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カテゴリー: 心配事

いつも以上にモノが手につかない

いつも以上にモノが手につかない

前にも書いたけれど、ここ数年のあいだ、持ったものを落としたり、何かを持とうとしたら別の何かをひっかけて落としてしまうとか、不注意とか握力不足(?)とかで手にモノがつかないことの頻度が10年前に比べて非常に高い。それとともに、仕掛けたように非常にきれいに手からこぼれるというか、最悪のケースになるというか、笑ってしまいそうなことが増えた。

自分でカットした野菜をジップロックに入れているのだけれど、それを落としてしまった。落としたけれど中身がこぼれなくてラッキーとか少しだけこぼれたとかならよいけれど、ジップロック容量の半分ほどが詰まったカット野菜が全て床に散らばった。ジップ側が下向きに落ちればそうなるのだけれど、床までの1mくらいの高さから落下する1秒以下の間の時間に全てがこぼれだすような落ち方をした。

これには笑った。握力が落ちているのか注意力が落ちているのか。今回は頭痛のタイミングでもあったので、脳の不具合だったらいやだなあと少し心配。注意することで解決すればほかの理由ということになるので、しばらく注意深くやってみようと思う。

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報

電気ケトルのリコール情報を伝えるネット・ニュース記事が出ていた。
私は現在、日本居住ではないけれど、私が暮らす国も日本も「made in China」の共通点多数という共通点があるので、電圧やプラグ形状が異なるけれど、一応、形式の照合をしておこうと思った。

記事から簡単に対象製品を確認することができるかと思いきや、記事ページには型番の確認の仕方があっても型番の記載がなかったり、画像を何枚もめくらないと型番が出てこないページもあり、おもいのほか時間を要した。記事ページから情報にたどり着くことができたものはあるが、私が閲覧したページに限っていえば、ぱっとすぐに行き着けるものはなかった印象。

ニュースには文字数の限度とかあるのかもしれない。そこのところは知らないのだけれど、ニュースを伝えるだけで終わりにしないで、そのメーカーのページに行かなくても確認できるようにしてくれると便利だと思った。ただ、近頃はリンクをクリックするのにアレルギーがあるので、それはやはり自分でメーカーのページに行って確認してくださいというのがメディアのスタンスで、また、ウェブサイトの危険性に関する自分の感覚が正しいかをはかりながら自ら確認するのが身を守る最適解なのだろうか。

ありとあらやるものを信じられなくなってくるので、フィッシングはやめてほしいものだと思った。

西洋的価値観について考える

西洋的価値観について考える

時代が進むにつれ、解決をみる既存の問題の件数は増え、世の中は確実に良い方向に向かっていると思う。個別にみれば、新たな問題が発生しているのも間違いないし、新たな問題はかつてないほどの規模の大きな問題だったりして、もぐらたたきのようにあっちを叩くとこっちから頭を出すことはあるだろうけれど、全体としては良い方向に行っていると思うし、そうでなければ、微力ながら(?)私も改悪に手を貸していることになってしまうので、そうは信じたくない。

とはいえ、私の長くない人生の間におきていることだけをみても、日本は結構変わったという感想を持っている。理由はいくつもあると思うが、その一つは西洋的価値感の取り入れ方によるところがあると思う。もちろん、私は西洋的価値観を否定するつもりはない。ただ、なんでもかんでも西洋的価値感であったり、哲学をもたずに取り入れるのはちょっと違うと思っている。日本には日本の良さがあるんだと考えていた。

最近、ちょっと考えを改めるかもしれないと思い始めている。日本的良さは、今もこれからも大事にすべきところだという考えは変わらないが、現在のように外国や外国人との交流がより深くなってくると、付け入るスキを与えてはいけないと強く感じ、それには残念ながら西洋的価値観で対抗せざるを得ないと思うようになってきた。それが結果的に日本の良さを守ることになってゆくのだと思うようになった。

先輩方が作ってきた日本的良さを壊されるのは堪えられない。それと同時に、壊されるのを見ながら何もアクションをせず、へらへらしているのも堪えられない。攻撃的になってはならないが、攻めないと守れないというスタンスでいる必要があると思う。それは、自分がいさせてもらっている外国にも当てはまり、その国のシステムを尊重していかなくちゃ、ということをあらためて思う。

終活情報登録制度

終活情報登録制度

自治体への登録制度があることをニュースで初めて知った。

できること・できないことはこれから深く掘り下げて調べないといけないが、高い費用を払って法律事務所の弁護士とかを起用するのは躊躇する一方で、自治体へ低コストで登録が可能であって、自分に何かが起きたに自分の意思を着実に伝え、自分の資産が家族に届くような制度があることは、私にとって非常にありがたい。また、私に限らず、この制度によって多くの人が簡易に早く相続できる世の中になればいいと思う。相続問題は、相続する人がその意思を伝える方法が少ないとか意思を伝える方法が面倒だということだと思う。

自治体に登録することで、相続に関わる徴税が完璧に実行されることになるかもしれないが、そもそも後ろめたいことは私にはないので、余計な時間を掛けずに相続手続きを完遂できることが可能になるならば納税は構わない。

しかし、私がここに住所を構える前までいた自治体は、まだこの制度が始まっていないらしい。まあ、そのうち、始まるだろう。

年収を更新してください – カード会社から依頼

年収を更新してください – カード会社から依頼

クレジットカード会社からメールが届いた。カード利用枠の引き上げを検討しているので年収などの項目に回答するように、との内容だ。

メールに情報更新のリンクが貼ってある。フィッシング被害の報道や注意喚起をよく見るのに、どうして率先してクリックさせたがるのか理解が難しい。

ウェブサイトの会員ページにログインして、お知らせのようなページにこの依頼が記載されているのか確認してみたが、すぐに探せるところには通知が特にない。なので、本当にカード会社から依頼ができているのかどうか確認ができないので、リンクをクリックしないようにした。特に利用枠の引き上げがなくても困らないので今回の件はよいけれど、本当に必要な手続きだったと思うと、今のカード会社のやり方が心配だ。

技術の進化を止めることができない

技術の進化を止めることができない

人間が最新技術を追い求めるからとか、技術者が常に先進を求めて開発するとか、そのような理由で技術の進化を止めることができないということは勿論ある。この場合は、「止める権利」は誰にもないという主旨が近いかもしれない。

私は別の意味でも止めることができないと思っている。それは、止めてしまうと大変なことになるかもしれない、という観点からだ。

技術の進化によって、以前は出来なかったことが出来るようになったり、今までも出来てはいた事柄であっても、それを実行する際の負担が減って楽になったり、より多くのことが短時間でできて効率があがったりする。便利な世の中に貢献してる。

ただ、技術の用途によっては、進化した技術を人が使うほどに使い手が気を配る必要が低下し、その結果、それを行う能力が落ちることがある。能力が落ちると、それをサポートするべく更に進化させた技術が求められることになるのだが、それが機能しない場合に問題が発生する場合もあると思う。機能しないことが何も発生しないことになる「電源オン」のような場合は問題は少ないが、ストッパー的にその機能が使われている場合は、好ましくないことが起きてしまうことになる。その時に、使用者の能力が落ちていると、人の手でそれに対応することができない場合があると思う。

私が心配する典型的な例が自動車に関わる技術で、具体的には運転補助や機器回避のもの。現時点ではいずれも補助であって最終的な判断や操作は運転者に責任があることにはなっているが、実際に運転しているドライバーにとっては、これらの機能に限らず運転をするということに対するハードルが下がっていて、その結果、運転技能が下がっているし、運転しながらスマホに目をやったり、集中力に掛ける運転者が増えていると推測する。

車に関する技術がもっと進化して、絶対に事故が起きないレベルまでいけば、ボディは撥水処理した紙で造れるかもしれないし、エアバッグ・システム等の安全装置が不要になればコスト低減も可能だと思う。車が軽くなれば道路ももっと簡単に安く早く作れるだろうし、事故がなければ保険に加入する必要もなく車の保有者にも優しい。しかし、事故の自動回避完全化にはまだまだ時間がかかるというか、正直、そんな時代がくるかどうかも判らない。

また、2025 年 8 月 13 日の日経新聞記事にも私が心配するようなケースが取り上げられたいた。「大腸内視鏡検査、AI利用で医師の技量低下 ポリープ発見20%減」という見出しのもので、ポーランドなどの国際チームが英誌で発表した研究で、「医師がAIに頼ることで、やる気や注意力、責任感が低下する懸念が浮上した」ということが記事に書かれていた。

新しい技術に頼り切るのはちょっと考えものだと思う。使うほうも使い方や技術への向き合い方を認識し続けることが必要だと思う。

お尻にできた豆のせいで座るのが苦痛

お尻にできた豆のせいで座るのが苦痛

一週間くらい前からお尻が痛い。豆ができた時の痛み。

働き始めてからずっと座ってする仕事なので、微妙な違いはあったとしても、原則、座っている時間は日々でみても週平均でみても、ほとんど上下はしないと思う。ゆえに、単純に座っている時間だけが理由ではないと思うのだけど、1年に一度かそれより多少は低い頻度でお尻に豆みたいのができて痛みを感じることは以前からあった。

今回ちょっと違うのは2つあって、ひとつは前回からの間隔で、もう一つは場所の違い。

前回に起きたのは数か月前のことで、再発までの間隔がいつもより短い。痛みを感じる期間は通常は一週間程度のことで、いつの間にか治っているケースなのだが、前回は、車から降りた時に豆が破れて終了した。会社から帰り、住んでいるコンドの駐車場に車を止め、シートから立ち上がった瞬間に液体をお尻で感じた。自宅のトイレで確認すると、比較的に赤い色がはっきりした血が出ていて、ズボンにも少し血がついていた。車のシートには血がついていなかったので、多分、立ち上がる時に破れたのだと思う。シートが汚れなくてよかった。それと、右か左で一定しているわけではないものの(毎回どっち側が痛いのか記録しているわけではないので)、どちらか一方が痛かったのが、今回は中心部が痛い。感覚的には排便する場所の少し上くらい。はじめは尾てい骨が痛いのかと思った。小学生の時にドッヂボールをしていて、ジャンプしてボールをよけた時にお尻から地面に落ちた時の痛みに近かった。だから、睡眠中にベッドから落ちるなどといった物理的な原因による痛みかと最初は思っていたが、二日目だったと思うけれど、いつもの豆の痛みの場所違いだと感じるようになった。

ネットで症状をキーワードにして検索すると、毛巣瘻(あるいは毛巣洞、毛巣嚢)という炎症の症例にヒットした。そこに記載されているものをみると、どうやらこの件に合致していそうな印象をえたのだけれど、直すには手術で切除する必要があるとの記載もある。直近の豆の時と同様に、今回も何日か前に出血していたので、私の症例では浅い場所にあるものだと想像するのだが、そうすると、ネットでヒットした症例の毛巣洞の説明とは違うような気もする。しかしよくわからないのは、お尻の真ん中にできた理由。座っている姿勢では圧がかからない場所だと思われる。

一時帰国の時に、医者に診てもらおうかどうかちょっと考え中。保険証がないので10割負担になるのは痛いけれども仕方ないと割り切れるが、手術になった時には休暇日数が足りないような気がするので)。

AI に相談する

AI に相談する

日経新聞に、「ChatGPT の新モデルに「冷たくてつらい」の声 共感力低下に失望」という見出しの記事があり読んでみた。

ChatGPT に精神的なサポートを求め、依存してしまう人もいるらしい。また、AI と心理学に詳しい米国大学の教授のコメントが記事で紹介されていて、メンタルヘルスの悪化とセラピストの不足で、ChatGPT が安上がりなセラピストになっているらしい。

言われてみれば、最近みた動画のいくつかのものでも AI に悩みを相談していると言っている出演者がいたのを思い出した。たしかに、実存する人物への SNS メッセージとは違い、AI ならば既読が付かずに待たされることなく返事をくれるし(普通のインターネット検索でもそれは言えるが)、多分、自分が聞きたい返事や悩みの吐露への回答の方向性を誘導することも可能なのだろう。そうすることで、24時間7日間慰めを得られそうだ。そのようなことが必要な局面はあると思う。しかし、いつでもそれだとどうなんだろうとも思う。私にはそのような存在の友人はいないのだが、時には厳しいことを言ってくれる友達が必要だということも、たぶん、そうなのだろうと思うから。また、ネットの弊害とかでも指摘されることが多いように、アルゴリズムによって、聞きたいこと・知りたいこと・見たいことばかりが表示されると、考えや思想が偏ってしまって自分の考え方がそのまま世間の主流派と思い込んでしまうこともあるだろう。

心配なのは、誰よりも寄り添ってくれる AI が急にそうでない対応をするように修正された時に、こんなはずではないと感じたり、強く寄り添ってもらっていただけに裏切られた気分になったりして、他人を巻き込む形で何かをやらかしてしまう人が出てこないかということ。仮想世界が現実世界の方に徐々にせせり出てきているけれど、あまりやりすぎるとちょっと怖い世の中になりそう。やっぱり最後は使う方である人間がしっかりしないといけないと思う。ますます人間の悩みは深くなるかも。

おまけ目当てで食品を投棄

おまけ目当てで食品を投棄

マクドナルドのハッピーセットのおまけの話題がしばしばニュースに登場する。あまけ目当てでセットを購入し、メインの食品のほうを食べずに投棄する人がいるとか、おまけが売買ネットに出品されている、本来であれば商品の対象となるべき子どもに行き渡らないほどの買い占めが行われているとか。

以前であれば、地理的に遠くても即座に簡単に売買ができるオンライン上で売買できる環境になかったとか、何かプレミアム的なものにとびつく余裕がなかった時代であったとか(私が育った家庭だけ?)、今は堅苦しい話題のニュースよりも街中の出来事をネット警察的に報じる方が視聴者の関心を引きそうだとか、その事象や報道の背景は種々あると思うけれど、商品の主体である食品が無駄にされることは、何も最近になって始まったことではない。程度の差こそあれ、プロ野球チップスについているカードで欲しい選手のものが出るまで買ってチップスを捨てる人や、好きな模型目当てで本体が捨てられるビッグワンガムなどについて、学校の先生から注意喚起されたりしたことがあったと記憶する。チップスもガムも保存がきくのに捨ててしまうのは、現代よりも質が悪かったのかもしれない。

私は、どうしても欲しかったおまけは特にこれまでの人生で記憶がないので、高いお金を出して売買サイトで個人から買おうとしたことはないし、おそらく、今後も買おうとすることは起きないと予測する。ゆえに、自分個人の都合だけで考えれば、人の弱みに付け込むような転売に対して悪い感情しかないのだけれど、極端な話をすれば、買う人がいるから売る人が出てくるのであって仕方ないという気がしなくもない。しかし、食品廃棄はそんな感じで割り切れる話にはならない。作り置きのファストフード自体に時間制による廃棄ルールがあったりして、便利さや出来立てのおいしさの裏にはもともと無駄は存在するので、転売屋のムダのみを取り上げるのはフェアではない部分もある。しかし、それでも無駄の性質は同じではない。買い占めについては、ちょっと意見が難しい。震災時の生活必需品の買い占めはもってのほかだが、かといって、なんでもかんでも買い占めけしからん、とは言い難いところもあると思う。むしろ、買い占める人を管理するよりも、買い占めに歯止めをかけるルールを売り手が採用した方がうまくいく確率が上がると思う。ただ、代金が何百円といった商品の場合に、誰が幾つかったか逐次トレースができるようにするには売り手側のコストが見合わないと思うので、誰かが何かうまい方法を考えてほしいのだけれど、誰もかれも儲けさえすればよいという発想になってしまっているように感じる現代では、難しいのかもしれない。利己的になりすぎないように教育から見直す必要がありそう。

今回の件では、カード発行枚数がそれなりにあるため、プレミアムにはならないとコメントしたマクドナルドには、今後は何か考えてほしい。こうなることは判っていたはずだから。そうまでして集客しなければならないような企業ではないだろうにと思う。

何してもうまくいかない難しい世の中になったものだと感じる。このようなことが起こるのは、選択肢が増えたり余裕があったり、より良い世の中になってきている証拠なのだと思うけれど、不具合もまた多くなっている(でも、報道を見ていると景気は悪いはずなのでは?)。

私の読解力を心配している

私の読解力を心配している

最近の話ではなく、もう、ここ数年のことになるのだけれど、自分で読解力が落ちたことを思う機会が多い。

最近の例を挙げると、夏の高校野球甲子園大会の記事で、二つの意味にとれそうな文で、どちらの意味なのか分からない表現があった。

出典①:デイリー 「夏の甲子園 小松大谷は2年連続初戦突破ならず」
出典②:スポニチ 「 【甲子園】 小松大谷は2年連続の初戦突破ならず」

最初にネット記事で①が目に入った。2年続けて初戦を突破できなかった(2年とも初戦で敗戦)のか、昨年は突破したが今年は突破できず、2年続けての突破ができなかったのか、タイトルだけではどちらの意味か判らなかった。内容を読めばわかったのだと思うけれど、そうするまえに②のタイトルが目に入ったので、去年はいけたけど今年は負けてしまったことと理解した。

もしも2年連続で初戦を突破できなかったのであれば、「2年連続初戦敗退」というような表記になるか、あるいはわざわざ2年連続ということを強調するタイトルにしないであろうことは、冷静に考えれば想像できそうなものではあるのだけれど、私がその時に思ったのは、私のように読むのは文法上ありえないのか、あるいは、私の誤解は起こりえることで書き手側に丁寧さが欠けていたのか、一体どっちなのかということだった。私のように理解するのがありえないのであれば、私が日本語を正しく使ってこなかったと反省して済ませることができるが、他方のケースであれば、なんでそんな書き方をするのだろうという単純な疑問である。タイトルは文字数も限られていて簡単ではないことは素人でも想像できるが、スポニチは読者に判るようにタイトルをつけているのだから、むしろこれは、本文を読ませるためにわざと変なタイトルをつけているのではないかとの疑いすら生じる(本当は、そんな疑いは持っていない。書こうとすることが判っている書き手が、読者も判っているだろうというバイアスを抱いてつけた不注意タイトルだと推測)。書き手の実力不足なのか、はたまた、別の理由なのか。周りに日本人がいないので、私と同じように意味に悩んだ人がいるかどうかのアンケートを取ることができないのが残念だ。

停戦合意違反

停戦合意違反

カンボジアとタイが軍事衝突し、その後、停戦合意したものの、合意に反して攻撃が続いているという報道があった。

この手の報道でよく判らないのは、前線の部隊・兵士まで停戦の指示がきちんと行き届くのだろうか、そして、届くとしても、翌日から停戦などという短いリード・タイムで指示が徹底されるのだろうかということ。停戦合意違反といっても、実は、指示が届いていないとか(業務連絡を社内の部署へ一斉メールするのと訳が違うはず)、届いていても武力行使支持派が指示に反発してあえて攻撃を継続するような背景はないのだろうか。

統制のとれた国であれば、指示は徹底しているだろう。しかし、21世紀にもなってまだ軍事衝突するような国であれば、そもそも国や軍のガバナンスがうまく機能していないということもあるのではないか。

これは個人的な疑問であって、地球人の私としては、理由がなんであろうが停戦を合意したなら、お互いに合意を遵守し・遵守させ、違反があらたな火種にならぬように対処して欲しい。

東南アジアからも物騒なニュースが

東南アジアからも物騒なニュースが

東南アジアでの物騒なニュースが報道されている。

少し前から、カンボジアとタイとの間の軍事衝突が報じられていた。28日には、マレーシアで開催された首脳会談で停戦が合意されたことが報じられたものの、今後、きちんと鎮静化してゆくのか非常に気になるし、再度の衝突はなんとしても回避して欲しい。

停戦合意した28日には、バンコクの市場で銃撃事件で5名が亡くなったことが報じられた。ネット・ニュースのコメント欄に書き込みをしているタイに詳しい人によれば、タイが銃社会であるようなコメントが結構多いので、私は知らなかったけれど、程度問題はあるかもしれないけれどそれが事実なのだろうと想像する。

東南アジアでの事象は、報道されていないだけで(あるいは、私が目にする報道では報じられていないだけかも)実際は多いのかもしれないが、それにしても、世界中のどこも犯罪や争いがあるような気がしてきた。理由は一つでもないし、単純なことでもないだろうけれど、なんとかならないのか。

熊を駆除したことに苦情

熊を駆除したことに苦情

私は熊が出没する地域には住んでいないが、人間の居住区に出てきた熊を駆除することには反対しない。居住区に出てきたということは、もしかしたら畑に美味しいものがあることを知ってしまったかもしれない。そうすると、再び里に下りてくることもあるかもしれないし、その時に人と出くわしてしまい、人を恐れた熊が攻撃的になってくるかもしれない。山に入って駆除する必要はないと思うし、それは不可能であるけれど、里におりてきた熊を駆除するのは致し方ないことだと思う。熊よりも人間の方が生かしておくべき存在だから、人の命を助けるためには熊を駆除するのは当たり前だ、とかいう理屈で肯定するわけではないが、人間が人間側を贔屓するには仕方ないことだとおもう。少なくとも、私は熊に襲われて死にたくない。

舌に何か刺さっている感じ、ただし魚は食べてない

舌に何か刺さっている感じ、ただし魚は食べてない

先週末の土曜日の昼食時だったように記憶しているのだけど(もしかしたら日曜日?)、食べ物を噛んだ時に下に何かが刺さったような感覚があった。その後、多少違和感があったのだけど、常時痛いわけではなくて、変な感覚があるのは何か特定の動きの時だけということで、そのうちに治るだろうと思ってそのままにした。

あれから3-4日経っているのにまだ違和感があり、会社指定のクリニックにいった。昼休みが終わってすぐだからなのか、あるいは別の理由なのか判らないけれど、受付でチェックインで待っていた5分程度よりも、診察室前での待ち時間の方がもっと短い時間で診察室に入れた。先生に状況を説明したところ、じゃあ見てみようということで口をあけたのだけど、5秒くらい口腔内をみたと思ったら口内炎だね、ということで済まされた。いやいや、違和感は舌であって頬の内側ではないし、口内炎の痛みは知っていて、それと違う違和感があるんだけど、という感想。だけど、口腔内の消毒スプレイに加えて、もしも希望するなら大きい病院あてに紹介状を書くけどどうすると聞かれたので、多分、専門外なので診る気もないんだろうと解釈して、紹介状と引き換えに、5秒間の診察を甘んじて受け容れた。

会社の秘書によれば、大きい病院はあらかじめアポをとってからいかないと、診療科をたらいまわしにされたり適切な先生に診てもらえないこともあるということで、現在はアポ確定待ち状態。特に違和感が強くなったりはしていないけれど、なんとなく何かの刺さり具合が深くなりつつあるような気がして早く診察してもらいたい(カメラで見てくれるらしい)。

後日、どうなるか判らないので今の状況を念のため、記録。
刺さったものが食道や胃に落ちてしまってそれがそこで刺さって炎症を起こすと大変なことにならないとも限らないようで、普段はあまり心配しない私なのだけど、今回は少し慎重になろうと思っている。

オレンジジュースは胸焼けするのに…

オレンジジュースは胸焼けするのに…

年に一度の検診で上部内視鏡をしてもらうようになってからの3年間は、毎年、逆流性食道炎と食道裂孔ヘルニアとの結果。それより以前では、検診結果で心配になったことで、検診とは別に個人で申し込んで上部内視鏡を10年くらい前に一度だけ受けた。たしか、その時も食道裂孔ヘルニアとの診断だったので、少ないサンプル数ながら打率は10割と言える。

オレンジ・ジュースを飲むと胸やけがする。以前から、出張時の楽しみの一つは宿泊先の朝食なのだけど、今日こそは思いつつも毎回、オレンジ・ジュースで胸やけする。酸味の影響なのだろう。だけど、オレンジを食べても胸やけしない。これはなぜか。絞ってあると濃縮されているのか。ネット検索を少ししてみたけれど、回答らしいものに出会えない。ちょっとしか検索してないけれど。なぜだろう。

貼り付けリンクのないメールが金融機関から届いた

貼り付けリンクのないメールが金融機関から届いた

金融機関から注意喚起メールが届いた。メールで送られてきたリンクからオンラインサービスにログインしないように、との内容だった。これを私は待っていた。これだけフィッシングなどの被害が発生したり報道されたりしているのに、リンクをクリックさせるメールを送ってくる企業のことが理解できなかった(関連する過去記事:オンライン・アンケートへのリンクにためらう – Journeyman : Blog)。

その手のメールが来た場合、どうしてもそのページで処理しないといけない時には(例えば、登録情報の定期的な棚卸のような確認作業とか)、お気に入り登録の URL からログインしたのちに、その目的のページにいって作業することにしている。ただ、いつもこれでできるとは限らず、ページの奥深くにあってたどり着くのが難しかったり、メールに貼ってあるリンクのアドレスからではサブ・ページの名前や場所を推測すらできない構造になっていたりすることも少なくない。何か手続きのような処理をしてほしい場合は、「メールで依頼している〇〇の手続きはこちらから」のように、一目見ればそこが入口と判るよう、サイト運営者には、せめてその時だけでもサイト・トップに目立つように書いてもらいたいと、常々、考えていた。リンクのあるメールを見るたびに、騙されたらそれはあなた自身のせいよ、という送り手企業側のスタンスなのだろうと理解している。そうでなければ、これほど悪名高くなっているのに、リンクを貼ったメールなんて送れないだろう。

初めて見に行くサイトの場合は、運営が書いている URL を信じる・信じないや、サーチエンジンの信頼性をどうかとらえるかとか、私たちの方も疑うことのセンスを問われることはあるが、すでに登録してもらっている顧客にそんなリスクを取らせる運営は、もっとお客さんのことを考えてほしい。

Al の学習元によっては …

Al の学習元によっては …

今更な話ではあるけれど、AI がどこから学習をしているか心配。自分が学習した時も、ガセネタが情報源だと間違えたまま成長してしまい、一度間違えて覚えてしまうと後から修正が大変だったりする。

だから AI がどこから学習しているのかは心配。なんてことを思っていたが、もしも、AI が間違いを教えたとしても、5億人が同じ間違いから学んだとしたら、もしかしたらそれが正解になってしまうことがあるのだろうか、という疑問が生じた。客観事実がある物事であれば、例え大勢が一つの意見を表したとしても正誤を確認する術があるし、大勢が言ったからって間違いが正解になることはない。しかし、正解のないこと、例えば評判とか実際は誰も正解を持ち得ていないこと(宇宙や歴史など)については、嘘を大量に不徳的多数に拡散する能力のある AI が間違った学習成果によって流布するような時代になると怖い。意図的なもの、バグ、AI の暴走、確認作業不足など、理由は様々かもしれないが、手っ取り早く何かを知ろうと思って利用する AI のはずだったのに、ほかの検索結果とのクロスチェックが必要になると、いったい何のため?という気持ちになるかもしれない。

黒猫が目の前を横切った

黒猫が目の前を横切った

朝の通勤時に、自宅を出てすぐのところで黒猫が進行方向の車の前を横切った。
ちょうど、悪い話を報告しなければならない予定があった日だったので、何か不吉なことでもあるのかと憂鬱な気分で出勤した(黒猫に出会ったこともあったので運転には注意して出勤)。

あまりネガティブな気持ちでいるのもどうかと思い、なぜ前を横切る黒猫が不吉なのか調べてみようと考えた。曲解できそうな理由であれば、不吉であることを忘れる口実にしようと思った。逆に出る、つまり、逃げようのない確定的な理由があったら気分撃沈になるかも、とはなぜか考えなかった。

ネットで調べたところ、日本では幸運の前兆という受け取り方だというのを見つけた。いままで何十年も生きてきて、私が知っていたのは黒猫が前を横切るのは不吉なサイン、ということだけだったことを知った。つまり、自分では調べたことがなくて、テレビかラジオか書籍なのか判らないけれど、不吉だという海外での受け取り方を誰かに吹き込まれて、それのみを知ったまま今に至ったということだ。

とりあえず、悪い報告を前に少し気が晴れた。それと同時に、自分で確認するのも必要だなあと再認識した。どうでもよいことであれば自分で調べる必要がないかもしれないし、誰がそれを言っているのかによってもあらためて調べてみるというアクションは不要だとは思う。だから、多分、何の疑いもなく不吉だと思ったのだと思う。推測するところ、海外の生活様式やしきたりなどに興味があって、いろいろ調べていた大学生時代にこの認識が刷り込まれたのだろうと思う。それ以来、調べたことがなかったということだろう。

今後は黒猫が横切っても、自分の向きをかえて後ろ歩きをしながら前を横切っていない、という強弁をする必要もなくなったので、コケてケガするリスクが低減したことになる。めでたし、めでたし。

批判が格好良かった時代

批判が格好良かった時代

動画でも文字でも、報道は批判ばかり。そんなこというなら、お前がやって全て解決してみろ、と思ってしまう。以前に私が勤めていた会社では、OKY = Omaega Kite Yattemiro (お前が来てやってみろ)という言葉が十年くらいまえに流行っていた。

会社において私がちょっと弱い点は、他人ができないことに対して意見を言うには自分がそれをできるという前提があること、と気持ちがあることだ。だからコメンテータ的な発言はしたくないし、また、批判的な意見を持つことも頻度的には低い。報道で批判ばかり目にすると、なぜ、あの人は批判ができるのだろうか?と疑問に思う。

私なりの推測としては、年代が上の方で批判が多めの人は、批判することがカッコよいとされていた時代に多感な若者時代を過ごしていた人なのではないか。学生運動をしていた人が登場する動画をたまに目にすることがあるが、学生時代の批判は思想に基づいていたものではなかったので、就職とともにそれまで主張していたことはどうでもよくなったというようなコメントをみたことがある。商売でも製造でもサービスでも、勤め始めると自分の仕事に注意が注がれてきて、それぞれの価値観をアップデートしながら生きてきたのだと思うけれど、そうではなくて、メディアに就職してしまった人の場合、世の中から取り残されて今でも批判精神を維持している人がいるのではないかと想像する。メディアは批判するのが仕事、という概念を持っているのではないだろうか。

多分、いまそれなりの役職にいる人々がそのような世代の最後の人々ではないかと思う。世代交代とともに報道ぶりも変わることを期待している。だが、報道を見ていると、とてもフォーマット化されているのが報道のように私は感じているので、人(世代)が変わってもスタンスはあまり変わらないような気もする。受け手側が主体的に考えればよいという意見には私も同意する。だが、そうであれば、よけいに流す方が変革する機会が来ることはないのではないか。需給のミスマッチは本来、それが廃れて新しいものが生まれる機会になるのだろうけども、こと報道についていえば、延々と続きそうだ。

水のはね方

水のはね方

肉類を切った包丁やまな板の洗い方が原因になって、家庭内で食中毒になる例を紹介する記事がネットに定期的に上げられる。変なことになりたくないので、使用した調理器具の扱いは私も適度に気を付けているつもり。

私が最近に感じることの対象物は、スーパーでパック入り販売されている肉類のトレー。トレーから肉を取り出したあと、ゴミ箱に入れる前に水洗いするのだけど、シンク内にトレーを置いて蛇口の水を上から流してトレーに一旦水を溜める。その時、水流をどう調整しても100%の確率で水が跳ね返ってくる。シンク内への跳ね返りであればシンクを掃除すればよい話しだけど、着ているものにも跳ね返る。夜や休日はよいのだけれど、出かける前で微妙な跳ね返り量だと着替えるべきかどうか悩む。

悩みはよいとして、シンク底と同じ高さからの落下水なのに、シンクからの跳ね返りは数センチな一方で、トレーはシンクの深さを超えて高く水を跳ね返す。シンクは平面、肉トレーは凸凹している違いはあるが、はたしてこれだけが跳ね返す高さを変えるまで影響を及ぼしているのか不思議。水流の最初の段階では角度をつけて洗い流せばよいのだけれど、毎回、今日こそはと思って実験するけど毎回跳ねる。不思議だ。