということ。

だから、解散や公示日から投票日までに何が候補者陣営で行われているか私は知らない。よって、解散から投票までの期間が長い・短いがどれくらい開票結果に影響を及ぼしえるかもしらない。

落選した候補者が、時間が足りなかったのが敗因だと言っているのをよく聞く。2026年2月の衆院選でもそう。今回の選挙では、実際に解散から投票までの期間が短かったようだけれど、常日頃、自身の信条や政策を発信したり有権者に働きかけていれば、いざ選挙となればその総仕上げをするだけなのではないかと思う。選挙期間は公示から投票日の間だけではないと思う。

そんなことは有権者も候補者も判ってはいるけれど、候補者としては何が問題か判っていないから判りやすい話にすり替えていたり、敗因を判っていながらそれを認めたくないから選挙期間が短いといった他責にしたりしているのだろう。

組織はリーダーの器量以上には伸びないということを聞いたことがあるが、候補者は有権者の器量以上のものを持てないとすれば、わたしたち有権者がもっとしっかりしてゆかないと。

奨学金のニュース – 金利上昇

奨学金のニュース – 金利上昇

金利上昇によって、奨学金返済総額が増大していて、借りた年によってその差が顕著になってきているという記事を見た。

私も奨学金にお世話になった。私の場合は、国立・自宅外・無利子のタイプで借りた。高3の時に申し込んで予約奨学生になれたことで、費用面では少し安心して受験に対することができて有難かったことを覚えている。

私は、国づくりにおいて教育が果たす役割は小さくないと思っているので、教育に関する支出をもっと国が増やしてもよいのではないか、という考えを持っている。消費税減税がどういう影響・結果になるかやってみないと判らないけれど、もうちょっと教育の方に目を向けて欲しいと思っている。

しかし、大学生への支援となると少し慎重。優秀な学生にはもっと支援してほしい。優秀でない学生には支援しなくてよいと言いたいわけではないけれど、誰にでも支援するのはあまり良くないとも感じている。返すあてもないのに借りてしまう、大学へ進学する目的もなく進学して奨学金を得る、などを推奨する形になるのは良くないと思う。

教育への国の支出を増やしてほしいと思っているが、それは、小学生・中学生の義務教育の段階での子どもたちに対してもうちょっと国としての政策を行って欲しい。

教育について – 国政選挙の候補者に聞きたいこと

教育について – 国政選挙の候補者に聞きたいこと

衆院選の投開票まであと1週間と少し。ネットやテレビで党首討論会も放送されているし、ネット・ニュースで各党の主張などが出そろってきている。消費税については、対象や税率、期間の違いはあるが、ほぼすべての党が減税について述べている(やってくれるか判らないけど)。

しかし、こういった全体的な番組では教育についての発言を聞かない。私が視聴した番組以外では議論がなされているのかもしれないが、私がみた番組ではまだ聞いたことがない。でも、私は政治家には教育について語ってもらいたいと思っている。実際に教育に携わる先生がたが大切なのはそうなのだけれど、教育をどうしていくかを国レベルで話してもらいたいと思っている。

教育は非常にタッチーな話であるとは思う。少し前のとある国会議員の発言のように「国民感情をしっかりコントロールしていかないと」は何をかいわんやであるし、国が教育で洗脳することもダメ。私がやってほしいと思っているのは、考える癖をつけることや基準を置くことの重要性や(基準から離れるのは各人の思うままだが、どこからどれくらい離れているかを測ったり知ったりすること)価値観とはどういったことか、人ととの違いがあるのは当たり前であることとそれを尊重することなど。正しい・正しくないという判断は個人やケースによるので教えるのはコントロールすることになりかねないが、犯罪かそうでないかの価値判断は教えても差し支えないと私は考える。

教育って国づくりのとても重要な課題で、時間をかけて世代を超えてじっくりやる必要があると思うのだけれど、こう考える私は少数派なのだろうか。

学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校の皆勤賞、有給取りずらい意識を作り出す?

学校を休んでディズニーランドや家族で行楽に出かけることの是非みたいなことがネット・ニュースになる時代だから、もう学校の皆勤賞の価値を見出さない時代になっていることだろうと思う。しかし、私が小学生だった昭和の時代は、皆勤賞という言葉がそんなに低くない頻度で使われていた。では、私自身はどうだったかと言えば、体力に自信のある小学生だったわりに、学年を通じて皆勤賞で過ごせたのは一度だけだったんじゃないのかなあ。

何かのネット・ニュースを読んでいて、学生時代に皆勤賞という概念を持ってしまうことで、有給休暇を消化できない日本人サラリーマンを生む結果になっているようなことを書いている人がいた。その人以外にも同じようなことをネット上に書いている人が結構いて、たしかにそうかもしれないなあと感じた。

そういう意味で、学校休んでディズニーランドに行くことにポジティブな側面があるなと思った。休みは休みとして取得することに後ろめたさを感じさせない人が増えるのはよいこと。休みにお金を遣えば経済も循環するだろう。休んでリフレッシュもできるし、趣味に時間を使うこともできる。あとは休みを取るタイミングを考慮できればもっとよい話。どうしても突発的な出来事は避けられないので、確実に休める日が事前に分かるはずはないのだけれど、ちょっとそれだけはなんとかなったでしょ、という話を聞くこともある。判っている季節要因と同僚・周囲との調整のこと。あー、でも、こんなことを思ってしまうことすらいけない時代になってきたのだろう。

オバマ(元)大統領の英語

オバマ(元)大統領の英語

オバマ氏が大統領に当選後か、もしかしたら就任してすぐの頃かもしれないが、オバマのスピーチを使った英語学習が流行っていたという記憶がある。今思えば、日本はマスコミも教材提供会社も、米・民主党推しだったのかもしれない(今も?)。

でも、当時から私にはオバマ氏の英語の何がよいのか理解が難しかった。今の時代は、持って生まれたものについて批評するのはよくないことは理解しているが(ルッキズムと言われる見た目など、当人の努力でどうしようもないことには触れてはいけない時代)、オバマ氏のスピーチは声がはっきりしていないように私には思えていて、教材としてはどうなんだろうと感じていた。当時と今では比較できないけれど、オバマ元大統領よりもトランプ現大統領の方が聞き取りやすい声やイントネーション、抑揚だと私は思っている。もちろん、人生でどんな英語を聞いてきていたかで、聞き取りやすいかどうかの判定基準は各人で異なるのは理解の上で(私は日本人なので、米・共和党の支持者ではない、念のため)。

私の物差しでみた場合、世論が意図して作られていた時代があるんだなあと思う。

学習塾の倒産が過去最多だった 2025年

学習塾の倒産が過去最多だった 2025年

高校生当時の補習について、特に結論もなく、つらつらと前日に書いた。そうしたら、学習塾の倒産が2025年に過去最多になった、という記事が目に入ってきた。記事を読むと、この件数は負債金額で足切りしたものみたい。小規模倒産とか入れると統計が収拾つかなくなるだろうから、統計に足切りを設定するのは仕方ないでしょう。

記事を書いた人によれば、物価高と授業料の値上げ難に苦しんだとのこと。タイパ重視の大学生の講師が負担の大きな塾講師を敬遠する動きが目立って、人件費や求人費が高騰したという一面もあったらしい。大学生を雇う塾は町の小さな塾だと勝手に想像していのだけれど、どうやらそうでもないということか。

私がよく判らなくて、記事を見ても解決しなかったのは、塾は優秀者がさらに成績を伸ばすために通うものか、追い付くためにゆくためのものか、というところ。私が子どもの頃は地方ということもあって、塾はほぼなかった。その後、塾は補習的に行く場所という認識を多少持つようになった。今は、どうなのだろうか。

東大を目指す人が多い塾の存在は知っている。そういった塾は、さらなる高みを目指す場所であり、また、特定の学校の入試を突破するための傾向をつかむ・テクニックを積むための場所と理解している。でも、塾に通わずに東大に入るひともたくさんいると思うし、塾の目的はなんだろう。(まあ、十人十色なので、定義づけ自体が無意味なのだけれど)。私は塾通いをしたことがないので、月謝を通じた経済貢献には無縁で申し訳ない気持ち。

私は、この件でも大好物の投稿コメントが非常に参考になった。AI 学習が普及すると、経済格差と教育格差の相関が薄くなるかもという意見の人がいたり、真っ向から異なる意見の人もいたり。それは、私の未解決課題であるなぜ塾に行くのか、ということにも大きく関係すると思う。やる人はやる、やらない人はやらない。でも、人それぞれに合う・合わないがあるので、AI なら続く人がいてもおかしくない気はする。私は割と気合勝負だけれど、いろいろ試してみて合うのを見つけられたら、これまでの価値観をつくがえされて、よいことが起きるかもしれないと思ったのが、この記事からの takeaway。

2026年に達成したいこと

2026年に達成したいこと

元日なので、ありきたりではあるけれど、今年に達成したいことを記しておいて年末にはレビューできるようにしておく。

・旧い友人と会う=そろそろそんな年齢:対象の人々が住んでない国にいるので機会設定が必要がある
・使い切る:2025年からの継続案件 = 2025年にできたものあったけれど継続
・人の話は先ず最後まで聞く:私が想定する展開が話し手の着地点でないかもしれないと知る
・余計な発言を慎む
・先入観をできるだけ排除する
・買い置きできる体質に(あったらあっただけ使ったりしない)
・体調と体重を管理
・年齢を重ねても新しい思い出を作れると信じて生きる

ごまかしカタカナと疑ったら取り残されの証拠?

ごまかしカタカナと疑ったら取り残されの証拠?

日本企業のウェビナーに参加することがある。日本語で受けられるし、日本でよしとされる考え方に触れることができる機会にもなる。経営や製造業の工場管理などの手法や概念、それからを表すビジネス用語には流行り廃りがあるので、何が正しいとか何が今風とかは入れ替えが激しくてついていけない部分もあるけれど、日本で流行っていることを知っておくのは悪いことではないと思っている。

ウェビナー案内のメール・リストに登録している。いくつかの会社に登録しているのだけれど、そのうちの一社のものは、いつも聞きなれない用語が登場して、いつもその定義が記載されていない。あたかも全員が知っていておかしくない言葉であるかのように定義がないので、毎回、ネット検索しないといけなくなる。

しばらく前からカタカナ用語の氾濫が指摘されている。その話が出た頃の私のスタンスは、「言っていることは判る、しかし、この言葉の中にはカタカナであらわされる用語のほうがしっくりするものもある」だった。

しかし、最近の私には初めてみる言葉が氾濫してきているように見えている。とうとう、私もあっち側の会社員になってしまったか、と思い始めている。時代のアップデートに追い付いていないのかも…

その一部は私の認識が正しいと思うけれど、全てがそうだと思えない時がある。新しい表現を使うことで、あたかも考え方や論理も新しいものであるかのように装って差別化を図っているように疑ってしまうことがある。そもそも、はじめから一般に流通している言葉でないとか。

最新情報に取り残されることがないように、自分がものごとを知らないという自覚を持ち続けることは必要だと思うので、このスタンスを堅持しつつも余計な不安に悩まされて変なものに手を出さないように気を付けようと思う。

正しく名前を呼ばれない

正しく名前を呼ばれない

大学に入学したてのオリエンテーションで、英語で自己紹介する場面があった。私には特別に強い思想はないのだけれど、私は日本人なのでと説明したのちに姓・名の順序で名乗った。これより以前に英語で自己紹介をしたのは、県内の学校を期間限定で回って英語指導するネイティブ先生がいた高校生の時以来、人生二度目くらいだったと思う。姓→名にしたのは、固有の名前だから私がいつも名乗るのと同じように言ってみたという軽い気持ちで、しかもその場で頭に浮かんだままに言っただけだった。

何年か前に、ローマ字表記の場合は姓・名の順序で記載が望ましいという国語審議会の答申があったが、私は先をいっていたのかもしれない(ただのあまのじゃく)。ただ、パスポートや航空券となると、不具合を防ぐことが第一なので、名・姓で書くことになんら躊躇も抵抗もないし、姓・名で名乗ったのは、今でもそのオリエンテーションの時だけ。

なぜこんなことを思い出したかといえば、私が勤める会社には、エスニック的に様々な人がいる。そうはいっても、名前の構成でいえば名・姓の順序の国のほうが多数派かと思うけれど、東アジアの人もいれば、名前の構成要素が4つ以上の人もいる。そういった私の同僚と、「名・姓」地域の社外の取引先がメールでやりとりするときに、社外の相手はファースト・ネームで呼んでいると思い込んでいるのに、全然そうでないというのが時折発生する。東アジアの人の名前であれば、基本は姓・名で違いは構成要素が2つ(日本人)か3つ(中国・韓国にルーツを持つ人)ということくらいだから順番の勘違いでシンプルだけれど、東南アジアやアフリカ(それとたまに欧州の人)の人には、いくつもの塊から名前が構成されている人がが殆どなので、どれで呼ぶのか正解なのかクイズ状態になることがある。そんなメールのやりとりの CC に私が入っている時には、そりゃ、間違えるよな、と思ったりする。私の場合は、社内の人であっても、初めてやりとりする場合には、近くのネイティブの人にどれで呼んだらよいかをこっそり訊いてからメールを出したりするくらいだから。

名前に限らず、自分の国・民族が名・姓だからといって、全員がそうだと決めつけるはよくないのにと思う。どうしても仕方無い時の私の解決法は、メールで改行しないといけないくらいに長い場合を除いて、名前を全て書くようにしている。

語源を理解しないと新しい英単語が入ってこない

語源を理解しないと新しい英単語が入ってこない

もし、日本人全員を対象者として調査した場合には、私の英語力は高いレベルにあるとは思う。だけど、できる人の中に入ると、あまりできる方ではないと思っていて、その理由はヒアリングが私には非常に難しい。仕事に関連する会話であれば、関連知識がヒアリング力を補うことができるので実力以上の聞き取りが可能なのだけれど、映画やテレビはちんぷんかんぷんだ。

そのヒアリング力のなさは、実は、単語力のなさだと思っている。聞き取れないのもあるけれど、そもそも単語を知らないという事実。だから、話すのは知っている単語だけでなんとかなっても、知らない単語を聞いても判らない。

大学受験で英語を勉強している時から私が感じていたのは、語源が判らないと単語を覚えるのが難しいこと。だから、単語が苦手。

最近、「デジタル・エコシステム」という言葉が含まれる文書を読んでいて、この言葉の定義を知らないと文書の先に進めなそうなので調べてみた。その後、そもそもエコってなんだっけ?というちょっと種類の違う別の疑問が頭に浮かんだ。どうやら、「家」という意味のギリシャ語 oikos が由来とのこと。ecology, economy も同じ由来の由。最終的にはこの答がヒットして、これが正解なのだろうと理解したのだけれど、この答に至る前にヒットしたウェブサイトにあったのが、「エコはエコロジーを語源としています」という説明。「語源」の定義を各個人がどう持っているのかによって知りたいこと・伝えたいことが違うのは判るのだけれど、

      「これじゃなーい」

“Woman” の発音は “魚万” と教えてくれた先生

“Woman” の発音は “魚万” と教えてくれた先生

Forbes が The World’s most powerful women を発表して、高市首相が 3位に入ったというネット・ニュース記事をみて、早速、Forbes のウェブサイトに行ってみた。首相就任が 10月だから、今年の women というよりはスナップショット的な現時点での women ということと咀嚼した。あくまで Forbes のランキングではあるが、発表より少し前のちょうどよいタイミングでの首相就任だったので、印象度が高い状態でのランキングというのは首相が持っている証拠なのかもしれない(ランキングづけの根拠等まではウェブサイトで確認していないが、客観的なランキングというわけではないのは想像するし、理解もする)。

Forbes のウェブサイトを見ていたら、突然に大学の時の英語の先生の言葉を思い出した。

「 Woman を 魚万(うおまん) と読むと正しい発音に近くなる」と。
「 魚屋の商号(または屋号。どっちでもいいけど)」で覚えるのだと。

頻度こそ高くないけれど、私は時折この言葉を思い出すことがあって、魚万と発音している。

先生に言われて覚えている「この言葉」というのはあまりないのだけれど、魚万は私にはインパクトがあって、これは覚えている。具体的な言葉を除くと、大きく影響を与えてくれた先生は、大学生時代に限らず数名思い出せる。

職場のノリ、またはテンション、同調圧力

職場のノリ、またはテンション、同調圧力

10年くらい前のバラエティ番組を見ていたら、視聴者の手紙からMCの会話が合コンの話題になって、そこで、合コンといってもその日の目的によってノリが違ってそのノリに合わせる、というようなことを言っていた。

私は新卒入社してから所謂モーレツ・サラリーマンというのに近い生活を送って合コンには遠いところにいたので、番組内の会話に登場した合コンのノリというフレーズには何も反応もなかったのだけれど、「ノリが合わなかった」というのが私の転職理由を短いフレーズで表現するならこれなかあと感じた。

ノリが合わずに退職したというと、入社して数年で辞めたように聞こえるかもしれないけれど、私の場合は 20 年以上勤めた会社をノリが合わずに辞めることになった。しかも、突然にノリが合わなくなったわけではなく、割とずっとノリの合わなさを感じていた。

例えば、忘年会や誰かの駐在や退職での壮行会などといった部署内での飲み会。飲むのに掛け声があったり、大騒ぎしたり、そのノリが体質に合わないのだけれど、そのノリに合わせないといけない雰囲気が必ずある。業種的に、なんかそんな雰囲気がある。社内でもそういう人が多数派であるという雰囲気がある。演じている人も実態としてはいたのかもしれないけれど、勢いがないとだめなような雰囲気がある。所謂、金太郎あめのような会社で、そこに馴染めない感覚を持ち続けていた。

転職をした理由は、言葉にするといろいろと説明できるのだけれど、一言でいうとノリが合わなかった、という表現ができるかも、とふと思った。

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

社長は人に判ってもらう話し方がうまい

競合他社の四半期報告が開示され、同日に投資家コールが開催された。

競合他社ということもあって、勤務先のメールアドレスで出席者登録は控えて、私用メールアドレスで出席するか少しだけ考えたが、結局、会社のもので登録して出席した。

その競合他社はアメリカの企業なのだけれど、正直、投資家コールを聞いても米国人の英語が判らずに時間の無駄になるかもしれないと思っていた。ところがだ。まあ、投資家コールという場だから万人に分かりやすい発音やイントネーションで話すことを心がけていたのだろうとは思うけれど、とても分かりやすかった。さすが、社長やその近くのマネージメントの人は、わかって貰うことを大事にしているのだと感じた。

私が勤める会社の社長もとても分かりやすい話し方をする人だけれど、それは、私のボスだけではなかったことを理解した。一方で、日本の社長とかという大雑把な仕分け・レッテル貼りはよくないとは思うけれど、日本の社長はわかって貰おうとする努力が足りない人が多いように思う。社長は、社員や株主、投資家、取引先などありとあらゆる人に誤解なく理解してもらうのが大事な仕事なのに、口下手だけど仕事ができるような論調は全部が全部正しいとは言えないと思う。

特にアメリカ人に対して思うことだけど(大雑把なレッテル貼りには私は大反対だが)、なんだ、やればできるじゃんとも思った。普段はあんなに分りづらく、もしかしたら、いやがらせ的にわざと分りづらくしゃべているのでないかと私は密かに疑っている米国人が、あんなに分りやすくしゃべるじゃないかと。