再開発で移転した先も再開発
八重洲にあったレストランへ初めて行ったのは30年くらい前。八重洲再開発で土地がまっさらになり、新橋の仮店舗(?)へも何度か伺ったのだけれど、現在の入居先のビルに再開発計画があると知った。
初めて食事にいった当時にいらしたマダムは他界され、昔からの店員さんもそれなりのご年齢でなので、もしかしたら、二度も立ち退きとなるともう次はないのか心配している。次回の一時帰国休暇では、後悔しないように必ず食べにゆく。
八重洲にあったレストランへ初めて行ったのは30年くらい前。八重洲再開発で土地がまっさらになり、新橋の仮店舗(?)へも何度か伺ったのだけれど、現在の入居先のビルに再開発計画があると知った。
初めて食事にいった当時にいらしたマダムは他界され、昔からの店員さんもそれなりのご年齢でなので、もしかしたら、二度も立ち退きとなるともう次はないのか心配している。次回の一時帰国休暇では、後悔しないように必ず食べにゆく。
雨の日は嫌いではない。「好き」と積極的に言えるまでではないのだけれど、嫌いではない。好きな側面はあまり見当たらないのだけれど、雨の日ならではな部分もあって、完全には嫌いになれないというのが適当な表現かもしれない。
私は、昭和の時代に小学生として過ごした。ステレオタイプな発想として、当時の多くの小学生と同じように、放課後は野球をして遊んだ。雨が降ると野球やそのほかの外の遊びができないので、家に一人でいることになる。当時に流行っていたゲームウォッチをはじめとした電子ゲームが我が家にはなかったので、雨の日はテレビを観るくらいしかやることがなかった(私の小学生時代は特に宿題とかなかったか極々少量だったような気がするので、宿題があっても学校の休み時間に終わっていたような記憶がある)。
だから、雨の日は家にいる日、というのが私の意識に今でも刷り込まれたままになっている。
とはいえ、家にいる日という認識と雨の日が嫌いでないこととは、特に関係がない。まあ、外出する選択肢がない分、ネガティブに作用しかねないことでもあるし。
雨の日ならではなことの一つに、匂いがある。ここ数年は、より化学的な説明がなされるようになってきたが、以前はアスファルトの匂いとして説明されていた、あの匂い。パブロフの犬ではないが、あの匂いは家にいる日のサインでもある。また、家にいる時に雨が降り始める時は、雨粒が屋根に当たる音が聞こえるような大雨ではない限り、いったん、静寂がおとずれてそのあとに雨が降り始めたことが分かる感じ。あれも、いとをかし。
追伸:外で競技を行う運動部に在籍していた高校生当時は、雨の日は校舎内を走り回ったり柔道場でサーキットトレーニングをしたりするので体力的にきつかった。通常の練習よりも時間は短く、日が暮れる前に学校を出ることができたのでその点はよかったのだけれど、雨合羽をきて自転車で40分くらいかけて帰るのがつらかった。
今に始まったことではないけれど、テレビ・ドラマを見ていて思うのは、これって実際の世の中を反映していることなのかどうか、ということ。
自分が知っていることであれば比較はできる。例えば、自分がかつて勤めていた日本の会社では、スーツの上着は出社とともに脱ぐのだけど(入社してから転職するまでの約30年間変わらず)、ドラマでは事務所で仕事中も上着を着たままの人が多い。これって違うんではと思いつつ、自分が勤める会社しか知らないから、自分が知っていることが多数派なのか少数派なのか判らない。
自分の感覚と違うことが一つあると、他も違うんじゃないかと思い始めてしまう。
最初に、今に始まったことではないけれどと書いたが、少し前にそれを再認識したのは、学校の保護者カーストのような人が登場する場面のこと。そういった人間関係から遠いところにいるのでよく判らないけれど、本当にそういった人(カーストの上のほうにいて権力を振りまく人)っているのだろうか、自分の周りで観たことも聞いたこともないので、テレビ・ドラマの世界だけで存在している人なのではないだろうかと思ったりする(あるいはいても、ごくごく希少な人々)。
自分が知っている世界とテレビ・ドラマ内の世界があまりに違い過ぎる時、私はドラマを直視できないほどに恥ずかしい気持ちになる。これは現実世界を反映しているもの?それとも、おとぎ話の世界?
以前は感じなかったけれど、「~せよ」と言っている社説にうんざりするようになった。
ひとつの意見として社説を書いている人の意見を尊重はするが、それがあたかも唯一の正義・正解のように「せよ」と主張することに、なんだかなあと感じるようになった。
先輩が脈々と続けてきた書き方がフォーマット化されてしまっているのではないかと想像する。変えるのは難しいのだろうと思う。しかし、「~せよ」調の社説にうんざりしている人は、私以外にも結構いるのではないかなあと思う。
私の個人の感想です。
ここしばらく穏やかな日々を過ごしている。その要因として思い当たるのは、休暇を取っていたことくらいしかなく、間違いなくそれが理由だと思う。
大学を卒業して働き始めてから数十年が経っているので、これまでに取得した休暇もそれなりにあるけれど、こんなに休暇明けに穏やかな気持ちになれているのは初めてだろう。休暇中にどうしてもやらなければならない業務をするのは通常運転で、今回もそれは同じ。だけれど、今回は休暇後の穏やかさがとてつもなく大きい。
休暇中の時間を有効に使えたのだろうと思う。何十年か振りの人に会ったり、優先度は高くなかったけれど時間があったら是非にやってみたかったことを今回は実現できたのもあったし、一部は計画通りにならなかったものの、結構、事前にいろいろ考えて、計画をたてる段階からワクワクしていたような気もする。
こんな休暇の過ごし方を以前からできていれば、生産性がもっと上がっていたのかと思うと少し悔しいものの、今、そう思うような働き方をしてきたからこそ今回のような休暇を取る余裕が生まれたのかもしれず、こればかりは結果論で何とも言えない。
ああ、今回の休暇は良かった。この充電具合、穏やかな状況はどれくらいの期間、保てるだろうか。放電しきらないように、休暇ほどのものでなくても適度にチャージできれる生活を送ろう。
外交ウィークだった。ASEAN 首脳会議をきっかけに ASEAN+3(日中韓)首脳会議が開かれ、トランプ大統領もタイ・カンボジア和平合意式典に参加するために ASEAN 会議の開催地であるマレーシア入り。その後、トランプ大統領は来日し、また、APEC が開催された韓国では、米中、日中、日韓首脳会談も行われた。
トランプ大統領に関わる報道では、日本と韓国で贈答品について報じられていた。
民間企業の場合は、アメリカの The Foreign Corrupt Practice Act of 1977 に日本の企業であっても監督されるし、民間企業自体も海外腐敗防止規定などを作成して海外公務員への贈答や、民間企業間の贈答品を含む接待に関わる規定を定め運用している。
それに対して、今回の外交ウィークの報道を見ていると、政府間の贈答品については規定がないのか、政府トップなどの一部にはルールが適用されたいのかとか気になった。自分がその立場や関係者になることはまずないので、このことを自分で調べてみようと思うほど気になるわけではないので調べないが気にはなった。
貰って喜ばしいものを貰っていなそうだったので、なおさらそう思った。贈賄規定があるからその王冠はもらえませんとトランプ大統領が言ったらどうなるだろうか。大統領個人がもらっているのかホワイトハウス寄贈になるのか、また別の方法で管理されるのか判らないが、規定上、貰ってよいのであれば価値のあるものよりは貰って嬉しいものの方が私はいいなあ。
アメリカ・トランプ大統領が無事に離日して何より。
誰であろうが、海外から来日した要人が狙われたり、来日期間中にテロがおきたり、または要人を対象にしたデモが起きたりせずに来日日程を終えることができるのは、ほっとする。海外からの訪問者に限らず、誰にとってもそのようなことは起きて欲しくないが、せっかく海外から来てくれた要人ならなおさら。
ひとまず、ほっとした。
来月くらいには雨季が始まると思うのだけれど、今年の雨季の雨量や降雨時間はどんなものだろう。
気候はなるようにしかならないから、心配しても意味ないし天気予報の精度的にも期待できないし、また準備することもできないのだけれど、洪水するようなレベルにはなって欲しくないとは思う。洗車しなくなくので、列に並ぶ手間はなくなるのだけれど、雨季でもしばらく雨が降らない日が続くこともあって、そうなると汚れた車にしばらく乗らないといけないし、洗車するタイミングの決断に困る。
屋外での活動があまり多くない私にとっては、自分個人の生活には大きく影響は及ぼさないのも事実。いいことなのか、良くないことなのか。
休暇明けで久々に出社する時は、いつもよりも慎重に運転する必要がある。道の真ん中に突然に大きな穴があくことは珍しくない。そんなことが一晩の大雨でおきたりするので、10日も出勤しないことがあれば、何がどこにあるかをきょろきょりしながら慎重に運転する必要がある。
赤道に近いところに住んでいるため、1年を通して日の出の時間は30分くらいの差しかない。だいたい朝はまだ暗いうちに家を出て、季節によってはまだ暗いうちに会社につくこともあれば、ほぼ明るくなっていることもある。だけど、出るのは暗いうちなので、余計に道路の穴が見えずらい。
そんなこんなで、久々の出勤には優しい運転で出かけようと思っていたのだが、思いのほか、自然体で優しい運転ができた。優しく運転を心がける、というよりも自然に優しい運転ができた。
今回の休暇では体調を崩したりもしたのだけれど、全般的にはよい休暇だった。きっと、それもあって優しく運転ができたのだと思う。休み前に蓄積したイライラがかなり解消されて模様。さあ、いつまでこの優しい運転が湧き出つづけるだろうか。
10月初めからの一連の流れの中で、いくつかのファインプレーがあったと私個人は感じているのだけれど、その中のひとつが自民党総裁選をフルスペックで実施すると決めた人だと思う。
総裁選がスタートしたころの報道では、たしか、現首相を支持するメンバーが選挙管理委員会に名を連ねているという報道内容だったと記憶する。もしそうであるならば、国会議員のみにはかるというやり方があってもおかしくないところ、フルスペック選挙の実施を決めたのは、高市候補が勝利する方向性の最初のステップを大きく踏み出すことになったと思う。もしかしたら、自民党に危機感を感じる議員が少なからずいて、党員の声を聴くべきと思っていたひとが案外多かったのかもしれないと思った(2024年の総裁選同様に、フルスペックで実施しても議員側が恣意的に議員票を活用できるとおもっていたのかもしれないが…)。
これがなければ、今頃は期待感もない政治ニュースになっていたかもしれないし、自民党政治の終焉を迎えるきっかけになっていたかもしれない。
実際に高市氏が何を実行できるかはまだわからないものの、期待感はあると思っている有権者の一人です。
外国運転免許証の日本への切り替えの要件が 10 月から厳しくなったことを取り上げるネット記事があった。外国人が困惑しているということらしい。
外国人が困惑するのは無理もない。しかし、「厳格化してけしからん、外国人が困惑せぬようにしないといけないではないか」と該当の記事が主張しているような印象を受けた。タイトルのみが目に入ってきた時は特に。
記事は、安全に運転できるように制度変更の効果を期待するという締め方にはなっているものの、外国人が困惑していることを前面に出す必要があるだろうか。これを配信したメディアは、ハードルの低い日本の外免切替を利用してルールをきちんと知らない(あるいは知っていて無視している)運転者が悲惨な事故を起こしても、外免切替の問題点を指摘する資格はない。いろいろな視点を取り上げるのがメディアであるとこの会社が主張するならば、どんな犯罪でも批判的に述べてはいけないと読者に感じさせるような書き方だ。どっちの向きに対してでも、その時に出てきたこと何に対しても批判的に書けばよい時代ではない(今日死刑が執行されたら海外では死刑廃止だといって批判して、翌日には 10人をあやめた犯人に死刑判決が出なかったとしてなぜ死刑ではないのかまた批判するように、同根の事柄について、舌の根も乾かぬうちにどっちにもとにかく批判する姿勢)。
私は、現在の居住地で日本の免許からの切り替えで現地免許を取得しているので、逆方向で外免切替の恩恵を受けている。しかし、当地の人と同じように運転している。また、当地の免許は日本で可能なような旅行者の取得はできない。住所があってビザを取得し、一定期間この国に滞在する人でないと申請できないし、外免切替の制度が停止されたりもする(この場合は、現地の人も外国人も全員が同じ試験を同じ方法で受験して免許を取得というルール)。
外免切替制度に関しては、なぜ、日本のメディが外国人の気持ちを代弁する必要があるのだろうか。
夜遅くにある程度遠くまで出かけることになった。到着時間から逆算するとどうしても夜遅くの出発になってしまう。いつもならばコーヒーを淹れることになるのだけれど、今回は事情があってそれができないのだけれど、仕事終わりから引き続いて朝までの運転なので、コーヒーが欲しい。
私は外でコーヒーを買うことはまずないのだけれど、スタバの豆の中に自分好みのものがあり、また、私は保守的で一度いいなあと思ったものを変えるのは自分の中でチャレンジなので、豆を買いにスタバには週に一度は行く。だから、今日のように自分で淹れないとなると、スタバで買おうかとなったのだけれど、出発がほぼ夜中なので店が開いてるかが次の心配。
スタバアプリで店検索すると、行こうと考えていた店は 24 時間営業との記載があるのだけれど、変更があっても反映されていない過去経験があり、現在、私の町ではスタバの閉店もあったりするので、24 時間営業の情報は古いのではないかとの私の勝手な疑い。
結構な時間、早めに家を出ようかとか、営業時間終了後だったらそれはそれで仕方ないとか、いろいろなケースを想定した。突然、「あ、マクドナルドなら確実に 24時間じゃないか」と思いついた。完全にスタバに頭が凝り固まっていた自分に対してちょっと心配になった。これも老化現象なのか?思考の柔軟性が欠ける局面がすこし前にもあったような気がする。どんなトレーニングをしたらよいのだろうか。計画を立てずに、いきあたりばったりな行動をした方が柔軟性を維持できるのだろうか。
「朔日」に気持ちがあらたになる感情を以前に書いた。今日は10月1日なので、朔日であり四半期のスタートでもある。3月決算の日本企業だと、今日が下半期のスタートともいえるけれど、海外の企業は6月や12月のケースが多いと思うし、私が勤める企業も同様なので、今日は年に4回ある四半期の初日ではあっても、半期とかの区切りではない(事業年度の第1四半期初日は、四半期始まりよりも年度の区切りの感情の方が大きいので、実質、年に3度かの気分かも。いや、四半期決算は開示しないから、半期も中くらいの規模の区切りになるので、四半期始まりの感情は年に2回か?)。
まあ、とにかく、今日からあらためて業務する。
前にも書いたけれど、ここ数年のあいだ、持ったものを落としたり、何かを持とうとしたら別の何かをひっかけて落としてしまうとか、不注意とか握力不足(?)とかで手にモノがつかないことの頻度が10年前に比べて非常に高い。それとともに、仕掛けたように非常にきれいに手からこぼれるというか、最悪のケースになるというか、笑ってしまいそうなことが増えた。
自分でカットした野菜をジップロックに入れているのだけれど、それを落としてしまった。落としたけれど中身がこぼれなくてラッキーとか少しだけこぼれたとかならよいけれど、ジップロック容量の半分ほどが詰まったカット野菜が全て床に散らばった。ジップ側が下向きに落ちればそうなるのだけれど、床までの1mくらいの高さから落下する1秒以下の間の時間に全てがこぼれだすような落ち方をした。
これには笑った。握力が落ちているのか注意力が落ちているのか。今回は頭痛のタイミングでもあったので、脳の不具合だったらいやだなあと少し心配。注意することで解決すればほかの理由ということになるので、しばらく注意深くやってみようと思う。
X 線検査機に通す前のトレーから現金を盗んだというニュースがあった。
この報道を見て、私に起きたことを思い出した。具体的にはどの出張の時のことか覚えていないけれど、少なくても15年前かそれよりも以前のこと。アメリカの国内線で移動していた時に、鞄のポケットに入れていた小銭入れを失くした。その小銭入れはとても気に入っていたもので、失ったショックは非常に大きかった。本当に残念だった。
この時は、機内持ち込み荷物のサイズが超過だと搭乗時のタラップのところで職員に言われ、預けるようにと指示された。その時の出張中には何便かに登場したのだけれど、超過と言われたのはその時だけだった。だから事前には何ら準備していなかったため、言われた時には何がどこにあるかまであまり気に留めず、とりあえずパソコンと貴重品を取り出したのだと思うけれど、鞄の横のポケットに入っている小銭入れまでは気が回らなかった(と、思う)。残念なことに、その鞄にはポケットが二つあり、一つは鍵付き、もう一つは鍵なしで、失くした小銭入れは鍵無しのほうに入れていた。機長預けになることが判っていたら、小銭入れを鍵付きの方に入れるか自分で持つかのどちらかにしておいたにと思っても、後の祭りだった。
直近にこのことを思い出したのがもう何時だったか思い出せないくらいの出来事だったが、このニュースを見て思い出してしまった。あの小銭入れ、非常に残念。
私は、怖い話が嫌い。
なぜ怖がりになったのか、おそらくきっかけになったものがあったと思うけれど、それが何だったか覚えていない。もしかしたら、生まれながらにしての怖がりだったのだろうか。でも、怖がりは先天的なもの?それとも後天的なもの?どっちなのだろう。
自分が怖がりなことを知っているので、怖いテレビ番組は見ない。合宿のように集団で同じ場所に泊まる時の夜の余興など、どうしてもその場に参加しないといけない場合は嫌々ながら参加はするが、原則は、君子危うきに近寄らずでこれまでやってきた。
怖い話をする人にお願いがある。今見えたとか、そこにいる、という現在進行形な話はやめて欲しい。
時代が進むにつれ、解決をみる既存の問題の件数は増え、世の中は確実に良い方向に向かっていると思う。個別にみれば、新たな問題が発生しているのも間違いないし、新たな問題はかつてないほどの規模の大きな問題だったりして、もぐらたたきのようにあっちを叩くとこっちから頭を出すことはあるだろうけれど、全体としては良い方向に行っていると思うし、そうでなければ、微力ながら(?)私も改悪に手を貸していることになってしまうので、そうは信じたくない。
とはいえ、私の長くない人生の間におきていることだけをみても、日本は結構変わったという感想を持っている。理由はいくつもあると思うが、その一つは西洋的価値感の取り入れ方によるところがあると思う。もちろん、私は西洋的価値観を否定するつもりはない。ただ、なんでもかんでも西洋的価値感であったり、哲学をもたずに取り入れるのはちょっと違うと思っている。日本には日本の良さがあるんだと考えていた。
最近、ちょっと考えを改めるかもしれないと思い始めている。日本的良さは、今もこれからも大事にすべきところだという考えは変わらないが、現在のように外国や外国人との交流がより深くなってくると、付け入るスキを与えてはいけないと強く感じ、それには残念ながら西洋的価値観で対抗せざるを得ないと思うようになってきた。それが結果的に日本の良さを守ることになってゆくのだと思うようになった。
先輩方が作ってきた日本的良さを壊されるのは堪えられない。それと同時に、壊されるのを見ながら何もアクションをせず、へらへらしているのも堪えられない。攻撃的になってはならないが、攻めないと守れないというスタンスでいる必要があると思う。それは、自分がいさせてもらっている外国にも当てはまり、その国のシステムを尊重していかなくちゃ、ということをあらためて思う。
YouTube 番組前に CM が流れることについては、そういうものだという理解ができている。それで成り立っているならば仕方ない。
最近、ネット・ニュースを見ていると、YouTube 同様に CM を見ないと読めない記事に度々でくわすようになった。YouTube ならば少し見た後に CM を Skip できる。CM が始まるのは私の意思でないとしても、自分の意思で CM から番組に戻ることができるからなのか、YouTube CM にあまり嫌悪感はない。それは、YouTube でしか見ることができない番組をみるために必要な儀式みないなものとの理解が私の中で進んだからかも。
一方で、ニュースの前の CM の場合は、CM を見るように言われた時点で閉じるボタンをクリックしてしまっている。それは、そのページでなければ見られない記事ではないので、同じ件のほかの媒体のニュースを探せばいいだけのこと。たまに、写真ニュースで同様のものがあり、この場合は他社記事では同じ写真を見ることができないのは想像がつくものの、そこまでしてみたい写真もない。ニュース前の CM は成功とは言えないのではないかなあと思っている。それとも、私が特殊で、大多数の人は CM を見ているのだろうか。これも、周りの人にアンケートをとってみたい質問の一つです。
結論から言えば、好きになれなかった最初の背番号は、任意で番号を選ぶ機会があれば今では自分で選ぶ番号になった。
生まれて最初の背番号は、たしか小学3年生の時だった。現在は、小学生のスポーツチームといえば学年別チームで運営している競技・チームが多いと思うけれど、私が小学生のころは全員で1チームだった。だから、現在のチームでは背番号1が各学年にいるけれど、私の頃は学年に関わらずに自チーム内に背番号ダブりはなかった。そうなると、小さい数字の背番号は上級生に優先的にあてがわれる。上級生が卒部(これは現代的表現)すると背番号変更もあったりするのだけど、私が入っていた田舎の古いスポーツチームでは、背番号は縫い付け交換式(またはマジックテープ交換式)のものではなくてユニフォーム一体タイプのものだったため、背番号を変えるとなるとユニフォーム上着を買い替えないといけなかった。そんなことを両親にお願いできる家庭環境でもないし、お年玉は毎年1万円もらえるかどうかの収支だったから、それをユニフォーム代に支出もできず、私は小3から小学生チームから卒業するまで同じ番号を使った。
小3でもらった番号はあまりなじみのない番号で、例えばプロ野球選手だったら誰だろうと思ったら、一軍で試合に出ている人だと一人しかいなかった。そんな番号。だから、それ時から 10 年前くらい前までは親しみも馴染みもなにもない番号で、どちらかといえばダサいなあと思っていた。
しかし、あるきっかけで、この 10 年間は好きな番号となっていて、今後もずっと好きな番号であり続けると今日時点では感じている。自分では自分のことをコンサバでいる時間の方が長い人間だと思っているけれど、たまに、こんな感じで好み(背番号の場合は好みではなく考え方の変化なのだが)が急変したりする。だから、年齢がいくつになっても新しいことを試すことで何かが変わったりすることは素敵なことだと思う。
デンタルフロスを使い切ったことを書いた。2025 年の目標である「使い切る」ことに関して、デンタルフロスというもので達成した。
「使い切る」ことを目標に挙げたのは、継続的になにかを実行することがその目的にあった。今回のデンタルフロスは、まさに歯の健康のために継続するのは大事。デンタルフロスを初めて買ってからもう十何年もたっているとおもうけれど、いつも続かなくて結局、歯科でクリーニングを定期的に施してもらっていた。今回は、ほぼ毎晩フロスで処理した。継続は力になっていてほしい。
「使い切る」ことの別の目的は、最初のものと似ているようだが「使うこと」がある。心配性な私は、家で使用するものなどの在庫を持っておかないと落ち着かない。しかし、在庫を買うと在庫を持つことで満足してしまうことがよくある。また、その満足が勿体ないという気持ちとも相まって(勿体ないというよりケチな根性かもしれない)、持っているのに使わないという無駄遣いにちかいことをしてしまうことが少なくない。
だから、「使い切る」ことを目標にした。生活が便利になるだろうと〇〇を買ったのに、もったいなくて使わなかったら生活が便利にならない。なんのために買ったんだ!これを止めたかった。理由があって買ったのだから、家にあるものはバンバン使い倒す。これだ。デンタルフロスを使い切って自信になった。なんかいい感じだ。